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●天水桶をランダムにアップしていくが、まずは、大田区池上周辺の3例からだが、この地域は、長栄山池上本門寺(前22項)を中心とする寺町だ。日蓮宗玄性山妙雲寺の、寛文4年(1664)製の木造妙見菩薩立像は、区の文化財だ。銘文から、紀州藩の祖、徳川頼宜の「現世安穏後世善処」を祈念して造像させている。寺の開創は、元和年間(1615~)という。

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ここの天水桶というか水受けは、花崗岩製(前11項)だ。高さは80cmほどだが、何をイメージしているのだろうか。法具ではなさそうだが、貯水が目的ではなく、落下してくる水の勢いを受け止めるのが役目であるようで、最上部は丸く繰り抜かれている。

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次の画像は、都内渋谷区千駄ヶ谷の路上で見た石垣だ。同じような横線の紋様が見られるが、これは、石材切り出しの際に穿たれたホールソー穴の痕跡だ。この穴にクサビを叩き込み石材を2分する訳で、従って断面は半円の三日月形状だ。妙雲寺の水受けはこの端材の流用であり、堂宇前に置くに相応しいオブジェ的な天水桶へと昇華させた、匠な石工の渾身の作例であろう。


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●日蓮宗の朗栄山本妙院は、大田区の池上本門寺(前22項)2世日朗聖人の直弟子日傳聖人が、庵室として池上の西谷に開創している。旧称は、妙蔵坊であった。堂宇正面から2基は見えないが、ここの天水桶1対は、「昭和38年(1963)10月 本妙院日聡代」の時世に、山形県の鋳物師が鋳造している。

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大きさは口径Φ930、高さは880ミリの青銅製だが、3本の脚は鋳ぐるみであろう。その高さは140ミリ程だが、鋳ぐるみとは、脚を予め別に鋳造しておいて、本体の鋳造時に鋳型に組み込み一体化させる手法だ。裏側には、奉納者として、合計20人の名が陽鋳されているが、近隣の方々であろうか、住所は刻まれていない。


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●作者銘は、「鋳造 山形市 名和光夫 須貝庄三」だが、詳細は判らない。文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」や明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を見ると、山県の酒田には国松姓のみ、鶴岡には国松姓、佐藤姓、伊藤姓の3家、銅町には佐藤姓1家の鋳物師の記載がある。ここの桶の鋳造者に関連しそうな名前は見られず、やはり不明だ。

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山形県の鋳物産地としては、今の酒田市や鶴岡市が知られるが、山形市内には、鋳物町や銅町という地名も存在する。銅町は、出羽山形藩主の戦国武将の最上義光が、城下に鋳物師達を集め形成した町だ。この頃から、足踏み式たたらを導入し、梵鐘や灯籠など大型の鋳物を鋳ていたようだ。


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●銅町の鋳造家の手による作例があるので、ここで見ておこう。まずは梵鐘だが、埼玉県志木市柏町の、薬師如来像を本尊とする真言宗智山派の地王山宝幢寺(ほうしょうじ)だ。市の掲示板によれば、3代将軍徳川家光が鷹狩りの際休息したのが機縁となって、慶安元年(1648)に、朱印地10石を拝している。実際、境内には、「お鷹場の境杭」も現存する。

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本堂の前にある天水桶1対は、鋳造製ではなく、鉄板を形状に曲げて加工した板金製だ。九曜の紋が見えハスの花を模しているが、見事な出来映えだ。一方境内の高欄が廻った鐘楼塔には、口径3尺ほどの梵鐘が備わっている。

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肩から下へ広がることなく、ストレートに伸びる寸胴な感じの銅鐘だが、戦後に、「世界第二次大戦 戦没英霊追福供養」のため奉納されている。作者銘としては、「鋳造師 山形市銅町 鈴木鋼一」と刻まれているが、現在、銅町に本社を構え、鋳物町に工場を持つ、(株)鈴木鋳造所での製造だ。

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●同社のホムペの沿革のページには、「大正8年(1919)7月 山形市銅町1丁目にて鈴木綱一が創業」となっていて、現在は、ご子息であろうか、鈴木誠一郎氏が切り盛りしているようだ。また外注先としては、木型を、埼玉県戸田市の広沢木型製作所に依頼している。得意先としては、東京都台東区の仏具屋の翠雲堂(後59項)の名が挙がっているようだ。

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営業内容が実に多岐にわたっていて、材質は問わずという感じで、ブロンズ、鋳鉄、アルミ建築金物、アルミ大鍋、美術工芸品、モニュメント、寺社仏具装飾品、銅像、表札などとあり、正に万屋(よろずや)さんだ。大仏坐像や、柱に巻く根巻き(後78項)まで手掛けているが、大きさも大小問わずのようで、誠に器用な会社だ。

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●次は、茨城県結城市結城の浄土真宗本願寺派、新居山高田院称名寺にある天水桶だ。寺の創建は建保4年(1216)で、親鸞聖人の高弟であった真仏(真壁城主平春時)が開基している。結城家初代の「結城七郎 従五位左衛門尉 上野介朝光(建長5年・1253年2月24日87才没)」は、親鸞の教えに帰依しここを菩提寺としているが、4代までの御霊屋は市指定の文化財となっている。

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天水桶の正面には三つ巴紋が配されている。モチーフは蓮華のようで、8枚の葉が開いているが、縦の線は葉脈であろう。独特な意匠の鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ1.250、高さは970ミリとなっている。

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裏側には、陽鋳文字で「新居山称名寺 願主 第31世 釋真成」の時世に、「昭和38年(1963)大遠忌記念」として寄進者の名が連なっている。作者の銘は、「鋳匠 山形 渡辺壱郎」だが、現在の、山形県天童市の(有)渡邊梵鐘(前8項)での鋳造であった。

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なお山形鋳物師に関しては、後59項後124項後127項でも登場しているのでご参照いただきたい。実は、先の朗栄山本妙院の天水桶は、「山形市銅町(当時) (有)渡邊梵鐘」での製造であり、上述の銘「鋳造 山形市 名和光夫 須貝庄三」は、同社の鋳物職人であろう事が判明しているのだ。

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●さてここからは、川口鋳物師の山崎甚五兵衛の特集だ。当サイトでは、多くの山崎の作例に出会っているが、さらに未アップ作を見てみよう。まずは、大田区池上での3例目だが、日蓮宗大経山心浄院だ。池上本門寺(前22項)3世日輪聖人が、日蓮聖人の故郷である安房の小湊山誕生寺(後90項)や、3世自身の故郷の平賀を望む当地に庵室を作り、大泉坊と称して元享3年(1323)に創建している。

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殿前を守護するかのような位置に、「昭和49年(1974)5月吉辰」銘の天水桶がある。この年は、旧財閥系企業や大手ゼネコンの社屋が爆破された連続企業爆破事件が発生、元総理の田中角栄の金脈問題に揺れ、コンビニのセブンイレブンの日本第1号店が、江東区豊洲に開店している。

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「当院草創 六百五拾年記念」、「御宝前」として奉納されているが、鋳鉄製の1対で、大きさは口径Φ900、高さは1.040ミリだ。見慣れたデザインでお馴染みの、「川口市 山崎甚五兵衛」銘で、文字は金色に塗られていて読み易い。「大経山五十六世 日雅代」の時世であった。

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●さいたま市緑区大門真言宗智山派、慈眼山観音院大興寺(前9項)。念仏行者といわれた徳本上人は、江戸時代後期の浄土宗の僧だが、講中により建てられた供養塔がある。文政4年(1821)に建立されているが、「五十年 夢のうき世と思うべし ねても覚めても 後世を忘るな」という御詠歌が刻まれている。

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ゴミ除けのフタが苔むしているが、天水桶の鋳造は、「昭和60年(1985)建立」であった。この年には、東北新幹線と上越新幹線の一部が開通、日本電信電話公社と日本専売公社が民営化されて、日本電信電話のNTTと、日本たばこ産業のJTが発足している。

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徳川家康が関東に入国した天正年間には、寺領30石の朱印状を拝領していたので、正面には三つ葉葵の紋がある。銘は「川口市 山崎甚五兵衛」作で、鋳鉄製の1対だが、住職は「酒井照明代」の時世であった。

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●続いては、さいたま市南区南本町の真言宗智山派、修妙山宝性寺。蕨市北町の三学院の末寺で、本尊は不動明王像(前20項)だ。足立坂東三十三ケ所霊場10番、北足立八十八ケ所霊場の41番札所となっている。

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手入れが良いから年月を感じない、新品同様だ、半永久的に永らえよう。センターの寺紋は奇怪だが、ひょうたんをアレンジしたものだろうか、炎に包まれた宝珠を模した焔玉(ほむらだま・後94項)だろうか。よく見ると、上部の額縁にもこの紋が折り込まれているが、紋の中にある文字は、梵字、キリーク(後47項)のようだ。

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1対は鋳鉄製で、鋳出しの銘は、「昭和43年(1968)10月 川口市 山崎甚五兵衛」製だ。この年には、東京都の小笠原諸島が本土復帰、都内府中市では三億円事件が発生、未だ未解決事件となっている。なおこの天水桶は、令和3年(2021)6月時点では、所在不明となっているが、大事に保存されている事を切に願っている。

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●次は、足立区本木西町の本木氷川神社。暴風雨の神、厄除けの神、縁結びの神、安産の守護神であるらしいが、享徳3年(1454)の創建という。この年に起きた享徳の乱は、室町幕府8代将軍・足利義政の時世であったが、将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争っている。断続的に28年間続いたが、関東地方における戦国時代のはじまりを告げる大乱となっている。


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先ほどの天水桶と同時期の作例で、同じ様なデザインだが、大きさは口径Φ900、高さは960ミリとなっている。比べれば塗装の重要性がよく判るが、手入れをすれば見違えるはずだ。センターには三つ巴紋が配されていて、「氷川神社氏子総代」らが奉納している。

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●鋳鉄製の1対の銘は、「昭和46年(1971・後50項)6月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」製で、境内には同日の「大祭記念」の石碑もあるのでその記念での設置であろう。

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この年は、政府に環境庁が設置され、ニクソン・ショックが世界経済に大きな影響を与え、日清食品の安藤百福社長がカップヌードル発売している。カップに入ったこの麺は、輸送や陳列に適し、食するに際してはお湯を注ぐだけの調理器具に早変わりし、食器の役割をも兼ねるという画期的な商品で、世界の食文化に革命をもたらした。

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●戸田市中町の浄土宗常福寺は、龍光山不退院と号し、晃蓮社天誉万栄(永正15年・1518年寂)が開山となり創建している。足立坂東三十三ケ所霊場の22番だ。これは、宝永2年(1705)に足立郡塚越村の高橋源太郎昌教により創設されているが、戸田市をはじめ、さいたま市や川口市に展開する霊場巡りだ。


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寺には、文政5年(1822)から7年にかけて深川の本誓寺沙門了門、礫川巌浄院住持了道によって描かれた「当麻曼荼羅」がある。縦横約2メートルの大きなもので、美術品としても立派なものだ(市教育委員会掲示から抜粋)。曼荼羅といえば、弘法大師空海が作った東寺の立体曼荼羅だ。通常は絵画で表現されるが、大日如来を中心に五智如来、五菩薩、五明王、四天王、それに帝釈天と梵天を加えた21体の仏像で構成されているが、実に壮観だという。

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●1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和46年(1971)5月9日」に、檀徒が菩提供養のために奉納されている。3尺サイズの本体の口径より大きいかのような、安定感のある台座に載っている。

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「川口市 山崎甚五兵衛」銘だが、この時期には多くの作例が見られ、同氏の絶好調全盛期であった。知り得る限りだが、当サイトでは、この年の1年間の作例として9例、17基を見ている。本体の木型も、文字の埋め型(後81項)もそれぞれ違うし、打ち合わせも必要だろうしで、最も多忙を極めた時期であったのは間違いない。

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●川口市内にある天水桶を3例アップしよう。一般には「前川観音」の名で知られている前川の真言宗智山派、補陀洛山清浄院観福寺。祀られているのは千手観世音菩薩像で、平清盛の嫡流のひ孫の平高清の守り本尊だったという。寺には市内最古の寛元4年(1246)の板碑がある。

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因みに、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」には、「文政5年(1822) 永瀬嘉右衛門(前15項後121項)」銘という、ここでのワニ口鋳造の記録が残っている。

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その後このワニ口は、明治43年(1910)に改鋳されたと、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には記録されている。しかし現役のワニ口は、「昭和63年(1988)8月吉日」に「本尊観世音菩薩修復記念」として更新されている。「補陀洛山 第36世 (安達)本政代」の時世であった。

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●天水桶は空色に彩られていて存在感充分だが、「奉納 御宝前 昭和33年(1958)4月吉日」の鋳造だ。この年には、港区芝公園の東京タワーが竣工、国民栄誉賞受賞者の長嶋茂雄が読売巨人軍へ入団、聖徳太子像の1万円紙幣が発行され、日清食品のチキンラーメンが発売開始されたのもこの年だ。

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1対は鋳鉄製だが、手入れが良く半世紀の時間経過を全く感じ無い。大きさは口径Φ920、高さは930ミリだ。「補陀洛山 35世 本識代」の時世で、「須賀家先祖代々菩提」供養での奉納であったが、鋳造者銘は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」と誇らしげに鋳出されている。

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●東京に隣接する川口市東領家、日蓮宗の薬王山感応寺。破風を備えた本殿は、2階に位置する近代的な建築だ。開創は、天正4年(1576)頃のようで、その証左が境内にある石碑の刻みだ。「本堂庫裡新築記念碑」だが、「開闢四百年記念」、「昭和51年(1976)8月吉日 薬王山32世淳朗院日雄」とあるのだ。

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鋳鉄製の天水桶1対は、おなじみのデザインだが、井桁に橘の宗紋は大きく張り出ている。脚は3本だが、石の台座にただ置かれているだけでどうにも不安定そうだ。額縁の真ん中には、古代中国に発する想像上の動物である龍神(前1項)が据えられている。

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銘は、「昭和40年(1965)9月23日 川口市 山崎甚五兵衛作」で、「第32世 石黒日雄代」の時世であった。この年は、日韓基本条約が調印され、日韓併合により消滅していた両国の国交が回復している。かつて日本が朝鮮半島に残したインフラや、資産や権利を放棄し国交が樹立、最終的に日本は約11億ドルの経済援助を行っている。

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●最後は、川口市前川の前川神社。当初、御神体は文蔵村(現浦和)に祀られていたが大洪水で流され、この地に堰き止められた事から、洪水はもとより災難を防ぐ厄除けの神様として、また、近隣の鎮守として由緒ある神社だ。

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建物は、大正14年(1925)の老朽化のための改築以来、境内の祖霊社として使用していたが、昭和52年(1977)の社殿造営の際の調査で、安土桃山時代の建造物と判明、修復して再び本殿としている。

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本殿は、昭和53年(1978)4月に、「川口市指定文化財」に認定されている。鋳鉄製の1対の天水桶はその直後の設置で、銘は「昭和53年10月吉日 川口市 山崎甚五兵衛」とある。指定を受けて、それを記念しての寄進であろう。この年には、千葉県の成田国際空港が開港、明治維新や第二次世界大戦などにより中断していた、第1回隅田川花火大会が開催されている。

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戦後の経済成長期の波に乗って一時代を築いた山崎甚五兵衛であったが、本サイトでは、山崎の作例が、終項までに延べ20項ほどで登場しているが、特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項前24項後41項後50項後56項後57項後84項後102項後106項後114項後128項後132項だ。さて次回だが、実は、都心は古い天水桶の宝庫。そんな天水桶について探索してみよう。つづく。