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●2012年3月3日の初稿以来、足掛け4年目でとうとう100項目に至った。ここまで継続できるとは思いもよらなかった訳だが、気力が衰えることも無く散策は続き、結果、まだ多くの資料も残っているので投稿は続行となろう。

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切りの良いこの項では、埼玉県の川口鋳物師達の鋳造物を中心に見ていこうと思うが、その前に、川口の鋳物業の歴史を振り返ってみよう。引用先は「川口市史 第3編 川口鋳物業の成立 小原昭二」、「川口鋳物の歴史 川口鋳物工業(協)」だ。
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発祥としては諸説ある中、4説が有力という。①は、天慶3年(940)頃、平将門の乱の鎮圧を任命された藤原秀郷の軍需品鋳造従者が定住。②は、建久年頃(1190~)、中国・南宋の鋳物師が好適な砂や粘土に着目し伝播だ。

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画像は、大正4年(1915)没の明治期の浮世絵師、小林清親の作品で、明治12年(1879)頃の川口鋳物業の様子だが、甑炉(こしきろ)が勢いよく火を噴いている。(神奈川県立歴史博物館所蔵)
神奈川県立博物館
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●さらに③は、暦応年頃(1338~)、大阪・河内国丹南郡の鋳物師が、関東地域に出吹き(出張鋳造)に来てそのまま移住。④は、戦国末期の1500年頃、岩槻藩主太田氏が城を追われたため、御用鋳物師の渋江氏が転地して開業、である。最後のこの説は、前83項でも考証しているのでご参照いただきたい。画像は、現代の鉄の溶解の様子。


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下の画像は江戸名所図会(江戸後期刊 斎藤月岑)の挿し絵の、「河口鍋匠(なべつくり)」だが、右上の文字を読んでみると、これが興味深い。「其家に伝えて云ふ、天命国家(後108項)の後胤(子孫)なりと。人皇九十七代光明院(南北朝時代の北朝第2代天皇)の御宇暦應年間、河内丹南郡より此の所へ移り住するより、其子孫、今猶ここに栄へて連綿たり」だが、③の説の根拠となる絵ではないか。
江戸名所図会

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その「後胤」という事については、前59項では、文京区向丘の涅槃山西教寺の梵鐘銘で、「天明四甲辰歳(1784)十二月 天明伊賀守『後胤』 武州足立郡川口宿 永瀬次良右門」という証言が残されていたのを見ている。江戸時代中期において、川口鋳物師の出自に関しては、天明鋳物師の子孫であるという事が一般的な認識だったのだ。

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●そもそも、金属を鋳造するという方法が生み出されたのは、遥か原始時代だ。火を使う事を覚えた人類は、土器作りの際に溶け出た金属が、石の窪みなどに入り込んで固まることをヒントに技を高めてきたという。

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川口市安行(あんぎょう)に猿貝北遺跡がある。縄文時代の県選定の重要遺跡だが、安行式土器の標式遺跡で、大宮台地鳩ケ谷支台の東部に位置している。この地の有力者は、移動生活をしていた鋳物師集団に銅鐘や武器、日常雑器を作らせていたようだ。この遺跡からは、製鉄炉6基のほか、大量のスラグと共に香炉の獣脚の鋳型などが出土している。

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●川口鋳物の歴史だが、江戸時代には、鍋、釜、鍬などの農具、梵鐘、天水桶などの仏具を製造し、京都の公家・真継家(前40項)からは、鋳造許可状の発給を受けている。画像は、川口鋳物師の永瀬源七の許可状で、安政4年(1857)12月のものだ。本サイトでは、千代田区外神田の神田神社(前10項)などで、源七作の天水桶を何例か紹介して来ている。
源七

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幕末には、川口鋳物師の増田安次郎ら(前82項)が諸藩の下命を受け、大砲など大量の武器を鋳造していた事実を見てきた。明治大正時代には、日清日露戦争による軍需などで飛躍的に発展、また生型法等の新技術の導入によって門扉、鉄管、機械部品を製造し、自由化の時代に対応してきた。

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昭和の時代になっても軍需産業の色は濃かったが、設備の近代化などにより、機械鋳物の生産が急速に伸びている。昭和22年(1947)には、工場数が703社もあり、全国の生産高の1/3近くを占めたというが、生産高日本一を誇ったのは、同30年代であった。写真は、外径Φ800ミリの鋳鉄製車輪。

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●川口の鋳物組合の歴史としては、明治38年(1905)8月11日に前身である「川口鋳物業組合」が発足、昭和24年には現在の「川口鋳物工業協同組合」が誕生している。写真は昭和初期の組合の建物だ。

鋳物組合

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現理事長は第25代目で、伊藤光男氏(前12項)がお務めだ。平成17年(2005)7月には、本拠ビル「かわぐちCASTY」が完成、同時に創立100周年を記念して、8.11を「川口鋳物の日」に制定している。丸い紋章は、「川口」の漢字をアレンジし、中に「鋳」の文字を配している。

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●さて、都内台東区上野駅界隈を散策していた時の事。画像のこれは公園の入り口にある、有名な西郷隆盛と愛犬ツンのブロンズ像で、身長は3.7mだ。デザインは彫刻家の高村光雲(1852~1934・前85項)で、常陸太田市で鋳造されたようだが(前97項)、日本で2番目にできた青銅像だという。

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明治22年(1889)、賊名を除かれ正3位を追贈された際、旧友の吉井友実が世話人となって発案、下賜金のほか有志2万5千人の協力を得て、同30年に竣工している。
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東京五輪の聖火台鋳造者、川口鋳物師の鈴木文吾(前3項など)の語るところ(平成16年(2004)・鳩ケ谷市にて)によれば、師匠で実父の萬之助は、この鋳造に関わっていたと言う。ただし、若年であり駆け出しの頃の話であって、下働きをしただけと強調している。

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●西郷は、文政10年(1827)12月生まれの薩摩藩士で、通称は吉之助、「南洲」はその号であった。長州藩士の木戸孝允と謀って薩長連合を結成、江戸城の無血開城を実現し、明治維新の基礎を確立している。

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その最期は、明治10年(1877)の西南戦争において、城山で自刃、享年51才であった。すぐそばに、「敬天愛人」と刻まれた石碑がある。自らの判断基準は天命に従い、個の利で動く事が無かったため、絶大な人望を集めた偉人であった。

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●その像へ向かう前の階段下、いつも露店の似顔絵やさんがいる反対側に、奇妙な青銅製のオブジェがある。台座の上に祝い用の角樽(つのだる)が載っていて、その上でアヒルが天を仰いで羽を広げているのだが、「誹風柳多留(はいふうやなぎだる)発祥の地」の記念碑であった。

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これは、江戸時代中期から刊行されていた川柳の句集名で、柳亭種彦、十返舎一九、宿屋飯盛、葛飾北斎らも名を連ねている。「樽」は「多留」の洒落だろうが、正面には、「羽のある いいわけほどは あひる飛ぶ」とある。裏に回ってみると、「平成27年(2015)8月吉日」だから、つい最近の設置だ。

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●「協賛 上野のれん会」の奉納で、原型の木型は、「(有)原田木型製作所」製だ。鋳造は、川口市の「鋳造 池田美術株式会社(前4項前81項)」だと鋳出されている。同社製の天水桶は、5例ほどを紹介してきたが、昭和47(1972)~56年製で、全てブロンズ製であった。

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製作途中の画像もあったので、ここにアップしておこう。アヒルの本体と羽は別鋳造である事が判るが、その下の3片は、アヒルが乗っている樽の部材だ。総高は880ミリ、本体の樽は、口径Φ320ミリで1尺サイズだが、無垢ではない。指で弾くと甲高い音が響くので、中はがらんどうだ。

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前4項では、川口市金山町の金山神社の天水桶を見たが、「平成30年(2018)12月吉日」、堂宇前に青銅製の灯籠が奉納された。小ぶりな1対で高さは2mほどだ。社殿と天水桶とのバランスを充分に考慮され設計された大きさなのであろう。

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宝珠の代わりに最頂部に据わっているのは、日本神話に登場する3本脚の八咫烏(やたがらす)だ。笠の8方に蕨手が伸びた春日型(前33項)の灯籠だが、ハスの花弁が火袋を支えている。今の時代には、灯火される事もないだろうが、伝統的なデザインだ。やはりこれが無いと灯籠とは呼べない代物になりそうだ。最下部の台座には、十二支を示す丸いボッチがあるが、独特な趣向だ。

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奉献主は、「川口鑄物工業協同組合 責任役員 児玉洋介 理事長 伊藤光男(前12項前37項)」だ。上述の通り、組合は昭和24年(1949)が改組の年であったから、70周年記念という意味合いであろうか。作者銘は、「池田美術株式会社 謹製」と陽鋳造されている。

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●続いては最近出会った天水桶を見て行くが、まずは新宿区須賀町の日蓮宗大黒山円通寺。寛永17年(1640)に、千葉県鴨川市小湊の日蓮宗の大本山、小湊山誕生寺(前90項)の宝勝院日深が江戸に来て創建している。いかにも都会の寺社という感じで、モダンな作りの建物だ。

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4年前に参詣した時には見逃していたのだが、階段脇両側の本当に見づらい場所に、1対の鋳鉄製の天水桶が存在していた。「四谷 白米商」が奉納しているが、真裏には奉納者の名前が並んでいる。上部の額縁に連続して廻っているのは「米」の文字で、大きさは口径Φ750ミリ、地上に出ている高さは600ミリだ。

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作者はお初の鋳物師で、「川口町 鋳物(師) 山﨑善道 明治36年(1903)3月納之」だが、「円通寺33世」の時世であった。「川口大百科事典」では、「義道」となっているようだが、現物の鋳出し文字は摩滅していて、実際のところは確定しづらい。人物については資料が見当たらず、この時点では不明だが、後132項では私見ながら人物像を推定している。

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●次の、足立区千住仲町の稲荷山勝林院源長寺は、この地を開拓した石出掃部亮吉胤が、文禄3年(1594)、千住大橋(後131項)架橋に尽した郡代伊奈備前守忠次(後131項)を敬慕して、慶長15年(1610)に開基している。現在の本殿前には、花崗岩製(前11項)のハス型の天水桶が、平成6年(1994)の盂蘭盆会(うらぼんえ・前18項)に奉納されている。

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なお同院同寺号を持ち、従五位下、関東郡代伊奈忠次を開基とする周光山源長寺は、元和4年(1618)に創建されていて、埼玉県川口市赤山にある。赤山伊奈氏とも呼ばれる由縁だ。この初代は、天正18年(1590)の徳川家康入府の頃、武蔵国小室(埼玉県伊奈町)鴻巣領1万石を拝している。慶長15年(1610)57才没で、墓所は、鴻巣市本町・天照山勝願寺(前75項)だ。

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●寛永6年(1629)にできた伊奈氏の陣屋は、川口市の赤山城(現城址)に存在した。今でもお堀の痕跡が見られるが、築かれたのは、3代目の代官頭、伊奈半十郎忠治の時世で、武蔵国東部の開発の拠点であった。伊奈家は、寛政4年(1792)、直系10代目の忠尊が改易に処せられるまで関東郡代職を世襲している。

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家康は、暴れ川の利根川の東遷という大工事を行っている。「赤堀川切広之図」には、元和7年(1621)、命を受けた忠治が、利根川が大きく屈曲する埼玉郡佐波村地先から、渡良瀬川の新栗橋までの約8kmの、赤堀川の水路開削の様子が描かれている。

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●さて、千住仲町の源長寺に立ち入ると、右側に小ぢんまりした庭があるが、その地中には2基1対の鋳鉄製の天水桶が埋め込まれている。口径はΦ800ミリ、3尺弱ほどだ。一部サビかけてはいるが、鋳出し文字の金色の塗装は未だ鮮やかだ。両基とも水を湛えている事からして、穴あきなどの欠陥は無いようだ。

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正面に見える文字は、「大正九年(1920)」だが、昭和59年(1984)刊の「武州・川口鋳物師作品年表」(増田卯吉)によれば、「5月」の設置で、作者は、川口鋳物師の永瀬留十郎だという。増田氏の調査時は、本殿前に鎮座していたのだろうか、全ての文字が読めたのだ。

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他に見える文字は、「稲」だが、ここの山号「稲荷山」の一部に間違いなかろう。なお、当サイトでは、留十郎作の桶を8例ほど紹介してきている。画像は、今日現在川口市で営業中の、(株)永瀬留十郎工場だが、作例については、前48項前68項などをご参照いただきたい。

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●最後は、台東区今戸にある日蓮宗、深栄山長昌寺だが、開創は弘安2年(1279)、台東区・金龍山浅草寺(前1項)の住職を務めた日寂上人の開山という。元和年間(1615~)、徳川譜代の酒井忠勝によって中興、日寂が浅草寺から移したといわれる、1寸8分の閻浮壇金正観世音菩薩像が庶民の信仰を集めたという。

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寺のすぐ東側には隅田川がある。長禄年間(1457~)頃の話だと思われるが、洪水に見舞われ諸堂宇が流出した際、ここの梵鐘も流され、以来この地は「鐘ケ淵」と呼ばれるという。現在、東武スカイツリーラインには、この駅名が存在する。明治の世となり周辺の開発が進んで、ここに建てられたのが「鐘ケ淵紡績(株)」で、昭和44年(1969)に閉鎖されたが、のちの「鐘紡、カネボウ」だ。

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●8代徳川吉宗公がこの鐘の引揚げを下命したが、成功せずじまいだったという。岡本綺堂の「風俗江戸物語」にはこうある。「全身に蓑の如きものを着たる怪物が水中に立っているので、だんだん近寄って見ると、釣鐘に亀の毛ような藻が一面に生えていたという事です。」

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元和年間(1615~)に、江東区亀戸に移転した普門院での事と言う沈鐘説もあるらしいが、いずれにしても面白い。梵鐘には文字が刻まれていようから興味津々だが、現代においてはそんな気運は盛り上がらないのだろうか。

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●天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会 墨田川両岸」にも「鐘ケ淵」の様子が描かれている。説明文では、「同所、墨田河・荒川・綾瀬川の三俣のところをさして名づく。

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伝えいふ、昔普門院といへる寺の鯨鐘(後124項)この潭(ふち)に沈没せりとも、また橋場長昌寺の鐘なりともいひて、いま両寺に存するところの新鋳の鐘の銘にも、このことを載げたり。いづれか是ならん」としている。また、「土俗伝へて、橋場法源寺の鐘とするものは誤るに似たり」ともあり、この当時から諸説紛々のようだ。

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●流されてしまったので再鋳されたという現在の梵鐘は、重要美術品の認定を受けている。鋳出し文字が示すように、縦帯(前8項)に「南無妙法蓮華経」と題され、「深栄山長昌寺常什(寺宝)」として、「享保5年(1720)6月」に鋳られている。20世日津住持の時世下であったが、鐘身には「本願主 橋場町講中」の人々の名前や戒名が刻まれている。最下部の口径はΦ760ミリだから、3.5尺の1口(こう)だ。

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鋳物師は「江戸神田鍋町之住 小幡内匠作(前8項前49項)」であった。香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」によれば、「神田鍛冶町」の人といい、時代によって相違があるようだが、「小幡仁左衛門」が通称であったという。

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小幡は、港区芝公園の三縁山増上寺(後126項など)向けには、「文昭院(6代将軍徳川家宣)殿廟前 銅灯籠1対 正徳2年(1712)」を没年に鋳造しているが、これは、幕府老中で、忍城主(埼玉県行田市)阿部正喬(まさたか)の奉納だ。小幡は、江戸時代中期に「藤原勝行」を名乗った勅許の御用鋳物師であった。

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●本堂前に天水桶は無く、寺務所に近い銭洗い弁財天の祠の裏に、退役した1対の鋳鉄製の天水桶が保管されている。銭洗い弁財天は、一般的にそこで銭貨を洗うと何倍にもなって返ってくるという信仰がある弁才天社だ。

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食物、穀物の神である宇賀神と習合したことで、財運をもたらす福神として崇められるようになっている。ここでは、「弁財天の流水で紙幣や硬貨をお洗いになり、願い事をしてください。寺務所で福銭をお授けいたします」と案内されている。

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●許可を得て近づいてみると、隅に追いやられお役御免となっているようだが、損傷しているようには見えない。高さと口径は、ともに700ミリほどだ。裏側には、寄進者の名前が刻まれているかも知れないが、かつて檀家が喜捨した、多くの願念が籠った貴重な文化財だ、いつの日かの再登板を大いに期待したい。

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正面にある鋳出しの「輪宝紋」の中に「妙法」と記されているが、日蓮宗のお題目「南無妙法蓮華経」の一部であろうか。一般的に仏教では、「妙は仏」であり、「法は仏以外の命あるもの全て」の事だ。

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●銘は「明治43年(1910)1月 武州川口町 海老原金十郎 」で、この人もお初の川口鋳物師だが、鋳物師の元締め、京都真継家(前40項)の文書の中にこの名は登場しない。先の年表によれば、「海老原」姓では、8例の天水桶鋳造を確認できる。

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現存しないが、「川口市舟戸町・平等山善光寺(後130項) 海老原市右衛門 嘉永7年(1854)」、「千代田区外神田・神田神社(前10項) 市右衛門 安政3年(1856)」などだ。

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●当サイトでは、現存する桶としては、3例を見てきている。「八王子市高尾山・奥の院(前35項) 市右衛門 萬延2年(1861)」、「港区南麻布・広尾稲荷神社(前67項) 吹屋市右衛門 文久2年(1862)」、「品川区小山・芳荷山長応寺(前43項) 海老原市右衛門忠義 文久4年」であった。ここの桶は、年代的には半世紀の差異があるが、海老原姓を名乗った後継の方の作例であろうか。

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金十郎の人となりについての詳細は不明だが、海老原家の墓地は川口市中青木の、遍照山光明院(後113項)であろうと思われる。墓誌では、「壽光院金剛浄照居士 昭和20年(1945)2月19日 俗名金十郎」となっているが、行年は不明だ。先の「山﨑善道」にしても「海老原金十郎 」にしても、この名前が刻まれた天水桶は他には現存しない。川口鋳物師の貴重なレガシーだ、永久保存を願って止まない。つづく。

川口市・光明院