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●最近出会った天水桶を見ていくが、その前に、「桶」という呼称について再確認しておこう。鋳造関係者に言わせると金属製品であれば、「天水鉢」と呼ぶのが相応しいらしい。

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なるほど、「鉢」は金偏で構成されている漢字だから、道理だ。「桶」は木偏だが、このサイトではそれで統一してきている。雨水(天水)を受けるそれらは、金属製のものあり、木製あり、石製ありであるが、なぜ「桶」なのか。
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●大田区池上の長栄山池上本門寺の天水桶が登場した、前22項でも多少触れたと思うが、天水桶発祥の歴史を尊重しているからだ。つまり、火事が多かった江戸の町々に出された法度により、雨水受けの設置が義務付けられたのだ。

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例えば、安永年間(1772~)頃のことであったが、「・・壱町片側に参拾、両側六拾・・」などと数量まで明記されている。1つの町に合計60個もの天水桶だからかなりの数量だ。

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法度の中では、「水溜桶」などという表現も見受けられるが、町民たちは当初、上方から下ってきて空になった「酒樽(前22項)」を再利用して設置したのだ。時は流れて、現代の寺社では、寄贈者の石碑や桶表面の文字などを見ても「天水桶」という表現が多い。

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●では、「樽」がなぜ「桶」になったのか、私見を述べてみよう。酒樽は本来、酒樽として再利用されてしかるべきだが、如何せん上述のように大量だ。必然、雨水受けが不足してきた。しかし、足りませんでは済まされない。御法度があるからだ。だから町民たちは、桶職人に製作を依頼したのだろう。
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これが「天水桶」と呼称され始めた理由だと思われるが、再利用ではなく、雨水受け専用製品の登場である。さらには有事に、貯水を便利に利用できるよう、桶の上に小さい手桶を載せ、その上に山型の屋根をかぶせる風習も生じてきたに違いない。

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いつしか檀家や信徒による寺社仏閣への奉納という文化が生まれ、やがて長寿命、かつ、寄贈者名や日付、鋳物師名を鋳出す事ができる金属製品が登場したのだが、呼称は「天水桶」のまま残ったのであろう。


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●さてまずは、足立区六木(むつぎ)の六木諏訪神社。元亀年間の1570年頃より地域の守護神として祀られているという。明治12年(1879)、六ツ木村内にあった第六天社と称されていた高木神社を合祀し、大正時代には、現在の本殿が建設されている。

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御祭神として建御名方神を祀っているが、境内社として、胡録神社、稲荷神社、北野神社が鎮座している。天水桶1対は、「昭和58年(1983)正月」に造立された青銅製だ。裏側には、「氏子総代」をはじめ、多くの寄進者名が並んでいる。

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●江戸川区一之江にある金嶋山等覚院妙覚寺は、弘安7年(1284)の創建で日蓮宗の寺院だ。同区登録の有形文化財である、「紙本墨書大曼荼羅(二幅)」という曼荼羅がある。教育委員会の説明によれば、曼荼羅は、諸尊の悟りの世界を表現したもので、一定の方式に従って多くの仏や菩薩の像を描いた図のことだ。日蓮宗の曼荼羅(前27項など)は、各尊師を文字で書き表しているという。

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本堂前に、コップの形状のような下細りでスッキリしたデザインの青銅製の天水桶が1対あり、正面には日蓮宗の宗紋が浮き出ている。額縁部分には、唐草であろうか、植物紋様が廻っている。大きさは口径Φ930、高さは1.040ミリだ。

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「昭和50年(1975)10月24日」の日付が見られるが、鋳造者名は不明だ。檀家の奉納であるが、「金嶋山妙覚寺 第34世 露木日真代」の時世であった。


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●三鷹市下連雀(れんじゃく)にある八幡大神社は、地域の守護神として住民の厚い信仰を集めているという。3本の鈴緒が連なっていて、一度に多くの参詣者を迎えられる気配りであり、住民信仰の厚さを推し量れる。

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ここには、安定感のある樽型の1対の青銅製天水桶があるが、「昭和49年(1974)5月吉日 下連雀 八幡大神社 氏子中」の奉納だ。正面真下に構えている脚部の意匠も凝っていて、こだわりが感じられる。

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●ところで、「連雀」という地名の由来はなんであろうか。境内にある由緒書きを要約してみよう。『明暦の大火(1657年)の後、幕府は罹災者に対し、新田開拓農民となることを奨励して代替地を供与した。

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それに従い、時の「神田連雀町」の住民25人と家族は、三鷹のこの地に移住した。当初「連雀新田」と称したが、寛文4年(1664)に「連雀村」に改められ、更に武蔵野に新田が多く成立するに及んだ享保年間(1716~)に「下連雀村」になった』とある。
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その「神田連雀町」は、千代田区によれば、『江戸時代の初め頃より筋違御門の内側、後に八ツ小路と呼ばれた地に、連尺をつくる職人が多く住んでいたことから、「連尺町」の名前が付けられ、やがて「連雀町」の字があてられた』という。

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連尺とは、物を背負う道ときに用いる荷縄、またはそれを取り付けた背負い子(しょいこ)の事。現在「神田連雀町」は、「須田町」や「淡路町」に改称されたが、戦災で焼け残り、神田やぶそば、神田まつや、竹むら、あんこう鍋のいせ源など、歴史的建造物が軒を連ねる地域として知られる。

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●群馬県高崎市宮元町の頼政(よりまさ)神社。狭い境内の中には、聖書研究で知られる内村鑑三の記念碑があるが、烏川を望むこの地は、鑑三の思い出の地であるという。碑文には英語でこうある。「自分は日本のために 日本は世界のために 世界はキリストのために 凡ては神のために」と。

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神社名の源頼政公は、源家の正統に生まれた平安末期を生きた武将にして歌人であったが、保元、平治の乱に功を立てた後に剃髪し、源三位入道と称した。その後、平氏の追討を図るが事破れ、治承4年(1180)、宇治平等院で自刃している。

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ここの天水桶1対は、青銅製で作者は不明だが、「昭和55年(1980)1月吉日復元」とあるので、2代目であろう。正面に「片喰紋」を鋳出した独特な形状だ。植物の片喰は、根付くと絶やす事が困難で、「家が絶えない」に通じることから、武家では、家運隆盛の縁起担ぎの家紋として多用されている。

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●東京都町田市森野の長瀧山妙延寺は、境内の石碑によれば、永和2年(1376)に渋谷左近尉重宗が開基、池上本門寺第4世日山の弟子日顕上人が、応永2年(1395)に創建したという。元禄16年(1703)に安置された日蓮聖人の満願祖師像や不動明王(前20項)、愛染明王などの仏像を収蔵しているが、本尊は、聖人が尊定したという大曼荼羅だ。

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堂宇前の鋳鉄製の1対の天水桶は、欧風のベルを逆さにしたような形状となっていて、見かけた事が無い意匠だ。口径はΦ900ミリ、高さは750ミリで、正面に大きく、井桁に橘の日蓮宗紋が据えられている。作者の銘が見当たらないのは残念だ。

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背面には、「昭和42年(1967)5月20日」と陽鋳造されているが、「妙延寺 四十二代 日仁」の時世であった。檀家が、先祖代々の諸精霊や菩提供養のために、石の台座と共に奉納している。「納主 渋谷重徳」と刻まれているが、開基の渋谷左近尉重宗と縁ある方であろう。

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●鐘楼塔に掛かる梵鐘を見てみよう。高い位置にあって近寄れないが、全自動撞木(後120項)が備わっているようだ。定時に打鐘されるのであろうか。

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望遠撮影してみると、上部の笠と、下部の駒の爪の口径差が少ない寸胴型だ。池の間(前8項)に雲模様が配され、天女が舞っているデザインで、「一天四海 皆帰妙法 末法万年 広宣流布」と陽鋳造されている。「南無妙法蓮華経」という日蓮宗の教義を世界に広めようというお題目だ。

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「開宗750年記念平和梵鐘」として銘文が刻まれ、「維持 平成7年(1995)3月吉日 長瀧山 43世 日延」の時世下に設置されている。鋳造者銘は、「近江 西澤吉太郎 鋳造」となっている。近江国は、今の滋賀県に相当する地域だが、この地で関西系の鋳物師の作例であるが、どんな鋳物師であろうか。

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●西澤は、昭和5年(1930)、滋賀県の生まれで、五個荘鋳物師と言われる人だ。東近江市五個荘三俣町で、代々に亘り梵鐘造りを中心に鋳物師の頭領として活躍してきた一族で、「吉太郎」名は世襲されている。運営する(株)西澤梵鐘鋳造所は、「宣伝はしてはならない 看板を出してはならない 鳴り物以外は作ってはならない」とし、一子相伝の技法を今に守り伝える名匠だ。

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明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」を見てみよう。「近江国神崎郡三俣村」の欄に「西澤弥治右衛門」の名が見える。吉太郎の先祖だ。この時点では、「安政4年(1857)12月 休職ニツキ許状預リ」となっているが、京都真継家傘下(前40項)の勅許鋳物師であった。

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作例を見てみよう。まずは、滋賀県彦根市松原の浄土真宗本願寺派、千松山松原寺の梵鐘だ。ホムペによれば、ここは、室町時代に天台宗の小坊舎として始まり、天文16年(1547)、浄土真宗に転派し本堂を再建。これを松原道場と名付けている。琵琶湖の東岸、彦根城のすぐ北側に位置し、近くからは名勝史跡の竹生島への船便が出ている。

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「昭和22年(1947)之秋」という終戦直後の鋳造で、銘は、「近江國神﨑郡三俣 西澤吉太郎 鑄造」となっている。当然、関西周辺での設置が多かろうが、ネット上で見てみると、「京都七条 若林仏具製作所」という所に所属していたこともあったようで、その銘も散見できる。

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●関東地方でも見かけるが、埼玉県鴻巣市笠原の真言宗智山派、杏林山東光寺では、鐘の内側に、「光秀堂謹納 西澤吉太郎 鋳造」という銘も見える。造立は、「平成7年(1995)8月吉日 開山五百年記念」であった。また、西澤製の梵鐘は国内はもとより、ニューヨークの禅寺にも納められているという。梵鐘の命は音色だ、各地からご指名があるのだろう。

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●茨城県水戸市栗崎町の湧石山佛性寺(後111項)の鐘は、末広がり感があり、池の間には天女が、草の間には龍が乱舞するデザインとなっている。「慈覚大師御生誕 根本中堂創建 壹仟貮百(1200)年 慶讃記念」での設置だ。根本中堂は、ここではなく比叡山延暦寺(後124項)のものだ。

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「平成9年(1997)5月吉日 第61世 純永代」の時世であったが、作者銘は、外周ではなく、内面に陽鋳造されている。「滋賀県五個荘町三俣 鋳匠 西沢吉太郎 鋳造」銘だ。なお、全く同位置に同銘がある銅鐘は、上尾市中分の曹洞宗、小谷山東栄寺にもあるが、造立は「平成12年(2000)1月1日」となっている。21世紀の初日だ。

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●小さ目な梵鐘も鋳ているが、それは、徳川四天王の1人、榊原康政の孫の忠次(寛文5年3月没・1665)が開基したという、都内江東区三好の不動寺長専院にある。退役して展示されているが、大きさはΦ620、高さは1.050ミリで、小さいながら全てに手抜かりが無く、各部が精緻に構成されている。「平成元年(1989)三月佛日」と線刻され、「近江國五個荘 鋳匠 西澤吉太郎」という陽鋳銘が見える。

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●埼玉県羽生市大字上岩瀬の禅宗、瑞雲山岩松寺は、羽生城主の木戸伊豆守忠朝によって天文13年(1544)に建立されているが、草の間には、大きく「夢」という漢字が見える。檀家が望む願念であろう。「昭和50年(1975)9月1日 24世 冨岳道賢代」の時世での設置で、銘文には、戦時に金属供出(前3項)した旨が記されている。

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鐘の内側に興味深い文字がある。「東京浅草 翠雲堂(前59項) 鋳匠 西澤吉太郎」だ。翠雲堂は、台東区元浅草に本社を置く、仏壇仏具製造販売の大手だが、こことタイアップしているのだ。自他共に認められた音色なのであろう。

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●東京都西多摩郡日の出町平井の塩澤山宝光寺には、鹿野(ろくや)大仏が鎮座している。この青銅造釈迦如来坐像は、像高12m、総高18mで60トンという。現存する座仏としては、像高14.7mの東大寺大仏に次ぐ国内第2位の大きさで、同11.3m、121トンという鎌倉大仏(後127項)は、鹿野大仏によって第3位に順位を下げている。鋳造は、山形市の(株)鈴木鋳造所(前27項後124項など)だ。

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ここの梵鐘は、「第32世 昭道代」の時世下、「功徳主 檀信徒一同」により、昭和51年(1976)3月吉日に鋳造されている。鐘楼塔の銘によれば、「東京浅草 翠雲堂 鋳匠 西澤吉太郎」だ。関東近辺では翠雲堂とタイアップした例は多いようで、知り得る何例かを挙げておこう。

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●栃木県宇都宮市清住の松峰山桂林寺は「昭和47年(1972)11月」、都内清瀬市野塩の大醫山円福寺は「昭和56年7月」、茨城県稲敷郡河内町の高騎山勝福寺は「昭和58年10月」、埼玉県入間市小谷田の法栄山東光寺(後108項)は「昭和63年(1988)11月」。

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埼玉県草加市新里の御幣山泉蔵院は「平成14年(2002)11月」、さいたま市見沼区片柳の長昌山万年寺にもあるが、鐘の内外に刻まれた銘は、どれも「東京浅草 翠雲堂 鋳匠 西澤吉太郎」であり、つながりは深そうだ。

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●さて、天水桶に戻って、調布市佐須町の虎柏山祇園寺。ここには、鎌倉時代後期に造られた「僧形八幡神坐像」という文化財がある。高さ20cmと小さいが、数少ない鋳鉄製の神像彫刻として注目されるという。天平年間(729~)に創建されたこの寺は、縁結びの寺として知られるらしいが、その由来が掲示されていた。「祇園寺縁起物語り」である。
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要約すると、「青年・福満との仲を引き裂かれた娘・琥珀姫は、親に池の小島に幽閉されてしまう。困っていた福満は、深沙大王(じんじゃだいおう)に遣わされて現れた霊亀に導かれ姫と再会。結婚を許された二人は、男児・満功(まんく)を授かった。成長すると深く仏教に帰依し、渡唐して勉学後帰国した満功は、布教と両親の菩提鎮魂のため、この祇園寺を建てた」という。

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これまでに見かけたことが無いほどふっくらしたデザインの青銅製天水桶で、大きさは口径Φ1.2m、高さは1.5m
だ。「平成5年(1993)12月吉日」に奉納されているが、戦死した親の50回忌供養のためであった。「陸軍歩兵兵長 昭和19年(1944)11月10日 比島レイテ島リモン(峠)ニテ戦死ス 22才」と刻まれている。

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●同じく調布市深大寺元町の、天台宗浮岳山昌楽院深大寺。開創伝説は何故か、上述の祇園寺の物語と同じだ。福満と琥珀姫の子が、深大寺を開山した満功上人(まんくしょうにん)であるという。親を引き合わせた霊亀を出現させたのが、魔事退散の霊験あらたかな水神の深沙大王だというが、これも同じだ。

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市指定文化財の山門の山号額には「浮岳山」とある。幕末の火災でも消失を逃れていて、その棟札によって、元禄8年(1695)の建立が明らかであるという。他にも見所は多い。飛鳥時代後期、白鳳時代(7世紀)の金銅釈迦如来倚像は国の重文だし、鎌倉時代前期の木造阿弥陀如来坐像は市の有形文化財だ。

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山門前の参道は、いつも多くの人で賑わっているらしい。日本三大だるま市の1つ「深大寺だるま市」や隣接の神代植物園、名物の深大寺ソバにひかれるのだろう。調布市の観光協会によると、江戸時代、土地が米の生産に向かなかったため小作人が蕎麦を作って蕎麦粉を深大寺に献上し、それを寺側が蕎麦として打ち、来客をもてなしたのが始まりといわれるようだ。

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●文政12年(1829)に建てられた旧鐘楼は、幕末の大火で消失し、明治3年(1870)に再建、昭和29年(1954)に銅板葺きに改められている。下の画像の梵鐘は、平成13年(2001)8月の新鋳であったが、富山県の仏具メーカーの老子製作所製(前8項)だ。上部の基壇上には反響用の瓶を埋め、多孔の鉄板を蓋としてかぶせてあるという。

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なお、釈迦堂には白鳳仏と同じく重文の旧梵鐘も安置されているが、ひび割れのため役目を終えている。この旧鐘の銘は、「永和二年丙辰(1376)八月十五日 大工 山城守宗光」の鋳造であるという。この紀年は都内では3番目に古く、総高125.5cm、口径は68.8cmで、重要文化財に指定されている。

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山城守の家系は元和3年(1617)に幕命により江戸に下向していて、その時の初代は「堀山城守 藤原清光」で、諱は「浄栄」であったが、寛永4年(1627)に没している。「宗光」は、あまりにも時代が違う鋳物師だが、さかのぼる系統であろうか。(前74項参照)


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この本坊旧庫裡も、火災消失を逃れた江戸時代の建築物だというが、入り口前には現役を退いたであろう羽釜が無造作に置かれていた。当サイトでは、多くの羽釜が登場するが、後94項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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●ここで、奇異な鋳造物に出会った。大きいほうの開花の口径が、Φ1.2mほどの「天水華座(けざ)」だが、初めて聞く単語だ。説明文を見てみよう。『雨水をためる、いわゆる一般的な天水桶や天水鉢とは異なり、「天水華座」と命名された雨水受けです。寺紋の桜を模し、それぞれの花弁と花びらには、住職揮毫の文字が散りばめられています。


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花弁の中央の「佛・日・増・輝」(仏様の教えは降り注ぐ光のようなもので、私たちにその恵みを与えてくれる)の四字と、それぞれの花びらの文字を組み合わせると有り難い仏教語となる、他に類を見ないものです。

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当山は古より水神・深沙大王さまを祀り、清冽な湧水は田畑を潤してきました。言うまでもなく、水は生命の根源です。天からの恵の雨を受ける天水華座は、水に縁ある当山に相応しいものといえます。平成二十五年(2013)五月吉祥日 当山』である。

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青銅製で、4基が置かれているが、あまねく降雨を受ける位置への設置ではない。裏には「天水華座 深大寺 八十八世 完俊代」の鋳出し文字がある。鋳造者銘は鋳出されていないが、ここの梵鐘と同じ、老子製作所製だ。


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●本殿の左右に4つの花弁が開いていて、寺紋である桜の花びらをモチーフにしているが、多摩美術大学プロダクトデザイン学科卒業のデザイナー、桜田秀美さんが監修している。同氏の主な作品は、比叡山延暦寺のケーブルカー、琵琶湖大津港のびわこ花噴水だという。


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なるほど先の説明通り、真ん中にはそれぞれ「佛・日・増・輝」の文字がある。この花のセンターの文字は「佛」で、周りの花びらには「妙・空・眼・智・道」の文字が見える。「空佛」、「智佛」などと読むのだろうか。花弁には、2匹のカエルや親子の亀がいて微笑ましい天水華座だ。


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●奉納は、京王電鉄(株)で、「京王線 開業百周年 路線バス 開業百周年記念」であったが、「京王」という名の由来は、東京と八王子を結ぶという意味だ。100年前の大正2年(1913)に、電車の補助輸送として、新宿駅-笹塚駅間及び調布駅-国分寺駅間の路線バス事業を開始している。


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奉納日は、「平成25年(2013)5月吉日」であったが、私にとって平成26年の1月に参詣したのは幸運だった。実は、1年前ほどに参拝を計画していたのだが、機を逃して延び延びになっていたのだ。もし予定通りであったなら、4ケ月差でこの天水華座にお目にかかれなかったのだ。つづく。