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●街中で見た金属オブジェを見てみよう。東京都江東区白河の清澄白河駅(きよすみしらかわえき)は、都営地下鉄大江戸線(E14)と、東京メトロ半蔵門線(Z11)が乗り入れる接続駅だ。駅名は、江戸期にこの地を開拓した清住弥兵衛と、寛政の改革(1787~)を行った白河藩主の松平定信に由来している。

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ホームの壁一面に、「20世紀文明の化石」と題されたアートデザインがある。説明文によると、高度経済成長期に、江東区で生産されてきた各種工業製品のスクラップの再利用で、素材は、マンホール(前5項)らしきものやプレスの抜きカス、金網やボルト類だ。宇宙誕生や太陽系形成、日本列島の誕生や未来の展望などをイメージしているという。

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説明は続き、「4番線左側から、ビッグバンに始まる宇宙・銀河系・太陽系・日本列島誕生、さらに東京、江東地区、地下鉄などを表現し、都市の再生で締めくくっています」とある。画像は、自転車を丸々1台潰して貼り付けてあるオブジェだ。

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「1番線左側から、東京の街、公共交通、自動車、工業、金融、コンピューター、愛と続き未来の展望などを表現しています」となっているが、画像はハートの形に囲まれたアートで、多くの金属の廃材が散りばめられている。電車を待つ時間が楽しくなる清澄白河駅であった。

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●都内葛飾区新宿に、区内最大の広さという「葛飾にいじゅくみらい公園」がある。東京理科大学のキャンパスを囲む緑豊かな公園で、人工池もある。一角に「地球釜」と命名された巨大な球体が置かれている。高さは5mで最大内径は4.27mといい、16ミリ厚の鉄板32枚が、たくさんのリベットで縫い合わされている。

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これは、損紙を蒸して再生するための蒸釜だ。大正6年(1917)に創業した三菱製紙(株)中川工場のかつての設備品で、蒸気を注入し毎分1回転しながら、紙の繊維を解きほぐし再生原料にしたという。煙草口紙や教科書用紙、葉書や旧紙幣の処理も行ったと説明されている。平成15年(2003)3月に86年余りの歴史を閉じているが、貴重な近代産業遺産だ。

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●台東区上野公園に国立科学博物館はある。ウィキペディアでは、「自然史に関する科学その他の自然科学及びその応用に関する調査及び研究並びにこれらに関する資料の収集、保管及び公衆への供覧等を行うことにより、自然科学及び社会教育の振興を図ることを目的とした博物館である」と定義されている。

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1階の広場に、直径1.7m、重さ6.7トンの「大型鋳造地球儀(知恵ふくろう)」が置かれている。青銅製ではなく鋳鉄鋳物だ。内部に木の祠があり、つがいらしき鳥のフクロウが居るデザインで、表面には日本国も描かれた地球儀だが、実に入り組んだ構造だ。

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●これは、現代の鋳造技術では、こんな複雑な形状をも表現できるという、人類の英知の結晶だ。説明によれば、フルモールド鋳造法に依っていて、従来の木製型に代わって、発泡スチロール模型が溶湯に置換され製品となる鋳造法だ。つまり、砂の中から型を取り出す必要がなく、溶けた熱い鉄の湯が模型を溶かし、形状に取って代わるのだ。前55項で見た、細密で複雑精緻な工芸品向きの鋳金技法である蝋型に近しかろう。

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作者は、創業が昭和2年(1927)2月という、静岡県駿東郡清水町の(株)木村鋳造所だ(前90項)。「素材に形を与える」と題された、「ものづくり展2007」への特別出展品であったが、終了後に同博物館に寄贈されている。この地球儀は、金属を自由自在に操った、正にテーマ通りの逸品であった。なお、同展には、川口鋳物工業協同組合もベーゴマを出展したようだ。

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●では、地域的にはばらけるが、各地で出会った天水桶を見てみよう。まずは川口鋳物師の秋本製を4例だが、本項に至るまでに16例ほどの天水桶や香炉を見てきている。前21項には、それらを見れるリンク先を貼ってあるし、前81項では、同社のかつての商品広告も見たが、昭和5年(1930)から半ばの昭和40年(1965)にかけての作例であった。

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埼玉県深谷市横瀬の心王山華蔵寺は、奈良の長谷寺を本山とした真言宗豊山派の古刹で、建久5年(1194)、新田氏の祖・新田義重の嫡男、新田蔵人大夫義兼(包)によって開基されている。南北朝時代に第11世祐遍が中興、新田家代々の武運長久の道場として知られ、以来38世を数えている。

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●1対の鋳鉄製の天水桶は、秋本独特のフォルムだ。中央には新田家の「大中黒紋」と山号の「心王山」が大きく据えられていて、口縁を廻っている幅広の雷紋様(前116項)が印象的だ。両サイドでは、躍動する獅子と可憐な牡丹の花が、大きな高低差で陽鋳造されているが、これが秋本の真骨頂だ。

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檀家が、「祖先累代 菩提法要」のために奉納しているが、「昭和11年(1936)3月吉日 36世 隆弘代」の時世であった。鋳造者銘は、「埼玉縣川口市 秋本島太郎製」となっている。

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●続いては神奈川県鎌倉市手広にある、飯盛山(はんじょうざん)仁王院青蓮寺。弘仁10年(819)に、弘法大師空海が開山し、長禄年間中(1457~)に善海が再興したと伝わる高野山真言宗準別格本山だ。本尊は鎌倉期の等身大の木造坐像で、空海本人だと言われる秘仏だが、国の重要文化財だ。両膝等の関節が鎖によって結ばれ、動かすことのできる珍しい仏像で、俗に鎖大師と呼ばれている。

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樽型の鋳鉄製の1対は、高さも口径も3尺、900ミリだ。前例同様の意匠だが、よりスクエアーなイメージで、重さを懸命に支える3本の獅子脚にも目鼻の表情が描かれている。奉納は、「鎖大師青蓮寺 62世現住 草繋全宜僧正代」の時世で、「鎌倉百味講員一同」、「弘法大師千百年 御忌記念」であった。

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深く彫り込まれた獅子の横に、「昭和9年(1934)10月21日 川口市 御鋳物師 秋本島太郎」の銘が浮き出ている。秋本は、「御鋳物師」という肩書を名乗り、「嶋」の文字の角印を残しているが、これは後にも先にも例が無く、ここだけであり貴重な1対だ。(後132項にも登場)

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●次は、都内杉並区高円寺南の高円寺氷川神社で、中央本線高円寺駅南側の賑わう地に鎮座している。区の掲示によれば、旧高円寺村小名原の鎮守で、祭神は素盞嗚尊だ。碑によれば、天文年間(1532~)、村内の曹洞宗、宿鳳山高円寺の創建と同じ頃という。

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鋳鉄製の天水桶1対は拝殿前には置かれていない。神輿庫の横に、掃除道具と一緒に捨て去られているかの様に放置されている。奉納者の願念がこもっているし、庫内に陳列すべき文化財のはずだが、残念な光景だ。

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●流れ三つ巴紋がセンターにあり、やはり幅広の雷紋様が目を引く。獅子と牡丹も存在するが、裏側までは回り込めず、全ての文字情報は確認できない。が、陽刻銘を確認するまでもなく、遠目にも一目瞭然、これは川口鋳物師秋本製の天水桶だ。

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幸いにも、「埼玉縣川口市 製造人 秋本島太郎 昭和10年(1935)9月」は読み取れた。秋本製であるこれらの桶は、何の資料にも記載が無く忘れ去られた存在と思われ、発掘、発見というに近いかも知れない。現存数も少ない川口遺産だ、サンドブラストし再塗装すれば見違えるはずで、殿前への再登板を願って止まない。

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●この部分は、後日の令和3年(2021)5月の追記だが、再度参詣すると、堂宇前の情景が一新されていた。眠っていた天水桶1対が、玉砂利に乗せられモスグリーン色に再塗装されリニューアル(前79項前96項)されているではないか。「氷川神社社報 ひかわ」によれば、同年正月ごろのようで、鋳造、奉納から86年後に再び陽の目を見たのだ。神社の職員が綺麗に磨いて塗装したというが、ご英断にひたすら感謝だ。

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大きさを測ると、口径Φ760、高さは670ミリであったが、秋元独特の幅広の雷紋様(前116項)と牡丹の花、躍動する獅子が実に見事に甦っている。裏側にあって読めなかった奉納者名は、「明治8年(1875)5月生(まれ) 和田貞次郎 明治11年8月生 仝(同)ひで」ご夫妻となっているが、ご自身の還暦祝いでの寄進であったようだ。

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●4例目は、都内立川市柴崎町の臨済宗建長寺派、玄武山普済寺(前101項)だ。掲示板によれば、「開山は物外可什禅師、開基は立川宮内少輔宗恒により文和2年(1353)に創建されたとされます。立川(河)氏は武蔵七党西党日奉氏の支族で、地誌類の記述や、多摩川を望む眺望・防御に適した立地、現在も山門脇に残る土塁、普済寺北側の通称首塚から発見された板碑80余基などから、この普済寺の地が立川宮内少輔の居館とされます」という。

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常照殿の前にある鋳鉄製の1対の天水桶には、「川口市 秋本製 昭和13年歳次戊寅(1938)春3月」と鋳出されている。大きさは口径Φ900ミリの3尺サイズ、高さは920ミリで、額縁の幅は、160ミリとなっている。3本の獅子脚が備わっていて、これにも特徴的な獅子と牡丹が高低差豊かに表現されている。

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この様な意匠は、上述の4例の他には、前81項の新宿区下落合にある医王寺薬王院でも「川口町 秋本謹製 昭和9年(1934)3月」銘を見ている。合計5例だが、昭和9年から13年の短い期間だけに集中して見られる秋本独特の意匠なのだ。

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●神奈川県藤沢市藤沢に白旗神社がある。掲示板によれば、寒川比古命、源義経を祭神として祀るが、創立年代は不詳だ。鎌倉幕府の吾妻鏡によれば、文治5年(1189)、奥州平泉の衣川館で自害した義経の首級が鎌倉へ送られ、腰越で首実検が行われたという。伝承では、弁慶の首も同時に送られ、2つがこの神社に飛んできたという。

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鋳鉄製の1対には、円錐形のステンレス製の覆いがかぶさっている。正面の紋章は、源氏由来の神社だけに「笹竜胆(りんどう)」だ。因みに、義経の従兄弟の木曽義仲の家紋や、近くの鎌倉市の市章も笹竜胆だ。

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「天保六乙未歳(1835)十一月吉辰」の造立で、銘は1名だけ鋳出され、「鈴木久兵衛 庸栄」となっているが、肩書は無い。庸栄は、「ようえい」と読むのだろうか。その真下に花押が鋳出されているから、これはそこそこのステータスを誇る人名の類であろう。しかし、手元の史料では何の記載も見い出せず、人物の詳細は不明だ。

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鋳物師なのであろうか、それさえ不明だ。鈴木姓の鋳物師としては、前23項の台東区谷中の妙祐山宗林寺で、「宝暦4年(1754) 鋳物師 鈴木播磨大掾 藤原定久」銘の梵鐘を見ている。しかし、活動した時代が違う。庸栄は、後継の関係者であろうか。

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あるいは、ネットで古文書が売られていた。『文政2年(1819) 神奈川古文書「地方町方手控」 高座郡鎌倉郡藤沢宿の記載 鈴木久兵衛庸栄写 66丁程度』だ。内容不明だが、この地に関係ある人物ではあるようだ。天水桶の奉納者であろうか。

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●長野県松本市深志に鎮座する天神深志神社は、2神を祀っている。南北朝時代初めの暦応2年(1339)に諏訪明神が、応永9年(1402)に天満宮が、信濃小笠原家によって並び祀られているのだ。江戸時代には松本藩累代藩主の崇敬を受け、松本城下の商人町の総氏神ともなっている。

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1対の正面には、両神を象徴する「梅鉢紋」と「梶の葉紋」がそれぞれに据えられている。通常は別鋳造しておいて、後で鋳ぐるみされる事が多い脚だが、ここの3脚は本体と同時に一体鋳造されている。

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「昭和27年(1952)5月25日 宮司 牟礼道廣代」に、「天満宮壱千五十年 御正忌祭記念」として奉献されていて、たくさんの「氏子惣代」の名前が、いろは順に並んでいる。輪郭が実に鮮明な鋳出し文字だが、鋳造者の銘はどこにも無く不明だ。

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●千葉県銚子市で見た桶を3例。妙見町の海上山妙福寺は、総武本線銚子駅の真南に位置している。掲示板によれば、正和3年(1314年)4月26日、日蓮聖人の直弟子の中老僧日高聖人を開基とし、大本山中山法華経寺(前55項)3世の浄行院日祐聖人によって開創された名刹という。

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「山主入山に際し、宮中より緋紋白五条、紫衣、女帝用乗輿等のご下賜を常とし、各堂宇に十六菊定紋、 葵御紋の使用が赦されるなど、皇室、幕府との結びつきが深められてきました」とも説明されているが、鋳鉄製の天水桶の正面にあるのは「五三桐紋」だ。前50項前98項では、「五七桐紋」について触れているが、葉の数が少ないという意味合いであろうか、「五三」の方が格下という一説もあるようだ。

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「大正15年(1926)7月良日」の造立となっているが、「昭和62年(1987)11月8日 43世 日意代」の時世の祖師堂大改修に際し、天水桶も修復された旨、追刻されている。作者銘として、「銚子町 亀山製」とだけ記されているが、詳細は不明だ。漁業依存度が高い海辺の町だ、現在でも工業系の会社は少ない。また、江戸末期からの鋳物師一覧にもこの苗字での記載は見当たらない。

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●続いて、銚子市馬場町の飯沼山円福寺。画像の飯沼観音が本堂で、境内には、平成21年(2009)完成の33mの五重塔や、正徳元年(1711)造立の阿弥陀如来座像露仏がある。本尊は十一面観世音菩薩で、坂東三十三観音霊場の第27番札所となっている。全行程約1.300kmという、関東各地に点在するこの霊場巡りの歴史を同サイトから引いておこう。

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「昔、旅人の避難所、足柄山や箱根の坂の東一帯は坂東と呼ばれており、その坂東の武者たちは、源平の合戦に九州にまで歩みを進めました。源平の戦いの後、敵味方を問わない供養や永い平和への祈願が盛んになり、源頼朝の篤い観音信仰と、多くの武者が西国で見聞した西国三十三観音霊場への想いなどが結びつき、鎌倉時代の初期に坂東三十三観音霊場が開設されました」という。

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階段の両脇に、1対の鋳鉄製の天水桶が置かれている。安定化のため、本体の下部が石の台座に埋もれているようで、寸足らずな感じだ。「奉納人 飯沼田中町 日高屋利平」であるが、中央には、「催主」として母娘の名がある。裏側に並んでいるのは、その関係者名らしいが、センターの「丸に荒枝付き右三階松紋」は、日高屋の家紋であろう。

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造立は、「大正13年(1924)12月吉日 飯沼山 第42世 僧正照法代」の時世で、鋳造は、「野州佐野 鋳物製造 荻原太一郎」となっている。「○に一」のこの社章は、前66項前97項でも見た、栃木県佐野市の正田鋳物製造所だろうが、「正田」の文字を表していないのがやけに気になる。

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●こちらは、通りを隔てて少し離れたところにある、真言密教の古刹である円福寺の大師堂だ。今は道路に分断されているが、かつては地続きの境内であったという。弘法大師空海は、東国を巡錫した弘仁年間(810~)、尊像の台座や光背を作り開眼供養を行っている。歴史ある堂宇は、嘉永元年(1847)、 第30世深恵代に再建されているが、他の多くの伽藍が戦時に被災する中、大師堂は焼失を逃れたようだ。

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階段の手摺に青銅の擬宝珠があるが、刻まれている文字を読んでみると、「下総国海上郡銚子飯沼山 坂東廿七番札所 観世音什物」、「天保三壬辰年(1832)六月吉日 円福寺 三十世 深恵誌」と、縷々見てきた寺の情報が狭い一角に詰まっている。「萬人講 再寄進」で、鋳物師は「江戸 西村和泉守作(前89項前110項など)」、「彫工 銚子飯沼 鍛冶吉右エ(衛)門」となっている。こういった所に、彫り師が名を刻むのは珍しい。

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●先例と違い、天水桶の口縁に雷紋様(後116項)は見られず、正面に据わっているのは「丸に荒枝付き左三階松紋」で、松の左右の違いはあるが、飯沼観音本堂前と同じような意匠の鋳鉄製の1対だ。「天保九戊戌歳(1838)八月吉日」の造立だが、前例の86年前のこの桶にも、なぜか同じ日高屋利平と母娘の名がある。

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「鋳物師 江戸深川 釜屋七右エ門」、そして最後に花押が記されているが、前17項などで見てきた江戸深川の鋳物師、釜七だ。遠いこの地でも鋳造を手掛けているが、深川も銚子も舟運に恵まれた地だ、出吹き(前10項)ではなく、この重い製品を船で運搬したのだろうか。

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●最後は、静岡県三島市大宮町の伊豆国一之宮三嶋大社だ。ホムペから引くと、『御創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に御鎮座し、奈良平安時代の古書にも記録が残ります。三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました』という。

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拝殿前に天水桶は無い。参拝を済ませ、宝物館の奥へ目をやると神鹿園(しんろくえん)の存在に気付いた。 危うく見逃すところだったが、 その入口で1対の鋳鉄製の天水桶を見つけた。園は大正8年(1919)に、三島呉服木綿商組合の尽力により作られている。

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神様の使いという鹿は、奈良県の春日大社(前33項)創設の際、茨城県の鹿島神宮(前108項)より「武甕槌命(たけみかづきのみこと)」がその背に乗ってやって来たとされている。三嶋大社の神鹿は、その春日大社から遥々やって来ていて、今も三嶋大社では3月に神鹿記念祭が行われている。

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横側に、「寄附人 三島町市ケ原 不二行者大先達 辻󠄀由兵衛」と陽鋳されているが、奉納者銘だ。正面の「三」は三島を、「〇に由」は辻󠄀由兵衛を示す紋章であろう。山笠の紋様は、富士山を表すと思われるので、「不二」はその意味であるに違いない。

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●「不二行者」、富士講といえば、川口市鳩ケ谷出身の「丸鳩講」の先達で社会教育者の、小谷三志(こだにさんし)が知られる。明和2年(1766)の生まれで、富士講の一派「不二道」を庶民に広めたが、「行よりも徳」を唱え、生涯に161回の富士登山をしたという。小谷が説いたのは、老若男女の区別なく、貴賤貧富にとらわれず全ての人間は平等だとし、目上への忠義を旨とし、夫婦和合し、遊興に耽らず生業に励み、神仏を敬いと、およそ当たり前の一般道徳だ。

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しかし天保3年(1832)、女人禁制であった富士山に、女性信徒に男装させてまで初登頂させているように、行動も伴っている。これは、男女和合を考えるなら陰である女性を、陽の男性より優先すべし、といった価値や常識の逆転思想に基づいているようだ。出産能力のある女性こそ尊いとする主張でもあり、「男女」を「女男(めお)」と言い換えてもいる。

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なお小谷のご子孫は、川口市鳩ケ谷本町で江戸時代創業の鰻屋「湊屋」を営んでいる。現在は6代目だが、小谷家の菩提寺は、川口市桜町の箱崎山錫杖寺地蔵院(前53項)だ。また小谷研究の第一人者、鳩ケ谷在住の岡田博氏は、途絶えていた講社「丸鳩講」を復活させている。「まるはと叢書」、「富士山遺文拾遺」など著書も多いが、当サイトでは、前122項で岡田氏の菩提寺も紹介している。

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●さて、4尺ほどの天水桶だが、本来は、拝殿前に置かれていたのだろうか。今は蓋で閉じられ貯水槽の役目を終えている。作者は、「東京釜屋堀 釜七製」で、「〇七」の社章が見えるので、会社組織化された中での鋳造であった。

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桶の造立は「明治23年(1890)8月」だ。小谷三志は、天保12年(1841)9月に75才で没している。富士講の修行者、「不二行者 辻󠄀由兵衛」は、偉大なる指導者、「大先達」であったようだが、同時期に存命していた可能性はある。両者に面識はあったのだろうか。つづく。