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●大正3年(1914)8月刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」を見ると、都内港区虎ノ門の金刀比羅宮(ことひらぐう)の、「文政四辛巳(かのとみ)歳(1821)十月吉祥日」に建てられた銅製鳥居についての記載がある。ビル群に囲まれて異空間な佇まいだが、社殿は平成13年(2001)に、東京都選定歴史的建造物に選定されている。

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祭神は、大物主神と崇徳天皇を祀っているが、掲示されている縁起を読んでみると、「創祀は万治3年(1660)、讃岐丸亀城主京極高和の時。邸を愛宕下に移し、同時遷座、延宝7年(1679)なり」とある。遷座の時は、高和の次男、2代藩主京極高豊の時代であった。

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この様子は、文久2年(1862)に、2代目の歌川広重が描いた「江戸名勝図会 虎の門」にも見る事ができる。江戸庶民の屋敷内への参拝が毎月10日に限り許され、その大盛況の様子がうかがえるが、現在でも、毎月10日には縁日が開かれると言う。画像の左下に「金毘羅大権」の幟が大きく描かれていて、その左側に、半分だけだが銅製鳥居がある。柱には、後述の守り神が取り付いているのも確認できる。

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●鳥居の高さは、目測ながら4~5m程であろうか。最上部に、紋章の「金」の文字が鋳出されていて、創建以来ここに鎮座するというが、奇しくも江戸城の裏鬼門にあたるようだ。構造的には、中身が詰まった無垢での鋳造物ではない。鋳損じた割れ目から判断するに、その肉厚は6~7ミリ程であろうか。

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目を見張るのは、別鋳造された四神が、2本の主柱に巻きついている情景だ。これは想像上の神獣で、守り神としての東の青龍、南の朱雀、西の白虎、北の玄武だが、先の浮世絵と合致している。

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●柱の脚もとの文字を見れば、四神の作者が判る。「佛師 三五郎」が原型の作者で、「宮大工 長吉」もそれに関わったようだ。「彫工 村田重兵衛」が人名などの文字の彫り込みをしたのであろう。

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村田は姓を刻んでいるので名の通った彫師であったろうが、村田姓からして、あるいは名匠「村田整珉(前55項)」に繋がる人物であるかも知れない。そして「四神 鋳物師」として「萬次郎 銀次郎 茂吉 清右エ門」とあるが、4人がそれぞれ1つづつを担当したのだろうか。

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●設置の世話人、願主は、「櫻田備前町 丸屋市良右エ門」、「新吉原京町 若松屋藤右衛門」ら多数の人であったが、「請負人」は、「江戸大門通角 伊勢屋長兵衛」だ。前37項でも登場した通り、伊勢屋は鋳造業者ではなく銅鉄物扱いの商人で、実際の鳥居の鋳造は、その隣に刻まれている通り、「鋳工 土橋兵部作」だ。四神の作者には姓の表示が無い事からして、土橋の従者であろう。

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柱の基台の大きさは、直径Φ480、高さは580ミリだ。文字は、タガネで深めに陰刻されていて、不具合の跡が数ケ所見られるが、修正され、その上から再び文字が浅めに彫られている。外周には寄進者の名前がビッシリだ。落語家であろう「志ん生」や、「根石一式寄進」をした火消しの「二番組」、地固めであろうか「地形建方寄進」をした「櫻田八ケ町 蔦中」の人々ら大勢だ。

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●一方、前44項では、奥秩父の三峯神社で、川口鋳物師の鈴木萬之助が鋳造した天水桶を見たが、ここの拝殿前にも江戸期に建立された銅製鳥居がある。ここは、三峰山の強い大地の気がみなぎる、いわゆる龍穴地で、神威を感じる埼玉県屈指のパワースポットだ。

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鳥居に比して大き目な扁額で、「弘化2年(1845)」に掲げられているが、阿吽の龍に囲まれて「三峰神社」とあり、右側の柱には「天下泰平」、左には、「国家安穏」と見える。

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建立に関しては3種類の情報が記されている。「弘化2年再建造立 観音院11世 現住権僧正 観寳(かんほう)」で、これが現存のものだと思うが、他に「天保6年(1835)再建発願 観音院9世 前僧正 観巍(かんぎ)」と陽鋳造され、さらに陰刻で、「正徳2年(1712)9月吉日再建」とある。

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●作者は、「御鋳物師 西村和泉守 藤原政時作」と刻まれていて、「再建」される度に西村が鋳たのだろうが、先の史料にここの鳥居の記載はない。世襲名のこの政時は、時期的に西村家の8代目であるが、前3項前89項前94項などでも登場している。また、隣には、手代と思われる「吉五郎」ら3人の名がみえる。

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「吉五郎」は、役付きクラスの職工であったと思われ、史料には、頭領の政時と並んで各所でその名を散見できる。「千葉県成田山新勝寺(前52項など)・大日銅像 天保2年(1831)」、「小石川伝通院・梵鐘(後述) 天保10年(1839)」、「千代田区平河町・平河天満宮(前3項など)・ワニ口(4尺) 天保15年(1844)」などだが、当時の世の習いだ、姓(かばね)の刻みは無い。

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●農民にしても職工にしても、姓を公称する事は許されない時代であったが、その必要性もなかったろう。村から出る事はほとんど無く、日々接する人も限られていたろうから、下の名を呼びあうだけで事足りたはずだ。

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姓を持っていた有力農民でも、それが記されるのは、寺社の奉加帳や寄進帳、氏神の神事や宮座の書類、供養塔や墓石などに限られていたようだ。庶民が名字の名乗りを許されたのは、明治3年(1870)の事であった。なお、この他の青銅製の鳥居に関しては、前3項にリンクを貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●香取はその史料の中で20ページもの紙幅を割き、西村家の主な鋳造物を列挙し、過去帳などを精査している。それによれば、「元禄の頃より今(大正初期)に至るまで11代の間、連綿たり」といい、元祖の初代は、元禄8年(1695)12月13日に没していて、8代目は伊右衛門を名乗り、嘉永元年(1848)5月13日に44才で没している。

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「釣鐘請負帳」は何冊かが散逸しているようだが、1冊目には、宝暦8年(1758)から安永5年(1776)の間に146口(こう)、25年の間が空いた2冊目には、享和元年(1801)から慶応元年(1865)までの間に、94口もの梵鐘を鋳造した事が記されている。

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●また嘉永2年(1849)正月の「釣鐘控帳」には、納品先が国別に分類されている。「武蔵国184口」、「下総国107口」などで、先の請負張と合わせると、元禄4年(1691)から慶応元年までの175年間に、550口もの梵鐘を鋳造しているという。西村家は、江戸鋳物師の筆頭、頭領格といって差し支えない巨匠であった。

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上下の画像は、都内北区浮間の無動山観音寺(前46項)に置かれている梵鐘だ。銘は「寛政元年(1789)4月 東都御鋳物師 西村和泉守 藤原政平」で、寛政10年(1798)に没している5代目の作例だ。

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●また、神奈川県横浜市南区弘明寺町の高野山真言宗、瑞應山蓮華院弘明寺(ぐみょうじ)にも5代目が鋳た作例がある。寺は、横浜市内最古の寺院で、本尊の木造十一面観音立像、通称「弘明寺観音」は国の重要文化財都となっている。銅鐘の鋳造は、「現住 阿闍梨秀光」の時世で、願主名や戒名が見えるが、刻まれた作者の肩書は、「東都神田住 冶工 西村和泉守 藤原政平 寛政10年5月吉辰」で、最晩年の作例だ。

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総高1.313m、口径71.54cmで、撞座の位置が低く、口縁が前に突き出している江戸期風の和鐘で、市の有形文化財に登録されている。「奉再鋳 洪鐘(後124項)一口 武蔵国久良岐郡 瑞應山弘明寺」とあるが、この鐘は3代目であるようだ。

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鐘身には、「弘安九丙戌(1286)九月廿五日(25) 願主 法印長慶」、「貞享元甲子(1684)冬十月 願主 阿闍梨慶海」という来歴が刻されている。銅鐘は、寺の歴史を語る什宝であり、これが戦時の金属供出(前3項)を逃れた理由であろう。

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余談ながら、「ぐみょうじ」という奇妙な読みのこの寺は、天平9年(737)建立という寺院であり、寺名は駅名、町名などにも広く使われている。明治期初頭は、蒸気船による貨客輸送が盛況であったが、浮世絵版画「東京横浜往返蒸気船ノ図」では、船の煙突の下に「弘明」の文字が見える。明治3年(1870)に横須賀で建造された、40馬力で250トンの木製外輪船「弘明丸」だが、命名はこの寺に由来するのだろう。

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●さて4代目が鋳た梵鐘は、台東区元浅草の日蓮宗、寿量山妙経寺にも現存しているが、ここは日浄上人が、天文4年(1535)に武蔵国芝崎村(千代田区大手町)に創建している。銅鐘の大きさは、総高151.5cm、口径96cmで、「宝暦十三癸未歳(1763)五月吉日 御鋳物師 西村和泉守 藤原政時」と線刻されている。

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銅鐘の縦帯(前8項)には、小さく「武陽浅草新寺町」と陰刻され、大きく「寿量山妙経寺 十世日隆」の陽鋳銘がある。「武陽」は、江戸表(おもて)という意味だ。4代目は、享保5年(1720)の生まれで、初め市郎兵衛を称し、後に伊右衛門を名乗っているが、この「伊右衛門」は西村家の代々が世襲した名だ。なおこの鐘は、区の有形文化財として台帳に登載されている。

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●さらに3例だが、西村家は多くの梵鐘を鋳た訳で、戦時の金属供出(前3項)という史実があったにも関わらず、今に見られる鐘も多い。文京区大塚の浄土宗、佛法山寶樹院西信寺には、日本における理美容業の開祖といわれる「北小路采女助」の墓がある。

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ここに掛かる鐘は小さ目な口径2尺で、鐘楼塔も小屋掛けという感じだ。「願主 當寺第六世 了明」の時世で、大勢の寄進者名が並んでいるが、「維(持) 安永癸巳(2年・1773) 西村和泉守作」とある。住所も肩書も藤原姓も無い簡潔な名乗りだ。時期的には、安永4年4月6日に55才で没している4代目の作であろう。

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●次の無量山寿経寺伝通院は、都内文京区小石川の高台にある浄土宗の寺だ。徳川将軍家の菩提寺で、江戸三十三ケ所観音札所の第12番札所となっている。慶長7年(1602)、家康の生母の於大の方が京都伏見城で死去し、文京区大塚の大乗山智香寺(前86項)で火葬しているが、その法名「伝通院殿」に因んで院号としている。

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天保7年(1836)に刊行された「江戸名所図会 巻之四 天権之部」の「其三 伝通院総門 大黒天 念仏堂」の絵を見ると、右上の本堂の前には、屋根掛けされた木製らしき天水桶1対が見られるが、今現在、天水桶は置かれていない。

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来歴を調べると、「天保12年(1841)3月吉日 永瀬源内 藤原富廣 天水桶1対」となっている。これは鋳鉄製だが、図会が描かれた直後に鋳られたようだ。源内は川口鋳物師だが、人物の詳細や他の作例については、前14項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●図会の左中央の大黒天前のワニ口は、香取の史料によれば、「文久元年辛酉(1861)12月甲子 土橋大和(後述)」銘となっている。年代的には、これは後継のワニ口であろうか。一方、丸で囲んでおいた「鐘樓」と書かれた鐘楼塔は、今も同じ様な位置にある。鐘身の銘は「于時(うじ=時は・前28項) 天保十歳次己亥(1839)季夏摩訶吉祥日 鋳師 西村和泉守 藤原政時」だが、現役の銅鐘だ。

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「摩訶」は、言葉の上につけて美称として用いられる仏語だが、ここでは「とても良い日」という意味合いになろう。7代目は、同12年3月25日に没しているが、その晩年近くの作例だろう。この鐘は、口径3尺5寸(106cm)で540貫目(2.025kg)だが、吹きの日(鋳造日)が5月27日であった事や手伝いの手間賃、各部の詳細な寸法などが先の史料に記録されている。

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香取は、「釣鐘請負帳の現存せるによりて、今見る伝通院の洪鐘(後124項)の不十分ながらも其の合金を知り、各部分の厚みを知り、重量を知るのみならず、其の大約の工手間をも窺ふ事を得るは、釣鐘請負帳の大なる賜ものなり」と述べている。今も往時のままの姿で見られる銅鐘だが、製作工程までが判る訳で、先達の遺してくれた史料の存在は貴重で重要であった。

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●東京都あきる野市小和田の龍角山広徳寺は、臨済宗建長寺派の古刹として応安6年(1373)に創建されている。花頭窓(前62項)が配された茅葺屋根の総門は、市文化財の指定を受けているが荘厳な佇まいだ。その本堂前に、撞かれることのない2尺ほどの梵鐘が置かれているが、それに刻まれた銘が実に興味深い。

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一方、境内には鐘楼塔があり、真新しい梵鐘が掛かっている。「維持 平成21年(2009)10月吉辰 高岡市 鋳匠 老子次右衛門(前8項)」銘だが、見目麗しく崇高な銅鐘で、同社の高い技術が垣間見れる1口(こう)だ。この鐘身に、「当山29世 現住 正倫 謹誌」の漢文調の長い文字が並んでいるが少し難解だ。

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銘の一部を読んでみると、大東亜戦争時に金属供出したが、「昭和二十年(1945)八月迎終戦 有残存梵鐘 當山購得 其一口 於抽籤」という。つまり、戦後に武器材として溶解されず残っていた銅鐘を、抽選くじで購入したというのだ。戦後処理の一端をうかがい知る上で貴重な刻みだ。

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●それがこの放置された鐘だ。縦帯には、「南無妙法蓮華経 法界萬霊」、「天下泰平 国土安穏」などのお題目が陽鋳造されている。多くの戒名が刻まれ、「先祖代々之精霊祈祷」などと陰刻された、檀信徒の願念が染み込んだ無二の法具だ。

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作者の「安永五丙申歳(1776)五月吉祥日 鋳工 西村和泉守 藤原政時」という銘がある。4代目死没の翌年の日付だが、その息がかかっていると言えよう。さらに「江戸小石川大塚 長清山善心寺 13世 信力院日普」とあるが、これらの刻みは、冒頭の香取の「日本鋳工史稿」にもそのまま記録されている。これは本来、ここ広徳寺宛てに鋳られた銅鐘では無いのだ。

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●次の画像の、その長清山善心寺は、偶然にも上述の佛法山西信寺のお隣で、互いに文京区大塚5丁目2番地だ。寛永8年(1631)、大河内善兵衛政勝によって現在の都内港区六本木に創建されているが、その戒名の善心院殿日浄居士が寺名の由来だ。

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本来この梵鐘は、あきる野市の広徳寺ではなく、善心寺に置かれるべき、門外不出であるはずの什物なのだ。近いうちに里帰りすべきで、後世に留め置くべく、有形文化財に指定されてしかるべき鋳造物であろう。

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●この事は、戦時の金属供出が招いた災難だが、当サイトでは、この様な事例を何度か見てきているので、主なものをここにまとめてリンクを貼っておこう。前52項では、都内文京区小石川・常光山源覚寺の出戻りの鐘を拝見し、前59項では、画像の文京区向丘・涅槃山西教寺に、川口鋳物師の永瀬次郎衛門が、北区志茂・帰命山西蓮寺宛てに鋳た鐘が現存しているのを知った。

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前65項では、川越市末広町・朝田山行伝寺の鐘が、江東区平野の法苑山浄心寺に今なお存在していたし、前75項の川崎市川崎区・光明山遍照寺の半鐘は、77年ぶりに帰還し、後116項では、足立区・五智山西新井大師の鐘が、盛大な歓迎式の中、米国のカリフォルニア州パサデナ市から帰還していた。また、後122項で見た、画像の新宿区新宿・明了山正受院の「平和の鐘」は、米国アイオワ州立大学内の海軍特別訓練隊から返還されていた。

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●さらに、後126項の港区虎ノ門・桜田山光円寺に置かれている鐘は、川口市桜町の箱崎山地蔵院から、平成24年(2012)、幸いにも70年ぶりに帰還しているし、後129項では、群馬県太田市・三宝山長念寺に展示の鐘が、本来は、同館林市・終南山善導寺のものであると知った。

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また画像の、品川区南品川・海照山品川寺(前77項前84項後129項)の「洋行帰りの鐘」は、パリ万博に出品後に行方不明となり、その後、スイスのアリアナ博物館から60年ぶりに戻っている。などだが、是非ご覧いただきたい。

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●さて話を戻すと、2代目西村は、延宝8年(1680)12月10日付けの口宣案を所蔵していたという。これは、天皇の勅命内容を、簡単に覚え書風に記した古文書だが、「藤原政時 宣任大和大掾(だいじょう)」との記載があった。「大和」は国名(前99項)で、「大掾」は職人などが受ける最高位の名誉号だ。

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西村家は、その鋳造物の鋳出しで、肩書として常に「和泉守」を名乗り、名誉ある「大和大掾」銘を刻んでいない。初見の作として江東区富岡の富岡八幡宮(前77項)の鐘が記録されているが、この銘も、「元禄4年(1691)10月13日鋳之 御鋳師 藤原政時 西村和泉守作」で、「大和」の文字は無い。史料に記録されている作品の全てが、「和泉守」なのだ。画像は、前89項で見た群馬県富岡市の貫前神社の銅灯籠だ。

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●これについて香取も疑念を抱き、「或いは思ふ、同家過去帳中に土橋大和あり。これを云ふか」とし、「どう云ふ縁故で西村和泉の過去帳に載って居るのか分かりませんが、或いは西村の先祖は、土橋大和と云ったのでは有りますまいか、何か西村に関係ある人と思ひます」としているのだ。

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代は違えど「土橋」は先の、虎ノ門の金刀比羅宮の鳥居の作者だ。両者がつながった感がある。過去帳に載っているという事は、姻戚関係という事なのだろう。西村は、先祖の土橋にはばかって「大和」を称せず、「和泉」を名乗ったと理解してよかろうか。なお本項に登場しない、その外の西村家の作例をここに記しておくが、前28項前64項前65項前77項後125項後129項だ。

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●一方、正徳2年(1712)の5代徳川家宣の薨去に際して、「土橋大和大掾」は、港区芝公園の三縁山増上寺(後126項など)向けに12基もの灯籠を鋳造している。同じような時期に、西村和泉と土橋大和が登場するのだ。香取は、「一時、土橋大和が、西村の細工場を支配していたもので有りませう」としている。

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2人は間違いなく、江戸地域において、この時期を代表する鋳物師であった。姻戚関係にあるとは言え、御用鋳物師としてのそれぞれのプライドを失うことなく、拝受した国名を表示して鋳造に勤しんでいたと言えよう。

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●ここで土橋大和が鋳た常香炉を1例見ておこう。信州長野市元善町の定額山善光寺(後122項)だ。日本最古という一光三尊阿弥陀如来を本尊としていて、創建以来千四百年の時を経ている。善光寺の名称は、6世紀ごろの廃仏論争の最中に打ち捨てられていた本尊を、信濃国司の従者の本田善光が安置したことによる。

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本堂の階段を登ると青銅製の香炉が置かれているが、火袋を踏みつけた神獣が天空を仰ぎ見ている。3つの脚は青海波(前56項)を思わせる意匠だが、明らかに爪が確認できるから、神獣の脚だ。正面には「南無阿弥陀仏」と陽鋳されていて、周囲に多くの願主名が陰刻されている。

長野善光寺・土橋香炉

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寺紋の「立ち葵」と、横側には、古代インドの想像上の武器とされる「輪宝紋」も浮き出ている。鋳造者銘は、真裏にある。「武江神田住 鋳物師 土橋大和作」で、「武江」は、武州江戸を意味する。毎日多くの人目に触れるこの香炉は、江戸期を代表する鋳物師の手によるものであった。

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●話は変わって、福井県吉田郡永平寺町にある、曹洞宗大本山の吉祥山永平寺の天水桶を見てみよう。創建は、寛元2年(1244)に道元禅師(1200~1253年)が開山していて、本尊は、釈迦如来、弥勒仏、阿弥陀如来だ。ここは、山に囲まれた深山幽谷の地で、境内には、70余りの伽藍がある。

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寺号には、「永久なる平和」の意味が込められていてるという。寺紋は、「久我山竜胆(りんどう)車紋」だが、道元は、源頼朝の流れをくむ久我家で生まている。

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●一方、ここと並んで曹洞宗の中心寺院である神奈川県横浜市鶴見区の諸嶽山総持寺の寺紋は、なぜか、「五七桐紋」だ。元亨(げんこう)元年(1321)に、瑩山(えいざん)が能登半島の地に開いたが、明治の大火でほぼ消失、遠く離れた現在地に移転している。

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永平寺の通用門を過ぎると、1基の青銅製天水桶がある。造立は、「昭和46年(1971)5月吉辰」で愛知県豊川市の人が寄進しているが、作者名は鋳出されていない。正面に見えるのも、久我山竜胆車紋だ。

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●堂内には、「昭和40年(1965)9月吉日」に、富山県の巨匠「高岡市 鋳物師 老子次右衛門(前8項)」が鋳造した青銅製桶が1対ある。奉納者は、「福井放送社長 加藤尚」で、常に水が滴っているが、桶の下方から注水しているのだろうか。

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表面には、「永平七十三世 (熊澤)泰禅 九十三翁(93才)」禅師によって晩年に刻まれた、「杓底残水(しゃくてい ざんすい)」という言葉がある。これは、道元の「半杓の水恩」という故事が元になっているとされ、「谷川で柄杓に汲んだ水を使った後、杓の底に残った水を捨てることなく、きちんと元の谷川に戻した」という話に基づいているという。

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ところで、埼玉県川口市鳩ケ谷の郷土史家・岡田博氏によれば、ここ永平寺には、昭和33年(1958)に奉納された天水桶があると記載されている。代々木の国立競技場にあった聖火台の作者、川口鋳物師の鈴木文吾(前71項など)によるものだが、いくら聞いても探しても出会えなかった。楽しみにして参拝に行ったのだが、処分されてしまったのだろうか、あるいは、立ち入り禁止区域に存在するのだろうか、気掛かりだ。

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●さて、法堂(はっとう)は、天保14年(1843)に改築された本堂で、聖観世音菩薩を安置しているが、法要や講義などはここで行われる。大勢の雲水(修行僧)が、一斉に歩きながらお経を唱える朝のお勤め、朝課(ちょうか)は、圧巻だという。

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庭に1対の鋳鉄製の天水桶がある。真正面には近づけないので、下からのアップの画像になるが、3本線がぐるりを廻っていて、起伏があって立体感のある「十六葉菊紋」が大きく鋳出されている。その下部にも1本の横帯が見える。「嘉永5年(1852)8月就」の造立で、「高祖六百大遠忌」として「奉献納」されているが、「本山60世御代」であった。奉納主は、出入りの業者のようだ。

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●こちらの承陽殿(じょうようでん)も正面から堂宇の撮影ができない。明治14年(1881)の改築だが、開山道元の御真廟、いわばお霊屋で、道元以下第5世までの住職の像を安置しているから、曹洞宗発祥の聖地だ。つまり、第1世希玄道元禅師(承陽大師)、2世孤雲懐奘禅師、3世徹通義介禅師、4世義演禅師、5世義雲禅師、それに、總持寺の開山太祖、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)禅師の御尊像だ。

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ここにも1対の鋳鉄製の天水桶があるが、先ほどと違い、「菊紋」はのっぺりしていて、起伏がない意匠だ。造立は、「嘉永3年8月28日」、「開祖大禅師六百大遠忌 本山60世御代」であった。60世は、大晃明覺禅師、臥雲童龍(がうんどうりゅう・1796~1870)だが、薩摩の大守・島津斉興や、桜田門外の変で倒れた大老井伊直弼の供養をしたことで知られる。

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これら4基の鋳造鋳物師は、「芝原 鋳工師 清水四郎平」だ。越前松岡藩が置かれていた吉田郡松岡地方は、主に、椚(くぬぎ)、窪、志比堺の村を中心にして、中世から大正期まで鋳物師たちが活躍する土地であった。主に、俗に「松岡鍋」といわれた日用品を鋳ていたようだ。

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●京都真継家(前40項)の、文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」を見てみよう。「吉田郡 芝原志比境(堺)村」の項には、「清水杢右衛門 清水四郎平」という2名が登録されている。一方、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」では空欄となっているから、この頃には廃業撤退したようだ。

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福井県史を見ると、「嘉永4年(1851)、清水四郎平は鋳物師株を、坂井郡鷲塚村の久保庄右衛門に、銀二七貫匁で質入れするなどのこともあって、明治期に入ると松岡鋳物師は衰微していった」とあり、確かに、文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」(川口市・増田忠彦蔵)には、清水に代わって、久保の名が記載されている。

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●ところで、松岡鋳物師が発展してきた理由は、地図を見れば一目瞭然、東西に流れる九頭竜川の存在だ。鋳造に必要な良質な砂が採取できたに間違いなく、西へ行き北上すれば三国湊という舟運に恵まれた土地柄であったのだ。そこから日本海沿岸各地へ鋳物製品が供給されたのであろうが、市場へのアクセスの良さが重要なのであって、作っても売れなければ意味がない。

三国湊

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とは言え、湊から松岡、芝原の地までは川沿いに遡上すれば30Kmほどの距離があり、内陸的な立地だ。なぜ、もっと湊に近い地での発祥でなかったのだろうか。宮下史明の「越前・若狭の鋳物業」にはこう書かれている。

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「中世までの鋳物師は製鉄業者と未分化であった。九頭竜川は砂鉄を産したこともあると言うから、あるいは芝原はその始まりは製鉄業と結びついていたのかも知れない。」製鉄業とは、刀鍛冶などの鍛冶屋のことだろうが、彼らが、鋳造業に転業あるいは、兼業した歴史もあったろう。

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「中世までの鋳物産地の多くは製鉄業と結びついていたため山間部に位置している例が多いが、芝原のやや内陸的な立地はこれによって説明されるかも知れない。立地が一旦決定され産地を形成するようになると、立地は“惰性”を持つようになり、なかなか変更されることが困難となるので、福井が発展してもそこに移動しなかったと思われる」という。つづく。