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●前回の続きで、京浜急行電鉄線沿線を散策した時のレポートだ。この鉄道は、東京都港区から品川区、大田区、神奈川県川崎市、横浜市、さらに三浦半島へ至る路線だ。前日、京急蒲田駅前の蒲田八幡神社を詣でた後は、もうすでにいい時間だ、一旦帰宅して、続きは翌日とした。

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そして次の日は、京急蒲田の1つ北側の梅屋敷駅へ降り立った。駅名の由来は、昔この付近に「和中散」という風邪薬の販売と、梅見ついでに一休みできる茶店があり、梅屋敷と呼ばれていたからという。
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●まず、大田区北糀谷の子安八幡神社まで散策。ここは、応永年間(1394~)に、鎌倉の鶴岡八幡宮(後127項)を勧請して創建していて、祭神は、誉田別尊を祀っている。 氏子たちが、下袋村領主の小泉藤三郎包教の武運長久を祈願して、安永3年(1774)に奉納した明神型石鳥居は区内最古で、指定文化財であると説明板に書かれている。小泉家は、初代次太夫吉次が六郷用水を開削した功績により、幕末まで代々この地の領主を勤めている。

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ここのは、ステンレス板金製の天水桶1対で、文字や神紋は、真鍮(しんちゅう)製らしき金属板を切り抜いて、ビスなどで固定されている。裏側の銘板に「改築記念 昭和36年(1961)6月吉日」とあり、「子安八幡神社 改築奉賛会」を立ち上げての奉納であったが、この桶もその時同時に奉納されたようだ。居心地がいいのだろう、フタの上では2匹の猫がまどろみ中。

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●ステンレス鋼とはどんな金属であろうか、なぜサビないのであろうか。ウィキペディアから要約すれば、「鉄に一定量以上のクロムを含ませた、腐食に対する耐性を持つ合金鋼である。規格では、クロム含有量が10.5%以上、炭素含有量が1.2%以下の鋼と定義される。

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1910年代前半ごろに英国人によって発明実用化され、日本語では、かつては『不銹鋼(ふしゅうこう)』とも呼ばれた。業界用語としては、略して『ステン』と呼んだり、JISの材料記号がSUSであることから『サス』と呼んだりもする。

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ステンレス鋼の腐食に対する耐食性の源は含有されているクロムで、このクロムによって不働態皮膜と呼ばれる数ナノメートルの極めて薄い皮膜が表面に形成されて、金属素地が腐食から保護されている。不働態皮膜は傷ついても一般的な環境であればすぐに回復し、一般的な普通鋼であればサビるような環境でもサビることはない」という。

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●続いて、大田区大森中の日蓮宗、長享山薬王院大林寺。長享2年(1488)に、日位が開山していて、池上本門寺(前22項)末寺だ。12世日好は村民に麦わら細工を教え、その民芸品は、今日にも受け継がれる大森名物として知られる。また道標は、「池上道」を示すもので、高さは1.6mと大きく、遺跡として貴重だという。

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ここが所蔵する文化財は多い。「豊臣秀吉黒印状法華宗中宛 七月十八日法華宗免状一幅」、「水戸光圀筆雪中訪師図絵本水墨一幅」、「清正公絵像一幅」などだ。武家出身で、日蓮宗僧侶にして能書家であったという、深草元政法師(1623~1668・後126項)自筆の「和歌題仮山一幅」、「讃偈一幅」、「勧持品和歌一枚」もある。

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●ここにいつもの見慣れたデザインの、川口鋳物師、「製作人 川口市 山崎甚五兵衛」作(前41項など)の鋳鉄製の天水桶1対があった。「客殿落慶記念」に施主が奉納しているが、「42世日立代」の時世であった。

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銘は「昭和37年(1962)10月吉辰」だが、辞書によると、吉辰は「きっしん」と読み、「良い日めでたい日で、吉日、吉祥」という意味だ。早、半世紀を永らえ、塗装もきれいで丁寧な扱いだが、浮き出た白文字が心地良い。

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●やがて平和島に向い、大田区大森西の大森諏訪神社に詣でた。鎮座の年代は明らかではないが、昭和39年(1964)に500年祭が執行されているので、逆算すると、室町時代後期の寛正年間(1461~)であろうか。

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「御祭神の建御名方命は大国主命の第2子で、風水害や流行病を防ぎ、農耕の神として、又漁業の神としての信仰厚く、特に武神としての誉高く、はなはだ霊力強き神として氏子の崇神の念益々厚く、神威赫々として今日に至っている」と説明板にある。

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ここ大森地区は、海苔の一大生産地であったが、境内には、「海苔養殖終焉の碑」がある。東京オリンピック開催を目指して、高速道路、モノレールなどが建設されたが、その大規模な埋立地造成のため海面が使用できなくなり、昭和37年(1962)、その養殖に終止符を打っている。「大森海苔のふるさと館」は、同地域の誇りであった海苔づくりの歴史と文化を次世代に伝えることを目的として建設されている。

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1対の天水桶は、「昭和60年(1985)8月吉日」の造立で、青銅製の寸胴型で作者は不明だ。「諏訪神社氏子会」や連合町会、自治会が奉納している。紋は、信濃諏訪神社の象徴の「梶の葉」だが、絵であるかの様に写実的に鋳出されている。

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●平和島駅すぐ近くの大田区大森北の大森神社。「宗教法人・東京都神社庁」によると、「天正年間(1573~)の創建と伝えられる。当時この辺りは海辺であり、里人達は漁業をもって生活をしていた。ある時、黄金色に輝く像が岸辺に流れつき、里人達は畏れて沖へ流すこと3度に及んだが、元の場所に寄り来たるので、社を建ててこの像を祀ったのが当社の起源といわれている。そのため、この社を寄来明神と称した」とある。

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本殿の脇に、1基だけだが、鋳鉄製の天水桶があった。大きさは口径Φ1.060、高さは900ミリだ。「三つ巴紋」や「仲町」などの表示板はビス止めされていたようだが、今は欠落している。裏には奉納者の個人名が列挙されているが、これが実に貴重な天水桶であった。

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銘は「埼玉縣下 川口町 鋳造人 永瀬正吉 明治16年(1883)9月」だが、川口の鋳造業界中興の祖である同氏作との出会いは3例目だ。左の方に見える、優先されるべき寄進者銘よりも大きな文字である事には驚くが、ここでも川口鋳物師が名を残している。大いに感激だが、同氏については、後104項で詳細に解析している。

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●次は、大田区大森西の大森浅間神社。古来より雄大な富士山は神聖視され、その神霊を祀った浅間神社が信仰されてきている。音が「不死」に通ずることからも信仰が広がり、全国に千数百と言われる分社を数えるという。

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ここの浅間神社は、8代将軍吉宗の時代の享保年間(1716~1735年)、東海道の要衝であるここ大森の地に、富士山本宮浅間神社を勧請している。当時の氏子地域の「沢田」の高所に鎮座し、富士山の秀麗さを仰ぎ見る神域であった。

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●鋳鉄製の天水桶には、屋根とも蓋とも思える覆いが誂えられている。迫力には欠けるが、風流ではないか。センターには山型の紋章がある。当然、富士山を意味しているが、末広がりな屋根とのマッチングがいい。奉納は「氏子中 移転記念」であった。大正7年(1918)、神社は耕地整理のために、京浜急行電鉄の現平和島駅の西側に奉遷しているが、それを意味しているのだろう。

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大きさは口径Φ890、高さは800ミリで、銘は「武刕川口町 山﨑寅蔵製 大正10年(1921)5月」造立の1対だ。たまに見かけるが、武州を「武刕」という旧字体で表現している。同氏については、前20項をご参照いただきたい。天水桶鋳造の名匠だ。

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●続いては大森海岸駅近くの、大田区大森北の浄土真宗本願寺派、明光山最徳寺。本尊を、阿弥陀如来像としている。文暦元年(1234)、鎌倉において藤原氏一族の永頓が開基、永順が開山したと伝えられている。「大田区の寺院」から抜粋すれば、永頓は初めは天台の僧であったが、浄土真宗宗祖の親鸞に会い改宗、文暦元年9月、兄の名を山号として明光山智慧光院西蓮坊最徳寺と号している。

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ここに、緑青に覆われつつある青銅製の天水桶が1対ある。寺紋は「九曜」だ。これは、日曜から土曜までの七曜に、「羅喉(らごう)=不動明王(前20項)」と「計都=釈迦」という、2つの架空の星を加えた紋だ。

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奉納は、「門信徒一同」で、「平成23年(2011)3月 第25世住職 藤原永雄 藤原永至」の時世であった。鋳造は「高岡市 鋳匠 老子次右衛門」だが、つい最近の造立だ。老子さんに関しては、前8項で紹介している。知り得る40例ほどの天水桶や梵鐘の銘に、肩書として多くは「鋳物師」を表記しているが、ここのは「鋳匠」となっていて、この表記は初見だ。

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●ここには、江戸鋳物師が鋳た半鐘が現存している。「享保三戊戌歳(1718)三月十一日」の陰刻があるが、早300才の銅鐘で、長年の風雪に耐えて来た味わいある1口(こう)だ。諸書には記録が見当たらないが、文化財として保護されるべき、知られざる存在であるかも知れない。人の手の届かない高所に位置するためか、線刻に致命的な摩滅は無く、刻まれた「南無阿弥陀仏」というお題目が鮮明だ。

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銘は、「神田鍋町 小幡内匠作」となっているが、前8項後100項でも登場する鋳物師だ。大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま)の「日本鋳工史稿(後116項)」での記載も合わせると、現存の有無は別として、宝永6年(1709)から宝暦10年(1760)の間の6例の作例がある。半世紀に亘る活動期だが、これは、少なくも2世代によるものだろう。

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●また、千代田区・神田神社(前10項)の龍紋銅洗盤(天明2年・1782・前31項後109項など)にも名が見られるが、この現存しない洗盤には80余名もの東都鋳物師や工人、世話人の名があったという。さながら当時の「鋳物師一覧表」であり、当時の業況を知る上で、香取は、「頗る(すこぶる)快事」と表現している。

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それに刻まれていた銘は、「小幡仁左衛門 小幡市右衛門 小幡幸助 小幡善六」だ。さらには、時を経た「文化7年(1810)5月日 武蔵国豊島郡 浅草誓教寺鐘 神田岩本町住 冶工 小幡道斎」という記録もある。現況は不明ながら、小幡家は、当時は連綿と続いた鋳物師の家系であった。


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●さて、時間があったので、都心まで足を延ばしてみた。港区三田にある日蓮宗、光秀山蓮乗寺。芝区誌には、「日蓮宗、下総中山法華経寺(後55項)末派で、慶長19年(1614)に僧浄蓮が芝金杉浜町に学堂を営み、子育鬼子母神を安置し、慶安元年(1648)に赤羽根の地に一寺を建て、後此処に移転した」とある。

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ここには、兄の若山富三郎と共に俳優の勝新太郎が眠っている。愛豪放磊落で愛嬌のある人柄で一世を風靡したが、市川雷蔵とともに大映の二枚看板であった。天水桶は、「平成元年8月31日」付けの青銅製の1基のみで、鋳造者銘は鋳出されておらず不明だ。梨地調の地肌といい上部の紋様といい、老子製の様相だが、大きさは口径Φ750、高さは800ミリだ。

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背面のドレンコックは前例の老子製のものとほぼ同じだ。なぜ対でないのかは判らないが、もう片方があったとすれば、それには作者名が鋳出されていたかも知れない。「日本橋本町 日高屋」が施主として奉納しているが、「光秀山20世 日守代」の時世であった。

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●続いては、港区元麻布の浄土真宗本願寺派、善福寺だが、格式高い寺社だけに、その敷地は広い。天長元年(824)、弘法大師が関東一円に真言宗を広めるためにこの麻布山善福寺を開山、都内では浅草寺(前1項)に次ぐ長い歴史を持つ寺院で、関東七ケ寺の1つであるという。背景に見えるのは、大樹をイメージしたタワーマンションの元麻布ヒルズフォレストタワーだ。

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天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」にもここの様子が描かれている。後述の安政4年(1857)製の天水桶は、後年の造立なので見られないが、丸で囲った「柳の井戸」は現存する。

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関東大震災や昭和の空襲では、一般市民の困苦を救ったというが、「弘法大師が鹿島の神に祈願を込め、手に持っていた錫杖を地面に突き立てた所、たちまち噴出したものだとか、ある聖人が柳の枝を用いて掘ったものであるとか、信仰的な伝説が語り継がれてきた」という。

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図会には、「鹿島の清水 惣門と中門との間にあり。往古弘法大師、常陸国鹿島明神に乞ひ得たまひし阿伽井なりと。また土人いはく、鹿島の地に七井と称する霊泉あれども、その内一つは空水なりといへり。昔はその側に柳樹ありしかば、一名を楊柳水とも唱へ侍ると云々」と記載されている。

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●本堂は、慶長12年(1607)に、徳川家康が建立した京都の東本願寺八尾別院の本堂を移築した由緒あるもので、歴史ある文化財的建物だ。港区の地名にある虎ノ門は、かつては善福寺の山門であり、杉並にある善福寺池は奥の院跡であったと伝えられている(案内板による)。

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画像が本堂だが、その前には、石製の天水桶1対があり、「文化4年(1807)9月」という陰刻が見え、「八尾村」の人が寄進している。「東本願寺八尾別院」の「八尾」と関係がありそうだ。大きさは1.480ミリ角で、高さは1.150ミリと巨大だ。

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●境内にある開山堂の前には、サビついてヒビ割れた鋳鉄製の天水桶がある。口径は85cm、高さは77cmほどだ。雨水溜まりを嫌ってのことであろう、2基とも天地を逆さまにされている。目立つ位置だけに何とかならないものだろうかと思う。

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正面には、「御門前西町」と陽鋳造され、多くの寄進者の名が見える。いつでも撤去、廃棄されそうな設置法であるのが気になって仕方ないが、手入れをすれば、少なくとも現状維持はできる。すぐにでも再生の検討をする事を願わずにはいられないが、これは、鋳物の街川口市(後100項)にとっては国宝級の貴重な文化財なのだ。

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●画像を天地反転してみた。経年の劣化が激しく亀裂も見られるが、「武州川口住 鋳工 永瀬源内(前14項など) 安政四(1857)八月吉日丁巳年」と陽鋳されている。

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源内は、「川口九兵衛(前16項前40項など)」を名乗ったこともあり、「藤原富廣」を賜った勅許の川口鋳物師だ。多くの天水桶を鋳造したが、戦時に金属供出(前3項)され現存数は少ない。当サイトでは、14例ほどの作品を確認しているが、保護すべき貴重な1対なのだ。


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この時期、吹く風に冬の到来を感じるが、それでも散策していると、汗ばんでTシャツ姿になることがある。一気に体が冷える訳で、風邪ひきに気をつけねばなるまい。今日も5時間ほど歩いたろうか、それにしても目的を持って歩くことは楽しい。つづく。