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●寺社を巡っていると、画像の様な石碑を見かける事がある。何かの標語の様だが、「不許葷酒(くんしゅ)入山門」と刻まれている。あるいは、「禁葷酒入門内」というものも見かける。辞書によれば、「葷」とは、辛味や臭味のあるネギやニラ、ニンニクなどの野菜で、生臭い鳥獣魚肉を含むという意味もあるようだ。

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仏教伝来当時、これらを食べることによって生ずる色欲や怒りの心を避けるため、「葷」を口にする事が禁じられている。「酒」は他を乱し自分の心を見失わせるので、病気などのほかは修行者がこれを飲む事は禁止されている。妻帯、女犯と同じくタブーとされた訳だが、石碑はこれらを戒めるための標語を記した結界石であった。

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●しかしこれは、日本においてはあくまでも建前だ。歴史的に見てもこれは厳格に守られて来ていない。最も、狩猟や漁業という殺生無しでは、食に困るという背景もあったろうし、妻帯なしでは、後嗣継続もままならなかったであろう。

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鎌倉時代には、子供を設けた天台宗の僧侶の記録があるし、室町時代の本願寺中興の祖、蓮如は、5人の妻を娶り男子13人女子14人を授かっている。戦国時代には、比叡山延暦寺(後124項)に女性が出入りし、肉食が普通に行われていたようだ。一方、阿弥陀如来の救いを願い、「現世で苦労する必要はない」と説く浄土真宗では、妻帯肉食は、公然と認められてきている。

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●では今回は、散策中に出会った製作者不明の金属製の天水桶を見てみよう。バラエティーに富んだ、個性豊かな桶たちを見るのも実に楽しい。まずは、江戸川区上一色の日蓮宗、大黒山常福寺。掲示板によれば、「もとは中山法華経寺(前55項)の末でした。 創建は寛永3年(1626)、覚樹院日了大徳が大黒天画像を安置し、民衆の福祉増進のため伝導強化に努めたのが始まり」という。本尊には大曼荼羅、一塔両尊四士を祀っている。

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ここにある1対は6角形という変わった形の天水桶で、対面の幅は800ミリ、高さは1mだ。上部の額縁と台座はコンクリート製、本体は鋳鉄製となっている。鋳出し文字は一切確認できないが、本来、受水桶を意図して鋳造されたものなのだろうか、気になる天水桶だ。

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●次は、港区高輪の曹洞宗、医王山廣岳院。「芝區誌」によれば、「文禄3年(1594)、西久保にあつた薬師堂を寺となし、宗英寺と号したのが本寺の前身である。其後開基佐久間某の法号を取って廣岳院と称してゐる。

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現在地に転じたのは承應2年(1653)で、本尊十一面観音は上杉謙信の守仏と称せられた」という。「佐久間某」とあるのは、信濃国飯山藩主となった佐久間氏で、寺号は、初代藩主安政の嫡男・勝宗の法名の廣岳院殿より名付けられたようだ。

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堂宇の右端に鋳鉄製の大きな壺があり降雨を受けているが、大きさは、口径Φ800ミリ、高さは70cmだ。両側に取っ手が付いているが、大人2人でも果たして持ち運べるだろうか、かなりの重量物だと思われる。最下部に排水用のドレンコックがあるが、最初から天水桶として鋳造された物なのであろうか。

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●練馬区旭町にある日蓮宗の法光山本覚寺は、区の説明によれば、「創建の時代は詳かではありませんが、開山の寺の記録で日栄上人(寛永19年・1642寂)、新編武蔵風土記稿では、日円上人(元和3年・1617寂)と伝えます。開基は法光院常蓮、俗名小島兵庫(慶長元年・1596没)とありますから、江戸初期の創建にちがいありません」となっている。

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「昭和63年(1983) 御会式之砌(みぎり)」に、「本堂建立」に際して「寄付者一同」が、青銅製の天水桶1対を奉納している。「第25世 是好院日操代」の時世であったが、大きさは口径Φ910、高さは970ミリとなっている。良く見かける量産品だが、この存在が寺格を上げている。

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●京成中山の日蓮宗、正中山淨光院は、千葉県市川市中山にあるが、法華経寺塔頭(たっちゅう)の中でも筆頭の有力寺院だ。日蓮聖人滅後の1300年頃、日胤が開創しているが、塔頭とは何であろうか。

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ウィキペディアによると、「本来、禅寺で、祖師や大寺・名刹の高僧の死後、その弟子が師の徳を慕って、塔(祖師や高僧の墓塔)の頭(ほとり)、または、その敷地内に建てた小院である。塔の中で首座にあるところからこう呼ぶ説もある」という。

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天水桶は青銅製で、「平成8年(1996)9月16日 47世 日正代」の設置だ。寺紋は、ここが下総の国だけに、千葉氏が常用した「月星紋」のように見えるが、本来、「月」の位置は左側だから、これはアレンジされている。タイミング良く雨傘を開く人が写り込んでいるが、ステンレス製の大きなゴミ除けの網傘がやけに目立つ。一つ目小僧のようで、実に愛らしい1対ではないか。

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●関越道練馬IC近くの練馬区谷原にある浄土真宗本願寺派、宝華山敬覚寺。寛永18年(1641)に、吉川内蔵之助玄武が江戸青山に創建しているが、ホムペによると、教義は「南無阿弥陀仏のみ教えを信じ、必ず仏にならせていただく身のしあわせを喜び、つねに報恩のおもいから、世のため人のために生きる」とある。

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青銅製の天水桶1対は、「即如御門主 御巡教記念」で、檀家と「第18世 釋義宏」の奉納だ。正面の紋は、「違い鷹の羽」だが、星型の外枠が囲うデザインとなっている。忠臣蔵の浅野内匠頭も使用していたが、鷹狩りに象徴されるように武家と鷹は密接な関係にあった。

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作者不明の青銅製だが、「平成4年(1992)6月26日」の設置だ。この1対は、ドレンコックの装備、デザインや梨地調の表面の仕上がり具合からすると、富山県高岡市の老舗仏具メーカー、老子製作所さん(前8項)の鋳造であろうという雰囲気なのだが、作者名は鋳出されていない。

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●神奈川県座間市座間の浄土宗、来光山峯月院宗仲寺。最寄りは、小田急線相武台下駅だ。当地の領主、戦国武将の内藤清成が、慶長8年(1603)に創建しているが、実父竹田宗仲の菩提寺であり、清成自身の墓もこの寺にある。

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内藤家は岡崎譜代の家系であったが、清成の拝領した広大な屋敷地については「駿馬伝説」がある。鷹狩の際に、徳川家康から「馬で乗り回した土地を全て与える」と言われ、白馬で一気に駆け巡り広大な土地を拝領した。白馬は家康の元へ駆け戻った直後に息絶えたという。

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●徳川家康が鷹狩りの際、ここに立ち寄っているが、寺宝として残る、下賜された茶器一式、家康公木彫像、肖像画等が伝えられているという。境内には大イチョウの木があるが、そのそばの立て札にはこう書かれていた。「この銀杏の木は 国立国会図書館の古文書により 徳川家康公のお手植えと判明いたしました。宗仲寺」

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ここの青銅製の天水桶は、もはや芸術品、オブジェだ。まさに生きているハスの花ではないか。寄り添うツボミも愛らしい。銘は「平成7年(1995)3月吉日 (有)竹澤商事謹製」だ。この会社は、都内荒川区東尾久に所在し、仏像や仏壇の製作修理も行う、仏具を取り扱う会社のようだ。

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●JR根岸線石川町駅に近い、横浜市中区元町の元町厳島神社は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、多紀理姫命(たぎりひめのみこと)、多岐都姫命(たぎつひめのみこと)の弁天三神らを御祭神としている。元町の発展隆興の守護神であり、商売繁盛、合格祈願、縁結びの神様として親しまれているようだ。

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この青銅製の天水桶1対には、本体の鋳造品に細工がなされている。後に「奉献」の文字板が取り付けられ、補強のためであろうか、上下には銅製の輪が巻き付けられている。フタはステンレス製の板金構造で、やはり後付けされた神紋の「三つ鱗(うろこ)紋(前57項)」は、波が打ち寄せる意匠にアレンジされているようだ。大きさは口径Φ800、高さは730ミリとなっている。

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「昭和43年(1968)製作 (有)荒井板金製作所」さんが提供しているが、このネームプレートは、鋳造品だ。この会社は、横浜市中区元町に位置していて、創業明治4年(1872)という老舗の金物屋だ。キッチンツールやテーブルウェアを中心に、銅製品、陶器、南部鉄器を取り扱っているが、オーダーメードの流し台やレンジフードなどの製作も受け付けている。

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●次は、神奈川県小田原市久野の曹洞禅宗妙輝山星山寺。これは「しょうさんじ」と読むようだ。おだわらデジタルミュージアムというサイトによれば、「創建は元亀元年(1570)で、開山は曹洞宗総世寺九世伝華和尚、本尊は聖観音菩薩像です。達磨大師像と大権修利菩薩像を安置しています。境内に文化12年(1815)の観音菩薩像が立っています」という。

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堂宇前には、鋳鉄鋳物製の天水桶1対が備わっている。大きさは口径Φ1.050、高さは940ミリで、鋳造者は不明だが、「昭和55年(1980)10月吉祥日 10世 機外鐵禅代 本堂新築記念」での施主の奉納となっている。「三つ巴紋」は各所でよく見かけるが、正面の紋章は左流れの「二つ巴紋」だ。時計回りに流れているように見えるが、これを左流れと呼ぶようだ。

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巴紋は、日本に限らず世界各地で見られるが、巴は、日本においては渦巻きを意味している。龍神信仰(前1項など)から防火祈念の水呼び役とみなされていて、屋根瓦や天水桶には頻繁に使用されている。因みに、「一つ巴紋」や「子持ち三つ巴紋」、「陰陽勾玉巴紋」などというものも存在するが、ほぼ見かけたことはない。

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●続いては、千葉県柏市豊四季の浄土真宗本願寺派、小金山正満寺。正保3年(1646)に、釋賢祐法師が江戸高輪に創建したが、明暦3年(1657)に築地別院地中に移っている。明治維新を迎え豊四季村が誕生しているが、周辺に浄土真宗の寺院がなかったため、村民一同が請願し、明治9年(1876)8月、本山の命により当地に移転している。

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本堂の階段下の両脇には、1対の青銅製ハス型の天水桶がある。寺紋の「下り藤」が見え、「第19世 釋信和代」であるが、創建以来、「釋」の姓は通字として受け継がれているようだ。一方、下の画像のように、庭にはその他に1対の鋳鉄製の天水桶がある。大きさは口径Φ1.1m、高さは870ミリだ。

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「昭和45年(1970・前50項)春」製であるが、受水桶としてではなく、植木鉢として大活躍している。四季折々に境内を彩るのであろう、なかなか風流ではないか。この年の3月14日からは、大阪府吹田市の千里丘陵で日本万国博覧会、EXPO'70が開幕されている。アジア初、かつ日本最初の万博であったが、「人類の進歩と調和」をテーマに掲げ、77ケ国が参加した。

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●千葉県流山市駒木にある、通称「駒木のお諏訪さま」の諏訪神社は、平城天皇の大同2年(807)の鎮座以来、1.200年の歴史だという。現在の社殿は、文政8年(1825)に建築されたもので、昭和55年(1980)には、流山市の有形文化財に指定されている。

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本殿両脇には、「昭和57年8月」造立の青銅製の天水桶が置かれている。正面には、諏訪神社の神紋である「梶の葉紋」が配されているが、大きさは口径Φ1.2m、高さは1.260ミリの4尺サイズで存在感がある1対だ。

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作者銘などが鋳出されていないのは残念だが、梨地の鋳肌、ドレンコックの存在、底辺の丸みを帯びたデザインなどからして、上述の老子製作所製ではなかろうか。この桶の成り立ちは、実に意義深いものであったが、隣にある立て札には次の様に書かれている。

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●「天水鉢について この天水鉢は、昭和50年に本殿・弊殿・拝殿の屋根銅板を葺き替えたときの、古銅を原材料として鋳造した。かつての本殿・弊殿は江戸時代の末に、拝殿は大正14年(1925)のもので、何れも当時の崇敬者が諏訪大神様に捧げた真心が、この度この天水鉢に受け継がれました」とある。

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古来からの屋根の銅瓦を鋳つぶし、溶かして天水桶に鋳造し直した訳だ。堂宇の新改築に伴い、サビて朽ちた天水桶を処分してしまう寺社も多い中、先人たちの志を受け継ごうという、素晴らしい試みに感激しきりだ。

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●次は、千葉県松戸市矢切の矢切神社。ウィキペディアから要約すれば、近隣は、宝永元年(1704)6月29日の長雨による江戸川の大洪水の際、多くの死者を出し産業も甚大な被害を受けている。水没した高さは、「8尺余りなり」とあるから、2m40cmほどだ。

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その後鎮守として、京都東山より稲荷を勧請して祀ったのがこの神社の始まりであるという。実際、この神社は、洪水の影響を受けないであろう高台に位置している。一方、神社の説明によれば、「下総国葛飾群 矢切郷 矢喰村 永禄年間(1558~)頃 里見氏が国府台城の大堀に第六天を奉安す」という。

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奇妙な「矢喰村」の発祥は、戦国時代の北条氏と里見氏をはじめとする房総諸将との間で戦われた合戦の、国府台合戦に端を発しているようだ。主戦場となり多くの戦没者を出した村は、塗炭の苦しみから「弓矢」を呪う余り、「矢切り 矢切れ 矢喰い」の名が生まれている。

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青銅製の1対は、「平成13年(2001)7月吉祥日」の設置で、奉納は地元の建築業者らだ。きれいな鋳肌や鮮明な文字、神紋が心地よい。これは稲荷紋の様に見れるが、中心に三つ巴紋が据えられアレンジされている。ここでは、本殿では素戔嗚命と倉稲魂神を、別殿では菅原道真公を祀っているのだ。大きさは口径Φ1.070ミリ、高さは1.1mで、小さな堂宇だが、この天水桶1対が社格を上げていて、無くてはならない存在となっている。

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●江戸川区東葛西の真言宗豊山派、医王山応心院東善寺。説明板を要約すれば、仁平2年(1152)に空円上人が開山し、応永18年(1411)に頼重上人が中興している。仏師春日が、養老3年(719)に、河内国(大坂)春日野で制作した本尊の薬師如来像は、眼病に御利益があるという。像は秘仏で、33年に一度公開される。堂宇前の立派なイチョウの木は区の保護樹だ。

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ここの天水桶は、ステンレス製の板金構造だ。裏側には緑青がふいた銅製の銘板があるが、「奉納 昭和53年(1978・前27項)9月23日」とある。板を丸くロール巻きして底板を溶接した構造だが、地元の板金業者の力作だ。大きさは口径Φ960ミリ、高さは1mとなっているが、時を経ても色褪せないのが、このステンレス(前49項)という材質だ。

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●次は、足利市助戸仲町の天明山大聖院だが、ここは足利不動尊として知られる。真言宗醍醐派の修験道場を掲げる寺院だが、毎年10月には、火渡り修業が執り行われている。これは、熱した炭を敷き詰めたその上を裸足で歩き抜けるという荒行で、一般的な信仰効果としては、運気上昇、開運厄よけとなっている。

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火の上を歩くことにより、罪を焼き祓い心身ともに清め、得難きご利益が授かると言いわれているようだ。熱さに対する忍耐力は必要なく、気合を入れて歩き抜けるようだが、不思議な事に火傷を負う危険はほとんど無いという。

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1対の縦長な天水桶が置かれているが、大きさは口径Φ770ミリ、高さは1.1mとなっている。奉納は、「昭和50年(1975)1月吉日」だ。これは鋳鉄製の鋳造物ではなく、鋼材を丸めた製缶構造物で、上部の額縁も4本の脚も、本体に溶接され構成されている。

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●都内国立市青柳の青柳稲荷神社は、JR南武線矢川駅から歩いて15分程だ。宝暦5年(1755)の創建で、京都の伏見稲荷大社を勧請しており、五穀豊穣の神、宇迦之御魂神(うかのみたま)らを祀っている。区の掲示によれば、「青柳は、その昔、今日の府中市本宿の多摩川南岸の青柳島にありました。寛文11年(1671)、多摩川の大洪水により青柳島は流失、現在地に移住し、青柳村を開拓しました」という。

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この天水桶は、軟鋼製だ、磁石が反応する。平板をロール巻きして溶接、額縁部はリベットで固定し成形されている。塗装も厚めで、銘は「昭和38年(1963・前56項)2月初午竣工 氏子一同」だが、半世紀を経ていても老朽化を感じない。

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上の凸文字、下の「三つ巴紋」は共に鋳造物と思われるが、1つ1つが細々とビス止めによって固定されている。本体は地元の板金業者によると思うが、渾身の作であった。近年、ここの社殿は新築され一新している。唐破風造りで元々の面影は全くないようで、1回り大きくなったというが、狛犬や天水桶はそのままで、氏子の崇敬信仰は継承されている。どこもこうであって欲しいものだ。

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●こちらは、旋削機械加工による大作だが、群馬県安中市松井田町松井田にある貞松山崇徳寺で、臨済宗妙心寺派の寺院だ。ここの創建は南北朝時代の暦応3年(1340)で、室町幕府初代将軍足利尊氏が開基となり、神奈川県鎌倉市山ノ内の鹿瑞山円覚寺(後127項)の続灯庵によって開かれたという。上野国順礼札所三十四ケ所十四番札所で、札所本尊として子育聖観世音菩薩を祀っている。

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堂宇前の天水桶は、丸い鋼鉄材から削り出されたであろう業者渾身の1対だ。正面の「貞松山」は、レーザーカットなどの機械で切り取られた、やはり鋼材の文字を溶接して取り付けてある。この他に文字情報は見当たらないので、造立の年月日などは不明だ。大きさは口径Φ800、高さは765ミリで、額縁の幅は100ミリとなっている。

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丸い無垢材からの旋削加工だとすれば、その素材重量は、1基当り約3トンにもなる。相当な時間を費やす重切削となるが、加工後の本体は、その半分程度の重量となろうか。つまり、残りの半分は切り屑であり、無駄が多い。とすれば、あるいはある程度、この形状に成形されたフリー鍛造による素材からの加工であろうか。

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●ここの鐘楼塔に掛かる銅鐘は、安中市の文化財登録には見られないが、貴重な文化財だ。大正3年(1914)に刊行された、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」の「江戸鋳工年表」にも記載が無いようだ。下端の口径はΦ750ミリで、造立は、「于時(うじ=時は・前28項)元禄五壬申暦(1692)孟夏望月」と刻まれている。「望月」は、陰暦8月の十五夜の満月の日だ。

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作者の銘は、「武刕(武州)江戸神田住 冶工 小沼播磨守 藤原正永」だが、今なお現存する「正永」銘の作例はかなり稀有だ。後75項後88項では正永の作例を数例見ている。「埼玉県日高市新堀・高麗山聖天院・梵鐘 小沼藤原正永 元禄4年(1691)」、「神奈川県小田原市飯泉・飯泉山勝福寺・水盤 江戸神田住 御鋳物師 小沼播磨守 藤原正永 宝永元年(1704)」などだが、これは保護されるべき貴重な梵鐘なのだ。

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●今回は、業者渾身の手作りの天水桶を何例か見た。由緒ある堂宇前の顔として天水桶を設置するという文化は、今なお連綿として継承されている。表面には日付や寺社の歴史の一端などが刻まれている事が多いが、資金を喜捨した作者銘も自由に遺せる訳で、永く残したい慣習だ。つづく。