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●茨城県牛久市久野町に牛久大仏が鎮座している。像高100m、全高120mの青銅製大仏立像として、ギネスブックには世界一として登録されている。施工は、橋梁建設を得意とする川田工業であったが、平成4年(1992)12月に完成している。東京都台東区西浅草の浄土真宗東本願寺派、本山東本願寺によって造られ、その姿は同派の本尊である阿弥陀如来像の形状を拡大したものという。

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ウィキペディアによれば、『東本願寺の開創は、1651年(慶安4年)、東本願寺第12世教如が神田に江戸御坊光瑞寺を建立したのを始まりとし、その後、京都の東本願寺の掛所(別院)となった。1657年(明暦3年)、明暦の大火により焼失し、浅草に移転。「浅草本願寺」、「浅草門跡」と称されるようになり、21の支院と35の塔頭を抱え、境内は1万5000坪に及んだ。

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その伽藍は、江戸後期の天保年間に出版された浮世絵師・葛飾北斎の連作「富嶽三十六景」に「東都浅草本願寺」として描かれている。1868年(明治元年)には、渋沢成一郎や天野八郎などの旧幕臣ら百数十名により、大政奉還後、上野寛永寺に蟄居していた徳川慶喜の擁護を目的とする「彰義隊」が結成され、その拠点となった。』という。

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●ここの総高302cmという巨鐘は、区の登録文化財だ。同区によれば、「銘文に寛永7年(1630)12月28日の紀年銘があります。鋳物師は明らかではありませんが、撞座や龍頭、下帯にある唐草文の意匠から、江戸時代初期に活躍した鋳物師、長谷川越後守(前7項前35項前99項)による鋳造と推定されます。

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長谷川越後守を名乗る鋳物師は、吉家と家吉が知られており、いずれも十七世紀に活躍しています。特に吉家は元和・寛永期に作例を残しており、本鐘も長谷川越後守吉家によって鋳造されたと考えられます」という。

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また、ここでかつて川口鋳物師が手掛けた天水桶の来歴を、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」で見てみると、「天保2年(1831)10月 永瀬源内(前3項前14項)」と「同初冬 永瀬源内 藤原富廣」となっている。それぞれの時期に1対づつ、計4基を鋳たようだが、これらは現存しておらず、現在はコンクリート製の天水桶となっている。

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●さて、説明書きには、「大仏様のお顔は、この模型の1.000個分のボリュームに相当します」と書かれている。立像の高さとしては世界で3番目だが、配布物の中で比較されている通り、15mの奈良の大仏が掌に乗り、米国の40mの自由の女神像の実に2倍半の大きさだ。この阿弥陀如来は、方便法身の大尊形として顕現されたもので、台座を含んだ120mという高さは、12の光明にちなんでいる。

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本体主鉄骨3千トン、表面の外被銅板は1千トンで、左手の長さは18m、親指の直径は1.7m、顔の大きさは20m、螺髪(らほつ)は1個1mで480個もある。螺髪は、仏像の丸まった右巻きの髪の毛の名称だ。大仏の螺髪の個数は定まっておらず、東大寺大仏は492個、飛鳥大仏は700個、鎌倉大仏は657個だという。

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●建築は、主に高層ビルで用いられるカーテンウォール工法が採用されているが、仏像本体は20段の輪切り状に分割設計されていて、それぞれの輪切りのブロックに青銅製の板が溶接されている。仏像表面の6千枚の青銅板は樹木の葉のように浮いているだけであり、その厚みは、6ミリだという。

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この右側の頭部の模型は紙製で、スケール1:30だが、実物はL型のアングル鋼で構成された立体トラス構造だ。この組み立てには、600トンの揚重能力を持つクローラークレーンが使われている。

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大仏の胸部にあたる地上85mまではエレベーターで昇る事ができ、周囲の景色を展望することができるが、美観の問題から展望台は設けられておらず、スリット状に設けられた小窓から見ることになる。はるか向こうの下に見えるのは、「発遣門」だ。この門は、お釈迦様と大仏様が向かい合い、我々を導く門だという。

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●大仏までの参道には、天女が舞い、阿吽の龍が飛び交うデザインの喚鐘がある。「平成5年(1993)6月1日響廣 25世 釈興如光紹」銘で、「牛久阿弥陀大佛 慶讃法要記念」として設置されている。鋳物師は、「滋賀県湖東町長(おさ) 金寿堂 黄地(おうち)佐平」だ。

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「長」は、かつての長村で、鋳物師が活躍した地域であったが、滋賀県愛荘町東円堂にある東漸寺の梵鐘には、「康暦元年(1379)12月11日 鋳師大工長村 道欽(どうきん)」と見え、歴史を語っている。その鐘は2尺1寸で、現在も現役を続行していて、朝夕に妙音を響かせているという。

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この「日本一」を謳う大香炉も黄地の作で、同時に置かれている。大きさは最大外径2.7m、高さは2mという巨大さだ。3匹の獅子頭が重みを支え、開口部の上下には、蓮花弁がぐるりを廻っている。金寿堂は、梵鐘づくりでは700余年の伝統という老舗だ。韓国の覚願寺向けには、同国最大級の梵鐘を鋳ていて、口径8尺2寸というから、Φ2.4m強、重量は5.200貫、約2トンだという。

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●黄地の作例としては、前21項で画像の茨城県龍ケ崎市下町の龍ケ崎観音で常香炉を、前34項では、台東区橋場の無量山福壽院で青銅製のハス型天水桶を見ているし、前86項では、所沢市上山口にある狭山山不動寺や沼田市材木町の慈眼山舒林寺(じょりんじ)で、「滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平 謹鋳」銘の梵鐘を見ている。それぞれ「昭和35年(1960)1月30日」と「昭和46年(1971)3月」の造立であった。

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あるいは、前96項の墨田区横網の慈光院では、「昭和34年(1959)3月10日」製の同銘の梵鐘を見ている。また、埼玉県羽生市上新郷の曹洞宗、高木山祥雲寺には、次の画像の「平成4年(1992)12月8日 鋳匠 滋賀県 黄地佐平」と陰刻された鐘もある。

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●さらに下の画像は、井伊直政の正室・唐梅院の墓所がある、群馬県安中市にある浄土宗、無辺山唐梅院大泉寺の梵鐘だが、「滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平 謹鋳」と記されている。この銘は凸の陽鋳造で、目立つ縦帯(前8項)に見られる。戦時に金属供出(前3項)し、その後、再鋳された旨の長文の銘が刻まれ、多くの寄進者名が並んでいる。池の間に舞う天女は、牛久大仏前のものと同じようだ。

安中・大泉寺

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あるいは、茨城県水戸市酒門(さかど)町の遍照山善重寺。水戸宰相光圀公寄進の、鎌倉期の聖徳太子像は、国の重文に指定されている。「昭和29年(1954)6月」だから、戦後の早い時期の鋳造だが、やはり、「鋳匠 黄地佐平 謹鋳」銘だ。この1口(こう)もそうだが、作例の多くには天女の舞が見られ、形状的には、なで肩で艶めかしいのが特徴と言えようか。

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●埼玉県吉川市吉川の真言宗智山派、宝光山地蔵院延命寺には、黄地の最近の梵鐘がある。掲示によれば、寺は、永仁3年(1295)に清仙が開基したと伝えられる古刹で、本尊は子安延命地蔵尊だ。慶安元年(1648)9月には、祈願所として江戸幕府より寺領10石の朱印状を受領、近郷に末寺など22ケ寺を擁した中本寺格の寺院で、古利根川三ケ寺と称されていたという。

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本殿への階段脇には、「平成16年(2004)新盆 寄付」という10枚葉の青銅製の天水桶1対がある。かなりの縦長形状で、三つ葵紋が据えられていて、存在感があり見映えがいい。銘は刻まれていないが、鋳造者は、愛知県岡崎市羽根町のムラセ銅器(前84項)だ。同社のページを訪れると、この写真が掲載されているのだ。この花は蓮華では無く、同社では「菊割型」としているので、菊の花がモチーフだ。

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梵鐘の銘は、「願主 第48世 中僧正英世代」で、「東京浅草 翠雲堂 謹製」、「鋳匠 黄地耕造」、「平成20年(2008)秋再々鋳」となっている。金寿堂は耕造氏が事業を後継したが、病のため、今は黄地浩氏が切り盛りしているようだ。翠雲堂(前59項)の社名が見えるが、現在では同業者間でのコラボも盛んなのであろう。

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●知り得る限り、関東地方で戦後の早い時期に手掛けられた黄地製の銅鐘を2例だが、まずは、神奈川県南足柄市大雄町の大雄山最乗寺だ。境内には多くの青銅製の樽型天水桶や蓮華型手水鉢があるが、画像は、ここ大雄山の開祖の了庵慧明禅師らの、金剛寿院と呼ばれる開山堂だ。

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水中花が風流な青銅製の天水桶だが、「昭和37年(1962)7月 東京築地 佃政会」の奉納で、周囲には多くの人名が並んでいる。この会は、本堂前でも昭和29年(1954)にハス型の1対を奉納しているが、いずれも作者は不明だ。

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なお、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「文政元年寅年(1818)9月 永瀬嘉右衛門(前15項後121項) 天水桶1対」という川口鋳物師の鋳造記録が見えるが、これは現存しないようだ。

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●開山堂の隣に鐘楼塔があり、口径1mの梵鐘が下がっている。都内の建設会社が寄進しているが、「維持 昭和24年(1949)5月初5日」と陰刻され、さらに別面に、陽鋳造もされている。黄地の(株)金寿堂は、大正6年(1917)の創業で、昭和24年8月に株式会社に改織しているが、その直前での鋳造であった。

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縦帯の高い所に、作者名の陽鋳文字がある。通常、銘が位置するのは下端であり、あるいは内側であるが、ここのは異例の場所だ。銘は「滋賀県愛知郡長村 鋳匠 黄地佐平 作之」となっている。現在の金寿堂の所在地は、滋賀県東近江市長町だが、「長村」と刻まれている貴重な1口であろう。

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●もう1例も最古の部類で、宇都宮市材木町の浄土真宗本願寺派、北游山華岳院安養寺(前91項)の梵鐘だ。登壇できず近寄れないが、銘は同じく「滋賀県愛知郡長村 鋳匠 黄地佐平 鋳之」となっている。昭和の戦時に金属供出(前3項)した事が刻まれているが、「第25世 住持 釋洪範 昭和22年(1947)1月」であり、知る限りでは戦後最古だ。供出後のかなり早い時期に再鋳された訳だが、檀信徒のまとまりがいい寺院のようだ。

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●さて、牛久市牛野町には、威徳山観音寺がある。寺が創建されたのは、鎌倉幕府が承久の乱(1221)をきっかけとして全国に強大な権力を持つようになった時代とされるが、誰が創建したのかは不明という。

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大永5年(1525)建立の本堂や仁王門、本尊の木像十一面観音坐像は、県指定の文化財だ。県によれば像は室町時代の作で、檜寄木造、全面に錆漆下地(さびうるししたじ)を施し、中国宋代の仏面を手本とする宋風彫刻で、特に納衣(のうえ)の金泥盛り上げ彩色は価値のある作品という。

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●ここの梵鐘の鋳出し文字は、長い歴史を語っている。「初鋳 慶安3年(1650) 改鋳 寛保元年(1741) 再鋳 昭和61年(1986) 現住 順廉代」とある。先の仁王門の像は、棟札から慶安3年造立の大日尊像というが、それに合わせての「初鋳」だったようだ。

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「改鋳」された鐘は、ホムペによれば、「戦時に金属供出した梵鐘の重量245Kgの代金は、219円83銭だった」といい、無償ではなかったことが判る。そして「再鋳」の鐘は、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ(衛)門」作だ。

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●うっかり「おたべ」さんと読んでしまいそうだが、「こたべ」さんだ。近辺では双方の呼称があるようだが、メアドを見ても、この鋳物師は、「kotabe」さんとなっている。当サイトでは、前21項に全ての作例のリンク先を貼ってあるが、前47項後119項などで多くの作例を見ている。

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文政11年(1828)の「諸国鋳物師名寄記」や、文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」などを見ても、「常陸国 真壁郡田村」の項には、「小田部姓」しか登場しない。

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●人名録には、「小田部庄右衛門 弘化4年(1847)8月28日口宣案 藤原盈益 河内大掾(だいじょう)」と記されている。「口宣」は、天皇や太政官の命令を伝達する文書の意味で、「掾」は、職人などが受ける名誉号であり、特に「大掾」は最高位と言える。藤原姓(前13項)を賜った、御用達の勅許鋳物師であった訳だ。

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並んで、「安永4年(1775)3月 小田部助左衛門分家」とあり、助左衛門が本家であったのだろうか、やはり、「藤原胤友 常陸大掾」を名乗っている。「天福元年(1233) 御牒御紋本紙 天正6年(1578)3月 藤原朝臣吉久壱左衛門尉 慶長12年(1607) 勅印本紙」と見え、由緒の深さがうかがえる。

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●上下の画像は、茨城県桜川市真壁町田で営業する、関東で唯一という梵鐘や天水鉢鋳造元の小田部鋳造(株)だ。屋根の上には、金属の溶解設備のキューポラが見えるが、現在も現役なのだろうか。平成13年(2001)8月には、主家と門、南北の土蔵が、登録有形文化財に登録されている。第08-0056~0059号だ。

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門前には、本体の口径と高さが1mほどの鋳鉄製の天水桶1基が据えられている。「用水」と鋳出されている消火用水桶で、家紋であろうか、「七曜紋」が見える。設置は、「昭和32年(1957)4月」と裏側に鋳出されている。

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外に置かれていたこの金枠で、天水桶の砂型を作るのだろう。中側には赤いレンガ状のものが焼き固められ詰まっている。

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●七曜の家紋の下のくびれた部分に、見逃してはならない紋章がある。その左右に葉を描きこんだ「菊の御紋」だが、16枚葉の皇室の正式紋だ。同家によれば、「日本で唯一、菊の紋章の使用が許されております」という。その起源だが、鎌倉時代の建久年間(1190~)の後鳥羽天皇の御代に、鎌倉の某寺に勅命の銅鐘を納める際、この御紋が入れられている。以来、勅許鋳物師小田部家の「勅許紋様」となっている訳だ。

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菊紋は、先の威徳山観音寺の梵鐘の下部、草の間にも見られるが、外周に連続している。小田部鋳造のホムぺによれば、『鋳造する梵鐘は銅と錫の合金で出来ており、重く余韻のこもった響きを持つのが特徴です。

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納めた先の風土にあった自然の緑青が付く為に、着色を一切しない「お化粧しない鐘」として全国でも数少ない鋳肌仕上げとなっております。そのため、年を重ねるごとに深味のある独特の色を増す事になります』という。

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●道路を挟んだ直ぐ向かいには、天明2年(1782)創業の「西岡本店」という酒蔵がある。近江地方出身の、初代西岡半右衛門が常陸国真壁郷にて酒屋質蔵「近江屋」を創業、昭和26年(1951)に商号を(株)西岡本店とし、平成22年(2010)には、8代目を数える西岡勇一郎氏が当主となっている。

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「花の井」ブランドの醸造元だが、井戸のたもとにあった見事な桜の木が命名の由来だという。土産に買い求めたが、関東の名峰、筑波山の伏流水が作り出す名酒だ。ここも店舗や脇蔵、米蔵が文化財として登録されている。

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ここの販売所で、小田部製の梵鐘型鉄風鈴を購入できる。鋳鉄製、2.5寸の茶褐色で、池の間には2人のオリジナルの天女がいて、草の間には「健康長寿 家内安全」と鋳出されているが、澄み渡る音色には、心底癒される。

真壁・西岡本店

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●では、小田部製の天水桶を見てみよう。栃木県下都賀郡野木町野渡の萬福寺は、山号を西光山、院号を乾亨院としている。戦国の明応年間(1492~)に開かれた曹洞宗の禅寺で、古河公方足利成氏(しげうじ)が建てたといい、墓もここにある。

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辞書によれば、成氏は、室町時代から戦国時代の武将で、第5代鎌倉公方、初代古河公方だ。父の持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の享徳の乱を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担ったという。

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●本堂は江戸期の火災後、安政元年(1854)に再建されているが、現在の新しい社殿は、平成21年(2009)11月に新築工事を始めている。手入れされた芝生が清々しい境内で、石畳を進んでいくと、真新しい青銅製の天水桶が出迎えてくれる。

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足利家の「丸に二つ引き両」が1対の前面にあり、「本堂落慶記念」として、「平成22年4月吉日」に奉納されている。「当山28世 義雲正孝代」の時世で、刻まれた銘は、「茨城県真壁町 御鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」作だ。

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●茨城県水戸市栗崎町の湧石山佛性寺(前80項)は、天長年間(824~)、慈覚大師円仁の創建で、第53代淳和天皇の勅願所であったとされる。本堂は全国唯一の八角円堂で高さは11m、梁に残る墨書から天正13年(1585)の再建で、当時、水戸城主であった江戸氏の家臣として栗崎を治めていた豪族の立原伊豆守政幹によるという。

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お隣の拝殿前に1対の青銅製天水桶がある。正面に三つ葉の葵紋が描かれ、裏には寄進者名が並んでいる。作者は、「茨城県真壁町 御鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門 平成15年(2003)12月吉日」だ。

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●千葉県香取市牧野にある、妙光山観福寺。寛平2年(890)、尊海僧正の開基といい、弘法大師像が安置されていて、川崎大師平間寺(前24項)、五智山西新井大師(後116項)とともに「日本厄除三大師」と称される。本尊は、平将門の守護仏とされる木像の聖観世音菩薩で、秘仏となっている。

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鋳造された銅造懸仏は、元来、下総国一宮香取神宮(前108項)の本地仏として安置されていたもので、国の重要文化財だ。これは、明治期の神仏分離にともなう廃仏毀釈前63項で放出されていたものを、地元の旦那衆が買い上げここに安置したものという。

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●自ら歩いて日本初の精密な地図を作製した、伊能忠敬(前101項)の墓地があることでも知られているが、千葉県九十九里町で生まれ、文政元年(1818)に73才で没している。遺言により遺体は、台東区東上野の五台山源空寺にある幕府天文方の高橋至時の墓所に葬られていて、ここには参り墓として、遺髪と爪が埋められている。戒名の刻みは、「有功院成裕種徳居士」だ。

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1対の桶は青銅製で、「興教大師八百五十年 御遠忌記念 再鋳」として、「平成5年(1993)3月」に個人により奉納されている。紋章は「九曜」のようで、大きさは口径Φ1.350、高さ950ミリの4尺サイズだ。銘は「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門」と鮮明に鋳出されているが、再鋳前の天水桶も小田部製であったのだろうか。

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●次は、茨城県常陸太田市宮本町の若宮八幡宮。応永年間(1400年頃)に、武将の佐竹義仁が、神奈川県鎌倉市の鶴岡八幡宮(後127項)より勧請し、関東七名城の太田城内に祀り守護神としたのが始まりで、大鷦鷯命(おおささぎのみこと)、つまり仁徳天皇を祭神としている。扁額の文字は、明治期の政治家にして軍人の、「有栖川宮熾仁(たるひと)親王書謹写(前101項)」だと記されている。

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口径3尺8寸、Φ924ミリの青銅製の天水桶1対は、「平成15年(2003)春季例大祭」と「平成御造営記念」を兼ね、役員有志が奉納している。例大祭は、神様を移した神輿が街中を練り歩き、天下泰平、諸業繁盛を願う祭典だ。

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「茨城県真壁町 御鋳物師 三十七代 小田部庄右エ門」作で、奉納者の銘よりも少し控えめに小さく鋳出されているが、この表示スタイルはいつもブレる事無く一貫しているようだ。

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●最後は、茨城県那珂市額田北郷にある鹿嶋八幡神社だが、鹿嶋神と八幡神の二大神を奉っているためこの名がある。鹿嶋宮は、大同元年(806)、51代平城天皇の時に御祭神の武甕雷男神(たけみかずちのみこと)を奉遷、八幡宮の御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)だ。

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元禄7年(1694)、徳川光圀公が2宮を合祀し社殿を改築、「額田神宮」の称を承り、国家安泰・五穀豊穣を祈願し参拝している。この俗称は、今でも呼び習わされているが、明治6年(1873)に、現在の鹿嶋八幡神社に改名されている。(ホムペより抜粋)

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●ここの堂宇前には、計4基の天水桶がある。このような配置は初めて見たが、小田部製の鋳鉄製の天水桶に出会うのはこれで20例目だ。奥の外側にある1対は、「奉納」の文字だけでのっぺりしていて少し違和感があるが、本来は何かしらの紋章があったのだろうか。

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願主は現地の建築業の方で、「昭和59年(1984)1月吉日」の設置であった。鉄製の台座付きで900ミリ、3尺ほどの大きさだが、「茨城県真壁町 鋳物師 三十六代 小田部庄右エ門」銘と表示されている。

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●内側のもう1対には台座がなく、正面に「巴紋」が鋳出され奉納されている。やはり36代小田部製だが、奉納者が、裏側にビス止めされた銅板に奉納理由を刻んでいる。片仮名を直して読んでみよう。

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「曽祖父亀三及び大叔父主一郎、嘗て(かつて)、鉄製天水受一對(対)を奉る。後年大東亜戦争中、回収されるや、兄亀三(守長)志をつぎ、昭和19年(1944)、コンクリート製代替品を以って之を奉るも、損傷せしため、今日鉄製を以って之を奉る。」

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●「平成元年(1989)6月吉日 関宗長 敬白」だが、守長が、宗長の兄なのであろう。ここ那珂町の関宗長(1927~2015年)は地元の名士で、茨城県議会名誉議員だが、昭和47年(1972)には第66代議長を努めている。茨城県弓道連盟名誉会長も歴任していて、範士八段であったという。

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戦時に金属供出(前3項)した天水桶は、どんな意匠だったのだろうか。近辺は、鋳物師小田部のテリトリーだ。先代の桶も小田部製であったろうが、35代目の手による作品だったのだろうか。次回も同鋳物師について検証したいことがあるので、続けよう。つづく。