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●これまでの数項は、江戸近郊から離れた所に存在している天水桶を見てきたが、一旦里帰りしてしてみよう。気になる梵鐘や天水桶、久しぶりに出会った鋳物師作の天水桶もあるのだ。まずは、葛飾区立石にある真言宗豊山派の五方山南蔵院から。近くの京成立石駅には、地名の由来となっている「立石」という石の説明板があるが、「古代先住民の宗教的な遺蹟」だとされているようだ。

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本殿前には、「平成11年(1999)12月」に設置された、青銅製の蓮弁型の天水桶1対がある。こちらは先代の天水桶であろうか、今は蓮池と化している青銅製の桶が1基、庭に埋め込まれている。正面に輪違い紋だけが目立つが作者不詳だ。

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●ここの銅鐘は、「平成12年(2000)春」に鋳造されているから真新しい。京都市右京区の鋳匠、岩澤徹誠の作だが、「誠に徹する」のが精神だといい、これを号名としたようだ。

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創業以来、約5千口(こう)の梵鐘を納めたというが、福井県吉田郡永平寺町の曹洞宗本山・吉祥山永平寺(後110項)の梵鐘や滋賀県大津市坂本本町の比叡山延暦寺(後124項)の1200貫もの大梵鐘を製作していることからも、実力のほどが推し量れよう。

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●続いての、港区三田の浄土真宗単立、由良山荘厳寺は、寛永14年(1637)の創建という。山号にもなっている由良播磨守の開基で、弟の祐傳を開山としている。由良家は、岩松氏の家老であった横瀬氏が下剋上によって岩松氏から実権を奪い、横瀬を改め、由良家を称するようになった家系だ。

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本堂前に、施主が奉納した1対の天水桶がある。「平成6年(1994)9月 荘厳寺第15世 釋義明」の時世だ。裏に、「岩澤の梵鐘 (株)岩澤徹誠 謹鋳」とあるが、同社は梵鐘に限らず、色々な仏具も製作している。これは初代岩澤宗徹の作だが、2代目の一廣氏は、平成10年(1998)に事業継承していて、やはり「岩澤徹誠」を襲名したようだ。

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●ホムペには、「昭和55年(1980) 熊本県 蓮華院誕生寺 世界一の大梵鐘製作」、「口径9尺5寸、高さ15尺、重量1万貫」とあり、大き目な鐘の鋳造を得意とするようだが、ここのも通常より一回り大きい梵鐘だ。天水桶と同じく、平成6年(1994)11月に、鋳匠徹誠が鋳ている。

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五七桐紋が据えられた縦帯に、「荘厳精舎」とあり、蓮華の撞座の上にはリアルな蓮の花が咲いている。駒の爪(前8項)には、植物紋様や鳳凰、鹿が連続しているが、乳を見てもかなり精巧で抜かりなく、誠に徹しているが判る。この梵鐘の愛称は、「月岬(げっこう)太郎」だという。

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●銅鐘の前の石碑によれば、周辺は「月の岬」と呼ばれた地で、門前からの眺望が絶景であり、「眼下に東京湾を見下ろすことができ、東に房総半島の鋸山、南に三浦半島」が良く見えたという。

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江戸時代には大名が月見をし、「安藤廣重の江戸百景にも月の名所として登場するくらい有名な地でした」とある。「太郎」は、関東の利根川が「坂東太郎」と異名されたように、強く大きなものの象徴だが、ここの銅鐘は、古くからの地名を伝えるものとして永劫に遺ろう。

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●さらに、岩澤製の梵鐘を2例見ておこう。まずは埼玉県さいたま市岩槻区真福寺の、真言宗豊山派、宝光山真福寺正蔵院(前52項)だが、本尊は不動明王(前20項)で、室町期の開山と言う古刹だ。奉納は、「昭和59年(1984)3月 現住 淳教代 弘法大師 壱千百五十年御遠忌記念」で、縦帯には、「南無大師遍照金剛」とお題目が掲げられ、池の間では雲に乗った天女が舞っている。

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刻銘を記しておこう。「新鋳華鐘 遠報梵音 世界平和 萬民豊楽 伽藍安穏 寺門興隆 過去聖霊 皆成佛道 除災招福 息災延命 家門繁栄 諸人快楽 万至法界 平等利益」という願念だ。鋳造者銘は、銅鐘の内面に陽鋳造されている。「鋳匠 京都 岩澤徹誠」だ。

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●次は、川口市桜町の曹洞宗玉龍山法性寺。ここは、太田道灌(前89項)が開基し、文明8年(1476)に創建、明応年間(1492~)に開山したという。寺領地10石の御朱印寺だ。梵鐘の造立は、「昭和55年(1980)晩秋 38世洪舟」の時世で、作者の銘は、やはり鐘身の内側に鋳出されている。同じく「鋳匠 京都 岩澤徹誠」という陽鋳造銘だ。

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刻まれた刻銘を読んでみよう。「當山の梵鐘は四代目である 萬治 寛文 享保の年間に鋳造された 享保の梵鐘は名鐘であったが 昭和十八年(1943) 大東亜戦争の為に供出(前3項)された

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檀徒の方々の多大の浄財の寄進により梵鐘と鐘楼堂を新しくすることができた 各家の御先祖様の冥福を祈祷する」だ。昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を見ると、この「享保の名鐘」は、「享保7年(1722)秋 矢沢五左衛門」の作例だ。

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●矢沢は、前59項でも登場した練馬区高野台・東高野山長命寺に現存する梵鐘銘の「慶安3暦(1650) 武刕(州)下足立郡河口村 冶工 矢沢治郎右衛門吉重」の系譜に繋がる川口鋳物師であろう。

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本サイトでは、前9項後108項後131項などで、現存する川口鋳物師作の銅鐘が9例登場している。年表には、存在の有無を問わず21例が記載されているが、現存せず、かつ本サイトに登場していない銅鐘を3例書き出しておこう。

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●まず、「宝永8年(1711)初夏 板橋区大和町 龍光山智清寺 永瀬利右衛門衆英 加藤庄兵衛 海老原市兵衛」だ。正確には、他の史料では「宝永八龍集(前19項)辛卯初夏」銘で、戦時に金属供出(前3項)してしまっているようだ。

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ただし書きには「永瀬利右衛門は、長瀬理右衛門(2代目)衆英(後131項)と同一人である」と書かれている。なお「永瀬利右衛門」銘は、前21項の「川口市鳩ケ谷本町・氷川神社 天水桶 明治三庚午歳(1870)十月吉日」でも見たが、余りにも世代が違う川口鋳物師だ。

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●次は、川口市里の真言宗智山派の円通山法福寺で、本尊を十一面観音像としている。堂宇前の天水桶は、量産品のようだ。梵鐘の記録は、「享保5年(1720)仲秋 銅鐘無し 今井正信」だ。年表の序文の説明書きには、「今井と言う姓の川口鋳物師はこの人以外に見当たらないが、享保年間に居た川口の鋳物師だと岩田氏はしている」とある。

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「岩田氏」とは、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」の編者、「岩田孝司」で、要覧では「里村 穀蔵跡」となっている。法福寺との関連は不明だが、当時これを現認した岩田は、『この鐘銘にも川口の地名が無いが、川口市内の善光寺に同年代の今井姓の墓石があるので、川口鋳物師(である)と岩田氏は「川口鋳物の新史料」で断定している』と記述されている。

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そして3例目は、「宝暦13年(1763)10月 川口市南鳩ケ谷 光照山実正寺 永瀬新助(不明な鋳物師)」だが、これは半鐘のようだ。なお、江戸期の化政期(1804~)に編まれた武蔵国の地誌「新編武蔵風土記稿」では、「宝暦7年(1757)」となっているが、現認はできていない。

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●京王線の芦花公園駅にほど近い、杉並区上高井戸の曹洞禅宗、萬年山長泉寺。慶安元年(1648)の開創だが、貞享元年(1684)銘の石造地蔵菩薩立像など、所蔵する文化財も多い。本殿前には花弁型の青銅製の天水桶があるが、「昭和38年(1963)2月」に、「東京日本橋 今村銅器店」が謹製している。

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気になったのはこの小さな梵鐘で、浅草仏壇神具通り(前59項)にある「東京浅草 五雲堂(前51項)」が、「昭和40年(1965)1月」に謹製しているが、大きさは1.5尺だ。前34項では、ここが謹製した天水桶もアップしている。

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「雲」の文字が180度逆さまになっていて、その理由を探っているが、この銅鐘も同じだ。誤植ではなかったのだ。なお、埼玉県狭山市根岸の高竹山明光寺や、神奈川県伊勢原市上粕屋の上粕屋神社などにも「五雲堂謹製」の梵鐘がある。

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●板橋区大和町の真言宗、光明山日曜寺の本尊は愛染明王像だ。正徳年間(1711~)の創建だが、8代将軍吉宗の第2子、田安家初代の徳川宗武の帰依を受けたという。山門に掛かる扁額は、寛政の改革で知られる松平定信が、父宗武の生誕百年に合わせて奉納されたものだ。愛染が藍染に通じるのであろう、染色業の守り本尊として信仰を集めていて、天保10年(1839)7月銘の手水盤がある手水舎には、染物の組合業者らが奉納した額も見られる。

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ここには、前91項の最後の方でも登場した川口鋳物師「永瀬源内(前14項など)」が、「文政10年(1827)7月」に鋳造した天水桶1対があるという情報を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」から得ていたのであるが、今は、昭和46年(1971)9月に寄贈された、薄い鋼鉄製の桶であった。

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大きさは口径Φ640、高さは740ミリのスリムな1対となっている。勇んで出かけて行ったのに残念であったが、こんな事は日常茶飯だ。戦時の金属供出(前3項)であろうか、いずれにしても文化財の消逸は空しい。

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●では、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を基に、本サイトに登場しない、「永瀬源内 藤原富廣」が鋳た天水桶の履歴を記しておこう。全てに「天水鉢1対」と記載されているが、やはり現存はしていない。

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時系列順に、まずは、明治の文人・樋口一葉ゆかりの浄土宗の寺で「文政10年(1827)初冬 都内文京区本郷 和順山法真寺」。ここの現役の天水桶は、「平成27年(2015)5月吉日 第22世岳誉代」のブロンズ製だ。

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●続いては、画像の「天保6年(1835)3月 台東区上野公園 上野辨天堂」で、ここは蓮池で知られる不忍池にあるが、天台宗東叡山寛永寺(前13項)の開山者、慈眼大師天海大僧正によって建立されている。

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そして御府内八十八ケ所霊場35番札所の「同7年3月 文京区本駒込 大命山長源寺」、浄土真宗系単立寺院の「弘化申辰(元年・1844)11月吉日 豊島区高田 金剛賓山根生院」の天水桶を手掛けている。

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●さらに、千葉県柏市布施の紅龍山東海寺では、「弘化2年(1845)3月3日」付けで「永瀬源内 藤原富廣」銘の桶を鋳たようだ。大きさは「直径三尺一寸」、90cm強であったと言う。

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ここは、関東三弁天の1つとも言われる布施弁天で、大同2年(807)に弘法大師空海が嵯峨天皇の勅願により創建したという。利根川の水運が発達していた時代には、船で参詣する人で大いに栄えたが、明治期に入り水運が衰退し、また鉄道網からも当地域が外れたため、寺運衰微を余儀なくされている。

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●現在の堂宇前の天水桶は、コーヒーカップ型(前33項前51項)の青銅製の1対で、大きさは口径Φ1.050、高さは1.170ミリだ。正面には「十六菊紋」が据えられているが、「昭和47年(1972) 本殿再建記念」として設置されている。

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源内の記録だが、あとは「弘化2年(1845)8月 豊島区巣鴨 松龍山摠禅寺」、「同年9月 新宿区赤城元町 赤城神社」、「嘉永6年(1853)正月 江東区深川 双修山心行寺」だ。補足ながら、心行寺では、「嘉永元年(1848)3月 忠五郎 天水鉢1個」との記載もある。前40項でも登場した名だが、残念ながら情報が少なく、不明な鋳物師だ。

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●さて、埼玉県和光市の下新倉は都境に位置するが、ここに氷川八幡神社がある。境内の石碑を読めば、第73代堀川天皇の御代の寛治5年(1091)に八幡宮として創建されているが、文禄3年(1594)には、さいたま市の大宮氷川神社(前20項)を合祀して現在に至っている。

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木造草藁であった社殿は、昭和の戦時に飛来した米軍機B29が投下した焼夷弾によって焼失したため、戦後、白子小学校の奉安殿を本殿として移築し、更に平成8年(1996)5月に本殿や幣殿、拝殿を改築している。

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ここの境内社として鎮座しているのが琴平神社で、その扁額を見ると、稲荷神社も合祀されているようだ。樹木の裏側で影になっていて見逃すところだったが、殿前に鋳鉄製の樽型の天水桶がある。大きさは口径Φ760、高さは700ミリで、大事にされているのだろう、しっかり塗装され保護されている。

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●正面に鋳出されている「三つ巴紋」は丸みを帯びていて艶かしく、高低差もありダイナミックだ。「氷川八幡神社」とあるので、かつては本社殿前に奉納されていた事が判る。ここに移動されているのは戦禍によるものだろうが、焼逸を逃れた幸運な1対であった。「納主」は、「北足立郡白子村下新倉字浅久保 鍛冶職 並木時太郎 50才」で、「大正10年(1921)6月吉日」のことであった。

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「武之川越 鋳物師 矢澤四郎右衛門」銘の鋳造であったが、矢澤姓に関しては、当サイトでは、都内新宿区新宿・西向天神社(前36項)、さいたま市緑区中尾・宝珠山吉祥寺(前46項)、千葉県市川市真間・手児奈霊神堂(前64項)、川越市喜多町・青鷹山広済寺(後98項)、都内東村山・野口不動尊大善院(後118項)での5例を見てきている。明治45年(1912)から昭和5年(1930)までの作例であった。

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●昭和16年(1941)当時の、「川口鋳物工業組合」の会員名簿を見てみよう。前89項でも登場した川越の「小川五郎右衛門」の隣だ。代表者は「矢澤四郎右衛門」で、「矢澤鋳物工場 川越市大字神明町」として登録されている。

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当時の会員数は540社もあった訳で、巨大組織の下、川越鋳物師の両巨頭も揃って参画していたのだ。因みに、平成28年(2016)現在は132社であるから、1/4に減っているが、それでも鋳造業としては全国トップレベルの大組織である。

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●一方、川口市の内田三郎(前65項)は、昭和54年(1979)6月刊の「鋳物師」の中で、興味深い古文書を紹介している。宝暦3年(1753)に、川越藩の家臣、太陽寺盛胤(もりたね)が書いた、川越の地誌「多濃武の雁」(たのむのかり)だ。

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「(川越の)鍋屋五ケ村の元祖四郎右衛門は、足立郡川口村の者にて矢澤四郎右衛門と云い、代々の者にて当代の四郎右衛門まで四代、凡そ(およそ)百六、七十年以来、代官町今宮ノ下広小路の処に住居せしむ。その後、御用地になり代地野田下において給われり、今以て其所を鍋新田と云う・・」とある。
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当時における160、170年前は、天正11年から20年(1583~1593)だが、そのころ初代(元祖)四郎右衛門が、川口から川越へ移住して鍋屋家業を始めたというのだ。下って江戸期には、この矢澤家と、後に川越に移住してきた小川家(後108項など)の両御用達鋳物師が、「時の鐘(前65項)」をそれぞれ鋳造している。

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川口鋳造業の創成期については諸説あり(後100項)、未だ論争に決着がないが、少なくとも天正年間以前には、この矢澤家が川口の地で鋳造業を営んでいたのだろう。矢澤家が名簿に登録されて参画していたのではなく、先達矢澤家の元、川口の企業が名を連ねていたのだ。

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●JR埼京線の武蔵浦和駅から南西に向かうと、沼影交差点の手前右側に沼影観音堂がある。住所は、さいたま市南区沼影だ。旧天台宗で広田寺と号していた寺院跡で、今は公園が整備され地蔵堂があり、一角には墓地も存在する。この寺の山号は「鶴住山」だが、鶴が野生していた長閑な場所柄であったのだろうか。

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観音堂の前に古びた1対の鋳鉄製天水桶がある。大きさは口径Φ900、高さは720ミリで、卍の紋が目立つが、シンプルなデザインだ。銘によれば、「明治15年(1882)4月17日」に、岩槻宿や蕨宿の人々が奉納している。

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「川口町 鋳物師 横山鎌吉 製造」が鋳造しているが、実はこの川口鋳物師とは、久しぶりの出会いで、今回で2例目だ。

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●前回は、さいたま市南区の内谷氷川社(前42項)であったが、この観音堂とは直線距離にして1Kmほどしか離れていない。横山は、この近辺の地に何かの縁があったのだろう。氷川社では、下の画像のように「吹鎌製造 明治18年(1885)5月吉日」と鋳出されていたが、横山鎌吉は、セカンドネーム的に「吹鎌」という呼びを使用していたのだ。「吹く」とは、鋳造するという意味だ。

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川口神社には、明治11年(1878)に川口鋳物師の2代目永瀬庄吉(後104項)が鋳た、鋳鉄製の鳥居があった。戦時の金属供出(前3項)で現存しないが、向かって右の柱裏には、多くの鋳物師達と並んで、「鐵(鉄)吹元 横山鎌吉」と刻まれていたという。

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また、明治19年(1886)10月18日、浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」の左下の「川口鋳物職一覧之部 吹元」の欄には13名の鋳物師の記載がある。そこに、「鎌」と「兼」の文字の違いはあるが、「鍋釜 横山兼吉」と見える。「吹元」は送風装置である「たたら」設備を保有していた訳で、それなりの所帯の工場であったのだ。

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●大都会の中心で貴重な天水桶を見つけた。私にとっては、天地を揺るがす大発掘であると言ってよい。場所は、東京メトロ半蔵門線・水天宮前駅の出口2番から徒歩1分の、中央区日本橋箱崎町22-11だ。西側には日本橋や江戸橋があり、真上に見える首都高は箱崎JCで、土の露出部分を見つけ出すのも難しい場所だ。(画像はヤフー地図を編集)

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ここは永久稲荷神社だが、かなり狭い境内だ、人2人が横に並んで歩けない。木片の扁額は、ほぼ真下に向いている。それだけ狭い事の証左だが、下にはしっかりと、賽銭箱がある。無人のようだが、管理なされている方がいらっしゃるのだろうか。創建年代は不明だが、ここ箱崎町の河岸の産土神(うぶすながみ)として、崇敬を受けてきているという。

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●「東京都神社名鑑」などには、「不詳 旧別当延寿院」とだけ書かれていて詳しい由緒などは判らない。国会図書館のサイトで見れる「日本橋區史」では、「傳へいふ、今より凡そ七百餘年前、其の地未だ海洲なりしを、後年埋築の際に創立せらると。

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爾来附近の産土神として榮え、中頃一時衰頽に及びしも、近年舊時の隆盛を見るに至れり。社後に槐樹あり、又區内の老樹たり」という。この区史の成立は大正5年(1916)だ。この地は700年前には海であったようだが、「後年」とあるのは、江戸時代から始まるとされる近世だろう。

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●半壊した鳥居の裏側に1基の鋳鉄製の天水桶があった。通常は2基で1対だが、もう1基は見当たらない。サビだらけで、正面に存在したであろう丸い神紋は欠落し、下側数割が土中に埋没している。大きさは口径Φ850、地上に見えている部分の高さは700ミリだ。


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かろうじて読み取れるのは、「永久橋稲荷社 御宝前」だ。かつてここは「永久稲荷神社」ではなかったのだ。近辺は河岸であったから「永久橋」が存在したのだろうが、現在は近くに新永久橋が架かっている。その外にも奉納者名であろうか、「田所町 富沢町(後96項)」などの鋳出し文字も見られるが、何せ壁に接近していて廻りこめない。

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嘉永3年(1850)の「日本橋北神田辺之絵図 近江屋五平板」を天地逆にして見てみよう。右上の方だが、現在とほぼ同じ位置に「永久バシ」があり、その橋際に「イナリ」と記載されている。これが「永久橋稲荷社」なのであろうが、河岸の産土神として創建された社に違いなかろう。

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●幸いなことに、壁ギリギリかつ埋没寸前の位置に鋳造者の名前が見えた。泥まみれだったから、持参の刷毛で清掃。そして、「武州川口 鋳物師 永瀬源七(前10項後132項)」銘を確認できた。源七作の桶は現存数が少ないので、この存在には感激である。これで3例目だが、他は、港区高輪の泉岳寺近くの車町稲荷神社(前37項)の天保11年(1840)、千代田区外神田の神田神社(前10項)の弘化4年(1847)製であった。

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作者名を知れて一安心であったが、鋳造年が見当たらない。目の届かない鳥居と壁の間だったかも知れない。川口市の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」(昭和60年・1985)によれば、「源七」の名が登場するのは、1839年~1847年の短い期間だ。

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その間に上の2例と、もはや現存していない4例の、計6案件を鋳造している事になっている。ここ永久橋稲荷社の桶は出てこないが、この天水桶の鋳造年を推測するのは簡単そうだ。上述の期間に、せいぜい5年ほどの前後を見ておけば良かろう。

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●余談ながら、この年表は、「川口史林」や「川口市勢要覧」などを参考にし、彼自身の調査結果を踏まえ構成されている。見易くて便利な年表だが、この中に興味を惹かれる記録がある。

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「天保12年(1841)3月 埼玉県熊谷市仲町 熊谷寺(ゆうこくじ) 永瀬源七 天水鉢1対」だ。熊谷寺は、檀家以外の一般人の立ち入りを厳しく制限しているので、この存在を確認できずにいる。もしかすると、今なおここに4例目が置かれているかも知れない。
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それにしても、今は寂れてしまった永久稲荷神社だが、当時、名の知られた川口鋳物師が鋳造を手掛けるほど、かつては名の通った霊験あらたかなお稲荷さんであったのだろう。いつの日かメンテナンスされて、陽の目を見る時を迎えて欲しいものだ。つづく。