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●神社や寺院の前には、守護者としての狛犬が必ずにらみを利かせている。中国・唐の時代の獅子が、仏教とともに朝鮮半島を経て伝わったとされているが、想像上の生物だ。向かって右側の無角の開口した「阿形(あぎょう)」の獅子と、左側の有角の口を閉じた「吽形(うんぎょう)」の狛犬とで1対とされる。

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ウィキペディアには、「昭和時代以降に作られた物は左右ともに角が無い物が多く、口の開き方以外に外見上の差異がなくなっている。これらは本来、獅子と呼ぶべきものであるが、今日では両方の像を合わせて狛犬と称することが多い」とある。

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街中で見たこれは、獅子とも狛犬とも言えない風貌だが、両方に角があり、口の開閉以外に違いはなさそうだ。神社によっては狛鼠(ねずみ・後118項)であったり狛兎(うさぎ)であったりなど、現代では自由な発想でデザインされているようで、実に個性派揃いだ。

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●栃木県河内郡上三川町には白鷺神社(後120項)があるが、その名の通り、シラサギで溢れかえっている境内だ。狛犬は存在せず、出迎えてくれるのは、「狛鷺(さぎ)」だ。鷺の名称の由来については諸説あるが、羽が白い事から鮮明という意味を表す「さやけき(清き)」が転じたという説が有力だ。この他、鳴き声が騒がしい事から「さやぎ(騒ぎ)」が転じたなど、複数の理由が考えられるという。

栃木県・白鷺神社

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江戸川区南篠崎町の南篠崎天祖神社の狛犬はどこか目を引く。掲示板を要約すると、ここは、鎮座年度は不詳ながら、天照皇大神を祭神とし、伊勢神宮の東葛西領上鎌田村の御厨として鎮座されている。何てことは無い、狛犬は要所に黄色い塗装をしただけなのだが、お洒落だ、つい近寄って見入ってしまう。塗装一つで見違えるように変身する良い例だ。

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●新宿区西落合の自性院無量寺(後97項)は猫寺として知られているだけに、小判を抱えた「狛猫」が手招きしながら出迎えてくれる。まるで招き猫のようだ。辞書によれば、猫という呼びの語源は、「寝子」であるという。

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猫は1日の大半の14、5時間を寝て過ごすが、ネコ科の動物である肉食動物に共通して見られる傾向だ。草食動物に比べて食物を得る機会に乏しい反面、その食物は高カロリーであり、一度食物を得るとしばらくは食べる必要が無いため、何もしない時間帯は寝る事でカロリーの消費を抑えているらしい。

新宿区西落合・無量寺

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●こちらは、鴻巣市本宮町の鴻神社(こうじんじゃ)。江戸時代に鴻巣宿の鎮守となっていた氷川社、熊野社、雷電社の3社を合祀し、明治40年(1907)、鴻神社と改称している。ここでの「コウノトリ伝説」をウィキペディアから引いておこう。

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『昔、「樹の神」と言われる大樹があり、人々は「樹の神」の難を逃れるためにお供え物をして祭っていた。これを怠ると必ず祟りが起こり人々は恐れ慄いていた。ある時、一羽のコウノトリが飛来して、この木の枝に巣を作り卵を産み育て始めた。すると大蛇が現れて卵を飲み込もうとした。

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これに対しコウノトリは果敢に挑みこれを撃退させた。 それから後は「樹の神」が害を成す事は無くなったという。人々は木の傍に社を建て「鴻巣明神」と呼ぶようになり、土地の名も鴻巣と呼ぶようになったと伝えられている。』

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右側に居るのは、安産祈願の「狛コウノトリ」で、左側でかがんで卵を抱いているのが子授け・子宝祈願のコウノトリだ。そのさらに左側にあるのは石造の卵だが、子授け・安産のご神体の「ご神卵」を模している。お伽話の様に、コウノトリが赤ちゃんを運んできてくれそうな神社だ。

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●さいたま市桜区田島の御嶽神社は、掲示によれば、鎌倉期の永仁3年(1295)の創建と伝わるが、木曽御嶽山王滝開祖普寛行者が、江戸期の天明年間(1781~)に、ここで根本修行したという。

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社殿に合わせ、極彩色を施された狛犬と雷鳥だが、生き生きとしていて生命感一杯だ。雷鳥は、神秘性を帯びた「神の使者」とされて来た歴史があるが、イヌワシなど猛禽類の天敵を避けるため、朝夕のほか雷の鳴るような空模様で活発に活動することが名前の由来と言われている。

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長時間見入ってしまったのがこの光景であったが、静岡県駿東郡小山町須走、東口本宮富士浅間神社の狛犬だ。神社は、世界文化遺産、富士山の構成資産の1つだ。見上げるほどの高さの溶岩の山に獅子の親子がいる。獅子落としの場面であろうが、実にリアルだ。

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●こちらはどうか。神社ではないが、京成立石駅近く、都内葛飾区立石の真宗大谷派、雅亮山證願寺(しょうがんじ)。社殿の左右に構えているのはライオンと恐竜だが、虚を突かれた感じで異様な空気を感じる。

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仏教を身近に感じてもらえるようにという、住職の発案であるという。建物内には、「プラネターリアム銀河座」という本格的なプラネタリウム装置があるが、仏教の話を面白く説明するために導入している。一風変わったユニークな住職だ。

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●足立区扇の真言宗豊山派、阿修羅山観音院瑞応寺は、武蔵千葉氏の菩提寺として、明応7年(1498)に創建したといい、荒川辺八十八ケ所霊場29番、荒綾八十八ケ所霊場74番札所となっている。ここの門番は、立派な口髭を生やし金剛杵を持った、阿吽形の金剛力士仁王像(前4項)だ。魔除けの意味も込めて真っ赤に彩られているが、迫力満点だ。

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ここの寺紋は、千葉市が用いた「月星の紋」だ。その堂宇前では、やはり真っ赤な、陶器製らしきゴジラが訪問者に睨みを利かせている。体高は630ミリほどだからそこそこの大きさだ。ゴジラは、映画配給会社の東宝が、昭和29年(1954)に公開した特撮怪獣映画「ゴジラ」に始まる一連のシリーズの主人公だが、今や世界的なキャラクターに成長している。

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●さて天水桶を見ていくが、前回の続きで群馬県から。太田市金山町の大光院新田寺は寺領300石の御朱印寺だが、「呑龍(どんりゅう)さん」として親しまれている。都内港区芝公園の徳川家菩提寺の三縁山増上寺(前52項)の初代住職であった呑龍上人が、親のない子を弟子として引き取って育てたという高徳により、安産や子育てにご利益があるという。
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ウィキペディアによれば、慶長18年(1613)、徳川家康が先祖とする新田義重を祀るために、呑龍を招聘して創建したという。従って、義重山が山号だ。中島飛行機で開発された百式重爆撃機の愛称、「呑龍」はここの通称から名付けられている。

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●開山堂前の香炉は、「昭和48年(1973)11月5日 大光院68世 大誉霊海代」の時世に設置されている。蓋の取っ手は気品に溢れているが、擬宝珠形状の宝珠のつまみの廻りに、透かし彫りの水煙(すいえん)の飾りが立ち揚がっている。水煙は、五重塔や堂宇などの屋根上に立つ、九輪の最上部にある火焔状の飾りだ。

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画像は他所のものだが、寺院の堂宇の最頂部によく見られる宝珠(前33項)であり、水煙が見られるが、これは火炎をイメージするデザインで、火事災難を避けるという意味があるという。

高円寺・宗延寺

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●寄進は「東武鉄道株式会社 社長 根津嘉一郎」だ。この時の嘉一郎は2代目で、東武鉄道の社長、会長職を長く務めている。初代の嘉一郎が根津財閥の創設者であって、衆議院議員、貴族院議員も歴任している。

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香炉の鋳造者は、鋳金工芸家で東京小石川生まれの「鋳匠 香取正彦」だ。明治32年(1899)生まれで、昭和63年(1988)に没しているが、梵鐘の分野で、昭和52年(1977)4月25日に重要無形文化財保持者、つまり、人間国宝に指定されている。

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●当サイトでは、大正3年(1914)に編まれた「日本鋳工史稿」を参考書にしているが、著者は父親の香取秀眞(ほつま・後116項)だ。史料には「江戸鋳工年表」があるが、元和元年(1615)から慶応3年(1867)までの多くの鋳物師の作例と所在地が網羅されている。

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その内容は、銅鐘や天水桶、銅灯籠、ワニ口や手水盤に至るまで多彩で、著名な鋳物師に関しては、その来歴も解析している。情報網が疎い時代に編集されたとは思えない史料であり、先達の労苦を偲ばずにはいられない。画像の左が秀眞、右が正彦で、芸術院賞受賞時の様子だ。

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●大津市坂本本町の比叡山延暦寺(後124項)や千葉県成田市の成田山新勝寺、大田区池上の長栄山池上本門寺(前52項)、広島県の平和の鐘(前8項)などを手掛けた香取正彦であったが、ここ大光院新田寺の梵鐘も、まさにその正彦作であった。

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昭和33年(1958)10月に完成しているが、重量850貫(約3.2トン)、口径4尺3寸(約Φ1.300)で、「慈愛の鐘」と呼ばれている。なお、香取の作例は、後116項など多項でも登場しているのでご覧いただきたい。

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●手水舎に目を向けてみよう。彫刻も見事で、荘厳重厚な建屋だ。その下には、横2.260、奥行き1.200、高さ600ミリという大きな青銅製の手水盤が据えられている。関東近郊では、現存する特に江戸期の金属製の盤は珍しく、数えるほどしか現存しない。この他については、前7項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。


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センターには徳川家の葵紋、その両サイドには引両紋が見られる。ここ新田寺は、新田義重、源義重を追善するために創建されているが、同族が使用したのがこの「大中黒(おおなかぐろ)新田一つ引両紋」であった。鋳造者銘は、「紀元二千五百四十年七月吉辰 武陽川口住 請負人 嶋崎平五郎」、「同鋳造人 永瀬正吉」だ。

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●「紀元2540年」といえば、明治13年(1880)のことになる。「武陽」とは江戸表(おもて)の意味で、鋳造物に刻まれる銘には、しばしば「江府 江都 武江 武都 東都」などの表示が見られるが、全て同等の意味だ。

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鋳造人の「永瀬正吉」は、2代目永瀬庄吉(後104項)であるが、川口鋳物業界の重鎮であった。3代目も同名を襲名していて、業界中興の先駆者であったが、当サイトでは、同家作の天水桶も何例かアップしている。

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額縁の相対する2匹の阿吽の龍は、刻まれた作者銘はないが、龍を得意とした川口鋳物師、2代目高木喜道(前53項)の意匠によるという。「川口大百科事典」によれば、角や鼻の比率と鱗の造形が、現存する喜道銘の火鉢のものとほぼ一致するらしい。

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●銘の「請負人 嶋崎平五郎」は、幕末ごろから隆盛を誇った、川口町の鋳物問屋の鍋屋平五郎商店、通称「鍋平」の主だ。川口初のカタログ販売を積極的に全国展開し、鉄瓶や火鉢、鍋釜を商う問屋であった。

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大正3年(1914)の冊子のカタログを見ると、鋳物製ストーブ、鉄柵、滑車、下水蓋、鉄灯籠、井戸ポンプ、半鐘や天水桶などあらゆる鋳造物が写真入りで掲載されている。恐らくは、ほとんどが川口市内で製造されたものだろう。(画像は、三田村佳子「川口鋳物の技術と伝承」より)

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●川口市立文化財センター分館(前53項後101項など)の郷土資料館には、カタログの右下に掲載されているのと同じでは無いが、近しいデザインの半鐘が存在する。川口市指定文化財で、川口市教育委員会所蔵だが、ここへの画像掲載の許可はいただいている。

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乳の数は64個で、吊金の竜頭は2頭が背を向け合っていて、その中心にあるのは焔玉(ほむらだま・後94項)を模した宝珠であろう。大きさは、口径Φ330、高さは580ミリだ。

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●「大正四年(1915)参月新鋳 鳩ケ谷町上區」の陰刻があるが、現在の鳩ケ谷本町1丁目だ。消防報知用に使用されていたらしいが、カタログを見て注文したのであろうか。「山に嶋」のマークの社章が線刻されているが、鍋屋平五郎商店の嶋崎平五郎の社章だ。

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前37項でも見たが、恐らくは川口の地で鋳造された無銘の既製品の吊鐘であって、刻む銘は、販売時に客の要望を聞き、タガネで彫って即納したのだろう。マークは、鍋平での鋳造という意味では無いが、間違いなく鍋平が取り扱った事が判る打刻として貴重だ。

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●下のポスターには、よく見ると「明治28年(1895)略歴」とあり、大小暦を兼ねている。と言うか、暦にかこつけての宣伝というアイデアだったようだ。暦の周りは、台所用品、風呂釜、農器具など多くのイラストで埋め尽くされているが、日用必需品を扱った事が同社の大きな成長理由であろう。なお、同26年度のポスターは簡略で、周囲にイラストは無い。

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「鐵瓶火鉢鍋釜問屋 埼玉縣北足立郡川口町 (山に嶋の社章) 鍋屋平五郎」とみえるが、電話が普及する前だ、まだ連絡先としての番号記載は無い。販売のやり取りは、書簡であったのだろう。このポスターなどは、全国各地に配布されたようで、子孫の方が、遠く北陸の地に残されていたものを、かつて買い取ったという。

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あるいは明治19年(1886)10月18日付の浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」にも名前が見える。見難いが、右端のタイトルの真下だ。「川口名産 武州万(よろず)鋳物 大勉強売捌(うりさばき)所 川口(山に嶋の社章) 嶋崎平五郎」だが、この当時は既に、名の知れた巨大規模の問屋だったのだ。

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●初代平五郎は、武州北足立郡土合村(現浦和地区)の人で、文化5年(1808)の生まれだ。農業を生業としていたが、頻繁な荒川の洪水に苦しみ、川口の地へ移住、地場産業の鋳物やの手伝いへと転身している。

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商才に長けていたのであろう、その内、鍋釜を担いで商うようになり花開いたという。江戸までの4里(16Km)という距離は、普通は1往復しての商売だろうが、彼は2往復したという。努力家であったが、反面、それだけ多くの需要があったのだ。

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●天保期の1840年ごろの、老中首座水野忠邦による天保の改革では、物価高騰の沈静化を図るため、「江戸十組問屋」の解散が決行され、販売権の独占が取り払われている。地元の問屋による販売が可能になった訳だが、時代の波に乗り着実に隆興したと言える。

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画像は、昭和16年(1941)ごろに、鍋平が完成させた池泉回遊式日本庭園の入り口だが、現在は川口市の「母子・父子福祉センター」として利用されている。母父子家庭への各種相談、生活指導、技能の習得などを行っている施設だ。その富裕度が偲ばれるが、平成13年(2001)10月には、「再現することが容易でない建造物」として有形文化財(第11-0029~0031号)に登録されている。
鍋平・母子センター

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●さて、先ほど稀有な青銅製の手水盤が登場したので、神奈川県小田原市飯泉の飯泉山勝福寺で見た例もここで見ておこう。ここは、本尊は十一面観音、坂東三十三観音の第5番札所で、飯泉観音(いいずみかんのん)として親しまれる、奈良時代の創建という古刹だ。

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青銅製の手水盤は、昭和39年(1964)に市の指定重要文化財となっている。全長2.7m、幅55cm、高さは82cmで、3本脚に支えられ、舟の形を模している。薄めの肉厚で、重量物というイメージではないが、比類無い独特な意匠で、一見の価値がある逸品だ。

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●形状は、天子様や貴人が乗る船とも言われる竜頭舟であろうが、竜は精緻な出来で、開口し今にも火を吹かんとしている。両側面には波模様が描かれていて躍動感もある。船尾におわすのは、当然、ここの本尊の観音様であろうが、頭に多面を配し、蓮華を持ち印を結んでいる。

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船尾に「于時(前28項) 宝永元年(1704)7月吉祥日」とあり、300歳超えの水盤だが、水漏れも無く現役を続けている。陰刻されている製作者銘は、「江戸神田住 御鋳物師 小沼播磨守 藤原正永作」だ。

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上述の日本鋳工史稿では、「神田鍋町住」となっていて、「下谷法輪山泰宗寺鐘」など7件の梵鐘製作の履歴が記載されている。貞享5年(1688)から正徳5年(1715)の期間で、ここの水盤は記されていないが、活動時期は合致するようだ。

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●続けて小沼の作を3例見るが、ここに現存するのは先の日本鋳工史稿に記載の無い梵鐘だ。埼玉県日高市新堀の高麗山聖天院で、高麗王若光の菩提寺だ。後127項でも記述しているが、ここには「文応二年歳次辛酉(1261)三月日 大工 物部季重 奉鋳鐘長 二尺七寸」という国指定文化財の梵鐘がある。総高81.2cmで、口径は45cmだ。

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画像は、総高101.5cm、口径は77.5cmの銅鐘で、今は、平成30年(2018)9月吉日に落成した新しい鐘楼塔に掛かっている。刻まれている銘は、「元禄4年(1691) 鋳工 小沼播磨守 藤原正永」で、こちらは市指定の文化財だ。

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●新宿区須賀町の西應寺は慶長12年(1607)に創建しているが、真宗大谷派寺院で松雲山と号している。この山号は、徳川家康が当寺に来た際、庭前の松に暮雲がたなびいている様を見て命名されたという。区登録の有形文化財の梵鐘は、堂宇の回廊に置かれている。

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第4世住職の恵白の発願で、「正徳2年(1712)6月4日」に鋳造されているが、鐘身には、670人もの寄進者名がある。所狭しと陰刻されているが、最下部の駒の爪(前8項)にまで刻まれている例は稀だ。

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掲示板には、高さは130.5cm、口径は70.3cmと説明されている。銘は、「武州江戸神田住 御鋳物師 小沼播磨守 藤原長政作」だ。前例の正永とこの長政は、同時期に同じ神田に住み活動していたようだが、親子兄弟など近しい間柄であったろうか。

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●もう1つ小沼の作例だが、それは台東区浅草の金龍山浅草寺(前1項前85項など)の境内にある「銅造観音菩薩坐像」だ。区の説明によれば、「坐像は銅製、鋳造、鍍金で、総高が169.5cm、像高は99.5cmあります。

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本像は享保5年(1720)に尾張国知多郡北方村(愛知県美浜町)出身の廻国聖、孝山義道が、浅草寺に天下泰平、国土安全を祈念して『法華経』の奉納を期して造立したもので、神田の鋳物師、小沼播磨守 藤原長政が制作しました。

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●この銅造阿弥陀三尊像は、理性院宗海が三界万霊、六親眷属、七世父、親類兄弟、有縁無縁の逆修と追善のために千日参供養仏の造立を発願したもので、元禄6年(1693)に阿弥陀坐像を、同15年に両脇侍像を造立しました(阿弥陀像は平成23年度台東区有形文化財として登載。両脇侍像はいずれも失われています)。

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本坐像を制作した小沼播磨守 藤原長政は、江戸時代前期に活躍した鋳物師です。長政の作例は少なく、本像は長政の作例として新たに確認されました。江戸時代の鋳物師を考える上で基準となる作例のひとつであり、江戸鋳物師の作風を伝えるものとして貴重な遺品です」という。

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なお小沼の作例は、前60項で、「群馬県安中市松井田町・貞松山崇徳寺 元禄五壬申暦(1692)孟夏望月 武刕(武州)江戸神田住 冶工 小沼播磨守 藤原正永」銘の銅鐘、前75項で「川崎市川崎区中島・光明山遍照寺 正徳元辛卯(1711)天十二月 江戸神田住 冶工 小沼播磨守作」銘の半鐘も見ているのでご覧いただきたい。

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●さてだいぶ逸れたが、ここ大光院新田寺の本尊は、安阿弥快慶作の阿弥陀仏、東上州三十三観音特別札所で、群馬七福神の弁財天が祀られている。1対の天水桶は本堂前にあるが、その前に、画像の右側に写り込んでいる鉄灯籠を見てみよう。

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頂上に宝珠を冠し、スッキリした主柱の竿が反花(前51項)の台座に載っている。形状的には、いわゆる柚木型灯籠(前87項後107項)と呼ばれるタイプだろうが、全てが鋳鉄製だ。野ざらし状態で摩耗が激しく、せっかく陽鋳造されている文字の、現物での判読は困難だ。なお現存する鉄灯籠は稀有だが、前33項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●幸いにも、昭和時代後期の撮影と思われるカラー写真があり、看過できない文字銘が読める。製作年は不明ながら、「献主 當(当)路 桐生某」の献納だ。鋳造者は「大日本鋳工棟梁 名越彌(弥)五郎昌晴 作之」と浮き出ている。「弥五郎」は幼名だが、同氏の詳細については、前34項をご覧いただきたい。

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その項の墨田区東駒形の是應山実相寺の香炉盤、あるいは手水盤では、「大日本釜師長(おさ)」と、やはり厳めしい肩書きを名乗っている。昌晴は名越家の10代目で、明治44年(1911)12月に享年83才で没している。この鉄灯籠は、明治時代の造立であろう。

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●さて、天水桶の正面には「奉納 御宝前」と鋳出されていて、上部の縁には卍を斜めにあしらったような羅紗紋様が見える。願主は、「上州高崎寄合町」の人達で、口径1m、高さは77cmほどの鋳鉄製だ。

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鋳造者は、「佐野天明 御鋳物師 大川善兵衛 藤原重光 元治元甲子年(1864)五月吉日」であった。大川は、現栃木県佐野市の鋳物師であったが、日光輪王寺の梵鐘なども鋳ている。なお、鋳物師大川は、後108項でも登場し、「天明」の意味についても解析しているが、そこで川口鋳物師の永瀬家との深いつながりを知る事になる。

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●明治初期に編纂された「由緒鋳物師人名録」を見てみると、「下野の国」の欄に「大川善兵衛」の名前が出てくる。また、川口市の増田忠彦氏所蔵の「諸国鋳物師控帳」にも登場するが、これは鋳造時期にかなり近い文久元年(1861)の文書だ。

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文書には、「安政4年(1857)6月 大川多郎兵衛 分家に付き許容す」とあり、鋳物師たちの総元締めの京都真継家(前40項)傘下であったことが判る。勅許鋳物師、御用鋳物師として営業特権を保証されていた訳で、藤原姓を拝命していたのだ。

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●本家筋であろうか、この「大川多郎兵衛」が鋳た銅鐘が現存しているので見ておこう。群馬県邑楽郡板倉町の真言宗豊山派、光明山安勝寺だ。ここは、正長元年(1428)創建の光明山安楽寺と承応年間(1652)創建の正應山最勝寺が、昭和27年(1952)に、1文字づつを取って寺号とし、合併して今に至っている。

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梵鐘は、最下部の口径がΦ760ミリ、高さは1m程で、典型的な寸胴型の和鐘だ。鋳造年月日は「宝暦申戌四歳(1754)三月吉祥日 大願主 當(当)寺中興 法印尊義」で、「上野國邑楽郡館林領籾谷郷 光明山清浄院安楽寺 現住 祐範造立之」、「世話人 尊栄 祐獄 義俊 勘左衛門」という陰刻銘となっている。

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●駒の爪の部分には、密教で用いるとされる三鈷杵(さんこしょ・前68項)などの法具が描かれ、鐘身には「諸行無常 是生滅法 生滅々己 寂滅為楽」などの「光明真言 一百八遍」が刻まれている。この文言は、密教の呪文である真言のひとつで、これを唱える事によって一切の罪や悪事を取り除き、また死者を成仏させるとする。

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縦帯や池の間は梵字、キリーク文字(前47項)の刻みで立錐の余地もない。これらの存在が、戦時の金属供出(前3項)を逃れた理由で、古美術保存法により、昭和20年(1945)8月8日、国指定重要美術品に指定されている。

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●撞座にも梵字1文字が配され、その真上の縦帯に鋳造者2人の名前が記されている。「冶工 佐野新町住 大河太郎兵衛 藤原宗封」と「同所中町住 崎山五左衛門 藤原満國」だ。崎山は諸書に見られない不詳な鋳物師だが、藤原姓(前13項)を下賜された御用鋳物師のようだ。

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「大河太郎兵衛」は、先の「大川多郎兵衛」とは表記が違うが、同一人物であろう。両者は気の知れた同業者であったろうか、刻された文字が現代に伝え遺している意味合いは貴重であった。つづく。