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●都心を離れて地方へ行ってみる事にした。と言っても都内で、最終目的地は西側の高尾山薬王院有喜寺だ。途中寄り道をしながら、今までリサーチしてきた、天水桶があるらしい所を散策してみた。JR中央線沿線で、道程順ではないがアップしてみよう。

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まずは、東京都八王子市新町の永福稲荷神社。江戸時代から「生姜祭り」で知られるが、祭り当日は無病息災を願って、風邪に効く特効薬としての生姜を買い求める人々で賑わうという。決して、大きな社では無い。全周が鉄柵で覆われ、社殿に近づく事はできない。

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境内には、宝暦6年(1756)にここを勧請し再建したという、八王子市ゆかりの力士、八光山権五郎の銅像がある。地方へ巡業する際、ここで必勝祈願したという。「その類まれな強さを時の天皇から賞され、御盃と錦のまわしを賜り、帰郷後、神社境内で相撲を興行した」と案内板にある。

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●天水桶は社殿前の鉄柵の内側にあるが、コンクリートが詰められ本来の機能は果たしていない。1対の鋳鉄製だが、目測2尺ほどの口径であり巨大な桶ではない。

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柵内へは立入り禁止なので、桶の裏に廻って鋳造者名を確認する事が出来ない。「安政五戊午年(1858)三月吉日」製という文字は確認できたが残念だ。なお、後105項では、作者を推定しているのでご参照いただきたい。

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●府中市宮町に、大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)がある。江戸時代には、社領500石の御朱印状を拝領していたが、多くの祭神、境内社を抱えている。ホムペによると、「大國魂大神を武蔵の国の守り神としてお祀りした神社です。

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この大神は、出雲の大国主神と御同神で、大昔、武蔵の国を開かれて、人々に衣食住の道を教えられ、又、医療法やまじないの術も授けられた神様で、俗に福神、又は縁結び、厄除け・厄払いの神として著名な神様です」とある。

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●敷地は広く、参詣者が絶えないようだ。社殿の配置上仕方ないが、鋳鉄鋳物の天水桶1対は、参拝客が通行するのにちょっと邪魔な位置に存在する。大きさは、Φ895、高さは790ミリだ。真正面に「奉納 御宝前 天保三壬辰年(1832)五月吉日」と陽鋳されているが、製造年月日がここに大きく見られるのはかなり珍しい。本来主張したい事柄ではないからだ。

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一方、表面にはなぜか鋳造者名の鋳出し文字は存在しない。ここは、祭礼に際して天皇により勅使が遣わされる「準勅祭社」であり、明治18年(1885)には、朝廷から神への捧げものを授かる神社である「官幣小社」に列格している。この天水桶は、「御宝前」への奉納だ。神前で一個人の氏名を鋳出す事など恐れ多かったのかも知れない。

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●国立市谷保に菅原道真公を祀った、谷保天満宮がある。南武鉄道が谷保駅の駅名を「やほ」としたため、地名の「谷保」までも「やほ」と言うようになってしまったが、本来の読み方は「やぼ」であるという。

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狂歌師の大田南畝(前16項)が、「神ならば 出雲の国に行くべきに 目白で開帳 やぼのてんじん」と詠んだが、ここから「野暮天」の語が生じたという逸話がある。また「天満宮」の扁額は、水戸光圀公による奉納だと言う。

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京都北野天満宮が造営された天暦元年(947)に官社に列し、江戸時代には社領13石5斗の御朱印状を拝領、明治18年(1885)には府社に列格している。本殿は古風な面影を留めているが、東日本における天満宮としては最も古く、文京区湯島の湯島天満宮後79項)、江東区亀戸の亀戸天神社(前32項)とならび関東三天神と称される。放し飼いのチャボがそこら中にいるのは、「谷保」との語呂掛けだろうか。

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有栖川宮威仁親王殿下が、国産ガソリン自動車「タクリー号」で隊列を組み、日本初のドライブツアーを敢行した経緯から、ここが交通安全発祥の地と言われている。ちなみに「タクリー」とは、「ガタクリと走る」ことからの愛称であるという。

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●遠目に見て、素晴らしく滑らかな鋳肌の天水桶があると思ったら、鋼材を丸めてリベット止めされた鋼鉄製であった。大きさは口径Φ900、高さは980ミリだ。低コストで済んだのだろうが、やはり重厚感に欠ける気がする。1対は、「社務所新築十周年記念」での奉納であったが、裏の銘板には、多くの工事関係者名が列挙されている。

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道真公ゆかりの梅紋、文字などは異材の鋳造物らしく、溶接され張り付けられている。寺務所で聞くと、旧前の天水桶は戦時に金属供出(前3項)したと言う事で、これは「昭和32年(1957)9月吉日」の造立であった。

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●画像は、境内にある参集殿で、その堂宇前に1対の鋳鉄製天水桶がある。一般的に、参集殿とは参拝者の休憩所のような施設だ。寺社によっては、初宮、七五三、厄除祈願、長寿祝いなどの集会、あるいは、披露宴、講演会、研修会、宴席や同窓会など多目的に利用できる場所でもある。

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一対の天水桶は、「天満宮参集殿 建立記念」での奉納であったが、後日再訪すると、建物は一新されていた。「天満宮参集殿奉賛会 会長 吉野初儀」の奉納で、裏側には工務店関係者の氏名が並んでいる。これの正面にも梅の紋が据えられている。

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三脚の獅子足に支えられ、排水用の蛇口も備わっている。大きさは口径Φ780、高さは850ミリだが、この一対もリニューアル(後79項)されている。川口鋳物師、「川口市 山崎甚五兵衛(後41項後84項後106項後114項など)」作の鋳鉄製の天水桶で、「昭和40年(1965)11月吉日」の設置となっている。

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●さて、高尾山薬王院有喜寺へは京王線の高尾山口を出て、高尾登山電鉄のケーブルカーに乗るが、片道6分、往復で900円だ。住所は、東京都八王子市高尾町だ。最急勾配31度18分で日本一だと言うが、使用されているワイヤーロープは安全率が10倍以上のものだと聞いて、かなり安心できる。

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ホムペによれば、「昭和2年(1927)に営業が開始され、戦時中に一時休止したが、戦後の昭和24年(1949)にいち早く復活した。昭和43年(1968)に全自動制御の近代的ケーブルカーに生まれ変わり、高尾山を訪れる多くの人達の足となっている」とある。

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●下車して、根っこが蛸のような「たこ杉」などを見物しながら、薬王院有喜寺まで歩く事20分。ケーブルカーに乗らなければ、ここまでは数時間の登山となろう。たこ杉は、高さ37mで、目通り幹囲は約6mという。「蛸」なので、水産業関連の方も「蛸供養碑」を奉納している。

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高尾山は、東京都八王子市にある標高599mの山で、秩父山地の東縁に位置する。東京都心から近く、明治の森高尾国定公園に指定されていて、多くの観光客や登山者が訪れる。古くから天狗が存在しているとの伝説もあり、修験道の霊山とされてきている。

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●有喜寺の掲示板を読むと、「縁起によれば、天平16年(744)、行基が聖武天皇の勅命を奉じて、本尊薬師如来を安置したのに始まるとありますが、後の永和年間(1375~79)に高僧俊源が飯縄の神を安置して中興し、これにより高尾山の信仰は世に広められたと伝えられています。」

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ここが本堂だが、古来より、天狗様は飯縄大権現様の随身として、除災開運、招福万来など、衆生救済の御利益を施す力を持つとされ、神格化されてきたと言う。拝殿前には天狗様のブロンズ像がおわし、正面両側の柱には「萬民豊楽」、「世界平和」と掲げられている。

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●ここに、手桶を載せた「東京浅草 翠雲堂(後59項など) 謹製」銘の鋳鉄製天水桶が1対ある。「高尾山中興 第卅一世(31世) 秀順代」の時世、寄進は「八王子織物工業組合」だが、この組合の創立は明治32年(1899)という。口径はΦ1.380ミリ、高さは1.240ミリだから4.5尺サイズであり大き目だ。なお、当サイトで見る巨大天水桶のリンク先は、後55項に貼ってあるのでご参照いただきたい。

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八王子は、経済産業大臣指定の伝統的工芸品「多摩織」の産地だ。現在は、「多摩織」の伝統技術を基に、「多摩結城」や「紋ウール着尺」などの和装製品から、インテリア、服地、ネクタイ、マフラー、ストール等の洋装製品に生産軸を移している。画像は、昭和期の駅前の様子だ。

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●造立は「昭和43年(1968)10月吉日」だ。先に「翠雲堂製」と記したが、このフォルムは完璧なまでに川口鋳物師の山崎甚五兵衛の基調だ。翠雲堂が受注し、山崎が鋳たと理解して良かろうと思う。
同鋳物師に関しては、上述の外にも、前1項後132項などをご参照いただきたい。この様な事例は、前5項栃木県足利市巴町の帝釋山法玄寺でも登場しているが、「昭和45年(1970)7月 東京浅草 翠雲堂」銘であった。

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額縁に廻る丸い紋章の花は、天狗との関係からすると羽団扇のカエデであろう。写実的なタガが描かれた6個の手桶に見られる紋章は、2羽の鳩を向き合わせ八王子の「八」の文字を表現しているが、手桶が載る横長の台座も含め、これらも鋳鉄製だ。

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●境内には鐘楼塔があり、先の第31世山本秀順代の昭和49年(1974)に完成した梵鐘が掛かっているが、その右下脇に小屋があって、「寛永古鐘」と題された銅鐘が保存されている。大きさは、口径Φ880ミリ、総高1.5mだ。銘によればその造立は、「寛永八年襲集(前19項前23項)辛未(1631)秋九月 住持沙門法印 堯秀」となっている。堯秀は第10代貫首だが、どんな時代背景であったのだろうか。

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戦国時代、高尾山周辺は小田原北条氏の勢力範囲にあったが、天正18年(1590)に豊臣秀吉によって北条氏が滅亡すると、庇護下にあった薬王院は苦難の時代を迎えている。「薬師堂収蔵に関する勧進帳」によれば、この時期、一院以外の坊が失われ、本尊の薬師如来像が雨ざらしになっていたと言う。寛永期に入ると、鐘を失くした薬王院ではそのための勧進が行われ、檀徒が一致協力し高尾山を再興、急速に寺勢を盛り返している。

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江戸時代の寛永期(1624~1644)は、徳川第3代将軍家光の時代だ。関東の支配も益々盛んになり、庶民の暮らしにも活気が出てきたという背景があって、高尾山も多くの人々の参詣を受け賑わいを見せ始めたようだ。力量を発揮した第10代貫首堯秀は中興の高僧であった訳だが、鐘銘には、そういった事が刻まれているようだ。

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●気になるのは、表面にむごたらしく、いたずら書きの様に塗られたペンキの黒文字だが、正面に「武蔵國南多摩郡新田村」、裏側には「武蔵 八王子」などと書かれている。掻き消そうとした痕跡もあるが、ペンキが鋳肌の中へ染み込んでいたのであろうか、無駄だったようだ。鐘身に刻まれた鐘銘のタイトルは「武州有喜寺鐘銘」だから、この銅鐘は紛れもなくここの什宝だ。

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実はこのペンキ書きは、昭和の戦時に金属供出(前3項)するために軍部が表示した事務的な書き込みだ。軍務を担うべく召集に応じて「召し出された鐘」という運命にあったが、たまたま終戦を迎えそれを逃れたという事であろう。この様にペンキ書きされた銅鐘は、前3項後46項後75項後110項後129項後131項でも見ているのでご参照いただきたい。

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●供出するという事は、それを溶解する工場へ運ばなければならない。当時の軍部の赤羽火薬庫や横須賀海軍工廠、民間の日本鋼管などだ。有喜寺鐘は、供出される事が決定しペンキ書きされその時を待っていたが、この場所は山の中腹だ。上述のケーブルカーが開通していたとは言え、これだけ重いものをその乗降場へ運ぶ事さえ容易ではない。現在でも徒歩20分だ。

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この江戸期の梵鐘の鋳造は、後述もするが、この場所での出吹き(前10項)、つまり出張鋳造であったろう。多くの人工が、時間を割いて素材や資材、道具類を分割して運搬し成形し、一体不可分の重量物となった訳だ。今度これを麓まで下ろそうとしたら一筋縄ではいかない訳で、後述の天水桶達もそうであろうが、有喜寺の立地状況がそれを拒んだとも言えよう。

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●梵鐘の鋳造者は、「御鋳物師大工 長谷川越後守吉家」と陰刻されているが、前7項後99項後111項でも登場する鋳物師だ。東京の皇居東御苑の北側のお堀に掛かる平川橋には、江戸期に鋳られた10個もの擬宝珠(後121項など)が残っているが、そこにも今なお名を遺している。

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吉家の後継の子は家吉だが、両者共に、多くの作例に肩書として「御鋳物師大工」を名のっていたようだ。なおこの鐘は、大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」にも、「寛永八年襲集辛未(1631)秋九月 武蔵高尾山有喜寺鐘」として、そのまま正確に記録されている。


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●さらに階段を登って行くと本社の飯縄権現堂がある。登りきると、華麗な極彩色の装飾が施されている堂宇が見える。社殿は、享保14年(1729)に本殿が建立され、宝暦3年(1753)に幣殿と拝殿が建立されているが、都指定有形文化財だ。この画像の撮影位置には鳥居があるので、ここが神社であることが判る。寺院の中に神社があるというのは神仏分離以前の、神社の形態の典型例だ。

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堂宇前には左右片側に2基づつ、計4基の天水桶があるが、壮観な光景だ。内側にある茶色くサビついた2基1対は、「江州栗太郡辻村 鋳物師 太田辨蔵(弁蔵)重光 明治四拾参年(1910)四月吉辰」銘だ。京都の人が調達役で、「埼玉縣児玉郡藤田村」の施主が奉納している。大きさは口径Φ1.050、高さは910ミリで、150ミリ幅の額縁には、唐草紋様が廻っている。

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江州辻村は、現在の滋賀県栗東市辻だが、そこは太田釜六、田中釜七系統の出身地だ(前17項前18項ほか)。この「太田弁蔵」もその系統であり、昭和時代初期まで活躍した鋳物師だ。文政11年(1828)刊の「諸国鋳物師名寄記」を見ても、辻村の欄に記載されている「太田姓」は9人と多い。

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●かつての辻村からは多くの鋳物師が輩出され、重量物の運搬費用を省くために彼らが全国各地に出店した事で栄えたが、元禄期(1688~)だけをみても、55人を数えている。管轄の膳所藩は彼らの経済力を重視し、天保7年(1836)には、移住と見なされる家族同伴での出店を禁止するお触れを出すほどであった。

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そんな中、辻村に留まり営業していた代表格が太田西兵衛家で、そこから出た太田庄兵衛は、三河国平坂に出店していたが、幕末には辻村にも工場を構え、真継家(前40項)から鋳物師職許状を受けた安政4年(1857)、そこを4男の猪三郎に任せている。

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●猪三郎は、明治6年(1873)1月に33才で早世している。実子の甚之助が幼少であったため経営が立ち行かず、明治20年頃(1945)、これを継承したのが弁蔵の太田鋳造所であった。弁蔵は、西兵衛家の枝流の太田三郎兵衛家の出だ。

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安政元年(1854)生まれの弁蔵は、90年という長寿を全うし、昭和19年(1944)に没している。よって、ここ高尾山本社の天水桶は、弁蔵56才の時の最盛期の鋳造作品だ。弁蔵没後の運営は、子の邦三郎か弁次郎であったろうか。鋳造所は一時、島津製作所などの下請けを担っていたりしたが、昭和36年(1961)に閉じられ4世紀に亘った辻村の鋳物業界は終焉を迎えている。

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●弁蔵の遺作としては、栗東市辻の井口天神社に奉納された鉄湯釜(明治19年)、成等山正覚寺には、昭和23年(1948)に鋳られた口径72cmの梵鐘、栗東市出庭の薮林山従縁寺にも梵鐘などが残されている。なおこの弁蔵に関しては、滋賀県栗東市小野の栗東歴史民俗博物館の資料を基に編集した。

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また、太田鋳造所の古写真は、「栗東蹄鉄 古美術フリーギャラリー」さんのホームページで見られる。さらに、後91項後117項でも「太田鋳造所」が登場してくるが、同一事業所であるのか、その関連は判らない。

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●さて話を本社に戻すと、左右の外側の天水桶は、1基づつを別々の川口鋳物師2名が鋳造している。川口鋳物師がここで手掛けた天水桶の来歴を、昭和9年(1934)刊行の「川口市勢要覧」で見てみると、後述の2名がそれぞれ、「水盤(天水桶) 一双」を鋳たという記載がある。2基づつ計4基だが、現存は1基づつだ。まずは、社殿に向かって左側の外側を見てみよう。なお、この天水桶は、終項の後132項でも登場している。

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鋳出し銘によれば、願主の「東都神田今川橋 岡崎屋吉兵衛」による「奉納 御宝前」であったが、よく見ると上部の額縁には、「岡吉」という紋様が連続している。この願主は、商家であったのだろうか。詳細は不明だが、たった1人で高額な天水桶を寄進するほどの大家であった事は間違いない。大きさは口径Φ900、高さは800ミリだ。

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●「今川橋」だけをヒントにするならば、前32項で見た、文化2年(1805)当時の江戸日本橋の絵巻、「熈代勝覧(きだいしょうらん)」が参考になるかも知れない。半世紀以上の差異はあるが、絵巻は、日本橋川に架かる日本橋(後89項)から、神田今川橋までの南北約7町、764mを東から俯瞰している。付近は荷揚げするのに好都合な河岸で、瀬戸物問屋が多く存在していたが、もしかするとこの中に、「岡崎屋」の先代が描かれているかも知れない。

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裏側の作者銘は、「武州川口住 御鋳物師 岩田庄助 藤原富定(花押) 萬延二辛酉歳(1861)三月 開帳ニ付納之」と鋳出してある。同氏は、「新宿区須賀町・法輪山勝興寺(前3項) 嘉永4年(1851)10月」さらに、「品川区北品川・音響山善福寺(前13項) 嘉永7年(1854)5月」の桶を鋳造している幕末の勅許鋳物師で、川口鋳物師らの頭領格でもあった。

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●堂宇に向かって右側の外側の桶には、「鋳物師 川口住 市右衛門」とあるが、これが鋳造者銘で、「萬延二辛酉年(1861)二月」製だ。先ほどの岩田とほぼ同時期の鋳造であるが、なぜわざわざ2人に分けて鋳造させたのであろうか、気になる所だ。大きさは口径Φ910、高さは840ミリとなっている。

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さらに気になるのは、真ん中に「小網町三丁目 釜屋浅右エ門和長(花押)」とも鋳出されている事だが、かつて銅鉄物を扱う商人は「釜屋」を自称していた事もある。受注したのは浅右エ門であり、鋳物師よりも名を大きく記しているが、詳細な住所を鋳出している事からも、宣伝を兼ねているものと判断できる。(後94項参照)

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●この3尺サイズの天水桶は、火消しの「い組」の奉納だ。文字がやたらと大きく目立ち、35ミリも出っ張っているが、文字だけを別に鋳造し、取り付けているのだ。額縁の幅は140ミリだが、い組の纏(まとい)の紋様は、芥子(けし)の実に枡を型取ったものである事から、「芥子枡(消します)の纏(まとい)」を意味しているのであろう。それが外周を廻っている。

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い組は、享保期(1716~)には、お江戸日本橋を中心に受け持ち、500名もの人足を抱えた大所帯であった。有名な纏は、大岡越前守が考案したと伝えられ、丸い「ケシの実」とその下の四角い「升」で「消します」を表すと言う。画像の半纏にも見られるように、い組の文字の意匠は、現在も連綿として受け継がれているようだ。

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●この「鋳物師 市右衛門」の天水桶には初めて出会った。どんな人なのだろうか。画像は、川口市金山町の川口神社(前1項)にある狛犬(後67項)だ。今は現役を引退し、建屋の中で歴史を伝えている。

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説明文にあるように、台座の横に「文久元年(1861)11月 世話人 海老原市右エ(衛)門」という陰刻が見られるが、この人の事であろう。なお天水桶を鋳造した、万(萬)延の元号は2年2月19日までで、その後、文久に改元されている。

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●またかつて、同神社にあった鉄の鳥居、鉄華表にも全く同じ名が見られたという。これは、明治11年(1878)1月に川口鋳物師の永瀬庄吉(後104項)が鋳造していて、当サイトにも度々登場する多くの鋳物師達の名と共に、世話人として記録されている。

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あるいは、明治19年10月18日付の、浅草廣栄堂の廣瀬光太郎が刊行した、「東京鋳物職一覧鑑」の「川口鋳物職一覧之部 吹元」の欄には13名の記載がある。見難いが、その最下段の左から4人目に「ナベ(釜製造) 蛯原(海老原)市右衛門」と見える。「吹元」は送風装置である「たたら」設備を保有していた訳で、それなりの所帯の工場であったのだ。(後43項後67項参照)

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●ところで、高尾山山頂は標高599メートルだから、中腹の薬王院の位置は500メートル程度だろうか。幕末の鋳物師達は完成した重い天水桶を牛車で運搬したのであろうか。だとすれば、今日のアスファルト路など無かろうし、上述のケーブルカーの開通は昭和2年(1927)であり、搬入設置は、かなりの日数、人工を割いての大仕事になるはずだ。

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ならば、出吹き(前10項)であったのだろうと考えられる。現地に道具類や資材を運び込み、出張鋳造したのだろう。これにもそれなりの人工が必要だが、川口鋳物師・岩田庄助と(海老原)市右衛門は、それぞれが人工を派遣し合い、共同で仕事をこなしたのだろう。

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もっと言えば、互いの人工は同郷のよしみで、滞在中は寝食を共にし、酒も酌み交わしたろう。双方の発注主の意向は当然あったはずで、意匠に近しいものは見られないが、相互にライバル心を燃やし、一緒にタタラを踏み合いながらも、技術を競い合ったとも想像する。

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この出吹きだと滞在費用も掛かることになるが、遠方、高所への重量物の運搬は不可能だと考える時代であったのだ。これなら、2者の銘が存在する理由の説明にもなる。完成時期も、萬延2年(1861)の2月と同3月であったから、ほぼ同時進行だ。鋳出し遺された2種類の文字は、川口という同一地域内での協調体制が密であった事の証明とも言えよう。つづく。