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●最近お目に掛かった天水桶を見ていくが、時節柄、真田幸村の大河ドラマ関連からだ。時代的に時の将軍は、在位1605~1623年の徳川秀忠であったが、秀忠に由緒あるものは、埼玉県所沢市上山口にある、天台宗別格本山、狭山山不動寺(前62項)に保存されている。
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西武球場のすぐ近くだが、埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られる。昭和50年(1975)、西武グループが各地のプリンスホテルを開発する際に、都内港区芝公園の三縁山増上寺(前52項後126項)をはじめとする各地の文化財をこの地に集めているが、当時のグループのオーナーであった堤義明が台東区上野桜木の東叡山寛永寺(前13項)の助力により建立している。

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●従って重要文化財が多いが、説明板を読みながら見てみよう。まずは御成門で、増上寺にあった秀忠(台徳院)の廟から移設しているが、単層門の銅瓦葺きで切妻造りだ。屋根裏には、飛天の彫刻や絵画が多く描かれていて、朝鮮渡来の天人門と言われる。

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格天井の中央に丸い鏡天井が設けられた珍しい造りで、寛永9年(1632)に3代家光が建立している。格天井とは、中央部を一段高くした重厚な造りの天井で、最も格式の高い様式といわれる。有名な寺社や城に多く見られ、二条城二の丸御殿や日光東照宮外陣などの格天井が有名だ。

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●周囲の擬宝珠が冠された鋳鉄製の鉄柵もゴージャスな意匠で格式高いが、どこで鋳造されたものだろうか。それは、正面の門柱に鋳出されていた。「明治二十四年(1891) 東京本所區林町二丁目」、「鋳工 小幡長五郎」だ。小幡の家系は、主に18世紀初頭から活動した江戸鋳物師で、大正3年(1914)刊行の香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」にも、多くの作例の記載がある。

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前49項で登場した千代田区・神田神社(前10項)の龍紋銅洗盤(天明2年・1782・後109項など)では、「小幡仁左衛門」ら数名の小幡姓の鋳物師が登場している。史料では、19世紀初頭までの作例記載であったが、ここの銘によれば、少なくとも明治期まで連綿と続いた家系のようだ。当サイトでは、前8項後93項後100項などでも登場しているのでご参照いただきたい。

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●長五郎本人は、明治19年(1886)10月18日に浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」にその名が見える。最上段の「本所區」の欄で、「小幡長五郎」とある。また4段目の右側には、「四ツ谷區 小幡鉄五郎」の名もあるが、親子兄弟などの近しい関係の鋳物師であろう。

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太枠で囲っておいたが、この一覧には、12代を数える「神田區 西村和泉(後110項など)」、一際大きな文字の「釜屋堀 田中七右エ門(前18項など)」、釜七のような巨匠も登場している。並びは「いろは順」では無く、「格式高さ」の順序のようで、本所区筆頭の長五郎もそれに倣っている。これによって小幡家の由緒深さが知れるのだ。


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●勅額門も増上寺にあった台徳院廟から移設されているが、勅額は、後水尾天皇の筆によるとされる。やはり寛永9年(1632)に3代家光が、秀忠に対する「孝養報恩」の志をもって建立している。構造様式は、四脚門、銅板葺の切妻造りであり、国指定の重要文化財となっている。

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次の画像は、明治28年(1895)建立の銅板葺きの羅漢堂と唐金灯籠群だが、何基あるのだろう、壮観だ。やはり、増上寺にあったものだが、全国の大名が寄進したものだ。境内には、多くの石灯籠も見られるが、「寛永七年(1630)九月十四日 彦根城主 藤原朝臣 井伊掃部頭 直恒」などの文字が見られる。近江彦根藩の第6代藩主だ。

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●一方で、徳川将軍関連の一部の灯籠などは、増上寺や寛永寺から各地に流出している。前79項でも見たが、明治期の廃仏毀釈前63項によるとか、勝海舟の手により徳川家霊廟保護のため売却したとかの理由があるようだ。例えば、文京区大塚の浄土宗、大乗山廣大院智香寺(後110項)。徳川家所縁の伝通院殿荼毘の遺跡地に建てられ、寺号も法号に因んでいて、徳川家と無縁の寺ではない。

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ここに、6代将軍家宣時代のものだが、石灯籠がある。陰刻は、「奉献 石燈籠二基 武州増上寺 文昭院殿 尊前 正徳二年壬辰(1712)十月十四日」だが、この日は家宣の命日だ。「従五位下 前田丹後守 藤原利安」の奉納で、上野七日市藩(群馬県)の第6代藩主だ。

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●台東区谷中の望湖山玉林寺(前19項)の入り口や境内にもある。「奉献 石燈籠二基 武州増上寺 惇信院殿 尊前 宝暦十一年辛巳(1761)六月十二日」銘だが、9代将軍家重の命日だ。奉納は「従五位下 織田山城守正信」となっている。ここには他にも「有章院・正徳6年(1716)4月30日」、つまり7代将軍家継らの石灯籠も存在するが、その経緯は不明だ。

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●あるいは、都内小金井市桜町の江戸東京たてもの園。ここは、文化的価値の高い歴史的建造物を移築し保存しているが、野外博物館に1基の石灯籠がある。学芸員によれば、かつては寛永寺所蔵の灯籠で、流出した経緯は不明ながら、個人からの寄贈だという。

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陰刻は、「奉献上 石燈籠 東叡山 有徳院殿 尊前 寛延四年(1751)辛未六月二十日」であるから8代将軍吉宗で、この日付も命日だ。享保の改革で、破綻しかけていた幕府の財政復興をしたことから中興の祖と呼ばれる。しかし、年貢率の引き上げで成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招き、また庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し文化は停滞している。

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●奉納者は、「従五位下 備前守菅原姓柳生氏俊峯」だ。大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた柳生藩の第7代藩主であったが、代々の藩主は将軍家の剣術指南役を務めている。

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刻みの一部の「有」や「前」の文字が、特定を避けるべく人為的に削除されているようにも見える。上述のようなドタバタの経緯の中、金銭授受目的で移動された事の証左であろうか。将軍ゆかりの灯籠の散逸は無念だ。例を挙げたらキリが無いが、しかし破壊されずに管理されているのは喜ばしい限りだ。

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なお、たてもの園は、平成5年(1993)に、江戸東京博物館の分館として敷地面積約7haを擁し建設され、貴重な文化遺産を次世代に継承することを目指している。当サイトでは、前59項前82項後99項後103項後113項後123項など多くの項で登場している。大砲や飾電燈、半鐘やポストなど、主に鋳造物について解析しているのでご参照いただきたい。

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●さて、狭山山不動寺の銅鐘は一見に値するが、鐘身の鋳出し紋様が見事なのだ。雲間に飛び交うのは天女と鳳凰で、その下では龍が乱舞している。時間をかけて見入ってしまう1口(こう)だ。銘は、「昭和35年(1960)1月30日 滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平 謹鋳」だが、本項で後にも登場する鋳物師だ。

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●長くなったが、真田家ゆかりの地から天水桶を見ていこう。まずは、群馬県沼田市材木町の月宮山天桂寺(てんけいじ)から。ここには、真田信幸の長子の真田信吉の墓がある。信吉は、慶長19年(1614)の大坂冬の陣と、翌年の夏の陣では徳川勢に加わり戦功をたてている。

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そして元和2年(1616)、信幸が信州上田城に移るに伴い、22才で沼田城城主となっている。上野国沼田藩2代藩主だ。信吉は、城主としての18年間に沼田用水を完成させるなど、善政を行ったようだが、寛永11年(1634)11月、父に先立ち40才で死去している。

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●ドラマの配役で言えば、草刈正雄演じる昌幸の長男が、大泉洋が演じる信幸でなので、信吉は昌幸の孫という事になる。堺雅人演じる真田信繁こと真田幸村は昌幸の次男にして信幸の弟だ。信吉の登場はこれからであろうか。寺の柱の端のカバーは六連銭となっている。六文銭という呼称が一般的だが、六連銭が当時の呼び方という説もある。また特に真田家のものを指して「真田銭」という事もあるようだ。

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この水受けは、間違いなくその銭貨がモチーフだが、銭型と呼ばれる「つくばい(前11項)」だ。真ん中の四角い穴の部分が鳥目(ちょうもく)だが、円形方孔の江戸期までの銭貨の異称でもある。鳥の目に似ているという訳だが、なぜ銭貨の穴が四角かと言えば、そこに角棒を通し、鋳造した銭貨の外周を丸く整えたのだという。穴が丸いと空回りしてしまう訳だ。

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栃木県日光市足尾町通洞の足尾銅山観光のジオラマでは、角穴に通し棒状にした何百枚かの銭貨の外周を、同時にヤスリ掛けしている様子が見られた。こうして大きさを揃え成形した訳だ。

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●なお、近くの沼田公園内にある梵鐘は、信吉が、寛永11年(1634)に領民の繁栄と国家安泰を願って造らせ、沼田城に設置した「時の鐘(後126項)」だ。観光協会によれば、大きさは総高114cm、口径67.6cmという。

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県の重要文化財として指定されたのを機に、今はレプリカになっている。銘文の一部を記しておくと、「多幸 蒲牢(ほろう・前8項後116項)一声萬天轟(とどろく) 上下覚眠心裡清 主将権威嬭(はぐくむ)長久 従此安全国家城」となっているが、鋳造者は不明だ。

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●次は、同じく沼田市材木町の曹洞宗、慈眼山舒林寺(じょりんじ)だが、宝徳元年(1449)創建の名刹だ。本堂は文政年間(1818~)に再建された唐破風付き寄棟造り形式で、内陣には本尊の釈迦如来像が安置されている。

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山門は、「永平寺道元禅師 750回大遠忌奉賛」を機に築されたものだ。歌人若山牧水の知人の生方吉次の菩提寺で、牧水が使用した番傘を当寺に奉納した縁から、番傘を模した「かみつけの とねの郡の 老神の 時雨ふる朝を 別れゆくなり」の句碑がある。

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●「昭和45年(1975)」に奉納された青銅製の天水桶の正面には六連銭の紋があるが、境内には4代沼田藩主、真田信政の次男信守(信幸の孫)の墓があるからその関連だ。「沼田記」によると信守は、「正保2年(1645)6月23日夜、裏門にて、弟の信武および佐久間善八を殺傷し自刃す」とある。何らかの争論が原因で、この時17才であったようだが、悲しい歴史だ。

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境内にある梵鐘は、「昭和46年(1971)3月 33世 大信延秋代」の時世に、「滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平」が謹鋳している。同氏作の天水桶には、過去に1度、都内台東区橋場の無量山福壽院(前34項)で出会っているが、ハス型の青銅製であった。同鋳物師については、後111項に全てのリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●沼田市坊新田町の天台宗金剛院は、北関東36不動尊霊場の2番目だ。境内にある老松は「金剛の船松」で、13世住職が沼田藩主より拝領したもので、沼田名木百選に認定されている。樹齢は450年、全長15m、高さは5mという黒松だ。明治14年(1881)に、千葉県成田山新勝寺(前52項)より不動明王(前20項)を勧請して以降、成田講が結成されたということで、額には「成田山」とある。

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最近設置された天水桶は、石材からの削り出しの1対だ。飛び出ている正面の菊の紋章は、後から接着されたものだが、力強く存在を主張していて立派だ。地域の歯科や眼科の医院が「平成23年(2011)11月24日 当山第33世 権大僧都 亮朝代」の時世に奉納している。

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檀家とのつながりを深めようという事であろうか、最近は落語寄席を開催する寺社をよく見かける。それにしてもここ金剛院の力の入れようは別格で、本殿の額の下や境内のあちこちに見られる赤い提灯には噺家の名前が一杯だ。若手噺家の登竜門、「平成26年度NHK新人落語大賞」で、ここの友引寄席で馴染みの春風亭朝也が大賞を受賞している。画像の題字は、初代林家木久蔵の林家木久扇による。

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●真田家ゆかりの地から離れていくが、栃木県佐野市上羽田町の曹洞宗、安養山龍西院の天水桶は面白い。ここには、市の文化財の、佐野天明鋳工作と推定されている銅造阿弥陀三尊像、像高95cmという寄木造りの閻魔王坐像が鎮座し、延宝8年(1680)につくられたという石製の青面金剛明王がある。

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天水桶は、「平成8年(1996)5月吉日」奉納の、小ぶりな石製の巾着型で、どこかなごむ1対だ。巾着は、辞書によれば、「世界中で昔からこの種の袋はあり、それらをまとめて巾着と呼んでいる。日本でもやはり、小物や手回り品を入れて持ち歩くために使われた。

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物を出し入れする口の部分に紐が通してあり、その紐で口を絞るようにして閉じることができる袋を巾着と呼んでいる」とある。巾着型と云えば、台東区浅草の本龍院待乳山聖天(前8項)の青銅製桶を思い出すが、それは富山県の佐野青銅器の鋳造であった。

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●続いては、信越本線の群馬八幡駅近く、高崎市八幡町の上野国一社八幡宮。天徳元年(957)に、源頼信が京都の石清水八幡宮を勧請して創建している。その後、 源頼義や頼朝、さらには新田氏や足利氏、武田氏ら関東の源氏一門の崇敬を受け、徳川幕府からは朱印地100石を寄進されている。


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近くを走る国道18号線の拡幅のため、平成2年(1990)9月に新築された鳥居はコンクリート製で、基柱巾は9.5m、高さは12.5mであるから、見上げる高さだ。

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●「施主 氏子中 願主 宮司 竹林文彦」の寄進だが、堂宇前に屋根を冠した青銅製の天水桶1対が見える。大きさは口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは880ミリだ。神紋は、「巴紋」の下に「鳩紋」だが、中世の武士は、鳩を八幡大菩薩の使者として崇めていて、2羽が向き合った形で「八」の字を表現している。

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銘は「昭和53年(1978)12月31日」だから、大晦日に奉納されているが、青銅器鋳造の巨匠、「富山県高岡市 鋳物師 老子次右衛門(前8項)」の鋳造で、美しい文字と梨地調の鋳肌が目を引く。因みに、鐘楼塔にも天水桶と全て同日同銘の、3尺3寸の銅鐘が掛かっているが、「永遠の平和を希求する」として除夜の日に初撞きされている。

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●「慶應(慶応)丁卯三年(1867)八月吉日」に、「御神前 奉献」された太閤型(前33項前74項)の銅造灯籠1対は、高崎市指定の重要文化財だ。天空に向けて広がる蕨手が勇壮で、基台には多くの寄進者の氏名が並び、竿には「四海静謐 五穀豊熟 商売繁盛 養蚕倍盛」などの願念が掲げられている。

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こういった鋳造物は、どのくらいの重量なのだろうか。破損した部分から中を覗き込むと、かなり肉薄である事が判る。肉厚は5ミリほどだから、総重量は、あっても100kgそこそこだろう。外型の中に中子を入れて鋳型を造形する訳だが、こうして貴重な資源や限りある予算を節約するのだ。

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各所で拝見した見上げる程に大きな銅造鳥居なども同じであるが、例外は、後99項で見た都内千代田区の皇居外苑にある楠木正成のブロンズ像だ。住友財閥が手掛けたこの銅造は中身が詰まった無垢であり、その総重量は、実に6.7トンであった。

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●作者銘は、「東都 御鋳物師 粉川市正 藤原国信作」と達筆な文字で陰刻されている。同鋳物師に関しては、前52項前65項などで詳細に解析したが、本サイトでは、手水盤や梵鐘、擬宝珠、根巻き、鳥居、狛犬、銅像など多種多様な作例に、同家の刻銘を見ている。なお、戦時の金属供出(前3項)を逃れ現存する、特に江戸期の金属製の灯籠は稀有だが、前33項には登場する項番のリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●老子製を何例か見てみよう。神奈川県藤沢市片瀬の日蓮宗龍口山常立寺で、江ノ島(後129項)詣での旧参道に位置するが、湘南モノレールの湘南江の島駅より徒歩数分だ。仏・法・僧の三宝を祀るための仏像である三宝尊を本尊としている。日蓮上人が処刑寸前となった、龍ノ口法難の寂光山龍口寺(後114項)を長年守ってきた、輪番八ケ寺の1つという。

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青銅製の1対の正面に見えるのは、宗紋の典型的な「丸に橘紋」だ。「平成26年(2014)3月4日 第25世 本迹院日保代」だからつい最近の造立で、知り得る最新の天水桶だ。

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「高岡市 鋳匠 老子次右衛門」銘であったが、目を凝らさなければ見逃すほどで、桶の大きさに比してかなり小さ目な文字で遠慮がちに鋳出されている。本体の大きさは口径Φ1.060、高さは1.065ミリだが、その銘は幅35×100ミリの狭い中に収められているのだ。

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●ここに掛かる梵鐘は、前29項前84項でも登場したが、京都本町にあった(株)高橋鋳工場製だ。「平成5年(1993)12月吉日 檀信徒並縁者 六百有余浄財寄進」で、その人名が所狭しと並んでいるが、他にも実に多くの願いが込められている。

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縦帯の「一天四海 皆帰妙法(全国あまねくを仏様の教えで救おう)」に始まり、「当山開山 日豪上人以来歴代上人」らの遠忌、前24世日嘉上人33回忌の「報恩謝徳」、「浄財寄進各家先祖代々霊位」などの追善供養、そして、「山門鎮静 寺檀和融 諸縁吉祥 現世安穏 後生善処」となっている。

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●次も同地の藤沢市片瀬の日蓮宗本蓮寺だが、先の常立寺もほど近い。やはり龍口寺輪番八ケ寺の1つで、山号も同じく龍口山だが、推古天皇3年(595)に義玄和尚が開山している。日本初の元号は645年の「大化」であったが、その前からであるので1.400年の寺歴を超す古刹だ。

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本堂前の天水桶は青銅製で、大きさは口径Φ1.050ミリ、高さは1mだ。中央に日蓮宗紋が据えられ、口縁下には雷紋様(後116項)と丸いボッチが廻っている。前59項後93項でも登場するが、このボッチの存在は重要な意味を持っているのだ。

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正面の「奉獻」は「献」の旧字体となっている。「本蓮寺 第23世 清田義淳代」の時世に施主が奉納しているが、美麗な鋳肌であり洗練された1対だ。前例の常立寺と違ってこちらの天水桶は古めの造立で、「昭和卅四(34)年(1959)八月廿(20)日」だが、55年間の差異がある。

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●この「卅」という文字は、「十」を3つ並べていて、30を意味する会意文字だが、馴染みある表現ではない。「廿」は、「十」を2つだ。大正11年(1922)の大蔵省令にはこうある。

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『会計法規ニ基ク 出納計算ニ関スル諸書類帳簿ニ記載スル 金額其ノ他ノ数量ニシテ、「一」、「二」、「三」、「十」、「廿」、「卅」ノ数字ハ「壱」、「弐」、「参」、「拾」、「弐拾」、「参拾」ノ字体ヲ用ユヘシ』であったが、当時は身近な文字であったのだろうか。

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●鋳造は「富山縣(県)高岡市 老子次右衛門 謹鑄(鋳)」だが、ここにも旧字体が多く見える。この桶は、昭和23年(1948)に(株)老子製作所を設立、昭和37年に84才で没している中興の7代目次右衛門(前8項)の息がかかったものであろう。

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関東周辺で見られる、7代目が存命中に鋳られた天水桶の現存例は少ない。このサイトでは、40例ほどの同社の青銅製の天水桶を見ているが、知り得る限りでは、台東区浅草・浅草寺の「老子製作所 堀川鋳金所(前34項)謹鋳 昭和32年(1957)3月吉日」の共作が最古であり、これに次いでいる。

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●図らずも、この地で新旧の天水桶に出会った訳だが、鐘楼塔に掛かる梵鐘も老子製だ。「相州片瀬 龍口山本蓮寺 第23世 清田義淳代」、「昭和三十四年七月」銘であり、天水桶とほぼ同時の設置となっている。なお、最晩年の梵鐘の「昭和37年(1962)8月老子次右エ(衛)門 八十三才」という作例は、後116項栃木市大宮町の東醍醐山如意輪寺で見ている。

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縦帯には、「顕益冥益(けんやくみょうやく) 平等無盡(尽)」と掲げられている。仏法の功徳には、祈りの結果が直ちに目に見える「顕益」と、直ぐには目には見えない「冥益」とがあるとしている。それは誰にでも平等であり無尽蔵であるという事だろう。例えば樹木の成長は一目では判らないが、10年後なら判るというような事だ。

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●池の間には、7代目の名誉の証しが陽鋳造されていた。ここにも旧字体が見られるが、「高岡市 鑄(鋳)物師 老子次右衛門」で、その横に「黄綬褒章 拜(拝)受」とある。「業務に精励し衆民の模範たるべき者」に授与される黄色い褒章の受章だ。

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褒章には「紅、緑、黄、紫、藍、紺」の6色があるが、次右衛門は他にも、「公益のため私財を寄附し功績顕著なる者」に授与される紺綬褒章や、勲六等単光旭日章等も受賞している。鋳造分野において研鑽を重ね世に貢献した7代目は、正に老子家中興の立役者であった。

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●知る限りだが、最後に、戦後の最も早い時期に鋳られた、老子製の銅鐘を見ておこう。茨城県取手市高須の浄土宗、隆崇山深心院高徳寺だ。ここの「木造阿弥陀如来と両脇侍像」は、藤代町の指定文化財となっている。説明書きによれば、「阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩、勢至菩薩を脇侍とする。三尊とも江戸時代の造像で、ヒノキ材の寄木造り、玉眼嵌入の漆箔像」という。

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銅鐘は、退役して境内に置かれているが、縦帯には「南無阿弥陀仏」とお題目が記されている。「為檀信徒 先祖代々菩提」であり、「高徳寺 第25世 深誉代」の時世であった。鋳造者の銘は、「昭和23年(1948)12月8日 鋳匠 7代目 老子次右衛門」だ。終戦は昭和20年8月15日であったから約3年後だが、戦後の早い時期に銅鐘を鋳る事ができるというのは、檀信徒のまとまりの良さであろうか。つづく。