.
●長い年月を経た、と言っても最近見かけるのは昭和、平成時代のものも多い訳だが、天水桶の中は清掃されるのだろうか。砂埃や植物の葉など、自然と中に堆積してしまうはずだが、排水方法はどうなっているのだろうか。

.

足立区千住の月松山照光院長圓寺のものはオーバーフロータイプだ。ここは、説明板によれば、「新義真言宗の当寺は、延享元年(1744)の縁起によると、寛永4年(1627)、出羽湯殿山の行者、雲海がここに庵を結ぶ」とある。荒川辺八十八ケ所霊場47番札所、荒綾八十八ケ所霊場の62番札所だ。


.

「長円寺開創三百五十年記念」として、「昭和52年(1977)1月吉祥日」に檀家が奉納している。写真中央のやや上に丸いパイプが見えるが、水位が上がるとここから下方へ排水され、花びらの淵からこぼれることはない。


.

●台東区今戸にある、元和6年(1620)創建の妙徳山広楽寺。木造阿弥陀如来立像は、区の文化財だ。天水桶の下部には蛇口が取り付けられていて、出っ張っているのがちょっと興ざめな感じではあるが、しっかり排水できそうだ。最近は、ボウフラの温床となることを嫌って貯水しない天水桶も多い。

.

作者は、川口鋳物師の「川口市 山崎甚五兵衛」、「昭和43年(1968)10月5日」の造立で鋳鉄製の1対だ。本体の口径はΦ870ミリで高さが840ミリだが、丸い大きなベースメントはそれだけで高さが480ミリもあり目を引く。同鋳物師については、後41項後84項もご参照いただきたい。


.

「広楽寺第13世 釋良成」の時世に、「墨田区石原 乾安治郎」が奉納している。ゴミ除けのネットが付いていて、堆積は避けられそうだが、見た目はよくない。いざというとき水汲みもできないが、現代ではここからの散水は、ほぼ想定外なのであろう。


.

●同じように、ネット付きの桶もよく見かける。足立区日ノ出町の清亮寺は、水戸光圀公ゆかりの槍掛けの松で知られる。また、「墓域には、明治初年日本医学発展のために解剖された囚人11名を供養した解剖人塚があり、昭和57年(1972)12月区登録有形文化財とした。」(境内説明文による)

.

完全防備の天水桶1対だが、かなり苔むしている。口径3尺、高さは1m弱で、ベース部分も鋳鉄製だ。「開宗會 700年紀念」、「昭和27年(1952)4月28日」と裏側に鋳出されているが、作者名などは見られない。正面の「久栄山」がここの山号で、「26世 治厚院日明」の時世であった。


.

●荒川区南千住の素戔雄(すさのお)神社の桶もネット付きだ。延暦14年(795)に創建したと伝えられ、近隣地域の鎮守だ。区内で最も広い地域を氏子圏とし、「てんのうさま」とも呼ばれる。(境内説明板による)


.

ここは、お雛様を供養しているようで、境内のあちこちに見ごたえのある雛段が見られる。春先に催される桃まつりでは、境内に桃の花が咲き、多数の雛人形が展示されるのだが、その数は2千体ともいう。

.

●ここの鋳鉄製天水桶は、火消しの「ぬ組」の奉納で荒川区の登録文化財となっているが、その飛び出ている大きな2文字は、別鋳造したものを貼り付けてある。大きさは口径Φ950、高さは950ミリだ。ステンレス製らしき金網がゴミの侵入を防止しているが、一部に亀裂があるらしく、水漏れが始まっている。大切に、永劫に保存して欲しいものだ。


.

ただ個人の見解ながら、今となっては修復は難しかろう。修復するためには、石の台座から取り外し工場へと搬入しなければならないが、外した瞬間に破損するだろう。行く末は、江東区亀戸の亀戸天神社(後32項)の桶であり、あるいは墨田区向島で見た牛島神社(後33項)の桶なのだ。

.

一昔前に実行してリニューアル(後79項)していれば、後96項の都内大田区萩中・高輪山善永寺の「天保12年(1841)3月 太田近江大掾 藤原正次」、通称釜六製の例のように完全復活していたはずだ。何のための文化財指定なのだろう、消滅は何とも侘しい。

.

●鋳出し文字も多少摩耗しているが、1対の鋳造は、「天保十二辛丑(1841)六月吉日」製だ。そこそこ古いものだが、釜六製もこれも、既に170才なのだ。作者銘は「御鋳物師 武州川口住 永瀬源内 藤原富廣(後14項)」と読めるが、永瀬家系統は、分家や暖簾分けなど今でも川口市の名士で、鋳物鋳造業を営んでいる。

.

一方、川口市文化財センター(後108項など)の「川口鋳物製品年表」には、同所で鋳た「天保7年(1836)6月 永瀬源内 天水鉢1対」という記録がある。現存のわずか5年前だが、これは恐らく火災などで焼損してしまったのであろう。源内は、再度の鋳造を余儀なくされたようだ。


.

●さて、前回の続きで変わり種の天水桶を見てみよう。まずは、港区高輪の高輪神社だが、境内に置かれている力石は区の登録文化財だ。「奉納 五拾八貫目」と線刻があり、区内にある最重量の力石だという。3.75Kg×58貫目=217.5Kgだが、大人3人分だ、これを本当に持ち上げたのだろうか、どうにも信じがたい。

.

水の溜まりを避けるためか、狭い境内に、1基のみの天水桶が逆さに安置というか放置されている光景だが、こういった情景は、後32項後48項などでも見ている。粗末な扱いに落胆せざるを得ないが、滅多に見られないだろうが、桶の底面を拝められるという点においては、貴重な情景と言うべきか。


.

●そうに違いない、滅多に無い。桶の底面というのは、凸球形状になっていて、長年に亘って照りつけられた太陽光で変形してしまったのではない。不安定極まりないのに何故だろう、この方が設置した時に安定すると言うのであろうか、いずれ後33項で考察しようと思う。

.

この桶は、「天保二卯年(1831)九月吉辰」製だが、鋳造者銘は鋳出されておらず、「氏子若者中 下高輪」として、「證誠寺門前 知将院門前」などと浮き出ている。しかし作者の史料は残っている。

.

昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、川口鋳物師の「(永瀬)源内 1対」となっているのだ。また川口大百科事典では、「港区芝高輪 庚申寺 永瀬源内 藤原富広 1対」だ。記録されたその当時には、もう1基が存在していて、それには鋳出しの記名が見られたのだろう。

.

●川口市戸塚の真言宗豊山派寺の青龍山傳福寺西光院の天水桶は、あまり見かけない変わったデザインだ。ここは、武蔵国八十八ケ所霊場の51番札所、武州川口七福神の弁財天で、叡牙が、戦国時代の天正年間(1573~)に開山している。

.

奉納された鋳造物や石造物が実に多い寺社で、「七佛薬師如来」には、釈迦仏ら7人の仏陀が配された、見事な光背が見られる。このほか、ガリガリに痩せた苦行釈迦像や閻魔像、名匠石工の故・関戸直利作の涅槃石像や、十六羅漢像も立ち並んでいる。

.

画像の瑠璃光明塔は、平成7年(1995)に奉納されているが、込み入った精緻な作りが見事だ。瑠璃とは、仏教において貴重とされる七種の宝、七宝の1つだ。また、本殿に下がる半鐘は、和歌山県出自の鋳物師「粉川市正作(後52項)」だ。

.

●境内の瑠璃堂には、注目すべき半鐘が掛かっている。市の有形文化財だ。ここには、本尊の薬師瑠璃光如来が祀られているが、人々を病気や苦悩から救ってくれるという仏様だ。通常、薬師様の印相は、右手が施無畏(せむい)印、左手を与願印とし、かつ薬壺(やっこ)を持つというが、ここのはどうであろうか。

.

総高67cm、口径40cmでごくスタンダードな形状の半鐘だ。「武州足立郡 戸塚村薬師堂 願主 即善(僧侶)」と陰刻されていて、「天下泰平 国土安泰」祈願での奉納となっている。撞座が大きく盛り上がっているが、通常、半鐘は、火災報知用など激しく乱打される事を想定した銅鐘だ。

.

●作者は、「冶工 武州足立郡 川口住 岩田英重作」で、「明和三丙戌歳(1766)四月吉日」となっているが、現存する川口製の半鐘の中で、最古だというのだ。現存しないが、先の年表によれば時を前後して、「川口市舟戸町 平等山善光寺(後130項) 岩田嘉右衛門 宝暦14年(1764)」、「川口市飯塚 薬王山最勝院(後87項) 安永4年(1775)」などがあったようだが、同系統の鋳物師であろう。

.

当サイトで見てきた天水桶の、岩田姓の鋳物師は、江戸後期の「岩田庄助 藤原富定」で、新宿区須賀町の法輪山勝興寺(前3項)、都内八王子市の高尾山本社の飯縄権現堂後35項)などであったが、岩田は生え抜きの川口鋳物師だ。失念したが、何かの資料には、「川口宿の鋳物師の頭領」とあった。保護すべき価値ある貴重な半鐘と言えよう。(後130項参照)

.

●鐘楼塔に掛かる梵鐘を見てみよう。なだらかに下に広がる和鐘で、撞座が少し高い所に位置するようだが、「悟の鐘」と名付けられている。「南無遍照金剛」のお題目が掲げられ、多くの寄進者名が線刻されている。戦後の早い時期に鋳造された「昭和28年(1953)5月鋳造 越前武生(たけふ) 鋳鐘師 新保佐治平」で、「第26世法印 睦美代」の時世だが、「鐘を鋳る人」という肩書きも珍しい。

.

●武生市は、福井県の中部に存在したが、平成17年(2005)の越前市の新設に伴い廃止となった市だ。関東のこの地で意外な地域出身の作者だが、新保はどんな鋳物師だろう。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」には、慶応3年(1867)までの「江戸鋳工年表」が載っているが、ここに新保の名は無い。

.

嘉永7年(1854)の「諸国御鋳物師姓名記」にも、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」にも登場して来ない。後110項で見るが、これらの史料の中では越前松岡地方の鋳物師として、「清水四郎平」が登場している。越前武生地方の鋳物師としては、「松村治左衛門」らの記載があるが、新保の名は見られない。

.

●ネット上で見てみると、「三国土人形を創始した新保屋久右衛門の次男である新保佐治平が、生業であった鋳物の仕事がし辛い、冬季の副業として明治26年(1893年)に始めました。その後、人形の土型は、大正9年(1920)には佐治平の次男である久治郎から平野秀太郎に譲渡され昭和初期まで製作が続けられましたが、それもいつしか中止となり、廃絶に至りました」とある。

.

「土型は、仏師岡田平吉の木彫原型から造形されたと伝わる」ともあるが、青銅などの鋳造にも木型は不可欠だ。素材が違うだけで、人形も梵鐘も基本は似たような製作方法のようだ。新保の鐘は昭和中期のものだ。人形製作が廃れた後も、鋳物師としてのノウハウを保持していたようで、鋳造業を本格化したのであろう。

.

●もう3例、新保の手掛けた梵鐘を見ておこう。まず、後27項では、さいたま市緑区大門の真言宗智山派、慈眼山観音院大興寺の天水桶を見るが、ここにある。西光院の鐘とほぼ同じ意匠だが、「昭和36年(1961)3月吉日 22世照光代」の時世だ。

.

作者銘は、「鋳鐘師 新保家 五代佐治平」で、同じ肩書だ。5代目とあるが、貴重な情報だ。一般的に、1代当たり約25年として逆算すれば、新保家は、およそ1860年ごろが初代で創業と言えようか。アバウトに明治維新前後だが、先の人形作りを創始した新保屋久右衛門が初代であろうか。

.

●川口市南町の珍珠山多門寺吉祥院。本尊を毘沙門天像とし、宥鎮法印が文明2年(1470)に開山している。川口市本町の宝珠山錫杖寺末(前3項)だが、堂宇の建築意匠は酷似している。北足立八十八ケ所霊場68番、武蔵国八十八ケ所霊場68番、武州川口七福神の毘沙門天、武州足立百不動尊霊場38番だ。階段を上がった両端に青銅製のハス型の天水桶が1対あるが、銘は何も刻まれていない。

.

やはりなだらかな和鐘だが、撞座の上に毘沙門天が鋳出されている。ホムペによれば「もとはインドで生まれ、シルクロードを経て中国、朝鮮、日本へと伝わり北方の守護神として篤い信仰を集めました。そのお姿は鎧兜に身を包んで悪鬼を踏みつけます。右手は金剛戟(こんごうげき)という槍のような武器を持ち、左の手には小さな宝塔を置きます。大切なお宝を何があっても必ず守るというお姿です」という。

.

刻銘によれば、かつて第18世秀寛和尚の時世に鋳た文化12年(1815)製の洪鐘(後124項)を、昭和の戦時に金属供出(前3項)したようだ。これは再造された鐘だが、その前は天和年中(1681~)に鋳られた銅鐘であった。現役は「昭和23年(1948)春 殊珍山 吉祥院真洋代(29世)」銘だが、「珍」と「殊」の文字が上下に入れ替わってしまっている。これだけ戦後の早い時期に再鋳される鐘も珍しいが、作者は、「謹鋳 新保佐治平」だ。

.

前4項では川口市辻の長照山常住寺の天水桶を見ている。梵鐘の池の間には、難解な漢文の銘が陽鋳されている。日宣上人の時世に、享保9年(1724)製の鐘があったようだが、ここも昭和の戦時に金属供出(前3項)したようだ。今に掛かる鐘は、昭和34年(1959)4月、27世嗣法日文代に鋳造されている。

.

鐘身は、先例とは違いふっくらとしたデザインだ。作者銘は、「武生市姫川町 鋳鐘師 新保家 五代佐治平」となっていて、詳細な住所も刻まれている。しかし、近々の作例は見かけないので、今現在の活動のほどは判らない。

.

●さてだいぶ逸れたが話を戻して、ここ西光院の1基の天水桶はハスの花をイメージしているが、上部の直径は約1メートルだから、かなり大きめだ。縦長のものが多い中で、これは横長のイメージで、浅いから入る水量は多くはあるまい。多くは、香炉として使用されるタイプのものであろう。

.

オーバーフロー式だが、底に穴が開いていて、右の方に見えるがゴム製の閉止栓が付いている。東京浅草の翠雲堂製(後59項)で、「平成4年(1992)春彼岸」に、檀家によって奉納されている。

.

●終わりは、台東区今戸の曹洞宗亀雲山安昌寺。創建時期は不明で、万治2年(1659)寂の、密厳大和尚が開山している。いかにも近代風の建て屋、と言うか民家のような造りだ。隣が墓地になっているが、かつては立派な社殿があったのだろう。しかし、「顔」としての天水桶の存在をないがしろにはしていない。


.

鋳鉄製天水桶の年代物としての重要性を認識しているのだろう、見栄え良く塗装を施し、目立つ所に並べて安置してある。かつて備えていたろう豪壮な屋根から流れ落ちる雨水を受けていたと想像できる。違和を感じるのは仕方ないが、有り難い対応だ。

.

正面に大きく鋳出されているのは、ここの山号の「亀雲山」で、古代文字の篆書体(てんしょたい)で表現されている。1基には亀裂があるようだが、大きさは口径Φ920、高さは820ミリだ。奉献は「榊原氏 北原氏」、「現住 栄禅叟代」の時世であった。


.

●そしてこの1対が、釜六作であった。桶の裏を覗き込むのだが、建物の壁が邪魔して、どうしても視線が届かず覗き込めない。時間を掛け、浮き出た文字を指先で手探りで判読してみる。確かに「維持 天保六年乙未(1835)二月」と伝わってくる。では作者は?指先では判読不能。手鏡を取り出し、反転させて読む。「江戸深川 御鋳物師 太田近江大椽(だいじょう) 藤原正次(後17項など)」が確認できた。

.

優秀な職人には「椽」という名誉号が与えられたりしたが、階級としては、大掾、掾、少椽の3段階であった。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」は、現代に遺された鋳造物の仔細を知る上で貴重な資料だが、この中にここの桶の存在は、記録されていない。変わり種の天水桶の発掘だ。

.

●後日の事だが、この天水桶の古写真を見た。逆さに置かれているのを撮影した様子であったが、半回転させてみた。形状も鋳出し文字も同じものだが、「台東区橋場 無量山福寿院(後34項)」で不要になって放置されていたという。

.

しかし正面の「亀雲山」の文字からして、これは明らかにここ安昌寺のものだ。経緯は不明ながら、返還され化粧直しされた天水桶に違いない。両寺、天水桶共に感無量であろう。つづく。