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●いよいよ新年の到来が間近、初詣の時期であるが、明治時代初期までは恵方詣での風習が根強かったようだ。恵方とは吉方のこと、つまり、その年の干支(えと)によって定められる、最も良いとされる方角で、その方向に歳徳神(としとくじん)が居るとされるのだ。
 歳徳神(としとくじん)

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江戸時代、寺社参詣への交通手段は専ら、自らの健脚に頼る他なかった。当然地域は制約され、参拝出来得る寺社は限られていただろう。行けば日が暮れるまでの内に帰って来なければならないのだから。現代においてはどうか。鉄道網の発達は、恵方の意味を希薄にし、どうせ行くならと有名な神社仏閣にお参りする傾向が強かろう。そのほうが濃厚な御利益にあやかれる気がするから不思議だ。
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●鉄道会社の当初の敷設目的は、寺社仏閣への参詣手段の確保であったはず。黙っていても、それなりの乗客が見込めるからだ。西新井大師(後116項)へ行くには専用の大師線があるし、浅草寺(前1項後85項など)には東武鉄道、川崎大師(前24項)には京浜急行電鉄、池上本門寺(前22項)には東急電鉄、成田山新勝寺(後53項)には京成電鉄がある。
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もはやアクセスに、時間的体力的な不安は無い訳で、正に気の向くままである。さて、年始の混雑を嫌って千葉県の成田山新勝寺を訪れてみた。それにしても遠い、京成上野駅から特急に乗ってもたっぷり1時間強、天水桶の探訪レポートだ。
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●千葉県成田市にある同寺は、真言宗智山派の大本山のひとつで、本尊は不動明王(前20項)だ。家内安全、交通安全など護摩祈祷のために訪れる人が多く、近年の初詣参拝者数は300万人を超えていて、都内渋谷区の明治神宮に次いで全国2位だ。参道はリニューアルされているとはいえ、昔と変わらぬ佇まいなのだろう、歩いていて楽しくなる門前町だ。

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成田駅から歩くこと15分程度で、総門に到着。仁王門へ続く階段の向かって左側に1対の鋳鉄製天水桶が、夫婦よろしく相隣り合って並んでいる。大きさは口径Φ850、高さは900ミリだ。奇怪な設置法だが、最初からこの予定だったようだ。

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●上に載っている屋根や手桶や台座は、並べた2基の桶の横幅に合わせて製作したのであって、1基分にしては大き過ぎる。発案段階からこの様な設置法を予定していた事は次に判る。いずれにしても、桶本来の目的である、雨水の貯水ができる位置には設置されていない。真上に門などの屋根は無く、あるのは天空だけだ。最初からオブジェとしての奉納だったのだろうか。

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作者は、「昭和29年(1954)4月28日建立 鋳物師 川口市金山町 山崎」銘で、下の名前が不明だが、年代的に推し測るに「甚五兵衛」で間違いなかろう。現時点で私が出会った同氏作の桶の中で最も古いものであった。以降、ここの作品がいい宣伝になり多くの受注を抱え、天水桶鋳造家として一世を風靡する事になるのだ。(後84項など参照)

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●「山﨑」の右隣に見えるのは、「東京都日本橋本町 錺師 関徳」で、前16項で登場している。天水桶本体の真ん中の紋は火消し組の纏(まとい)印だが、この様な装飾品を手掛けたのであろうか。「江戸消防 第一区 六番組 す組」による奉納だが、もう1基の裏には銅板が貼り付けてあって、謹書が線刻がされている。
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その内容は・・ 「謹書 昭和28年(1953)1月、組員総意により、先祖伝来の下総の国成田山新勝寺正面左側に、天水桶奉納を決定せり。建設に際しては、相当の苦心伴ひしも各員の熱烈なる結果、茲(ここ)に実現せり。數(かぞ)えれば、約150年前の天保7年丙申(1836)5月の創立にして、当時の苦難もさこそと相(想)像されん。
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最初は手桶及び受台は木造りして、他部分は鋳物を以て製作せるものと伝う。安政7年庚申(1860)2月、手桶を鋳物とせり後、明治43年(1910)、受台を御影石に差更へたり。昭和18年(1943)、支那事変熾となり鉄金属回収となり、国家のため之を供出せり。

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茲に3ケ年計画としてかかりしも、組合員各位の努力に依り、1ケ年4ケ月にして、本日茲に完成をみるに至りし事は、此上もなき嬉(よろこび)とす。国のため納し品は いまここに神の恵みぞ今日帰りこん。昭和29年申午(1954)4月28日 江戸消防 第一區 六番組」である。

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●「新勝寺正面左側」と設置予定の位置まで明記されている。通常、天水桶は2基で1対だから、上の画像のように設置する設計になったのだろう。屋根の左右に分けて設置するのが常道と思われるが、右側には何らかの支障があったのだろうか。

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また、当初は、「約150年前の天保7年丙申5月の創立にして」とある。大正3年(1914)刊の、香取秀眞(ほつま・後116項)著の「日本鋳工史稿」によれば、「天保6年」となってはいるが、「神田鋳物師 西村和泉(後89項)」の作で青銅製桶であったようで、残念ながら、これを金属供出したようだ。


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●次に、仁王門に向かって右側を見てみよう。見かけたことのあるデザインの1対の鋳鉄製天水桶が、これまた近接して置かれている。これも、天水を受けるという本来の目的での設置ではないようだ。

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上の画像の左側の人だまりは手水(ちょうず)舎であるが、ポンプで井戸の地下水をくみ上げているのだろうか、川口市本町の「岩瀬ポンプ製作所」さんが奉納している。

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●この天水桶1対は、築地の魚がしの人達が奉納している。仁王門への階段を挟んで左右にそれぞれ2基づつ、合計4基2対が設置されている訳だが、これでバランスが取れているのだ。


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銘は「昭和33年(1958)11月吉日」造立の鋳鉄製で、「川口市 山崎甚五兵衛 謹製」だ。ここにも「錺 関徳」の銘があるが、書体は「浜のや(前16項) 小林繁三 謹書」で、この人は、台東区浅草の金龍山浅草寺の天水桶の書なども手掛けているが、周囲には奉納者の名前がビッシリと陽鋳されている。

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直径Φ1.350、高さ1.400ミリの巨大な天水桶だが、このデザインは何箇所かで見掛けている。台東区・浅草寺(前1項など)のものは、Φ1.400×高さ1.400ミリ、神奈川県・川崎大師平間寺(前24項など)は、Φ1.600×1.700、千葉県成田市・鳴鐘山宗吾霊堂(後58項など)は、Φ1.600×1.340であったが、多少の違いはあれ巨大な天水桶だ。なおこの他の口径の大きな天水桶に関しては、後55項から見れるのでご覧いただきたい。

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●では、これらの天水桶の製作時期について考察してみよう。ここ成田山新勝寺の桶は「昭和33年(1958)11月吉日」、台東区・浅草寺は「昭和33年10月」、川崎大師平間寺は「昭和37年10月吉日」の造立だ。時期的にかなり近しい訳で、各寺社がメンツを賭けて競い合うように山崎に発注していたのが判る。特に浅草寺と新勝寺は、1ケ月の差異しかなく、この巨大な4基をほぼ同時進行的に鋳造していたのだ。
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同氏はこの年の昭和33年には、「川口市宮町・光輝山本覚寺(前14項) 2月」、「川口市前川・補陀洛山観福寺(前27項) 4月」、画像の「さいたま市浦和区岸町・調神社(前24項) 7月」など、計6例12基を別途手掛けている。

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この時期、多忙を極めたことは間違いない。さらに昭和37年の1年間にも、8例16基もの桶を鋳造している。大きさやデザインが違うから、木型も別で共用出来ない。寝る間も惜しんで鋳造したのではあるまいか。同氏の最盛期であった。


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一方、同時代には川口鋳物師の鈴木文吾(後71項など)が居た。同氏は「昭和33年(1958)3月15日」造立の、東京五輪で使用された聖火台を鋳造している。聖火台鋳造を当時の川口市長の大野元美(後127項)が受注し、「どの鋳物師に発注しようか」と考えたとき、当然、山崎の名前も浮かんだのではあるまいか。しかし、上述の通りである、山崎のスケジュールに割り込む余地など無かったのだ。自動的に、聖火台の鋳造候補者から山崎の名は外れたであろう。
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●さて、大本堂への階段を上ると仁王門がある。その脇に天水桶、あるいは灯籠用の台座と思われるものが左右に2台づつある。屋根からの降水を受け止められる位置だ。先の天保6年の天水桶は、元々はここに設置されていたのだろうか。あるいは、先の史料に見える、「文政12年3月(1829) 太田近江正次作(釜六、前17項) 二王門(前) 鉄天水鉢」だろうか、今は主の居ない台座だけが空しくさらされている。

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この門の表側には、瓢箪形の灯籠が吊るされている。外径1mほどで、そこそこの大きさだ。植物葉紋様の透かし柄の照明灯だが、電気が無い時代の光源はローソクだろう。かつてはもっと低い位置にあったはずで、そうでなければ点灯も交換も容易ではない。あるいはオブジェとしての存在だったのだろうか。外周の3方に輪宝紋が配され、最上部の釣瓶にはたくさんの小さい瓢箪と二葉がある。

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これは鋳造物ではなく、銅板の細工物だ。板を打ち抜くので「打物」とも呼ぶようだ。作者は不明ながら、銘版には「嘉永二己酉(1849)五月吉小(祥)」と囲い込むように線彫りされていて、底板には、とぐろを巻く龍を描いた、叩き出しの丸い銅板がはめ込まれている。「本所小梅 小倉庵」と見える部分は鋳造物の様でもあるが、瓢箪の紋様が輪郭をかたどっている。

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●「本所小梅」は、墨田区向島近辺の当時の地名だが、歌川広重は、「江戸高名会亭尽」の浮世絵の中で「小倉庵」を描いている。有名な会席料理屋であったが、ほぼ宣伝用のポスターと言ってよかろう。右上には、「狂句合 下戸上戸 百人もすずむ 小倉庵」と書かれている。大勢が入れる大きな料亭であったようだが、ここが吊灯籠のスポンサーであった。

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あるいは184店もの名飲食店が載る、安政6年(1859)初冬刊行の番付表「即席会席御料理」にも名が見える。中央の「行司」の欄には、大食い大会の会場で知られた「両国(柳橋) 万八(万八楼・万屋八郎兵衛)」、落語にも登場し、幕末にはペリー提督に料理を供したという「浮世(日本橋浮世小路) 百川」。

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さらに、万人が認めた最高級料理茶屋の「山谷 八百善(後129項・八百屋善四郎)」、後109項でも登場した「東前頭七枚目」の「上野 松源」などが並んでいる。そして紙面のほぼ中央に「小梅 小倉庵」が登場しているのだ。

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●一方、この仁王門を裏側から撮影する人はあまり居なかろうが、画像のように裏には、大きな巾着形の吊灯籠がある。くびれた首の部分に紐の結び目があるので、ナスビではなく巾着だろう。やはり板金細工物で輪宝紋もあり、大きさも外径1mほどと同等だ。銘版では「明治五季壬申歳(1872)」の製作となっていて、「宿 海老屋甚兵衛」がスポンサーのようだ。

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「冶工 西村和泉守作(後110項など)」が製作者だが、江戸時代中期から大正時代にかけて活躍した鋳物師だ。多くの梵鐘や銅灯籠を手掛けた鋳造業者であり、薄い板金物とは無縁の家系のはずだが、画像のように銘版の文字は陽鋳造の様なので、それを手掛けたのであろうか。いずれにしても、門の前後で1対であろうから、察するに、先の瓢箪灯籠も西村作であろう。

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●さらに巾着の下の門柱には、1対の青銅製の提灯が掛けられている。大きさは、Φ30cmで長さは1mほどであろうか。何の銘も確認できないが、先の史料では「二王門 銅提燈1対 文久三歳癸亥(1863)五月吉祥日 御鋳物師 西村和泉守作」と詳細に記録されている。目の届かないどこかに銘が刻まれていたのかも知れない。

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最上部には擬宝珠(後109項後121項など)が載り、粗めな網目の火袋には「永代常夜燈」と鋳造され、ローソクの投入口も備わっている。その上下の受け具には、防災の意味合いであろうか波の紋様が施されている。掛け具には、雷紋様(後116項)や輪宝紋、扇紋が浮き出ていて手が込んでいる。

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●仁王門をくぐり終えると放生池がある。この池にはたくさんの亀などが居るが、生き物を解き放って無病息災を祈願するという風習に因むものだ。そのために亀などを捕らえ販売するという本末転倒のような商売もあったようで、歌川広重の浮世絵にも見られる。そして橋を渡ると恐ろしい形相の狛犬1対と目を合わせることになる。

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江戸消防「六番組」の奉献だが、石の台座に至るまで彩色され、命が吹き込まれたように生き生きしている。これは銅造の狛犬で、「も組 の組 れ組」と陽鋳造された台座も青銅製だ。戦後の物は各地でたまに散見できるが、戦時の金属供出(前3項)や災禍を逃れ現存する金属製の狛犬はかなり稀有だ。当サイトでは、後75項で見るが、世田谷区下馬の世田谷山観音寺にある、鋳鉄製の南蛮渡来の狛犬1対だけだ。

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●なお上の画像の左奥に見えるのは銅造の宝剣で、後93項で登場するので参照いただきたい。狛犬の青銅の台座には寄進者の火消し人の名が刻まれている。作者の刻銘は「嘉永三庚戌年(1850)九月二十八日 東都鋳物師  粉川市正 藤原国信 作造之」だ。藤原姓を名乗っているのは興味深いが、鋳物師元締めの京都真継家(前40項)傘下ではない。

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勅許鋳物師を登録したどの人名録にも登場しないのだ。なぜだろう。先の史料では、6代将軍徳川家宣の正徳2年(1712)の薨去に際し、後の8代吉宗は、後述の港区芝公園・三縁山増上寺宛てに、「紀伊国守 権中納言 源吉宗」名で銅灯籠を献納している。未だ将軍就任前だ。鋳造者銘は、「冶工 粉川将監 藤原安成」であったが、国信の祖先であろう。連綿と続く鋳物師の家系だ。

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●この鋳物師は、本名は「木村」であるが、和歌山県紀の川市に粉河(こかわ)という地区があり、ここ出身であったので「粉川」と名乗っている。なお、安成の同族には、先代か親族らしき「粉川将監安継(次)」、後継らしい「粉川将監安重」 が居た。

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元禄期頃(1688~)からは江戸神田に出てきて活動していて、多くの作品に、「江都住」や「武工神田住」の刻みが見られる。また粉河地域では他に、蜂屋、福井という名の鋳物師らが活躍していたようだ。

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紀の川市粉河には、天台宗系の粉河観音宗総本山の粉河寺がある。天正13年(1585)に、豊臣秀吉が紀州に攻め入ったため全山を焼失していて、現在の伽藍のほとんどは江戸時代の再建だが、今でも寺の大門橋や本堂の擬宝珠、中門前の盥漱盤(かんそうばん=手水盤・前7項)などには名が残されているという。

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●向学のため粉川町のサイトから画像を転載させていただくが、この盤の銘は、「安永4年(1775)4月 粉河鋳物師 蜂屋薩摩掾五代目 源正勝」の作例だ。総高240cm、幅185cmといい、平成7年(1995)9月21日に、粉河町指定文化財、美術工芸品に指定されている。天空に向けて大きな蓮華が開花し、一葉とつぼみが今まさに広がらんとし、枯れた蜂巣(後66項)もリアルに表現されている。

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最下部の丸い台座に銘が浮き出ているようで、その上の球状の節には4匹のトンボが纏わりついている。トンボは素早く飛び回り害虫を捕食し、前にしか進まず決して退却しない事から、不退転の精神を表すものとして、「勝ち虫」とも呼ばれている。

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一種の縁起物として、特に戦国時代には、兜や鎧、刀の鍔(つば)などの武具、陣羽織や印籠の装飾にしばしば用いられている。見事な意匠であり、生命の転生や盛衰、継承を考えさせられる稀有な逸品だ。

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紀州出身の粉川家は、真言宗の総本山、高野山金剛峯寺に法具を納入するなど、紀州藩の権威を背景に厚遇されていたようで、真継家に属さずとも御用達鋳物師として営業保証されていたのであろう。結果、藤原姓(前13項)の名乗りを許されていたのだ。なお、後65項などでも粉川家が登場しているのでご参照いただきたい。

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●逸れるが、「粉川の本名は木村である」と記述したが、その銘が見られる貴重な梵鐘が現存しているのでここで見ておこう。大田区池上の長栄山池上本門寺(前22項後85項)の銅鐘だ。左端の屋根付きの建屋に厳重に保管されているが、関東近郊においては類い稀な巨鐘だ。口径は1.6mほど、総高は225cmで圧倒される大きさであり、雄大で豪快だが、昭和49年(1974)2月に区の文化財に指定されている。

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掲示を基に要約すると、宝永7年(1710)の火災により旧鐘は損傷、これが改鋳されたという。「改鋳」という表現は、素材を転用して生かし再度流用したという意味で、新鋳とは意味合いが違う。

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旧鐘の銘文が再刻されているが、元々は正保4年(1647)、戦国武将・加藤清正の息女で、後に紀伊徳川頼宣の室となった瑶林院(1601~1666)が寄進した梵鐘だ。縦帯(前8項)には、「南無妙法蓮華経」のお題目が、文字の輪郭を囲い込むように彫られている。「当山第17世 日東上人」の時世であった。

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●竜頭の下には、空襲の戦禍による痛々しい損壊が見られ、もはや、鐘楼塔への懸垂には耐えられないであろう。刻みも摩滅が激しいが、銘は、「正徳四歳(1714) ○○住 御鋳物師 木村将監 藤原安成」と読める。「当山第23世 日潤上人」の時世だ。

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「○○」は住所だろうが、先の史料などから類推すれば、「(武州)神田」だろう。現存する「木村姓」での線刻は数少なく、文化財としての価値は非常に高い。なお、知り得る限りの「木村姓」のもう2例は、後98項後105項で登場しているのでご参照いただきたい。

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●現役の梵鐘も見ておくが、高さは3m、重さは7トンという、これまた巨大な梵鐘だ。この鐘は、鐘番の岩戸義幸氏によって、夏冬の休みを除き、毎日2回撞かれているという。旧鐘が引退したため、檀家総代であった児玉誉士夫氏の発願によって新鋳されている。鐘身に鋳出されているが、造立は「昭和39年(1964)10月13日」、「第79世大僧正 慈光院(伊藤)日定」の時世であった。現在の鐘楼塔は、昭和33年の再建だ。

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縦帯には、先と同じお題目が掲げられていて、今度は線刻ではなく凸文字の陽鋳造となっているが、日定による書だ。蓮華の撞座の周囲には、近づかないと判らないが、うっすらと雲の紋様が描かれている。下帯と乳の間には唐草紋様が廻っているが、乳の数は4面で計36個であり、通常の1/3だが数量にこだわりは無い。肩が角張り、池の間と草の間の区割りが無く実にスッキリした意匠だが、遠目に見ても一瞬にして誰の作例であるかが判る。

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銘は、「鋳匠 香取正彦」だ。後述もするが、香取は、昭和44年(1969)に勲四等旭日小綬章を受章、8年後には、梵鐘の分野で人間国宝に認定されている。後116項などでは、多くの作例を挙げているので、是非ご参照いただきたい。

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●さて新勝寺の次の画像の額堂は、国の重要文化財で、文久元年(1861)に建てられた入母屋造りだ。壁がない、全面吹き放しの堂宇で、実に多くの絵馬が掲げられている。下には、所縁深い7代目市川団十郎の石像も置かれている。1千両でこの額堂を寄進したというが、残念ながら昭和40年(1965)に焼失している。

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また、昭和43年(1968)まで現役であった、旧代の梵鐘が網に覆われて保存されている。重量は912.5Kgで、「慶応元年(1865)秋8月鋳造 東都鋳工 粉川市正 藤原国信」作だ。設置は、中興の祖と言われる第13代貫首、原口照輪僧正(文化12年・1815年生まれ・後53項)の時世であったが、同氏は、慶応年間の52才の時に推されてトップに就任している。

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●また逸れるが、ここで同家の作例を見ておこう。まずは銅像だが、埼玉県さいたま市岩槻区慈恩寺の華林山慈恩寺(後87項)に鎮座している。天長元年(824)に、慈覚大師によって開かれた天台宗の寺院で、坂東三十三ケ所観音霊場の十二番札所だ。露天に晒されているのが気になるが、ふくよかなお顔立ちの銅像だ。

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蓮花の台座のセンターには、「奉鋳立 阿弥陀如来」とある。多くの奉納者名が刻まれていて、「宝永7年(1710)初夏吉旦」、「武江神田住 粉河市正宗信 鋳立之」となっている。1世紀ほどの差異があるので、代の違う市正の作だ。江戸に出てきて間もないころの鋳造であるが、当初は、粉河地区の「河」の文字が使われていたのだ。

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●同時代の粉河が鋳た半鐘も見ている。埼玉県さいたま市岩槻区真福寺の、真言宗豊山派、宝光山真福寺正蔵院(後92項)だが、地名の由来にもなっている寺だ。また、かつては付近に武州鉄道の真福寺駅が所在したという。ウィキペディアによれば、この路線は、大正13年(1924)から昭和13年(1938)にかけて、埼玉県を拠点に、非電化で14駅、16.9kmで営業していた鉄道だ。

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路線は、同県南埼玉郡綾瀬村(現・蓮田市)の蓮田駅から、同岩槻町(現・さいたま市岩槻区)を経て、同県北足立郡神根村(現・川口市)の神根駅までの間で運行されていたようだ。しかし、神根駅から東京方面への接続路線がない状態では利用客数が伸びるはずもなく、資金難により神根以南の土地の買収が進まない悪循環に陥っている。それが廃線の理由だ。

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鐘は、手の届かない堂宇の軒下に掛かっている。「奉納 半鐘 為二世安楽也 真福寺村正蔵院 現住 法印尊長」と刻まれ、作者銘は、「江戸神田住 粉河丹後守作」となっている。時は、「享保18年癸丑(1733)正月24日」だ。先の「日本鋳工史稿」や諸書には記載が無いので、知られざる1口(こう)なのかも知れない。

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●次は梵鐘だ。ここは、前33項で登場した文京区小石川のこんにゃく閻魔様の常光山源覚寺だが、表通りに「えんま通り商店街」があるほど地元に密着したお寺だ。ここに「汎太平洋の鐘」と呼ばれる銅鐘がある。どうしてここの梵鐘であったかは不明ながら、昭和12年(1937)に、当時日本領だったサイパン島の南洋寺に転出され、現地の人々に時を告げる鐘として使われていたという。

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しかし、第二次世界大戦が勃発、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になった。そして、戦後の同40年に米国テキサス州オデッサ市で発見され、同49年(1974)になって当寺院に返還されている。出戻りの鐘だ。発見は、「ミツエ・へスター」さんであったが、日系米国人の方であろうか。

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●その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となったようだ。サンフランシスコの桜祭りに展示された後、寄贈されたのだ。よく見ると鐘身には大きな裂傷があるが、戦禍の痕跡であろうか。現在では除夜の鐘として大晦日に突かれているというが、安寧な余生だ。なお、同様な返還された事例は、後110項で見られるので、是非ご参照いただきたい。

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銘によれば、「第六世 行蓮仕梵譽上人団長代」の時世の、「時元禄三庚午年(1690)五月十五日 可休書」に、「神田乗物町 鋳物師 粉河丹後守作 粉川長三郎作」が鋳ている。2名の合作のようだが、相互に近しい人物であろう。先の日本鋳工史稿にも記載があるが、当サイトで知り得る、現存する粉川製の最古の作例だ。

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●続いては港区芝公園の、徳川家菩提寺の三縁山増上寺(後126項)にある吊灯籠だ。日比谷通りに面して見えるのが、重要文化財の三解脱門だが、戦災を免れた、元和8年(1622)建立の二重層門だ。この門をくぐれば、3つの煩悩から解脱できるとされ、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。

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門をくぐる度に吊灯籠を目にするはずだが、注視する人は少ないようだ。先の香取秀眞の「日本鋳工史稿」では、「釣桃燈」と称されているが、吊提灯のことだ。青銅製の透かし彫りの意匠で、築地「魚がし」の奉納、最上部には徳川家の三つ葉葵紋が据えられている。

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下部に「明治4年(1871)9月吉日 御鋳物師 粉川市正 藤原国信」と刻まれている。前例の「粉河市正宗信」からは160年後の作例だ。香取の史料は大正3年(1914)の刊行であったが、この時点で香取は、「現今なほその子孫存在すといふが、不幸にしてその所在を知らず。依りて家系の大略をも知る事を得ざるは遺憾なり」としている。

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●さて、話を新勝寺に戻すと、先に真っすぐ進み大本堂で参拝を済ませたがここには天水桶がない。ここは、昭和43(1968)年の建立で、本尊の不動明王と脇侍の矜羯羅童子、制咤迦童子をお祀りしていて、最も重要な護摩祈祷を行う中心道場だ。

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堂前には香炉があるが、落ち着いた茶色で、ハスの花をイメージした反花の台座に載っている。個性的な意匠で、量販品でないことは一目瞭然だ。この先代の香炉は、「文久3年(1863)12月 江戸鋳工 西村和泉守作」であったが、世代交代は、戦時の金属供出(前3項)によるものであろうか、災禍による損逸であったろうか。

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銘は「昭和43年(1968) 鋳匠 香取正彦(後116項)」で、大本堂完成と同時に設置されたようだ。作者は、先の香取秀眞の長男で、梵鐘の分野において人間国宝に認定されているが、現在の梵鐘も同氏が手掛けて鋳造している。(後88項参照)

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●すぐ右には重要文化財の三重塔があるが、総高25mで存在感充分だ。塔の初層内陣には、金剛界大日如来の「五つの知恵」を表す五智如来が安置されている。正徳2年(1712)に建立され、昭和58年(1983)に今の姿に彩色されたという。この工事は、享和3年(1803)の古文書に書かれていた漆塗りの仕様を元に復元されている。見とれるほど彩色鮮やかな屋根だ。

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そして、塔の右奥には一切経堂がある。「一切経堂は、享保7年(1722)、当山中興第一世照範上人によって建立された。中央の転輪経蔵に収まる一切経約2千冊は、仏典の集大成である」と説明板にある。経堂周囲の8つの花頭窓(後62項)は、中国の故事説話を題材とした見事な木彫刻で飾られている。

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●ここに、作者不明の青銅製の天水桶2基1対が置かれている。「平成21年(2009)3月28日」の造立で、愛媛県の人が奉納している。センターの紋は、仏法の象徴である「輪宝紋(後53項)」だが、「成田山」の寺紋だ。

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台座には「宇田川」と彫り込まれているが、これは裏側を見ると川口市在住の人名であった。「金壱千円 奉納 永代御膳料 武州川口町 宇田川政吉 大正10年(1921)1月納之」と刻まれている。時代的に、天水桶本体との整合性が取れていない。かつての主は、鋳鉄製の桶であったろうか、それも戦時に金属供出してしまったのだろう。成田山新勝寺の鋳造物の考察は、次回も続けよう。つづく。