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●今回は、川口鋳物師、山崎甚五兵衛の作品をアップしてみよう。散策中に一番多く出会う天水桶だが、まずは、足立区梅田一帯の鎮守である梅田稲荷神社。祭神は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)だ。名前の「ウカ」は食物を意味し、穀物の神様であり日本神話に登場する。京都の伏見稲荷大社の主祭神で、稲荷神、お稲荷さんとして広く信仰されている。

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山崎甚五兵衛の作例は、そのデザインから推して、遠くから見てもよく判る。上部の額縁が張り出ていてアゴを形成している。その額縁のぐるりにある紋様は、梅田の地であるから梅の実の意匠であろう。

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●1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和34年(1959)9月吉日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」の鋳造だ。「慶祝 皇太子御成婚記念」での奉納で、平成天皇のご結婚祝いだが、この年に正田美智子と成婚している。美智子は明治時代以降初めての民間出身者だが、日清製粉グループ会長の正田英三郎・正田富美子夫妻の長女だ。

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その後、浩宮徳仁親王(第126代令和天皇)、礼宮文仁親王(秋篠宮当主、皇嗣)、紀宮清子内親王(結婚により皇籍離脱。現黒田清子)の2男1女をもうけている。昭和64年(1989)1月7日、実父である昭和天皇の崩御に伴い皇位継承し、第125代天皇に即位している。

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●埼玉県川口市青木の真言宗智山派、大聖山広傳院龍泉寺。火災などの災害により資料が焼失し、開山は不詳となっている。中興開山は尊栄法印であるが、「武蔵風土記」によれば、慶尊とも伝えている。

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「埼玉宗教名鑑」によれば、正和2年(1313)の青石塔婆が存在するので、それ以前に寺格があったと思われるという。山崎甚五兵衛は、「平成4(1992)年5月吉日」の作例を最後に平成の初期に没しているが(後84項)、ここが山崎家の菩提寺なのであろうか。

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●ここの1対の鋳鉄製桶は、「昭和49年(1974)10月吉日」に鋳造されている。完璧な塗装が施されていて新品同様だが、折しも桜の季節で風流な画像となった。表面に見える寺紋は「梅鉢」だ。写実的な表現の「梅紋」に対し、幾何学模様で梅を表現している。

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施主が「山崎甚五兵衛」だ。施主とは、葬儀においては「葬式や法事を営む当主」であるから、ここが菩提寺なのであろう。「山崎はる」は奥さんだが、「山崎宣弘 山崎きよ」はご長男夫婦だ。なおこの後、経緯は不明ながら、同家は、川口市中青木の遍照山光明院(後113項)に墓地を移したようだ。

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●大田区池上にある長栄堂は、池上本門寺(前22項)の境内にある。日蓮聖人が佐渡配流中に守護神となった長栄大威徳天を祀っているが、扁額にもこの名が見える。ご利益は「除災得幸 虫封じ」だ。

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化政期(1804~)に編まれた武蔵国の地誌、新編武蔵風土記稿には、「長栄稲荷社。相伝ふ、昔この稲荷、日蓮上人に従ひてこの地に移りしよりこのかた、山内を守る故に長栄と号す。寛延元年(1748)、正一位に任ず」とある。ここは稲荷社なのだ。

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●稲荷神社の「抱き稲」が、正面に据えられている。食の象徴として図案化された紋だが、五穀豊穣の神も祀っているようだ。天水桶本体は鋳鉄製だが、この紋章だけは磁石に反応しないから、真鍮(しんちゅう)だろうか、非鉄だ。本体に穴が開けられ、ボルト止めされているのだ。

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裏面には、所狭しと発起人や信徒らの氏名が見える。1対には、「昭和37年(1962)1月22日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されているが、地肌の赤茶色に対し、文字の表面が白色に塗装されているので読みやすくなっている。大きさは、口径Φ930、高さは970ミリだ。

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●続いては、足立区島根の鷲(わし)神社。日本武尊を主祭神としているが、ここではこの神を、「福徳鎮護の神・開運子育鷲大明神」としている。神話を題材とした神楽である「島根神代神楽」は、昭和63年(1988)11月17日に、区の無形民俗文化財に指定されている。

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時節柄、茅の輪(前16項)がある。茅草で作られ手作り感一杯の輪だが、6月までの半年間の罪穢を祓う「夏越し(なごし)の大祓(おおはらえ)」の際に置かれ、これをくぐることにより疫病や罪穢が祓われると言う。

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●ここでは日本武尊の他にも、誉田別命(応神天皇)、国常立命を祀っている。丸く囲っておいたのが千木と呼ばれる部材だが、本来は建物の補強が目的だったと考えられ、後に装飾として発展し、現在では神社の聖性を象徴するものとなっている。

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一般的に、この削ぎ方で男神と女神の差異があり、判別出来るという。地平線に対して水平に削がれている「内削ぎ」が女神で、画像の様に、垂直な「外削ぎ」が男神のようだが、日本武尊は男神だ。


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●天水桶のセンターには菊の御紋が輝いていて、額縁の全周には三つ巴紋が連続している。「鷲神社御造営記念」での奉納であったが、同時に境内の整備もなされたようだ。大きさは口径Φ755、高さは810ミリとなっている。

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1対は鋳鉄製で、「昭和31年(1956)9月吉日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」と鋳出されている。この年には、原子力委員会や日本原子力研究所が設置されている。また日ソ共同宣言に署名しソビエト連邦と国交を回復、社会主義諸国との障害が無くなったため、国際連合に加入している。

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●さいたま市南区南本町の大谷場氷川神社は、掲示板によれば、「創立年代は不詳なるが、大谷場の鎮守の神として古くより崇敬の篤い社である。江戸初期、社殿流失になったと伝えられる。

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現在の本殿は寛文6年(1666)の棟札あり、三間社流見世棚造り屋根は板葺である」という。説明にあった本殿一棟は、市指定の有形文化財となっているが、かつては多くの雉が住み着いていて、氏子の間では「雉子の氷川様」と呼ばれている。

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両基は5m程というスパンの狭い位置に設置された1対だが、「昭和46年(1971)1月25日 川口市 山崎甚五兵衛」銘の鋳鉄製の天水桶だ。本体に比して大き目で安定的な台座が目を引くが、大きさは口径Φ910、総高は1.160ミリだ。親の「金婚式記念」に子供たち一同が奉納しているが、いい思い出となっていよう。永劫に亘ってこの文字が遺るのだ。

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結婚記念日は英国式のイベントであるようで、15年目以後は5年単位で祝うという。1周年が紙婚式、10周年がアルミ婚式、錫婚式、25周年が銀婚式、30周年が真珠婚式、50周年が金婚式、60周年がダイヤモンド婚式、70周年がプラチナ婚式などだ。最初のうちは安価で柔らかめな日常的な物にちなんでいるが、徐々に高価で硬い貴重品へと変わっているのが判る。

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●同じく、さいたま市浦和区岸町の御朱印寺の調神社(つきじんじゃ)は、地元では「つきのみやさま」と 愛称されている。うさぎの彫刻は調神社と、広く流布していた月待信仰の関係を知る上で貴重だというが、近隣には、「二十三夜」という地名もある。「調神社旧本殿」や「扇面三十六歌仙絵」、「神輿鳳凰」は、市の指定有形文化財だ。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にも載っているが、「社は街道より右に立たせたまふ。いま、世に月読の宮二十三夜と称せり」と説明されている。図会には、茶屋が並び、人馬や駕籠、槍を抱えた武家や棒手振りの商人が行きかう賑やかな様子が描かれている。

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天水桶には木製の手桶10個が載っているが、それを守り覆う屋根が無いのが残念だ。誂えればいい雰囲気になるのだが、屋根無しはバランが悪く見え、やはりどこか物足りない。

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●先日、台東区浅草の街中の門前茶屋で、木製の天水桶を見た。時代を遡った感じがとてもよかったが、江戸時代、街中に置かれていた桶の感じに近かろう。やはり、屋根有りの方がバランスが良く断然格好がいい。

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こちらは台東区花川戸だが、店の前を飾るオブジェとしていい雰囲気だ。ここは、昭和21年(1946)創業という焼き鳥屋の元祖、鮒忠だ。その店舗の文字は、橘流江戸文字書家の橘右之吉が手掛けている。木製の桶は、歌舞伎座の舞台の小道具を手掛ける、明治4年(1872)創業の藤浪小道具製だ。

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同じく浅草の街中で見たのはドラム缶(後102項)改造式の1基だ。これには手桶が無いが、大き目な屋根があるから目を引く。ここでは、「火の用心」を喚起する標識になっているようだ。

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●埼玉県の川越市内(後65項後98項など)で見た木製の天水桶も、利用されている訳ではなくオブジェだ。店は、創業が弘化2年(1845)という「武州川越 養門前 宇田川や」で、水飴や粔籹(きょじゅ)を商っている。

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「粔籹」は、「おこし米」で、米や粟などで作ったおこし種を、水飴と砂糖で固めた菓子だ。台東区浅草・常盤堂の雷おこしは、「家を起こす」、「名を起こす」にかけた縁起物として、また「雷よけのおまじない」などの謳い文句で余りにも有名だ。

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●さてここには、数年後に2度目の参詣をしている。すると今度は木製の手桶が全て取り除かれていた。木材は劣化が早いから腐敗してしまったのだろう。大きさは口径Φ1m、高さは1.040ミリと大き目だ。奉納は、「浦和市総鎮守 調神社氏子講名」で、人名ではなく、「大谷場」、「別所」、「辻」など、多くの町名が所狭しと並んでいる。

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リアルな獅子脚(後33項)3本が目を引く鋳鉄製の1対だが、他に例を見ない洒落た天水桶だ。近いうちに再塗装しておくべきだろう。なお、この様な凝った獅子脚は、前14項の川口市宮町・光輝山本覚寺や、後56項のさいたま市浦和区東岸町・長久山円蔵寺でも見ているのでご参照いただきたい。

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●鋳出された銘は、「昭和33年(1958)7月吉日 製作人 川口市 山崎甚五兵衛」製だ。川口鋳物師が手掛けたこの神社での鋳造物の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみよう。

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「安政5年(1858)正月 増田金太郎(後82項など) 水盤(天水桶) 一双(2基)」、「安政6年9月 永瀬長右衛門(後36項後131項) 手水鉢 一(基)」となっている。現存しないこれらは、戦時の金属供出(前3項)で応召されてしまったのだろうか。

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●続いては、港区高輪にある、慶長10年(1605)の創建という曹洞宗、龍渓山源昌寺。門前の桜田通りの拡張で寺域を削られたのであろうか、かなり狭い境内だ。この通りは国道1号で、江戸城の桜田門を起点としているが、江戸時代に、神君家康によって真っ先に整備された西国へ向かう街道だ。

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堂宇前に、1基だけだが天水桶がある。蓮華の開口部がΦ1.2m、高さは1mで、そこそこの存在感がある。「昭和41年(1966)7月吉日 第36世 千秋代新添」で、「川口市 山崎甚五兵衛」の作だ。茶色く厚めに塗装されているが、磁石に反応するからこれは鋳鉄製だ。山崎が手掛けたハス型での、この材質は珍しい。(後132項参照)

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●大田区羽田に、豊受姫命を祭神とする穴守稲荷神社がある。境内の掲示によれば、「文政の頃(1818年)、鈴木新田(現在の空港内)開墾の際、沿岸の堤防しばしば激浪の為に腹部に大穴を生じ、これより海水侵入す。ここに於て村民相計り、堤上に稲荷大神を祭った処、神霊のご加護により風浪の害なく護国豊穣したと云う。」

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「浪風が作った穴の害より田畑を守り給うた稲荷大神として、穴守稲荷大神と尊称する。稲荷大神は衣食住の根元を司どり、一日たりともこの恩顧を蒙らぬ日はなく、実に神徳広大である。諸願の霊験もあらたかなるを以て全国崇敬者の信仰篤く、明治、大正、昭和にわたりて最も隆昌を極める」とある。

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●堂宇前の人目に付く場所に、1対の鋳鉄製天水桶があるが、大きさは3尺足らずだ。稲荷社の象徴的な稲荷紋の中心には、「穴守」と記されているが、これはアレンジされた紋章だ。

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「昭和39年(1964)6月吉日 社殿復興記念」での奉納で、個人の名が陽鋳されている。記録によれば、社殿復興は昭和37年11月から同39年6月にかけて、構造設計を松本曄(ゆう)が担当、工事は小川組によって施行されている。桶の鋳造は、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」銘となっている。

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●ここでは、戦前から多くの講社が結成されていたというが、川口の人々の信仰も篤いようで、「青木穴守稲荷奉賛会」、「安行植木講」、「川口穴守稲荷講」が活動しているようだ。「穴守稲荷神社」の看板が掛かる「行燈門」の2本の柱は、「平成7年1月 青木穴守稲荷奉賛会 川口穴守稲荷講」の奉納だ。最下部の台座には、「辻井一男 伊藤光男(前12項)」氏ら鋳造関係の方の名もある。

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ここのサイトによれば、「講社とは、平安時代の仏典を購読研究する僧衆の集団名に使われたのが最初で、時が経つにつれ従来のさまざまな信仰集団に講の名称をつける風習が一般化されたと思われる。 現在では講社として、同一の信仰を持った人々の集団に用いられている。

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全国的に信仰の篤い当神社では、戦前から200以上もの講社が結成され参拝に訪れていたが、戦後さまざまな理由からしばらくの間途絶えることとなる。昭和30年代(1955~)になって、徐々に講社の復活や結成が始まり現在に至る」とある。画像は、川口市中青木の青木穴守稲荷だが、ここは参道も無い小さな社だ。

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●穴守稲荷神社の赤鳥居は、移転工事の度に作業事故が起き、お稲荷様のたたりだと噂された話は有名だが、かつて、川口鋳物師の小川治郎吉は東京鳥居講の依頼を受け、金銅製の鳥居を鋳造している。小川は、後53項後63項後131項などで見るが、当時は、青銅鋳物の溶解炉を所持する工場である、「吹き元」であった。

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明治38年(1905)9月に締結されたポーツマス条約により講和終戦した、「日露戦役勝利記念」としての奉納だが、明治44年10月のことであった。沼口信一編著の、「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」には、主柱に「東京鳥居講」と記された鳥居の様子が写っている。

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●山崎甚五兵衛は、川崎市川崎区の川崎大師平間寺(前7項後32項)では、巨大な桶を鋳造している。ここは、当地付近に住んでいた平間兼乗が沖合いの海で拾い上げた弘法大師像をもとに、尊賢上人が開基となり大治3年(1128)に創建したと伝わる。「平間」は人名であったのだ。
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永治元年(1141)には、近衛天皇により勅願寺の宣旨を受けていて、江戸時代には、将軍家より寺領6石の朱印状を拝領している。「弘法大師道標」は重要歴史記念物だが、寛文3年(1663)製で、高さが171cmと大型で、力強い書体で「従是弘法大師江之道」と刻まれている。

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●「昭和37年(1962)10月吉日」に設置された1対の鋳鉄製天水桶は、口径Φ1.600、高さ1.700ミリほどで、重さは1基が2トンはあろうか、存在感充分だ。同氏は台東区金龍山浅草寺(前1項など)でも昭和33年10月に巨大な桶を鋳造しているが、そこのはΦ1.400だからそれよりも大きい。あるいは同年11月、千葉県成田市の成田山新勝寺(後52項など)にも直径Φ1.350、高さ1.400ミリの天水桶を納めている。

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ここのは奉納当時は、日本一の大きさだったというが、「4年前の浅草寺のものより大きな天水桶」を意識したのは間違いなさそうだ。戦後の復興も一段落したこの時期、寺社や氏子が競い合うように大きな天水桶を設置したのだろう。威風堂々としていて、ここの風格にマッチしている。

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「製作者 川口市 山崎甚五兵衛」、「奉納 魚がし」銘だが、提灯屋の「魚がし浜のや 小林繁三(前16項)」が書体を担当している。「東京築地 魚市場仲買協同組合」、「魚市場小揚連合会」らの設置で、「天水桶奉納奉賛会」を立ち上げての奉納であった。小揚(こあげ)とは、船積みの荷物を陸揚げすること、あるいはその人足の事を言うが、前17項の中央区築地の波除(なみよけ)神社でも、小揚人足たちが奉納した天水桶を見ている。

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●ここに架かる「 魚がし」の大きな提灯も手掛けているが、「5代目浜のや 謹書」であった。奉納は、「昭和52年(1977)11月吉祥 東京築地 魚がし講」で、「開創850年記念 第44世 隆天代」の時世であった。

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ここの大本堂や不動堂は、昭和39年(1964)に落慶やら再建されているが、桶はそれを記念しての奉納であろう。額縁には、「魚市場」のマークが連続しているが、周囲は、人名や会社名で立錐の余地も無い。この天水桶は、歴史を伝える上でも、永劫に亘って残って欲しい文化財だ。

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●なお、奉納直後の下の写真を見ると、6個の手桶と屋根は存在しておらず、後日誂えられた事が判る。現在見られるそれらの存在は、堂宇の風格を一層高めていると言えよう。ここでの天水桶鋳造の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」から引いてみよう。

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すると、「享和2年(1802)3月 永瀬嘉右衛門(前15項など)」、「天保10年(1839)6月 永瀬源七(前10項など) 同勘左衛門」が、「水盤(天水桶) 一双(2基)」を鋳たという記録が見える。また「文政10年(1827)9月 川口住 半蔵」は、「天水鉢1個」となっているが、全て現存はしていない。

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この人は、文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」の「武蔵 川口宿」の欄には、「永瀬半蔵」と記されている。後の文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」や、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」でも同様なので、世襲した川口鋳物師のようだ。

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戦後の経済成長期の波に乗って一時代を築いた山崎甚五兵衛であったが、本サイトでは、山崎の作例を終項までに134例数えている。特集を組んだ項をここに記しておこう。前1項後27項後41項後50項後56項後57項後84項後102項後106項後114項後128項後132項だ。つづく。