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●埼玉県川口市(後100項)に、栄町葬祭センターがある。入口の上部左右に見える半球状の1対の物体は何であろうか。降雨を受ける位置に設置されている訳ではないので、天水桶ではないが、サビが浮き出始めているので、鋳鉄製であろう。気になったので職員の人に聞いてみると、これは、神仏の前で焚くかがり火台(後109項)であった。

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辞書を見ると、「かがり火は、古来の照明具の1つ。主として屋外用のもので、手に持って移動するときは松明 (たいまつ) を使い、固定するときは篝火を使う。松の木などの脂 (あぶら) の多い部分を割り木にして、鉄製の篝籠に入れ火をつけるもの」とある。ここのはガスを燃焼させる方式で、現在は消防法の関係もあり点火されることは無いというが、ゴウゴウと燃え盛る様を是非とも拝見したかったと思う。

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●さて今回は、かがり火台から思いを馳せて、聖火台について考察をしてみよう。平成32年、2020年開催予定の東京五輪が話題になっているが、昭和39年(1964)10月10日の五輪開催時にも活躍した、渋谷区神南の国立代々木競技場にある聖火台は、川口鋳物師の故・鈴木文吾(前3項など)、大正10年(1921)生まれ、平成20年(2008)7月6日没、行年86才が鋳造している。

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上下の画像は、開会式に聖火を点火する坂井義則であるが、後述する代々木の秩父宮記念博物館や川口市のキャスティービル内(前69項後109項)で掲示中の写真を撮影した。同氏は、昭和20年(1945)8月生まれ、日本の元陸上競技選手で、元フジテレビ社員であった。坂井は、競技場のトラックを半周したあと聖火台までの階段を昇ったが、10万713人目の最終ランナーであった。

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●下の画像は、川口内燃機鋳造(株)内での、鋳造直後の聖火台であるが、「沼口信一編著 ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口(昭和54年・1979年4月」より引用させて頂いた。大きさは、上部の直径が約Φ2.1メートル、底部はΦ90cm、高さ2.1メートル、重さ2.6トンだから、文吾の工場では手狭であり、ここの広い工場を間借りしてでの鋳造であった。
川口写真集
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大勢で寄ってたかって最後の仕上げの真っ最中だ。それもそのはず、初回の失敗により2度目のトライであって、もう納期が無いのだから。なお当時の地元の、アマチュア映画愛好家の池田甚兵衛氏(後81項)は、この時の模様を白黒の動画として撮影、編集し保存しているようだ。
川口写真集
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アジア競技大会用に、昭和33年(1958)3月15日に完成した、この聖火台製作上のエピソードなどに関しては、前3項前44項などで記述したのでここでは割愛する。鋳造に関しては、文吾が「失敗すれば切腹して死ぬ覚悟」とまで述べた通り、正に生死を賭しての作業であった訳だが、いつ見ても壮観であり、決して古びた印象を感じないのは、その崇高なデザインによるものでもあろうと思う。
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●では、この聖火台は一体誰のデザインによるものなのだろうか。すぐに判明してもよさそうなものだが、確固たる文献になかなか行き当らず苦労した。多くの写真集を世に出している、寺島萬里子氏の「川口鋳物師 鈴木文吾」を見てみると、「デザインは山下誠一さん」と明記されている。写真集の表紙にあるのが下の画像だが、右側が文吾で、左側は長男の常夫氏。

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ところが、その出典先としている、文吾の平成16年(2004)2月11日の講演内容と、同4月3日の談話全文を隈なく読み返してみても、それを確認できない。どこにもその様な発言は無いのだ。講演内容を活字化した旧鳩ケ谷市の郷土史家・岡田博氏は、「テープからの聞き取り筆記を、古文書写し同様、我職人仕事と天命化して正確に全て筆記し直した」とまで言っているのだが。
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●ただ談話の中で文吾は、天水桶の鋳造について、『三峯神社(埼玉県秩父市三峰・前44項)さんの時(昭和31年・1956年5月設置)は、うちの親爺(萬之助)と設計が山下さん』と言っているように、聖火台鋳造以前から仕事上での良きパートナーであった。

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前に見た三峰神社の天水桶を再確認してみると、「設計 埼玉県鋳物指導所 技師 山下誠一 印影」であるから間違いない、山下氏の設計だ。その他の寺社の鋳出し文字を見ても判る通り、山下氏とタッグを組んだ天水桶は、知る限り青銅製で6例、鋳鉄製で21例にも及ぶ訳で、聖火台の設計も山下氏と言ってよかろうかと思う。

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●次の画像が、自分の鈴木鋳工所で談話する文吾(「eギャラリー川口」より)だが、着ている印半纏は、文吾ファンであった元川口市長の永瀬洋治(後108項)からの贈呈品だ。襟には、「川口鋳物師 鈴木文吾」と染められていて、背には、川口市の紋章がある。これを文吾は、「モーニングに勝る礼装」として愛用したというが、代金は公費で賄われたようだ。

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文吾は、先の講演の中で永瀬洋治の秘話を紹介している。「川口の市議会議員全部、党はかまわず、鈴木さんが埼玉県で唯一人、現代の名工という事に入ったからね、職人として川口の誇りだから半纏を」と話している。議会に諮ったのだ。そして、「川口市議一致の承諾を頂いての、川口市マークの入った半纏を着るのだから、手錠のかかるような事はしねえでくれよ」と冗談めかされている。

談話

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●そしてたどり着いたのが、前出の岡田氏の著、「川口鋳物師 鈴木文吾評伝集成」だ。この中で、「この作品(聖火台)は設計者山下誠一、木型製作者宮内初太郎(後78項)。そして工場提供は、当時の川口で最高の施設であった川口内燃機工業川口工場です」としている。

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これが、一番信頼できる文献であろう。2人は20年来の付き合いであった訳で、その茶飲み談話の中で岡田氏が聞き取った事なのであろうと思う。山下氏や、宮内氏を尋ねれば、製作図面も存在しているであろう。
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●一方、日本スポーツ振興センターの「特集SAYONARA国立競技場」のページには、「1958年(昭和33年)、国立競技場を建設する際、聖火台の設計は国立競技場の設計者(建設省)・角田栄ほか4名によって行われ、製作は川口内燃鋳造所が担当した。鋳造所は、美術鋳造の名工である鈴木萬之助氏(当時68才)に依頼した」とある。台とは建屋の架台の事であろうか。
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また、日本を代表する工業デザイナーである、柳宗理(やなぎそうり、2011年他界)を追悼するページにも、聖火台の建屋の写真付きで、「1964年(昭和39年)に行われた東京オリンピックで使用された聖火台のデザインを手がけています」とある。
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●いずれにしても、素晴らしい設計であることに異論はない。川口市西青木の青木公園(前26項)にある原寸大の聖火台の表面を拡大してみよう。横に走る20本もの線は、競技に参加する各大陸の民族や人々を意味するという。因みにこれこそが、本来代々木競技場に設置されるはずであった聖火台であり、湯漏れして損傷したものを、後日、鋳掛け(後72項)修復したものである。

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デザイナーは、波紋が浮き立つ大海原を俯瞰したような紋様を描いている。世界の民族は、大海で繋がっているというコンセプトであろうか。果てしない大海が連想され、小さな聖火台を雄大な物に昇華させている。壮観だ。青味がかった部分は改修前の青色の塗装であるが、たまたまその一部がはげて海水の色に見え、リアルだ。

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●2020年の五輪に向けて建て替えられる競技場であるが、年初めの1月20日付のmsn産経ニュースによれば、『文部科学省は聖火台と東京五輪の金メダリストの国名と名前を刻んだ銘板などの「五輪遺産」の保存を決定。国立競技場を運営する日本スポーツ振興センターが保存のための検討委員会を開いて具体的な保存方法を決める』という。
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『最期の聖火点火はいつになるのか。現在、ラストイベントについては調整中だ。新国立競技場が完成する2019年まで、聖火台は川口市などゆかりのある市町村に貸し出すことも検討されている。

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聖火台を製作した鋳物師(いものし)、鈴木万之助さんと三男の文吾さんの工場があった埼玉県川口市に暮らす四男、昭重さん(78)は「国立競技場が新しくなっても、この聖火台を使ってほしい」と願う』ともある。画像は、ハンマー投げメダリストの室伏広治氏と談笑する昭重氏。(後132項参照)

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続けて、地震被災地の宮城県や石巻市は、『震災から2年8ケ月になるが、被災地の復興は進んでいない。(聖火台)誘致を発案した同市体育協会幹部は「戦災復興の象徴となった聖火台を石巻で活用し、街に元気を取り戻したい」と話している』、ともあり、聖火台の行方について様々に取りざたされているようだ。
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●一方、新規に製作されるかもしれない聖火台の受注運動も盛んなようで、昨年の12月18日付けの読売新聞によれば、『東京五輪・パラリンピックで使う聖火台の製作を発注してもらおうと、埼玉県川口市、川口鋳物工業協同組合などは17日、下村五輪相あてに要望書を提出した。
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川口の鋳物師が、1964年に東京五輪が行われた国立競技場(東京都渋谷区)の聖火台を作っており、建て替える国立競技場の聖火台も川口の鋳物師に発注することなどを要望している。市産業振興課は、川口の鋳物の技術の高さを知ってもらいたい』としている。画像は、令和元年(2019)10月の「広報かわぐち No.849」に掲載された、場内で聖火台を磨く、鋳造者の鈴木文吾。

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●また、今年平成26年1月30日の富山県内のニュースによれば、『オリンピックを象徴するその聖火台を高岡銅器の伝統の技で作りたいと高岡の鋳物職人たちが名乗りを上げました。30日は、高岡市の高橋市長をはじめ、伝統工芸高岡銅器振興協同組合の代表など8人がメイン会場を運営する日本スポーツ振興センターを訪問。

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鬼澤佳弘(きざわ・よしひろ)理事にぜひ、高岡銅器を聖火台に使ってほしいと要望書を手渡しました。「私どもの1つの夢、聖火台に地元の技術をご活用いただけないかと(高橋高岡市長)」。銅器の町が要望するのには、訳がありました。これまでも数々の聖火台を作ってきた高い技術と実績があったのです。

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国内で行われた札幌、東京、長野の3度のオリンピック。そのうち1972年に開催された第11回札幌冬季オリンピックの聖火台は、高岡市の梶原(かじはら)製作所(前22項)が手掛けていたのです』とある。画像は、新宿区霞ヶ丘町のJAPAN SPORT OLYMPIC SQUARE(ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア)前(後132項)にある、その聖火台のミニチュア版。

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●さらに、平成25年(2013)9月3日の新潟市長の記者会見によれば、『三条市あるいは十日町市などが参加している縄文火焔街道の会議があって、そこで小林達雄先生(県立歴史博物館名誉館長)から具体的な提案があって、大賛成だったのですけれども、2020年の東京オリンピックが実現すれば、その聖火台は火焔土器にしてもらいたいという事です。

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これは日本が誇る最もオリジナルな文化が縄文文化であり、その文化を体現しているのが火焔型土器ということなので、これは運動するに値するのではないかと思っています』と言っている。火焔(かえん)型土器は、縄文時代の土器で新潟県唯一の国宝だ。例えば、下の画像のようなもので、三条市の長野遺跡で発掘された縄文時代中期のものは、高さが30センチほどというから小さい土器だ。なるほど、聖火台には持って来いのモチーフかも知れない。


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事実、鈴木文吾の談話によれば、「それでね、結局あれ(聖火台)をオリンピックに使うってことがきまったのはね、(昭和)38年(1963)にね、なんか新聞に出たんですよ。実はね、新潟のね、発掘した火焔土器を使うって話があったらしんですけどね ・・」、と言っていたように、火焔型土器は、前回の東京五輪でも候補の一角に挙げられていたようなのだ。’20の五輪でも有力候補と言ってよかろう。
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●さて、都内渋谷区神南の国立代々木競技場の中に秩父宮記念博物館がある。「スポーツの宮様」として広く親しまれた秩父宮雍仁親王を顕彰して、昭和34年、1959年に設立されている。オリンピックに関する展示場と、スポーツに関する本などを所蔵する図書館から成っているが、ここに聖火台のレプリカがある。

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後述の図面によれば、重量は本体と上蓋を合わせて16.4kg、口径Φ315、高さも315ミリであるが、材質は「FC15」という鋳鉄製だ。これは「6.6分の1の収縮品」であるから、計算すると本物は、口径高さ共にΦ2.079ミリで、底面は約90cmだ。肉厚は「3(ミリ)」とあるから、約20ミリほどだ。鋳造は、「川口内燃機鋳造(株)」だが、ここは、文吾が「本物」を製作した場所でもある。

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台座に見える社章は、「○に川」であるが、現在も使用されている、「川口内燃機鋳造(株)」のものに間違いない。同社の社長であった岡村実平は、後の第19代川口市長の岡村幸四郎の祖父であった(後72項)。なお、その表面肌からして、台座も鋳造物のようだ。

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●詳細が判ったのは、何枚かの製作図面も展示されていたからで、このレプリカのために書かれた専用の図面だ。製図年月日は、「(昭和)39(年・1964).1(月).29(日)」となっているから、東京オリンピック開催の約9ケ月前だ。「名称 国立競技場」、図面番号は「SB~005」で、尺度は「1/1」となっている。

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鉢巻き状のミゾ形状も、細部まで判る。図面では、「10.5(ミリ)」なので、約70ミリピッチだ。上述した「海原の波紋」をここでは、「山脈肌」と形容しているし、上蓋の紋様は、「砂利肌」としている。実際の燃料としてはガスが使用されているが、設計上の燃料としては、コークスか石炭を想定しているのだろう。

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●この画像が、実際に代々木の国立競技場にある、「砂利肌」と形容されている豪快に燃え盛る上蓋だ。年間で20~30回ほど点火されたという記録もあるが、設置以来、何度点火されたのだろうか。
聖火台・上からの絵
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製図は「二瓶」、検図は「矢吹」氏だが、ここに基本設計の「山下誠一」氏の名前があれば、先のデザイン問題に決着がついたはずなのだが。なお、こういったミニチュア版は、後73項後115項でも登場しているのでご参照いただきたい。

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●博物館には、何枚かの図面があったが、その中には、「1/10の収縮品図」もあった。この図面によって鋳られた、口径、高さ共に21cmのレプリカは、関係者に配布されたようだが、裏蓋に「鈴木文吾」の銘が入っていて、大理石の台座に載った立派なものだという。

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文吾と親交深い、元銀行員にして山岳写真家の平出眞治氏(前44項後78項後122項)もその1人で、年賀状にはその写真が載っている。同氏によれば、「平成天皇が皇太子殿下時代に献上するために、僅か数個しか造らなかった内の1つ」だという。意義あるレプリカなのだ。

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●五輪は全世界に放映され注目を集めたが、開会式でアップされ続けた川口鋳物師の聖火台は、一方の主役でもあった。飾り物としてのこのミニ聖火台は、ブームに乗って注文が殺到したというが、川口内燃機鋳造は、このミニチュアを文吾に作らせている。

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文吾は、聖火台の鋳造に一度失敗しているが、2基分の鋳物の素材費用は如何に工面したのであろうか。勝手な想像ながら、このミニ聖火台の売り上げは、その一部に充当されたのではなかろうか。運命は、命がけで使命を果たした人の味方であろう。

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なお、川口鋳物師鈴木文吾に関しては、前3項前58項後115項後122項など多くの項で登場しているので、ご参照いただきたい。では、聖火台についての考証は次回も続けよう。つづく。