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●前回に引き続いて、千葉県の成田山新勝寺で見た奉納物について考察してみよう。現在、ここには合計15基もの天水桶がある訳で、寺社境内の広さもさることながら、奉納物も様々であり信仰者の多さが知れよう。不動明王(前20項)を本尊とする歴史ある寺だが、真言宗の開祖、弘法大師空海が自らひと彫りごとに三度礼拝するという、一刀三礼の願念をこめて敬刻開眼された尊像だ。

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開山の寛朝(かんちょう)僧正(916~998)以来、11世紀を迎えていて、現貫首は、第21世大僧正、橋本照稔(しょうじん)だ。信徒向けには、「成田山だより 智光」が発行されているが、昭和39年(1964)3月を初刊としていて、今や600巻を超えている。新勝寺の呼称は、「新たに勝つ」を意味しているという。

成田山・寛朝大僧正

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●さて境内には、重要文化財である光明堂がある。説明板によると、「元禄14年(1701)に建立された旧本堂で、寛保2年(1742)と明和5年(1768)の改修を経て、安政年間、新本堂(現釈迦堂)の建立にあたり、本堂の後方に移築、さらに昭和39年(1964)、大本堂建立のとき現在地へ移されました」とある。かつてのメインの御堂であった。

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堂宇前にある天水桶の石製の台座には、それぞれ「魚河岸」、「魚がし」と刻まれているが、「日本橋講中」が奉納した青銅製の1対で、大きさは、口径Φ1.280、高さは1.050ミリだ。

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裏側に鋳出された銘は、「鋳物師 釜屋七右エ門(花押) 文化11年(1814)」であるが、何かおかしい。経年の劣化もなく真新しいし、この時期に青銅製はかなり珍しい。なお、この鋳物師、通称釜七については、前17項などで紹介している。

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●そう思ったら、もう1基の裏側に鋳出された銘板があって、「成田山開基1060年 併びに 開山寛朝大僧正1000年御遠忌 御開帳記念 複製鋳造 平成十年(1998)四月吉日 成田山魚河岸講 内陣十六講 魚がし護摩木講 中興第二十世貫首大僧正 照碩代」とあるではないか。これは、レプリカであった。

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拡大してみた。エッジがシャープな見事な鋳出し文字で、花押も忠実に再現されている。どこで鋳造されたのだろうか。

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●ヒントは、堂宇正面の向かって左側に掲げられた額にあった。中央に「奉献 天水桶壹対 文化十一年複製鋳造」、そしてその下に先の講名が並んでいる。左下には、「日本橋 関徳」、「築地 津多屋」、「高岡 梶原製作所」、「成田 小坂石材店」とある。この中で鋳造に関する業者は、梶原さんだけだ、ここでの仕事に違いなかろう。同社に関しては、前22項後120項をご参照いただきたい。

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●そして、こんな立て札表示がなされていた。「旧来の文化11年(184年前)奉納の天水桶一対は、当堂裏側に移設されております。」

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堂宇の裏側に周ってみると、1対の鋳鉄製の御老体がひっそりと、しかし、しっかりと現役を続けていた。大正3年(1914)刊の、香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」にも、「釜七作 光明堂 鉄天水鉢」として登録されている。

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先ほどの青銅製桶は、これの完全コピーであった。センターの「○に魚」の魚河岸の紋章も同じだ。大きさは口径Φ1.180、高さは1.130ミリで、ほぼスクエアな容姿だが、先のレプリカは横長で、その構成比は1.0:0.8であった。黄金比に近しく見た目の安定感に大いに寄与しているのだ。

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●これの造立は「文化十一甲戌年(1814)」で月日は不明だが、天水桶奉納と言う文化が芽生え始めた初期の頃のもので、古さで言えば、知り得る範囲ではナンバー3だ。ベスト5を記しておくと、最古ナンバー1が、「越谷市相模町・真大山大聖寺 鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門 文化8年(1811)3月(後130項)」だ。

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次いで、「千代田区外神田・小舟町八雲神社 江戸深川 御鋳物師 太田近江大椽 藤原正次 文化8年6月(前13項)」、ベスト4が「大田区池上・勧明山法養寺 江戸深川 治工 太田近江大椽 藤原正次 文化12年3月(前17項)」、次いで「文京区本郷・金刀比羅宮東京分社 武州足立郡川口 鋳物師 永瀬嘉右衛門 文化13年5月(前15項)」となる。

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御老体は、一部が割れて損壊し水漏れが始まっているが、それなりに修復されている。字体も花押も、レプリカとそっくり同じで、「鑄物師 釜屋七右衛門」だ。後継者が出来たとは言え、いつまでも永らえて欲しいものだ。

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●そしてこちらも重文であるが、入母屋造りの仏堂である釈迦堂だ。安政5年(1858)に建立された旧本堂であり、今の大本堂の建立にあたって昭和39年(1964)に移築された。本尊には仏教を開いた釈迦如来が安置されているという。

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正面には1対の青銅製桶があるが、「開基1050年祭記念 再鋳奉納」とある。作者は不明だが、平成元年頃の造立だ。導水パイプには「内陣畳講」とあり、石の台座には、「明治18年(1885)8月吉日」と見えるが、当初のオリジナルであろう。戦時に金属供出(前3項)された、「再鋳奉納」前の先代の天水桶は誰の鋳造だったのだろうか。

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昭和7年(1932)刊、山口登の「永瀬庄吉翁伝」には、「永瀬正吉作(後104項)であった」として掲載されている。2代目、3代目は、先代が存命という事もあって、「庄吉」ではなく、「正吉」名を使用しているが、だとすれば、明治18年当時28才であった3代目の作であろうか。この著には、ご子孫の正邦氏が「詳註」として寄せているから間違いなかろう。

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●さらに社殿の両脇と裏側に1基づつ、計3基の鋳鉄製天水桶がある。大きさは全て、口径Φ1.150、高さは1.050ミリだ。「横浜 土方講中」による奉納で、「輪宝」の紋章が見られるが、これが両脇に1対ある。

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ここの寺紋は「葉牡丹」だが、「輪宝紋」も併用されているようだ。ここは皇室とも縁深く、かつては「葉菊紋」も使用していた。明治政府の菊紋様の使用制限に際しては成田山も例外ではなく、「牡丹」を使用することになったが、葉については菊の葉をそのまま残すという今の紋様になっている。

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「東京深川 鋳物師 釜屋七右エ門(花押) 明治6年(1873)1月吉旦」銘で、釜七による鋳造だ。裏には、「神田新銀町」、「北乗物町」などの人名が鋳出されている。

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●堂宇の真裏では、「願主 下総国香取郡 西大須賀村新川 塚本権右エ門」が1基を奉納している。下総国の領域は、現在の千葉県北部、茨城県南西部、埼玉県の東辺、東京都の隅田川の東岸にあたる。香取郡は、今の千葉県北東部にある郡だ。

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「明治7年(1874)10月吉日」の奉納で、4尺サイズだ。作者の文字は見当たらないが、鋳造時期的に考えて、同じ釜七作なのであろうか。

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しかしこの字体がどうも気になる。これまで見てきた釜七が使用してきたものとは明らかに異風なのだ。他の鋳物師であるかも知れない。個人的には、平べったい字体から推察するに、川口鋳物師の「永瀬宇之七」のような気がする。同人に関しては、前15項後68項などをご参照いただきたい。

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●そしてここ釈迦堂の脇には、天水桶用と思われる台座のみが空しく置かれている。10台あるが、全ての主たちは、戦時に金属供出を余儀なくされたのであろう。資料を基に、かつての主の鋳造者を推定してみよう。上述の「日本鋳工史稿」は、慶応3年(1867)までの記載だ。また、昭和60年(1985)刊の、増田卯吉の「川口の鋳工と作品」には、川口鋳物師のみの鋳造記録が載っている。統合してみよう。

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前52項および本項に登場しないものは、年代順に、「文化6年(1809)5月 永瀬文左衛門(後108項など) 小工市右衛門(前43項など 川口住鋳物師2名)」、「文政12年(1829)3月 仁王門前 太田近江正次(釜屋六右衛門・通称釜六 前17項 深川住鋳物師)」。

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さらに、「安政6年(1859)3月 長谷川宗五郎(東都湯島住鋳物師)」、「文久2年(1862)5月 永瀬源内(前14項など 川口住鋳物師)」、「明治18年(1885)3月吉日 永瀬政吉 永瀬正吉」で丁度10基であった。

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流れで、ここ新勝寺において、川口鋳物師が手掛けた他の鋳造物の履歴を記しておこう。川口史林に寄せた永瀬利雄の「鋳物師永瀬源内とその作品」からも引いてくると、「天保6年(1835)8月7日 永瀬源内 藤原富廣 仁王門前 鉄灯籠」と見える。源内は、後にも先にも灯籠を鋳たのは、ここの例だけだが、残念ながらこれも現存していないようだ。

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●広い境内には「成田山公園」もあり、参詣ついでに和む人も多かろう。園内には書道美術館もあるが、興教大師の850年御遠忌を記念して平成4年(1992)に設置されている。幕末から現代までの書蹟を収蔵する専門美術館だ。

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一角に「照輪和尚之碑」がある。前項の梵鐘のところで登場した、「第13世原口照輪上人」だ。千葉県富津市の川名村に生まれ、廃仏毀釈令(後63項)の折には、新勝寺を廃寺から救っていて、中興の功労者と言われている。碑を建てて顕彰するに相応しい高僧だ。

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●碑は青銅製で、高さは4~5m、幅は2mほどだから、そこそこ大きなモニュメントで何らかの母材に、鋳造した何枚もの銅板を貼り付けているようだ。両奥行き側にはボルト止めの「雲紋」、下縁部には、「波紋と雲紋と下り龍(阿)」、上縁部と正面の両サイドには「雲紋と昇り龍(吽)」が見られ、もはや立派な美術品だ。

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上人の7回忌にその伝記を刻んで建立したものだが、撰文は、友人であった「従六位浅田惟常謹撰」だ。漢方医・浅田宗伯だが、幕府奥医師から維新後には宮内省侍医となっていて、有名な「浅田飴」でも知られる。

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筆跡は、勝海舟、山岡鉄舟と並ぶ幕末三舟の一人、高橋泥舟(でいしゅう)だ。泥舟は、天保6年(1835)2月に生まれ、明治36年(1903)2月に享年69才で没した徳川家の幕臣で、鉄舟の義兄が泥舟という間柄だ。

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槍1つで成り上がった泥舟を、海舟は、「あれは大馬鹿だよ。物凄い修行を積んで伊勢守になった男さ。あんな馬鹿は最近見かけないね」と評している。廃藩置県後は職を辞し東京に隠棲、書画骨董の鑑定などで後半生を送ったという。

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●裏に刻まれた陰刻文字を読んでみると、まず、「埼玉縣北足立郡川口町住 鋳造人 永瀬正吉」とある。先の釈迦堂前にある青銅製天水桶の作者だが、碑は「明治21年(1888)」の奉納だから、32才頃の3代目庄吉製だ。同氏に関しては、後104項で詳細に解析している。

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当時は、川口鋳造界では第一人者であった2代目庄吉が引退した頃であったが、存命であったため、「正吉」を名乗っている。3代目が「庄吉」を名乗るのは、当サイトで見れる天水桶などの表示を見ても、明治32年頃以降だ。

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●次の陰刻文字は、「仝(同) 小川治郎吉」だ。同氏は前24項後63項後131項でも登場するが、3代目庄吉の義弟で、青銅鋳物の吹き元(溶解炉所持工場)であった小川家に入っていた。治郎吉の妻女が庄吉の令姉に当たる人だ。明治19年(1886)10月の浅草廣栄堂発行の「東京鋳物職一覧鑑」には、「唐銅鍋」の鋳造元として、文字の違いはあるが、最下段に「小川次郎吉」として記載されている。

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また、「明治11年(1878)1月」に2代目庄吉が鋳造した、現存しないが、川口神社の鉄鳥居には、「鉄吹元14名」のほかに「唐銅(青銅)吹元」として、4名の名が見られたが、この中に治郎吉も名を連ねていた(前24項も参照)。当時、庄吉の工場は全面的に鋳鉄鋳物の製作に専念していて、青銅用の溶解炉が無かったのだ。つまり、名高い庄吉が受注したが、実際の鋳造は小川家であった訳だ。

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●3人目の陰刻文字は、「仝龍 喜道作」とある。江戸末期から昭和の戦前期に、3代に亘って「喜道」を襲名し活躍した、火鉢や鉄瓶、壺といった美術工芸鋳物を得意とした川口鋳物師だ。この碑の「龍」の意匠は、初代が明治13年に没していることからして、2代目「角次郎(大正9年・1920年没)」の手によるものだ。

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2代目喜道は、通称「キドリュウ」と言われる龍をモチーフにした造形が得意であった。明治初期には、先の永瀬庄吉、横山某と共に、「川口三名人」と称され、後世の多くの鋳物師の模範とされたという。ちなみに初代藤次郎は鶴で「キドツル」、2代目の兄・寅次郎は虎で「キドトラ」、3代目藤太郎は龍と虎にこだわっている。

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昭和16年の川口鋳物組合の名簿を見ると、「川口市飯塚町2丁目 高木鑄工場 高木藤太郎社長」となっている。4代目(昭和12年生まれ)は、3代目が昭和25年(1950)に早世したため技術継承はしていないが、近年の名簿を見ると登録が無いので、廃業したようだ。なお、同家の菩提寺は川口市元郷の永喜山正覚寺だが、後81項で墓参している。その奉納された天水桶には、「喜道」の鋳出し文字が見られる。

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●また、後88項で登場する群馬県太田市の大光院、通称「呑龍(どんりゅう)さん」には、横幅の長さ2mという大きな青銅製の手水盤がある。鋳造者は、「武陽川口住 鋳造人 永瀬正吉 明治13年(1880)」だが、この額縁には向き合った2匹の阿吽の龍が鋳出されている。刻まれた銘はないが、龍を得意とした2代目喜道の意匠によるという。「川口大百科事典」によれば、角や鼻の比率と鱗の造形が、喜道銘の火鉢のものとほぼ一致するらしい。

大光院・手水盤

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この喜道については、「川口市鋳物業関係 指定候補文化財 調査報告書」を参考として記述した。今回の候補対象は、下の画像の鉄製火鉢であったが、「竹べらのウラボリ技術を用いた伝統的焼型技法によって、美術工芸鋳物の技術を追求した名工であり ・・、

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当時の川口鋳物技術の一つの到達点を示しているとともに、後の鋳物師達に模範・目標とされたことから、川口鋳物業の発展にも寄与してきた職人の作品としても貴重である。今後は、指定文化財として保護していくことが望ましい」と結んでいる。

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刻まれている銘は「明治35年(1902)1月 喜道造」で、平成28年4月21日、市の指定有形文化財となっている。画像掲載の許可はいただいているが、川口市立文化財センター分館(後88項後101項など)の郷土資料館に展示されていて、川口市教育委員会所蔵だ。底面に「(高木)喜道造」銘があり、ヘラ加工が見事な逸品で、大正期末期ごろの作例という。なお本館には、上径21.3cm、高さ395ミリの鋳鉄製花器も保管されている。

喜道火鉢

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●逸れるが、郷土資料館には川越市小仙波町の川越大師喜多院(後98項)に掛かる、国指定重要文化財である梵鐘のレプリカが置かれている。こちらも、画像掲載の許可をいただいている。

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口径45、高さ90cmと小型で、肩が張っていて雄々しい鎌倉期特有の重厚さを呈しているが、本来は、川口市桜町の箱崎山錫杖寺地蔵院(後126項)あてに奉納された鐘だ。移動した経緯としては、戦国時代に箱崎山から持ち出され、川越地方の土中に埋没していたのを掘り出し、喜多院に施入されたという。

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鋳造後に、タガネで陰刻された文字ではなく、鋳型にヘラで刻まれ陽鋳造された銘がある。「武蔵国足立郡鳩井郷(鳩ケ谷) 筥崎山(はこ・箱崎山) 依悲母命奉鋳之」で、「慈悲深い母の命により、これを鋳て奉納する」だ。続けて「正安二年(1300)庚子三月十八日 沙弥慶願 大工(鋳造者) 源景恒」となっている。沙弥とは、仏教に帰依、出家し修行中の人のことをいうが、作者の詳細は諸書の史料に見られず全く不明だ。

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●真言宗智山派の地蔵院は、寺伝では聖武天皇代(724~)の創建といい、山号の箱崎山は箱崎権現を勧請したことに由来すると言う。日光御成街道に面し、徳川将軍家のご膳所の川口市本町・宝珠山錫杖寺(前3項)と同じ寺号としている事、家光ゆかりの喜多院の鐘との関連など、鳩ケ谷宿の中心的な存在であった寺社だ。

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なお、ここで川口鋳物師が手掛けた梵鐘の記録を、「川口史林(昭和45年・1970)」に掲載されている鈴木茂の「川口の鋳工と作品」で見てみよう。現存しない「寛文8年(1668)4月 長瀬治兵衛正久」銘であったが、鳩ケ谷八景の1つで「地蔵院の晩鐘」と呼ばれた名だたる銅鐘だったようだ。正久は、活動時期的には、「長瀬治兵衛盛久(後108項)」の後継者だろう。

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●これに関連して、とても気になることがあるので、付記しておこう。後128項では、埼玉県戸田市美女木(びじょぎ)の美女木八幡社所蔵で、下の画像の総高111cm、口径が59cmの鎌倉時代末期ごろの銅鐘(戸田市立郷土博物館管理)を見ている。

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こちらもブログへの画像アップの許可はいただいているが、喜多院鐘より少し大き目ながら、撞座の位置がやや高めなどよく似たデザインで、肩の部分が平らであるのは、朝鮮鐘(後109項)の様相を呈している。

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伝説ながら、「銅鐘は、聖釜(早瀬にあった池)の水中より掘り出され・・」であるが、喜多院鐘の「川越地方の土中に埋没していたのを掘り出し・・」と状況が近しい。これは発見であろうか。埋めて隠しておいたのを掘り出したのではなかろうか。両者は戦利品であり、当時においては貴重な金属資源の奪い合いではなかったか。

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●源姓を名乗った大工・鋳物師の「源景恒」は源氏の一派であったろうか。皇族がその身分を離れ、臣籍降下する時に下賜されるその代表的な例が「源姓」だが、そんな意味合いであろうか。あるいは武士らが名乗ったように、時の為政者からの名誉ある下賜姓であったろうか。または、後127項では、相州相模国の鋳物師として源姓の集団があった事を記しているが、その一派であろうか。

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鐘の上帯には湧き立つ雲のような紋様が描かれているなど、鐘の造りは精巧であるから、卓越した技量を持ち、貴重な銅を扱える立場にあり工場を切り回していたと言える。慈悲深い母云々という願念がこもった鐘でさえ、略奪の対象だったのかも知れない。

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●略奪といえば、後124項では、滋賀県大津市園城寺町の長等山三井寺で荒法師弁慶が登場している。鎌倉期ごろの僧兵であったが、比叡山延暦寺と三井寺の争いに際し、三井寺焼討ちの先鋒として下の画像の梵鐘を奪っている。

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あるいは、「奈良市の興福寺の僧兵が、かねてから対立していた法隆寺に乱入、浴堂の湯釜を奪ったが、法隆寺側も応戦しこれを取り返した騒動があったという」ことも記述した。湯釜が寺の大切な什物であったために、強奪の目標になったのだが、貴重な資源の奪い合いという一面も大いにあったと想像する。

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●さてだいぶ逸れたが、下の画像の「成田山平和大塔」は、昭和59年(1984)に、「弘法大師1150年御遠忌」を記念して建立された仏塔だ。1階は成田山の歴史展示館になっていて、地下には、1600年御遠忌である西暦2434年に開封されるというタイムカプセルが埋蔵されている。

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境内を取り巻く石垣の中に、川口市内の鋳造会社が寄進したものを何点か見つけた。「川口市栄町 永井鋳物工所」、「川口市本町 三ツ星鋳造」、「川口市幸町 芝川製作所」、「川口市 辻井鋳工場 辻井勘蔵(前45項)」、「川口市本町 秋本鋳工場 秋本光造(前2項ほか)」、「川口市金山町 永瀬留十郎(前4項ほか)」、「川口市幸町 笠倉鋳工所(前19項)」、「川口市本町 田原製作所(後109項)」他であった。

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前項で登場した、「山崎甚五兵衛(後114項など)」も寄進しているが、「川口市金山町 合資会社 山埼鋳工所 山崎甚五兵衛」と見える。なおこの他の成田山への奉納物としては、後93項で銅造宝剣を見ているのでご参照いただきたい。早々と暮れの内に参詣してしまったが、幸多い新年であらん事を祈念して帰途についた。つづく。