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●「むかし、信州善光寺から東に十里の信濃国小県郡に、強欲で信心が薄く、善光寺に一度もお参りしたことがないお婆さんが住んでいました。ある日、お婆さんが川で布をさらしていると、不意に1頭の牛が現れ、角に布を引っ掛けて走り出しました。お婆さんは布を取り戻したい一心で牛を追いかけ、遠く離れた善光寺までやってきました。

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牛は善光寺の境内に飛び込むとふっと姿を消してしまい、そして牛が持ち去ったはずの布は、善光寺如来さまのお厨子の前にありました。牛の正体は仏さまの化身だったのです。お婆さんは、自分を善光寺に導いてくださった仏さまに感謝し、以来信心深くなって極楽往生を遂げたとのことです。このお話は『牛に引かれて善光寺参り』と呼ばれ、広く語り継がれました。」

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この一説は、長野市元善町の定額山善光寺に掛かる掲示板からの引用だ。善光寺は、日本最古と伝わり、絶対秘仏とされる一光三尊阿弥陀如来を本尊としている。この説は、長野県小諸市大久保の、布引観音と呼ばれる釈尊寺の縁起という。両寺は直線距離で40キロも離れている訳であり、伝説の域を出ない話のようにも思われるが、有名な一説だ。

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●さて、善光寺に奉納された仏具類に関しては、このサイトでも色々な物を見てきた。前22項では、高岡鋳物師の堺幸山の常香炉や銅灯籠、前85項では実に味わいのある、同山本が手掛けた常香炉、前78項では、信濃国上田の鋳物師・小島が鋳た柱の根巻き、前110項で見たのは、江戸鋳物師・土橋大和が鋳た常香炉であった。

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なお、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」には、「製作年月日不祥 長野市善光寺 雪見灯籠1基 小川次郎吉(前63項など)」という記載がある。小川が活動していた時期からして、明治期から大正初期にかけての鋳造であろう。現存はしていないようだが、川口市からは遠いこの地でも、川口鋳物師が活躍していたという貴重な記録だ。

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●今回は、その他の鋳造物を見てみよう。六地蔵の横に、高さ2.7mの「濡れ仏」が鎮座している。「濡れ仏」とは露仏であり、屋外にあって風雨に晒される仏様の事で、享保7年(1722)に善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊だ。

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掲示板によれば、江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承があり、俗に「八百屋お七の濡れ仏」とも呼ばれる。お七火事と言われる天和の大火の発生は、1682年の事であったが、その40年後に奉納されたようだ。

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多くの寄進者名が並んでいて、「日本廻国六十六部供養佛」となっている。これは、法華経を66回写経して、一部ずつを66ケ所の霊場に納め歩いたという巡礼者の奉納だ。健やかなお顔立ちだが、蓮華の台座に鋳造者の銘がある。「享保七壬寅年四月吉日 江戸神田鍛冶町 御鋳物師 河合兵部 藤原周徳(前4項)」、「同石町三町目 大佛師 高橋大学」で、高橋がデザイナーだろう。

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鋳金工芸作家の香取秀眞(ほつま・前116項)の「日本鋳工史稿」を見ると、河合兵部は江戸初期の鋳物師で、港区芝公園の三縁山増上寺(前52項後126項など)向けに銅灯籠6基を鋳造した記録が残っている。正徳2年(1712)で、文昭院・江戸幕府6代将軍徳川家宣の薨去に際してであったが、「信州上田城主 松平忠栄」、「信州河中島城主 真田幸道」らの献納であった。幸道は、信濃松代藩の第3代藩主だ。

善光寺

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●同時期における6基もの銅灯籠の鋳造は、一大事業と言ってよい。河合兵部は、大規模な工場を抱えた鋳物師の頭領格であったろう。大きな銅像の鋳造もそう簡単に請けられるものではないが、史料にここの濡れ仏の記載は無い。

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逸れるが、もう2例、河合兵部が手掛けた梵鐘があるのでここで見ておこう。場所は、都内新宿区愛住町の真宗大谷派法雲寺で、現役を終え本堂脇に安置されているが、これも史料に記載が無いので貴重だ。区の登録有形文化財に指定されているが、総高は、132.5cmと説明されている。

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●陰刻は、「享保八癸卯年(1723)十一月四日 武州江戸四谷比寺町 法雲寺 第4世 釋順意」で、「桝屋伝兵衛」らの戒名が見られ、檀家からの喜捨を受け鋳造されているのが判る。作者は、「御鋳物師 河合兵部 藤原周徳」だ。河合は、藤原姓(前13項)を賜った勅許の御用鋳物師であった。

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前77項で記述したが、この翌年の享保9年に8代将軍徳川吉宗は、享保の改革の一環として倹約令を出している。仏具に関して、「唐銅を以って仏像、撞鐘、鳥居、灯籠の類を造り、町中往還へ出し置いて勧進してはならぬ」であった。鋳物師らの仕事量は大幅に減ったと思われるが、ここ法雲寺の「撞鐘」、銅鐘は、法度に触れないギリギリセーフの年での鋳造であった。

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●もう1例も新宿区新宿で、明了山願光寺正受院、奪衣婆で知られる寺だが、歌川国芳らの錦絵が多数現存するという。やはり文化財の指定を受けている梵鐘だが、鐘銘には、「宝永八年(1711)四月廿五(25)日 武州江戸神田住 冶工 河合兵部 藤原周徳作」とある。総高135cm、口径72.8cmで、第5世覚誉上人の発願により第8世仰誉の時世に完成している。

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この梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれていて、戦時に金属供出(前3項)され、戦後、米国アイオワ州立大学内の海軍特別訓練隊が所有していることが判明、昭和37年(1962)12月に返還されている。現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせているというが、このようなエピソードに関しては本項の終りの方にも記述しているので、ご参照いただきたい。

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なお、ここでの川口鋳物師の天水桶鋳造の来歴を、昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」で見ておこう。「安政4年(1857)11月 増田金太郎(前13項前38項前82項など) 天水鉢1対」と記録されているが、これは現存していない。

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●さて善光寺の梵鐘は、寛文7年(1667)9月11日の再鋳造で、1.115名もの寄進者名があるという。鋳造は、「大工 伊藤又兵衛金正」の作だ。文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記」、嘉永7年(1854)の「諸国御鋳物師姓名記」、文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳」、明治12年(1879)の「由緒鋳物師人名録」には、名が記載されている。

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「信濃 善光寺西町(長野市大字長野西町)」の欄には、この「伊藤又兵衛」ただ1人だけだ。史料の時代はかなり違うが、真継家(前40項)傘下の勅許の御用鋳物師であり、何代にも亘り名を世襲してきた由緒ある鋳物師の家系である事が判る。

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鐘は、重要美術品に指定されていて、環境庁の「残したい日本の音風景100選(前65項など)」にも選ばれている。この銅鐘は毎日の時の鐘として現役で、長野オリンピック(1998年)の開会を告げた鐘としても知られる。

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●宝永4年(1707)に再建された撞木造りの本堂は国宝に指定されていて、間口約24m、奥行き54mで、高さは約26mという。その前に1対の羽釜(後94項)が天水桶として置かれている。明治33年(1900)に富山県の人が寄贈したようで、「甘露法雨(前57項) 八功徳水」という青銅製の銘板が貼られている。

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「甘露法雨」は、仏様の教えが多くの人々の苦悩を取り除き救う様子を、乾いた大地を潤す雨に例えた言葉だ。「妙法蓮華経」には、「樹甘露法雨(じゅかんろほうう) 滅除煩悩炎(めつじょぼんのうえん)」という一節があり、「仏様の教えが甘露の法雨となって降りそそぎ、私たちの燃え盛る煩悩の炎を滅除する」と説いている。「八功徳水」は仏教語で、極楽浄土などにあって、8つの功徳を備えている水だという。

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鋳造先の社章が本体に陽鋳造されている。「三州 山サ」だ。前97項で見てきたが、愛知県岡崎市で営業する厨房機器の製造販売メーカー、服部工業(株)で、ここの始祖は、現岡崎市祐金町(ゆうきんちょう)の勅許鋳物師、安藤金右衛門であった。銘版には「谷川滋次郎作」という陰刻もあるが、これは、銘版の作者であろう。


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●大勧進は天台宗大本山で、善光寺25ケ院の本坊だが、ここに青銅製の手水盤がある。「南無阿弥陀仏」いう文字がと陽鋳造され、「御宝前」と陰刻された、横1.5m、奥行き850ミリの大きさだ。江戸期に限れば、現存する金属製はかなり稀有で、出会いはこれでまだ4例目だ。下記以外のものについては、前7項からご覧いただきたい。

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江戸期の作例は、杉並区堀ノ内・日円山妙法寺(前65項)の「文政2(1819)年正月 粉川市正 藤原國信」、神奈川県小田原市・飯泉山勝福寺(前88項)の「宝永元年(1704) 小沼播磨守 藤原正永」、杉並区永福・和田堀廟所(前95項)の「天保第七年歳次(1836)秋九月 太田近江大掾 藤原正次」であった。

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●盤には、「寛文十一年辛亥(1671)四月中旬」、「武州江戸住 御鋳物師 田中丹波守作」という陰刻がある。先の史料によれば、江戸初期の頃に「田中丹波守 藤原重正」、あるいは「重行」という鋳物師がいた。両者は、共通する通字「重」からして、近しい間柄であったろう。

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額縁には螺髪(前111項)のような丸い紋様が連なり、下部には反花(前51項)が描かれている。丸い茶色いボッチは鋳造時の偏肉防止用のケレン、型持ち(前95項)の痕跡だ。異材質の鋼鉄製であるためサビているのだ。

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田中家は、正徳2年(1712)の文昭院の薨去に際しては、伊予国松山城主・松平定直の銅灯籠1対、甲斐国身延山久遠寺(前121項)の梵鐘など、貞享3年(1686~)から安永3年(1774)の鋳造記録が残っているが、1世紀ほどのスパンがあるので、2、3代に亘って活躍していたものと思われる。手水盤であるから、人々が水を注ぎ受ける口も備わっている。

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●他所で田中丹波が鋳た梵鐘を4例見ているので、ここにアップしよう。まずは、埼玉県吉川市三輪野江の蓮華山延命院定勝寺だ。説明板によれば、永正年中(1504~)に、下総国葛飾郡桐谷郷貝塚村に草創された蓮華山観音寺が始まりのようだ。江戸時代初期、新田開発にあたり当地に移転し、堂宇の建立に尽力した平本定久、定勝親子の徳を示すため寺号を変更している。

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県指定有形文化財の銅鐘は、「寛文九年(1669)三月十八日」に製作されていて、全高168cm、口径92cmだ。銘文には先の寺伝や三輪野江村、二郷半の地名の由来が刻まれていて、近郷の村名や人名が多数見られる。

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それらは池の間や縦帯、中帯(前8項)という区画に構わず線刻されているが、これは江戸期の銅鐘の特徴でもある。また刻まれた漢詩は、「本朝通鑑」などを編纂した徳川将軍家の儒者の林鵞峯(がほう)、号名春斎によるものだ。

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陰刻の鋳工銘は、「武州江戸住 田中丹波守 藤原重正」となっている。詳細な寺や地名の伝来、大勢の檀信徒の名前が刻されているし、江戸幕府の威光もあったのだろうか、戦時の金属供出も逃れているが、日本鋳工史稿には記載が無く、あまり知られていない貴重な1口(こう)のようだ。

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●都内渋谷区渋谷の天台宗、渋谷山東福寺。承安3年(1173)に円鎮僧正によって開創、その当初から、隣接する金王(こんのう)八幡宮の別当院であり、渋谷区内最古の寺院だ。山号を渋谷山と称する、地名に由緒ある名刹なのだ。梵鐘は、昭和51年(1976)に区の有形文化財に指定されているが、その鐘銘には、八幡宮の縁起などが刻まれている。

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画像が金王八幡宮だが、社伝によれば、寛治6年(1092)、現在の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。高台である境内には、その砦の石が遺っている。城の東側には鎌倉街道(現八幡通り)が走り、西側には渋谷川が流れるという好適地であったが、大永4年(1524)の高輪原の戦の時に、北条軍の別動隊により襲われ、焼き払われている。

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銘文は、樋口清之、田村善次郎編の著者「渋谷の歴史・渋谷昔ばなし」で解析されているが、「源義家が後三年の役の凱旋の途中この地に赴き、領主・河崎基家が秩父妙見山に拝持する日月二流の御旗のうち、月の御旗を請い求めて八幡宮を勧請した。その折、天慶2年(939)の平将門の乱のとき源経基が宿泊したという家を改めて一寺となし、親王院と称して別当寺とした。これが東福寺の起立である。」

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●鋳造に関する鐘身の陰刻銘は、「宝永元年(1704)歳次甲申 仲穐望日 住持 第三十七世 三部都法 大阿闍梨臤(堅)立者 法印慧順(宝永3年5月8日寂)」だ。「仲穐(ちゅうしゅう)」は中秋だが、穀物を意味する「のぎへん(禾)」に亀の字を並べてある。火で亀の甲羅を焼き、その亀裂で収穫の出来を占った事に由来するようだが、すなわち「秋」という文字だ。

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刻された銘は、深めに彫られていて実に達筆だ。クリーニングもされ厳重に管理されてきたのであろうが、3世紀もの時を経ても今なお鮮明であり、摩滅は見られない。施主名に続き、作者銘として「冶工 田中丹波大掾(だいじょう) 藤原重行」と刻まれている。「大掾」は、職人に付与された最高の名誉号だが、田中は、真継家から藤原姓を下賜された、勅許の御用鋳物師であった。

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●ウィキペディアによれば、「阿闍梨(あじゃり)」は、サンスクリット語で「軌範」を意味し、正しく諸戒律を守り弟子たちの規範となり、法を教授する師匠や僧侶のことだ。37代住職「慧順」は、その立場を堅く守る、「臤(けん)立者」なのだ。

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「慧順」の音は、「えじゅん」であろうか、「けいじゅん」であろうか。「えげん」とも「けいがん」とも発する「慧眼」という言葉が身近だが、意味は「物事の本質を鋭く見抜く力」だ。一説に、「慧」の草書体の省略形が片仮名の「ヱ」になったというが、一文字で「さとい かしこい」を表し、仏教用語では「真理を見きわめる心の動き」であり、「智慧(ちえ)」と表示される事もある尊厳高い1文字だ。

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●次は都内台東区谷中の日蓮宗、龍江山妙法寺だ。前後編292巻からなる、江戸時代後期の地誌「御府内備考」には、「下総国葛飾郡中山村 法華経寺(前55項)末、寺建立慶長13年(1608)」、「開山 霊鷲院日恕、寛永8年(1631)9月朔日遷化 本尊釈迦仏、題目七字、多宝如来、四菩薩、鬼子母神木立像8寸5分 伝教大師作」となっていて、梵鐘は「大鐘」となっているが、その存在も記されてる。

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口径は2尺ほどで、撞座がある縦帯には、「武州豊島郡谷中 龍江山妙法寺」とあり、施主が菩提供養のために寄進しているが、それらの文字が陽鋳造になっているのが特徴的だ。今はお役御免で、鐘楼塔から下されているので身近で見られる。

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作者の陰刻は、「旹(時)元禄四辛未暦(1691)四月吉辰 江戸住 治工 田中丹波守 藤原重行作」だ。「治工」は、「冶工」の事だが、「冶」の文字には、「金属や鉱石を溶かしてある形につくる」という意味がある。「治」には、そのような意味合いは無いようだが、たまに「治工」と表現されているのを散見する。

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●最後は、前55項でも登場した板橋区赤塚の、萬吉山(ばんきざん)宝持寺松月院だ。鐘銘は、「延宝五丁巳(1677) 御鋳物師 江戸住 田中丹波守 藤原重正」となっている。2人の田中「重正」と「重行」は、1世代ほどを隔てた鋳物師のようだが、親戚であるなど近しい間柄であったろうか。

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さらに、ここの寺宝館の「松宝閣」には、雲板(うんぱん)がある。これの存在理由は、「特に禅寺で時を知らせるために打ち鳴らすもの。庫裡(厨戸)の前に掛けて、食事などを知らせます」と説明されている。中央真下のヘソは、梵鐘にもある撞座だが、やはり蓮花を模している。左右の波型のデザインは、振動して音色に影響する切込みであろう。

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銘は、「武州豊嶋郡赤塚郷 元禄十六戌未年(1703)三月十六日 同国江戸住 御鋳物師 田中丹波守 藤原重行作」となっているが、勢いがあり、見惚れるほど達筆な彫りだ。なお田中丹波守は、前65項後126項でも登場しているのでご参照願いたい。

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●さて戻って、ここ善光寺の大勧進の住職は貫主(かんす)と呼ばれ、本堂の住職も兼ねている。貫主は代々比叡山延暦寺(後124項)より推挙される慣習になっていて、毎朝本堂で行われるお朝事(おあさじ)に出仕している。その往復の際には、参道にひざまずく信徒の頭を撫でて功徳をお授けになる、「お数珠頂戴」の儀式がある。

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由緒あるこの堂宇前の天水桶の鋳造を任されたのは、川口鋳物師の鈴木文吾(前58項前71項前115項など)だ。「善光寺大勧進東京奉賛講」が「祝設立十週年記念」として奉納していて、多くの講員の名が並んでいる。正面に「武田四つ菱紋」が据えられているが、これはこの講の紋であろう。寺の紋は「右離れ立ち葵」だ。

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●鋳鉄製の1対は、大き目な3本の獅子脚に支えられ、上部には植物の葉の紋様が巡っている。「昭和39年(1964)6月4日 川口市 設計者 山下誠一(前26項) 仝(同)鋳物師 鈴木文吾」となっているが、序列的に、年上の山下の方が格上のように記されている。

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文吾と親交深い、元銀行員にして山岳写真家の平出眞治氏(前71項など)によれば、この天水桶は、善光寺だけに「牛車に曳かれて賑やかに奉納された」という。文吾との実際の会話の中で聞き取った実話であろう。

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●さらに、善光寺には住職がもう1人いて、大本願の尼公上人が兼ねている。かつて宮中から上人号と紫衣着用の勅許を賜っていて、伊勢の慶光院、熱田の誓願寺が日本三尼上人という。現在では善光寺上人のみが法燈を伝承、住職就任時には、継目御礼として宮中へ参内する。やはり、大勧進の貫主と共にお朝事に出仕するという。

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十六八重菊紋の中心にあるのは、花のガクのように見えるが、桔梗紋であろうか。蓮の花が大きく開き、安定的な台座は反花状の意匠になっている。「大本山善光寺大本願 直参講 東京法光会」の奉納で、裏面一杯には講員の名が列挙されている。

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この鋳鉄製の天水桶1対の鋳造を任されたのも、「昭和48年(1973)3月吉日 設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」であった。また、「川口市 浜長工業株式会社(前5項)」とあるが、ここは、文吾の作業場が手狭であったために間借りした工場だ。なお、堂宇前の見惚れるほど洗練された意匠の常香炉については、前85項で登場している。

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●ところで鈴木文吾は、天水桶だけでなくいくつかの梵鐘も鋳造しているので、5例を見てみよう。まずは、埼玉県入間郡越生町(おごせまち)大字上野の瑠璃光山医王寺。室町期の寛正年間(1461~)の開山といい、本尊は、薬師如来像で、松渓山法恩寺前118項の末寺だ。

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縦帯(前8項)には、「南無開山 興教大師 遍照金剛」と見え、「国家安穏 興隆仏法」などを祈念し、比企郡鳩山町の人が奉納している。肩が張っているがスタンダードな意匠で、目立った装飾や図絵などは見られない。

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「第41世 隆政代」の時世で、作者は、「平成5年(1993)9月秋彼岸 武州川口鋳物師 鈴木文吾」銘だ。

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●千葉県東金市滝の顕本法華宗、熊野山清瀧寺。大永2年(1522)、日学を開基として創建されたという。常駐の住職は居ないようで閑散としているが、地域の集会所にもなっているようだ。山門は近年更新されたようで新し目だが、その脇からは熊野神社への参道が続いている。

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小さな鐘楼塔に、口径2尺の梵鐘が掛かっている。「立正安国」、「熊野山清滝寺」と題され、「第35世 衡叙代」の時世に祈念され奉納されている。

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撞座が大きめに張り出しているのが印象的だが、唐草模様の他に目立った図柄は見られない。鋳造は、「平成9年(1997)11月吉日 清滝寺 第35世 衛紋代」で、「鋳物師 鈴木文吾」だ。

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●秩父郡小鹿野町伊豆沢の泉佐山雲龍禅寺は、臨済宗南禅寺派だ。掲示板によれば、開創は室町期の享徳3年(1454)、秩父市田村郷の円福寺第3世、竹印昌巌和尚で、本尊として聖観世音菩薩を奉安している。「秩父十三仏霊場」の幟が掛かった「平成門」をくぐると、「智孚乃鐘」と掲げられた鐘楼塔がある。「智孚(ちふ)」は、知恵を育むという意味合いであろうか。

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縦帯には、「南無釈迦牟尼佛」とあり、池の間には、奉納者がデザインした天女らが描かれているが、溶解湯の廻りが悪いらしく、見るからにお粗末な陽鋳造だ。別の縦帯にも何かが描かれているようだが、崩れかかっていて判然としない。

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この鐘は一体どうしたことだろう、不潔感一杯で見るに堪えない。巣喰い(前67項前121項)だらけでみすぼらしく、ここに掛けるべき梵鐘ではない、失敗作だ。「平成12年(2000)3月吉日 第25世 実成代」、「川口鋳物師 鈴木常夫」とある。初めて見る単独の銘だ。文吾の長男だが、文吾の名声に泥を塗ったのは明らかだ。

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●次は、足立区東伊興の普賢山法受寺。正暦3年(992)、恵心僧都によって開創、新幡随院と称している。入り口の石碑には、「三遊亭円朝演述 怪談 牡丹燈籠」とあるが、2人連れの足のある幽霊を落語のネタにしたという。かつては豊島郡谷中に在し、関東大震災で被災しここに移転して来ているが、5代将軍徳川綱吉の生母、従一位桂昌院の墓がこの地にあるのはそんな理由からだ。

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ここの梵鐘も見られたものではない。やはり巣喰いだらけで、陽鋳文字は浮き上がり、曲がりうねり、判読さえ困難だ。「平成14年(2002)3月吉辰 鋳物師 鈴木文吾 鈴木常夫」と連名で記されているが、名ばかりの鋳物師であり、誰が見ても明らかにこの世に出すべき製品ではない。

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●「鋳物師」という呼称には、古来より連綿として磨き上げられ、集積されてきた匠な技の承継者という高尚な意味合いがあるはずだ。しかしこの鐘にはそれが見られない。鋳物師と名乗るだけの技量が無いという事実を、ここの現物が如実に物語っている。

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平成20年(2008)に86才で没している文吾は、引退後の生前には、たまに工場に顔出ししてはアドバイスをしていたようだが、常夫氏はそれを嫌ったという。文吾は、「小うるさいと言われるからさあ」、「何か言うと常夫が怒るから」と言っている。聞く耳を持たない人であったのだろうか。それでも文吾は、持てる技を存分に直弟子に伝授する義務があったはずなのだが。

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●最後は、埼玉県児玉郡美里町白石の曹洞宗、威音山光厳寺(こうごんじ)だ。天正年間(1573~)、当地の領主猪俣能登守邦憲が、亡父明庄院光山宗厳大居士の菩提を弔うため中興開基となり、2文字をとって寺名としている。また、天正19年(1591)には徳川家康より寺領10石の朱印状を拝領している。

美里町白石・光厳寺

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梵鐘は、「曹洞宗開祖750回御遠忌奉献」、「発願 昭和戦役従軍帰還兵 結衆」として、川口市鳩ケ谷の岡田博氏が中心となって寄進している。同氏は、昭和4年(1929)生まれ、児玉郡松久村甘粕の出身だが、鳩ケ谷の詩歌人にして郷土史家で、幕末に「不二道」を庶民に広めた教育家の小谷三志(後125項)の研究家でも知られる。

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「児玉33霊場第17番」とあり、「当山19世 威雲昌雄代」は、詠歌を刻んでいる。「たちまちに 愁眉ひらかむ おん慈悲の 音威に 光り厳しく」で、光厳寺の文字を巧みに折り込んでいる。なお、寺伝によれば、前の鐘は戦時に金属供出したのだろうか、「元禄11年(1698)仲秋 野州佐野天命住(前108項) 井上治兵衛重治作」であったという。

美里町白石・光厳寺

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まだら模様状に緑青が噴いていて、味わいのある景色にも見えるが、どこか人為的であり絶品とは言えまい。鋳造は、「平成14年(2002)8月28日 埼玉県川口鋳物師 鈴木文吾 子常夫 孫勝之 手傳(手伝い) 当所甘粕産 岡田博」で、4代目の孫の名前まで鋳出されているが、ここが岡田氏の出身地だ。また、宗祖道元は、建長5年(1253)8月28日に没しているが、命日に充てての奉納であった。

美里町白石・光厳寺

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●また、「世界平和の鐘 28ケ国鋳造」と刻まれているが、これは何だろうか。岡田氏の「まるはと叢書 第9集」から引用させていただこう。平和の鐘は、国連加盟国を主体に、「戦争の悲惨さや平和の尊さ」という主旨に賛同した国が、コインやインゴットを提供し、それをもとに鐘を鋳造し、各国に設置するというものだ。

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平成3年(1991)現在では、コイン提供国は103ケ国で、ニューヨークの国連本部(1954年)をはじめ、ドイツやカナダ、メキシコなどに置かれている。日本でも最北端の稚内市と、最南端の石垣市(1988年)にある。鐘の大きさは、2尺、重さ240kgという。

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国連の鐘は、昭和45年(1970)の大阪万博開催時に16年ぶりに里帰りし、国連館に展示され終了後に戻されている。現在、「EXPO’70パビリオン前」にある鐘は、万博会期中の国連本部の留守番鐘として鋳造された姉妹鐘だ。高さ70cm、重さは151kgという。文吾はこれらの事業を引き受けていたようだ。

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●昭和61年(1986)8月15日付の川口鋳物ニュースを読むと、市民団体「世界平和の鐘の会」は、市内のグリーンセンターで「鋳造火入れ式」を開催している。文吾の鈴木鋳工所が甑炉(こしきろ・溶解炉)を積み、「世界81カ国から平和の願いを込めて寄せられたコインとメダル」で、インゴットを鋳造したのだ。画像は、田中博鋳物組合(協)理事長がスコップでそれを投入する場面。

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しかし、「世界不況による資金不足」や「イスラム国家の日本大使館での仏教鐘の打響は、国際親善に反する」、「内側から鳴らすスタイルのベル文化の国では、自ずから音色が違う」などの理由により、平成13年の納入を最後に注文打ち切りとなっている。「28ケ国鋳造」と鋳出されているが、これをもって平和の鐘事業の終焉であった。

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●一方、岡田氏によると、ここ光厳寺の梵鐘は一度鋳造に失敗している。平成14年(2002)7月15日大安の入湯の日、光厳寺の住職や檀家総代らが魂入祈願に来た際、「注湯が始まり、住職の読経が聞こえ、型は湯を飲み込んで行きました。そして500kgの取り鍋すべてを飲み込んでも、湯口へ湯は上がらず、押湯のセキも空のままです。完全に湯不足で不良製品です。」

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型の組み立て時に何らかの誤差があったため、鐘の外径が大きくなり肉厚が増え、結果、湯が不足したという。その後、第2型は成功して納まったが、不良品には台座を付け、上に蓋石と五輪塔(前70項)を載せて、岡田家累代の墓体としたという。

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前3項でも記述したが、昭和33年(1958)、文吾は国立代々木競技場の聖火台の鋳造の際、1回目は破裂し失敗、ショックを受けた父君萬之助は、1週間後に亡くなってしまう。文吾は葬儀にも参列せず、昼夜を問わず作業をやり直し、期日までに完成させたという。

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岡田氏は、「正確な事は判りませんが、文吾の銘文入りの製品は光厳寺の梵鐘が最後でしょう。第1型が不良製品になり、レプリカならぬ墓体となって納まっているのも、父萬之助さんの第1型と同じです。鈴木文吾さんって不思議な人です」と記述している。

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この5例は、岡田氏が「まるはと叢書」の中で紹介していたので取材し編集してみた。また、文吾とは40年来の友であったという、登山家にして写真家の平出真治氏によると、正確な記録は無いらしいが、文吾が残した釣り鐘は、県内外で50例余りであると言う。ここで見たのはほんの一部だが、これからの出会いが楽しみだ。

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●他方で、気になる梵鐘を見ているのでここに記しておこう。都内港区白金の臨済宗妙心寺派、大光山重秀禅寺だ。新編武蔵風土記稿によれば、「麻布領白金村重秀寺 寺伝に上田主水重秀と云人、当寺を開基し、江国和尚を請して創立すと云ふ。

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その年月は伝はらず。重秀は寛文元年(1661)8月18日卒す。重秀寺殿秋林宗清居士と謚す。江国和尚は同12年4月3日寂すといふ。これによれば開山の年代も推て知るべし。本尊聖観音の立像、客殿に安ず」とある。

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●口径2尺強ほどの銅鐘だが、撞座に張り出しは無く、下部には獅子の絵柄がある。縦帯には、「大光山重秀禅寺」、「南無大恩教主 釋迦牟尼佛」と見えるが、陽鋳造文字はこれだけで、造立年月も住職の名も、鋳物師銘も刻まれていない。

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鐘楼塔が「平成14年(2002)6月 17世 元開代」に建設されているので、この頃であろうか。どちらかと言えば鋳肌はガサツだ。これは川口鋳物師、鈴木家の作例かも知れない。また港区高輪の萬栄山正源寺には、鋳造年月が不明ながら、文吾が鋳た喚鐘があるというが、未確認だ。つづく。