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●「唐金(からかね)」と言う言葉がある。中国から製法が伝わったから「唐」の文字が使われているが、青銅のことで、銅Cuを主成分とした合金の事だ。大砲の砲身がこの青銅鋳物で造られたことから、別名を「砲金」とも言う。

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大砲には、この靭性に富み、鋳造が容易な性質が適していたのだ。画像の寛永通宝は、江戸時代を通じて広く流通した銭貨であったが、寛永13年(1636)に創鋳、幕末まで鋳造されている。材質は、銅製の他、精鉄や真鍮製のものがあったという。

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●鉄Feの融点は、1.536℃、銅Cuは1.085℃だが、融点とは、固体が融解し液体になる時の温度だ。451℃も違うから、溶かすのに必要なカロリー量が当然、大きく違う。人力で風を起こし溶解していた時代であれば、その差は膨大であったろう。「鋳造が容易」という時、この要素は重要なのだ。

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一般的に唐金は、銅Cu 90%と錫(スズ)Sn10%程度の合金だが、その組成によって呼称は多岐にわたる。その見た目の色分けで主に3種類を挙げてみると、身近な5円玉は、黄銅だ。真鍮(しんちゅう)とも呼ばれ、英名はブラスで、亜鉛Znが20%以上だが、仏具や金管楽器などに使われている。

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●白銅は、ニッケルNiを10から30%含む合金だ。銀に似た白い輝きを放つのでこう呼ばれるが、100円玉は、ニッケルを25%含んでいる。海水に対する耐食性が高く、海水淡水化の設備や船舶関連の部品に多用されているという。画像の天水桶は、白っぽいが、ニッケルを多く含むのだろうか。

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各所の唐金製の天水桶を見ても、本来の鈍めの緑色や黄金色に近いものもみられ、適時、様々な成分が配合されているだろうことが判る。最も青銅鋳物は、鋳造後に薬品で煮たりして染色されている場合もあるので、見た目で一概には判断できない事も多い。

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青銅は英名でブロンズだが、錫との合金で、その含有量によってその色は様々だ。量が少なければ赤銅色、多くなると次第に黄色味を増し、ある一定量以上の添加では白銀色となるという。10円硬貨は、亜鉛を3~4%含み、さらに錫は1~2%と少なく純銅に近い。先ごろ盛会の内に閉幕した、第30回夏季ロンドンオリンピックで使用された銅メダルも、このブロンズであると言う。金銀の華やかさは無いが、褐色の渋みにもまた違った重みがあろう。

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●ウィキペディアを参考に記述したが、余談ながら、10円硬貨には銅イオンの殺虫効果があり、水中に入れておくとボウフラが発生しなくなるという。近年は、水が溜まった天水桶からボウフラが湧くため、処分されることが多いと聞くが、御賽銭のつもりで投げ込み喜捨するのはいかがなものだろうか。ただし、銅イオンの溶出により硬貨は腐食損傷することになるので、意図的な投入行為は処罰の対象になるという。

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鐘の多くは青銅鋳物で、中国や韓国、日本の鐘は「ゴ~ン」と重低音で鳴るが、教会などで聞ける西洋のベルは「カラ~ン」という高音のイメージだ。東洋製は、錫が5%ほどで西洋製は20%ほどと言い、この差が音に大きく影響している訳だ。イメージ画像は某所で見た台湾鐘。

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●都内文京区関口の東京カテドラル大聖堂のベルは、かなりの肉厚だが、キリスト教が解禁されて間もない明治10年(1877)、フランスから渡来してきた「ジョセフィーヌの鐘」だ。戦時の金属供出(前3項)を免れたが、空襲でヒビ割れたため、昭和32年(1957)に原型通りに改鋳されている。改鋳は、日本様式で行われたのであろう、見た目は梵鐘と同じ様な材質で、手で小突いてみても、「カラ~ン」ではなく、「ゴ~ン」となる鐘だ。

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錫の量が多くなると硬くなる。アメリカ独立宣言の象徴である自由の鐘、リバティベルはペンシルベニア州フィラデルフィアにある。円周3.7m、重さ900Kgという大きなものだが、1753年3月、鳴らし始めてすぐに割れてしまったという。材質の選択を誤ると、とんでもない事になるのだ。

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●さて、何回か記述してきているが、散策中に「最も出会う天水桶NO.1」の作者は、川口鋳物師の山崎甚五兵衛だ。山門をくぐり堂宇の前に桶の存在を確認できた時、そのデザインから、遠くからでも同氏作である事が判る。形状的な特徴は、外観を描き出す「挽き型(前33項)」にあろう。この型こそが個性そのものなのだ。

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さらに、全てに存在する訳では無いが、装飾の「龍」も同じ木型であろう、傾向的に一緒だ。龍神は、古代中国に発する想像上の動物で、水を司る水神として日本各地で祀られているが、雨乞いの儀式には欠かせない神だ。龍神信仰からくる防火祈念の水呼び役の意味がある訳で、寺社に設置される天水桶に描かれるのはこのためだ。

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また、鋳出し文字、例えば「昭和」の文字にも共通性が見られる。「日偏」の下端の横棒は左にはみ出し気味だし、「のぎ偏」には大き目な跳ねが見られる。他の文字も同様の書体だが、同じ埋め型を使い廻しているのだろう。
天水桶あれこれ-昭和鋳出し

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●当サイトでの出会いは、鋳鉄製の天水桶には118例で、昭和22年(1947)から平成4年(1992)製だ。青銅製の桶には16例で、昭和33年(1958)から昭和62年製(1987)であるが、昭和を代表する鋳物師であると言って間違いない。地域的には東京近郊がほとんどで、武州を舞台にした鋳物師であると言えよう。それでは、さらに同氏の作例を見てみよう。

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埼玉県八潮市南後谷の真言宗、善徳山西福寺には、推定樹齢500年のタブノキがある。大きなコブがあるのが特徴で、樹高15m、最大廻り7.38mでこの地域では最大という。辞書を見ると、「クスノキ科タブノキ属の常緑高木である。高さは20mほどで太さも1mに達する場合がある」とあるが、これからするとかなりの巨木と言える。画像の中央に見える木だが、「寺の開山(1443年)が先か、樹木が先か」と言われていると、案内板にはある。

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●ここに青銅製の天水桶があるが、「昭和54年(1979)8月吉日」の鋳造だ。この1対は本来の青銅の色合いであろう。正面の紋章は、分布日本一と言われる十大紋の「下り藤」だ。武家の藤原氏が多用する紋であるが、縁起を担いだ「上がり藤」など、様々にアレンジされ全国に広がっている。

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造立は「二十八世 正寛代」の時世で、鋳造者は、「川口市 山崎甚五兵衛」であった。この年の1月1日には、米国が中華民国との国交を断絶した一方、中華人民共和国との国交が樹立、2月1日にはイラン革命が発生している。

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国内では、10月7日の総選挙の結果、自民党が過半数を取れず、三木元首相・福田元首相・中曽根元通産相らが、大平首相の退陣を要求し「四十日抗争」が勃発している。これは、自民党史上最大の危機と言われた派閥抗争であった。

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●越谷市大間野町にある、真言宗智山派の真龍山光福寺は、善賀(寛永18年・1641年寂)が開山したという。1対の鋳鉄製の天水桶は、樹木に遮られて正面からは見えにくい。センターの紋章は、「桔梗(ききょう)紋」のようだ。

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植物由来の中で、中芯を回転対称とした紋には何種類かある。皇室紋で知られる「十六菊紋」や、徳川将軍家の「葵紋」、伊勢神宮の「柏紋」などだ。江戸時代には、「花は桜木 人は武士」として好まれた「桜紋」もこの部類だろう。

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5枚葉に限れば、「撫子紋」、「梅紋」とここの「桔梗紋」が代表的だが、葉の先端がとがっているのが特徴的で、簡単に見分けがつく。桔梗は、万葉集で秋の七草としても歌われているが、美濃や飛騨地方で多く見られ、戦国武将の明智光秀もこの紋を用いている。

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●天水桶の造立は、「第21世 渡辺照三」の時世で、「昭和44年(1969)8月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」銘であった。裏側には、「願以此功徳」として、「天下泰平 万民豊楽 興隆佛法 現世親族 消除災難 福徳万世 子孫長久 家門繁栄」と鋳出されていて、多くの願いが込められた天水桶だ。

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1月にリチャード・ニクソンが第37代米国大統領に就任したこの年、6月には日本のGNP・国民総生産が、西ドイツを抜いて世界第2位となり、7月には、アポロ11号が人類初の月面有人着陸を果たしている。映像業界では、TBSが「水戸黄門」の放送を開始、松竹映画は、渥美清の「男はつらいよ」を公開、ザ・ドリフターズ出演の「8時だョ!全員集合」、アニメの「サザエさん」が放送開始されたのもこの年であった。

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●台東区谷中にある、日蓮宗、正栄山妙行寺。顕性院日長が、万治年間(1658~60)ころに開山しているが、時の天皇は後西天皇、江戸幕府将軍は4代徳川家綱の治政下であった。堂宇前には余地が無く、天水桶1対を同じフレームに収めての撮影はできない。

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ここの寺紋である、井桁に橘の「日蓮宗紋」が張り出しているが、「昭和41年(1966)8月吉日」の造立で、「第廿八(28)世 日應代」の時世であった。檀家総代が奉納していて、大きさは、口径Φ950、高さは900ミリの3尺サイズだ。鋳鉄製の1対だが、この色はサビでは無く茶色の塗装だ。

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●裏側では、鋳造者名の「川口市 山崎甚五兵衛」銘が確認できる。3月末日に日本の総人口が1億人を突破したこの年、祝日法が改正され、建国記念の日・敬老の日・体育の日が新たに祝日に制定され、建国記念の日を2月11日とすることが決定されている。

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これは日本神話を基にするもので、古事記や日本書紀で初代天皇とされる神武天皇の即位日であるという。文化面では、フジテレビ系で大川橋蔵主演の時代劇「銭形平次」が、日本テレビ系では演芸番組「笑点」が放送を開始し、6月29日には ビートルズが来日している。

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●品川区上大崎の浄土宗、法性山浄国院清岸寺は、寛永元年(1624)に江戸の八丁堀に創建され、天和3年(1683)に当地へ移転している。本堂は、天保8年(1837)に再建されているが、周辺では当寺のみが第二次世界大戦の戦災を免れている。本尊は、阿弥陀三尊だ。

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正面のこの紋は、「丸に蔦(つた)」だが、他の植物に絡んで力強く成長する様から、縁起のいい紋として広く一般に好まれてきた。築城の名手と言われた、戦国武将の藤堂高虎(前33項後56項など)が使用した紋として知られる。

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あるいは松永弾正も使用しているが、対立した室町第13代将軍足利義輝を永禄の役で暗殺、奈良の大仏殿を焼き払って悪名を馳せている。織田信長に臣従し大和国を支配したが、最後は謀反を企て、信貴山城の天守閣もろとも爆死するという壮絶な自決を遂げている。

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天水桶は、「東京都千代田区神田和泉町」の施主が奉納している。鋳鉄製の1対の大きさは、口径Φ970、高さは980ミリだ。「昭和39年(1964)8月7日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」の造立だから、そろそろ半世紀が経過しようとしている。後例のように、そろそろ再塗装すべき時期だろう。

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●続いては、埼玉県戸田市中町の下戸田氷川神社。夏と秋の祭りの際には、氏子家を回る村祈祷が行われ、疫病退散、五穀豊穣を祈願する「ささら獅子舞」が奉納される。獅子舞は、龍頭一人立ちの親・中・子の3頭の獅子で、4つの花笠、御幣・太刀・蛇などの採物、締太鼓、笛などの楽器によって構成され、演目は19を数えるという。始まりは寛政年間(1789~)で、市の無形民俗文化財に指定されている。(市教育委員会掲示による)


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口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さ1.2mの天水桶だが、「昭和46年(1971)12月吉日」の鋳造で、正面の神紋は「左流れ三つ巴」だ。世界各地で多用される紋で、上述もしたが、日本では龍神信仰(前1項)からか、防火祈念の「水呼び役」という意味もある。よく屋根瓦にこの紋が見られるのは、このためだ。

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●鋳造者の銘は、「川口市 山崎甚五兵衛」だ。鋳鉄製の1対の天水桶の奉納は、「加藤信儀」氏だが、「訪欧1968年(昭和43年) 欧米視察記念」、「訪米1970年」での設置であった。加藤氏の人となりは不明だが、40年ほど前のその当時、欧米に渡り旅するという事は、こういった所に記し残すほど稀な事であったのだろうか。

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日本人の海外渡航の自由化は、1964年4月1日の事で、この日に観光目的のパスポートの発行が開始されている。海外旅行の黎明期であるこの時代は、購入できる客層が限られた超高額商品であり、例えばハワイ9日間の旅行代金は36万4千円、ヨーロッパ16日間は67万5千円であった。

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現在の物価に換算すると、それぞれ400万円、700万円ほどに相当したが、それでも1964年の出国者数は、12万7.749人に上っている。因みに、当時の国家国務員の大卒初任給は、1万9.100円だ。

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●下の画像がサビて薄汚れているのは、あえて、数年前のものをアップしたからだ。近年に再塗装されリニューアルされているが、見違えているのが一目瞭然だ。後79項後96項で見るように、鋳鉄鋳物には定期的なメンテナンスが必要なのだ。

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●大田区大森中に鎮座する大森八幡神社。大田区によれば、建武年間(1334~)の創建と伝えられているが明らかでなく、江戸時代には北大森村、西大森村の総鎮守であったという。祭神は、品陀和気命(ほむだわけのみこと)だが、古事記に登場する人物で、第15代応神天皇だ。実在性は定かでないが八幡神として神格化されている。例祭は毎年10月6日、5月第2土曜日、日曜日には夏祭りがある。

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センターには、直径Φ270ミリに鋳出された三つ巴紋がある。本体の大きさは口径Φ800、高さは1.160ミリだ。「八幡神社復興再建記念」での奉納で、外周には寄進者名が並んでいるが、この景観の中では主役であるかの様な鋳鉄製の1対だ。「昭和40年(1965)6月吉日」の造立だが、鮮やかな社殿が再建されたのはこの時期なのであろうか。作者銘は、「川口市 山崎甚五兵衛作」だ。

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●この年の3月には、河川法制定により荒川放水路が荒川本流となり、これに伴い荒川旧河道の名称が、それまで白鬚橋辺りから下流の俗称であった「隅田川」となっている。現在の隅田川は、東京都北区の岩淵水門(前18項)で荒川から分岐し、東京湾に注ぐ全長23.5kmの一級河川で、途中で新河岸川・石神井川・神田川・日本橋川などの支流河川と合流している。

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古くは墨田川、角田川、浅草川とも言ったが、承和2年(835)の太政官符には「住田河」として記されていて、あるいは流域によっては「宮戸川」などとも呼称されていた。また鎌倉時代の日記文学「とはずがたり」(後深草院二条・著者で出家の女性・後131項)によれば、「須田川」と呼んでいたとあり、江戸時代には、「大川」とも称されたようだ。

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●最後は、品川区上大崎の浄土宗、善長山隆崇院だ。寛文9年(1669)の創建で、徳川6代将軍家宣が、甲府藩主で父・徳川綱重の正室であった隆崇院の追善供養のために建立した寺だという。

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隆崇院は、綱重に嫁いだ後の7年後の寛文9年(1669)に享年22才で若くして没している。墓所は、都内文京区小石川にある無量山伝通院(後110項)だ。また、区の観光協会によれば、日本における椅子製作の創始者である古屋豊吉(1849~1908)の墓があり、脇に「本邦椅子製造元祖」と記された碑がある。

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●入り口に置かれている1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和46年(1971)1月」銘で、大きさは口径Φ920ミリ、高さは1.2mだ。奉納は、「檀家有志」と天保2年(1831)開業の、天ぷら、かき揚げ丼の名店「新橋 橋善 施主 橋本定喜」だ。

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しかし、後継者の問題らしく残念ながら平成14年(2002)に閉店している。橋善は、橋本善吉が新橋で始めた屋台の蕎麦屋であったが、大きなかき揚げを乗せた天丼のルーツ店であるという。定喜は、時期的に4代目であろうか。

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実はこの桶には、鋳造人名の鋳出し文字が無い。しかしどうだろう、このデザインや書体からして山崎甚五兵衛の作と判断してよかろうと思う。文字の癖は、冒頭の「昭和」と同じだ。山崎は、一体何基の天水桶を鋳造したのだろうか。これからも、同氏の作品に出会う事が多かろうが、データが蓄積したらまたアップしたい。

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●ここの境内には銅像が鎮座しているので見ておこう。反花(後51項)と蓮華の台座に据わっている「延命地蔵大菩薩」様だ。説明板を忠実に読めば、『(武陽)浅草の山谷にあった荘厳山一心院専念寺の照蓮社常誉観夢念瑞上人(第七世)は、たいへん話術に優れ「説法弘道沙門」と称せられていましたが、(維持)享保十八癸丑(龍集)(1733)十月二十四日に、一万回目の説法を勤めたのを記念し・・

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「説法一萬座供養」として、地蔵菩薩の造立を願って、数ケ寺の寺院と大勢の人々の協力と寄進によって、延享四(丁卯天)(1747)三月十九日に延命地蔵大菩薩像に魂を入れ、以来人々の信仰を集めてきました』という。

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説明文のカッコ内の補足は、正面の花弁部にある実際の陰刻文字だが、「武陽」とは江戸表(おもて)の意味だ。「龍集(前19項など)」は年号の次に添えられる言葉だが、「龍」は星の名、「集」は宿る意で、星は1年に1回周行するという意味合いだ。

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●別の花弁には「古金勧化寺院」とあるが、これは鋳造に必要な銅銭を寄進したという意味で、多くの寺社名や人名が刻まれている。その中に「御鋳物師 浅草新鳥越住 吉田駿(河)守 藤原清次」という名がある。当サイトでは初めて見る鋳物師名の刻みだ。香取秀眞の「日本鋳工史稿(大正3年刊・1914・後116項)」には、わずかながら記録が残されている。

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「相模国藤澤寺(後128項) 銅燈(籠)1基 天明二寅歳(1782)七月吉祥日 吉田駿河守 藤原清次」の1例だ。藤原姓(前13項)を下賜された御用鋳物師のようで、香取は、名を「吉田平右衛門」だろうとしているが、これは千代田区外神田の神田神社(前10項)の龍紋銅洗盤(天明2年・1782・後109項など)に見られた刻みだ。

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しかし、ここの刻みによって、「浅草新鳥越住」であった事が知れるのは興味深い。なお銅造の作者銘は、覗き込めない裏側にあるのだろう、従って不明だ。しかしこの時代であれば、銅造鋳造の大家の「神田鍋町 御鋳物師 太田駿河守 藤原正儀(後77項)」であろう。

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●今回特集した川口鋳物師・山崎甚五兵衛は、昭和期を代表する天水桶鋳造のトップメーカーとして君臨していた。当サイトでは、延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項前27項後50項後56項後57項後84項後102項後106項後114項後128項後132項だ。つづく。