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●「御御御汁」と書いて「おみおつけ」と読むというが、味噌汁の事だ。丁寧語として使われる「御」の字が3つも並んでいるから、初端は貴重な汁物であったのだろうか。江戸時代には、ご飯に付け合わせる汁という事で単に「御つけ(おつけ)」と言ったようだが、それが「御御つけ(みおつけ)」になり、やがて大げさな事に「御御御つけ(おみおつけ)」となったようだ。

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戦国時代には、味噌の原料の大豆は、軍馬の飼料に優先的に使われていて、簡単に庶民が口にできる食材ではなかった。やがて泰平の世になり生産量が増え、庶民にも浸透するようになっている。江戸の人々は、朝食に具を入れた味噌汁をおかずにして一日の活力源にしてきた。そんな思いがこもった呼び名が、「御御御汁」なのだろう。

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●徳川将軍家が正月に食す雑煮汁には、ウサギ(前5項)の肉が入っているという。祖先の徳川有親親子が、この汁物で誠意をもって客人をもてなした所、運が開けたため吉例となったようで、戦の出陣式でもこのウサギ汁が食されたという。

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幕臣たちもウサギの肉を入れようとしたが、簡単に手に入る食材では無かったようだ。ウサギを数える時の助数詞は「羽(わ)」だ。東京風は鶏肉を具とする事が多いように思うが、手に入れやすい同じ「1羽」の鶏肉を入れたのが始まりとも言う。

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●さて今回は、前95項の続きから話を展開してみよう。築地本願寺は、元和3年(1617)、京都市下京区の西本願寺の直轄寺院、別院として、浅草御門南の横山町に建立されている。本堂の大屋根は、江戸湊に入る船の目印であり、江戸庶民に良く知られた名所であったというが、その後、明暦の大火(1657年・前22項前83項)により焼失してしまっている。

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しかし江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付されている。そこで佃島(現:中央区佃)の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立て土地を築き、延宝7年(1679)に再建されている。この埋め立て工事が、築地という呼称の由来だ。

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時は下って、大正12年(1923)9月1日の関東大震災では、地中57の子院と共に焼失し、甚大な被害を受けている。再建されたのは昭和10年(1935)だが、その境内にあった子院たちは現在どうなっているのだろうか。それらは各地に散在しているようだが、例えば杉並区永福の和田堀廟所や世田谷区北烏山の弥勒山源正寺は、前項でも登場した。次の画像の墨田区横網の慈光院も子院であったが、前17項で紹介している。

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ここには感動的な天水桶が存在するが、現在は本堂改修に伴い、建屋裏に保管しているという。上下の画像は、改修前の本堂と、タガの紋様を鋳出した稀有なデザインの鋳鉄製の天水桶で、作者は、「江戸深川住 鋳物師 太田近江大椽 藤原正次」銘で、深川鋳物師の釜六製(前17項など)であった。

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●下の画像は、平成28年(2016)4月現在の一新された本堂だが、本家の築地本願寺を模していて、かつての面影は全く見られない。見事な天水桶1対が退役してしまったのも残念でならないが、堂宇の左側の2階に、梵鐘が据えられているので見ておこう。

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精緻な108個の乳(前8項)をはじめ、凝りに凝った意匠で実に見応えがある1口(こう)だ。正面の縦帯に「築地本願寺 慈光院」と鋳出され、それが蓮華の額縁で囲まれている。下帯では龍が乱舞し、駒の爪には、蓮の花弁が全周に連続している。見入ってしまうのが撞座だが、宗紋の「下り藤」になっていて、そこから蓮華が咲き誇っている。

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●口径2.5尺サイズとなっているが、旧本堂が「関東大震災を記念して建立せられた」旨の銘文が刻まれ、「昭和34年(1959)3月10日」に本鐘が鋳造されている。鋳物師は、「滋賀県愛知郡湖東町 鋳匠 黄地佐平 謹鋳」だ。同氏については、後111項で詳しく見ているのでご参照いただきたい。

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銅鐘の命はその音色であるに違いないが、その秘密が鐘身の内側にある「逆Uの字型」の部分であるかも知れない。丁度、撞座の真裏に意図的に盛り上げられているが、撞木によって広がる衝撃波をこの存在によって変化させ、音色に影響を与えているような気がする。なお、本鐘のすぐ横には半鐘も備わっているが、「京都 鐘長製」とだけ刻まれている。黄地の工房は、かつての「滋賀県愛知郡長村」が発祥の地であった。

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●さて、京急蒲田駅の南側、大田区萩中の狭い一角にも子院群がある。ここの四谷山妙覚寺も前17項で登場していて、鋳鉄製の天水桶は作者不明であったが、築地本願寺との関連を考えると、釜六製なのかも知れない。

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●また一角の東照山真光寺には、昭和53(1978)年に富山県高岡市の老子次右衛門(前8項)が鋳造した青銅製の天水桶がある。これは、前23項でアップしているが、その桶の裏側を再度見てみよう。

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「真光寺什物 天水鉢一対 築地より鎌田へ遷座 50周年に当り再鋳」とある。什物(じゅうもつ)とは、代々伝わる宝物という意味で、昭和3年(1928)の引っ越し以来、昭和53年の時点で、早、半世紀を迎えたのだ。「遷座50周年奉讃会」を立ち上げ、桶に鋳出すほど重大な出来事であった訳だが、同時に、「再鋳」とあるから、以前にも何らかの桶があった事が判る。

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●さらに一角には、浄土真宗本願寺派の高輪山善永寺がある。建長年間(1249~)に品川高輪台に開創し、明暦3年(1657)の大火により類焼、築地本願寺寺内へ移転、さらに関東大震災で焼け出され、昭和5年(1930)に当地へ移転している。本尊の木造阿弥陀如来立像は、指定有形文化財だが、ここの鋳鉄製天水桶も興味深い。階段脇に1基の桶があるが、正面からは樹木に遮られて確認しづらい。

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黒サビが発生しつつあるが、良好な保存状態だ。作者名も鋳造年月日も鋳出されていないが、ホムペによれば、江戸時代の作だという。当寺の関係者の方に話を伺うと、「一説によると、関東大震災後、築地本願寺からここに譲り受けて現在に至る」と言う。通常は、2基で1対だが、もう1基は焼失したのかも知れない。

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それを裏付ける文字がこの桶に刻まれていた。4名の寄進者の名前を確認できるのだが、その住所は、「元四日市 丸屋仁兵衛 尾屋真吉」、「新右衛門町中通 神㟢屋吉兵衛」、「富澤町 信濃屋又右エ門」だ。寺の話によれば、4名の名は寺の過去帳に見られず、ここの檀信徒ではないという。

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●全てがお江戸日本橋の地名で、江戸期の切絵図にもその地名は見え、今も「日本橋富沢町(前92項)」は存続しているが、残りの2町は、昭和3年(1928)の町名整理によって廃止となっている。富沢町は、17世紀半ばには古着問屋が集まる町であったが、現在でもこの辺りは呉服屋や衣料関係の店が営業していて、往時を偲べる。

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この桶は築地本願寺にあったと推測できるが、証言の裏付けとなるのは、正面の紋様だ。「十六八重表菊」で、16枚の花弁があり皇室を象徴する菊の御紋なのだ。元来、本願寺派の寺紋はその時代によって違い、「下り藤」であったり、「五七桐」であったりするのだが、何ゆえここに菊の紋章があるのだろうか。

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江戸時代以前、本願寺は、経済的疲弊に陥った朝廷に対し支援をしていたようで、結果、門跡格としての勅許を得ていた訳で、つまり、皇族が住職を務める高格寺院とほぼ同等なのだ。端的に言えば、皇族とのつながりがあるという事になり、この大きく鋳出された菊紋の存在こそが、築地本願寺にかつて鎮座していた天水桶であることの証明となろう。

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では、いつ誰が鋳造したのか。ズバリ、「天保12年(1841)3月 太田近江大掾 藤原正次」通称釜六だ。前項でも引用した、大正3年(1914)に編まれた香取秀眞(後116項)の「日本鋳工史稿」の「江戸鋳工年表」に、「築地本願寺 鉄天水鉢」と、そう記録されているではないか。

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大正期の関東大震災で焼失、あるいは、昭和の戦時に金属供出(前3項)したと思われていた釜六製の天水桶が、ここに現存していると理解してよかろう。数奇な世の流れを見てきた貴重な文化財だ、是非とも丁重なる取り扱いを期して止まない。

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●そして後日、再度訪問してみると、本堂は新築されていた。正面にあった樹木は取り払われて視界が開け、天水桶が露出している。すっかり手入れされ見違えるほどだが、寺の什物として、最上級の扱いだ。釜六が特別に大きく鋳出した菊紋が、より一層映えている。

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当サイトで天水桶の来歴をお知りになり、修繕を実行なさったのであろうか。住職によれば、経年劣化でスカスカになっていたので、樹脂を注入し再生したという。水漏れも解消され、永劫に亘って役目を全うできそうだ。損壊間際の好判断で寿命を永らえることが出来た訳で、極上の待遇に釜六も感激だろう。前32項後130項のように間に合わない例も多いのだ。なおこの他のリニューアルされた天水桶については、前79項後125項でも見ている。

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●浄土宗本願寺派の松籟山善林寺は、今なお中央区築地の築地本願寺のすぐ隣にあるが、ここも子院であろう。本尊は、阿弥陀如来というが、寺域は狭くビルの一角に位置する。ややもすれば、見逃してしまいそうな場所だ。

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史料によれば、ここにはかつて、鋳鉄製の樽型の天水桶があったようだ。「嘉永五壬子年(1852)三月吉日」の造立で、正面に「寄進 先祖代々」と浮き出ていて、作者は、「太田近江大掾 藤原正次」銘、釜六製であったと言う。これも本院と共に焼損したのであろう。

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●「阿弥陀如来」という言葉が出てきたが、これは梵名アミターバ、あるいはアミターユスの音写で阿弥陀仏の事だ。一般的に我々は、仏前で「南無阿弥陀仏」という念仏を唱える。「南無」は、敬意を表すサンスクリット語「ナマス」の音写で、「帰依する」という意味を持つ。インドやネパールの挨拶である「ナマステ」も、起源は「ナマス」にあるという。画像は後127項で見る、神奈川県鎌倉市長谷の獅子吼山高徳院の銅造阿弥陀如来坐像、鎌倉大仏だ。

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「南無阿弥陀仏」という念仏は、浄土宗に限らず多くの宗派で唱えられているが、天台宗でも同じだ。あくまでも阿弥陀仏への帰依の表明なのだ。因みに、日蓮宗では「南無妙法蓮華経」で、お釈迦さまの教えを伝える経典へ帰依するという意味での念仏だ。同じくお釈迦さまを本尊とする曹洞宗は「南無釈迦牟尼仏」、開祖の空海に帰依する真言宗では、「南無大師遍照金剛」だ。

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●さて続いても、釜六製の天水桶2例に登場願おう。墨田区向島の、首都高6号線の向島入り口あたりから「鳩の街通り商店街」が続いている。戦災をほぼ逃れ、程なく1世紀を迎えようとする歴史ある狭隘な通りだが、その中ほどに「NPO法人 雨水市民の会(前83項)」の事務局がある。

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内閣府のページによれば、『「NPO」とは、様々な社会貢献活動を行い、構成員に対し収益を分配することを目的としない団体の総称です。従って収益を目的とする事業を行うこと自体は認められますが、事業で得た収益は、様々な社会貢献活動に充てることになります。このうち、特定非営利活動促進法に基づき法人格を取得した法人を、「特定非営利活動法人(NPO法人)」と言います。

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NPOは法人格の有無を問わず、様々な分野で、社会の多様化したニーズに応える重要な役割を果たすことが期待されています』とある。そしてこの会は、雨水を活かすことによって、人類が直面する水不足という危機を解決していこうという集まりだ。入り口に、「天水尊」と書かれたプラスチック製と鋳鉄製の天水桶が1基づつあるが、商店街の中だから、異様であり目を引く。

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●何故ここに鋳鉄製の天水桶が1基あるのか、ホムペを見てみよう。世田谷区の松田家の先祖甚兵衛は、江戸本所石川町で味噌醤油の製造販売の「まつだ味噌醤油店(商標:イゲタ松)」を営み、幕府と直接商いを行う御用商人だったという。

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その傍ら、天保8年(1837)、本所横川町(現在の墨田区石原)に創設された別段古銅吹所(古銅や銅屑類を集めて再生する施設)の運営も担っていたというから、町の有力商人であったのだろう。その後、震災や戦禍など幾多の変遷の後店を閉じたが、思い入れのある地、墨田区で天水桶を保存したいという松田家の申し入れを、雨水市民の会が承諾したという。

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●事務局前では、丁寧に塗装され甦った「用水」桶が新たな顔となっている。雨水を受ける天水桶というよりは、商売用の水溜めの器であったのだろう。文字は銅色に塗られ、銅吹所をほうふつとさせている。井桁マークに「松」の一字の家紋が松田家のかつての隆盛を物語り、台座を木製の井桁にした演出が心憎い。大きさは口径Φ1m、高さは840ミリとなっている。

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隙間が無く撮影し辛かったが、裏側に見える鋳出し文字は、「江戸深川 御鋳物師 太田近江大掾 藤原正次 嘉永6年(1853)正月吉日」銘で、まさしく釜六の作例だ。格段の扱いを受けたこの桶は、永くここに留まることだろう。松田家の思いも成就され、一般市民の目にも江戸時代の風景の一端を垣間見せ続ける訳で、天水桶としては、悠々自適な老後となろう。天水桶を見守る1人として、NPO法人、雨水市民の会の英断に心底感謝したい。

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●釜六の作例をもう1つ。平成27年(2015)3月に、墨田区横網の江戸東京博物館(前89項後123項など多項)では特別展、「探検! 体験! 江戸東京」が開かれた。展示の中に天水桶が1基あったが、説明によればこれは、「日本橋本町2丁目の薬種問屋、鰯屋(いわしや)の天水桶です。

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江戸幕府の開府は1603年(慶長8年)で、日本橋本町は今も薬品会社が集まっています。現在、いわしやを名乗る医療機器会社は東京大学病院に近い本郷を中心に、全国にあります。おそらく、この鰯屋から分家、暖簾分けして広がったのでしょう」という。

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●銘は、「天水桶 1606年(慶長11年)6月 太田駿河守政義 鋳造」、「松本健次氏寄贈」となっているようだが、本体の裏側に刻まれているのだろうか。前77項でみたが、太田家は、宗家と分家の少なくとも2家が存在したようで、名乗りは「正儀(義)」と「正次」だ。

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ここでの表記は「政義」となっているが、正儀は、18世紀初頭前後に、銅像という複雑な形状の美術的な鋳造物を得意としたようであった。その1世紀前の作例ではあるが、正儀による天水桶鋳造の例は、知り得る限りこれだけであり、貴重な遺産だ。

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●先の味噌屋さんの流れで、2例の羽釜を見てみよう。まずは都会の一角で今も味噌作りを継続している、都内中野区本町の「(株)あぶまた味噌」さんだ。ホムペによると、「明治18年(1885)、 初代飯田又右衛門が東京中野の青梅街道筋に創業、 以来その地から動くことなく6代130余年に亘り、 江戸味噌の伝統を守り続けてきました」という。

あぶまた味噌

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「江戸甘味噌」を売りにしているが、古い伝統醸造法に培われた味の逸品だといい、将軍徳川家康の命により、出身地の三河「八丁味噌」 の旨みと、京都「白味噌」の甘さを兼ね備えた味噌として開発されたという。

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現社長の飯田庄太郎氏は、全国味噌工業(協)連合会から褒賞を受けている。その文句によれば、「あなたは長年の間 江戸甘味噌の特徴を維持しつつ 品質の改善に努め 伝統的地域特産味噌醸造技術の保存に貢献するところ大なるものがあります」となっている。

あぶまた味噌

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事務所前に3尺ほどの作者不明の羽釜(後94項)が置かれているが、休業日にはシャッターの中に格納されるようだ。説明書きには「この釜は昭和25、6年(1950)頃迄、この奥のあぶまた味噌の工場で使われていたものです」とあるが、伺ってみると、大豆を蒸したりするのに活躍したという。

あぶまた味噌

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●退役した羽釜は、ここにもある。神奈川県川崎市高津区二子の飯島商店前だ。東急大井町線の高津駅の近くで、大山街道沿いにある。この街道は江戸赤坂御門を起点としていて、東海道と甲州街道の間をつなぐ脇往還道として、「厚木街道」、「矢倉沢往還」等とも呼ばれている。この商店はググってみると、「機械工具卸売り 日用品雑貨店 飯島商店の蔵と釜」と出てくる。

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よろず金物店として明治37年(1904)に創業しているが、鋤(すき)や鍬(くわ)などの金物をはじめ、米や味噌なども商ったという。道沿いに、最大外径1.7mほどの羽釜が1基置かれていて、立札がある。「この釜こそは、あのNHKテレビ大河ドラマ「黄金の日々(1978年)」に出演し、根津甚八ふんする石川五右衛門を釜ゆでした代物である」となっている。

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●高津区の「ふるさとアーカイブ まちの記憶に出会う場所」によれば、店主の話としてこう語られている。「戦前の昭和18年(1943)に、鍋や釜の宣伝用に500キログラムの鋳物で作ったそうです。その後、戦争の金属類没収前3項で供出しました。戦争が終わって昭和23年頃(1948)に、先代がまた同じ物を宣伝用に作りました。大きいといっても、実際にあの大きさの釜はそれなりに竈を作り、使われていたんです。

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染物屋が、染色をしたり、醤油屋が大豆を煮たり、その他、クリーニング屋、はては野戦病院が手術用のメスを煮沸消毒に使ったそうです。私はが子どもの頃に防火用水として使われており、そこでよく遊びました。最初は、フタがなかったのですが、今のように鉄板でフタをしてからは15年以上になりますでしょうか。」正面に鋳出された作者の銘は、「三州 山サ(後97項)」であった。つづく。