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●埼玉県川口市青木にある市役所の1階ロビー裏には、1基の天水桶のオブジェがある。1尺ほどの小さなものだが、急勾配の屋根が備わっていて、シャープでやけに格好がいい。3個の手桶は屋根と一体化して鋳造されていて、本体の3本の樽のタガもリアルに表現されている。

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正面には、「雨水利用」と鋳出されていて、裏側を見ると降雨を呼び込む配管がなされているが、それを濾過して貯水するのだろうか、空色のタンクが備わっている。聞いてみたが設置目的は判然としない。左側に組み上げポンプがあるが、植木への水やりのために設置したのだろうか。

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●ロビーには、渋谷区神南の国立代々木競技場に設置されていた聖火台のミニチュアも展示されている。1/6サイズの模型だが、本物の聖火台の鋳造設備を提供した川口内燃機鋳造(株)が、創立25周年を記念して、昭和38年(1963)に製作したものだ。台座には同社の社章も見られる。

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実際の聖火台は、川口鋳物師の鈴木萬之助、文吾親子(前3項)が鋳造しているが、まったく同じミニチュアは複数あるようだ。画像は、かつて競技場の中にあった秩父宮記念博物館で見たもので、色合いも大きさも同じようだが、ここでは、6.6分の1サイズと説明されている。(前71項前73項参照)

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●近年、川口市は、「知ろう・使おう・広げよう」をテーマにして、「産品フェア」を開催している。市内の産業を幅広く紹介しようというイベントだが、PRポスターには象徴的な聖火台が掲載されている。川口鋳物工業(協)も出展しているが、ここも画像のようなミニチュアを所持しているようで、同じ大きさだが黒色に塗装されている。因みに、埼玉県立の歴史と民俗の博物館にも同様のミニチュアがあるようだ。

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またフェアの出展企業を見ると、川口市内には、数社のマンホールのフタ(前5項)のメーカーがあるようだ。最近街中でよく目にするものは実にカラフルで、デザインも多様だが、製品の表面には、横浜市、上越市、高松市、草津市などの文字が見られ、受注先も全国区のようだ。

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●さて今回は、聖火台作者の鈴木文吾が手掛けた天水桶を見ていこうと思うが、その前に、文吾の実父であり師匠であった、萬之助が鋳造したという大火鉢を見てみよう。それは、茨城県笠間市の笠間稲荷神社(前45項)に現存するが、ここの天水桶は、文吾が「昭和47年(1972)2月吉日」に製作し、「川口市一力講」が奉納した1対であった。

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大火鉢は、百畳敷の大広間の暖房用として設置されたものだが、現在は片隅に置かれ、その上には茶釜が重ねられている。重量は53kg、口径3尺、1mほどでそれぞれ2基づつある。確認はできなかったが、フタや五徳もあるようだ。茶釜は、「昭和47年(1972)2月 鈴木文吾」作だ。

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●「川口平和講 発起人講元 稲川壽之」らの奉納で、多くの講員の名がぐるりに並んでいるが、講の「三十周年記念」であった。各所で見られる川口由緒の講については、前58項前87項前106項にリンク先を貼ってある。正面のメインの紋章は、稲荷社の象徴である「稲穂紋」で、取っ手の付け根の意匠は、火鉢だけに、炎に包まれた宝珠を模した「焔玉(ほむらだま・前94項)」のようだ。

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上部を見ると、陶器を意識したのであろう、釉薬の垂れが表現されていて、こだわりが感じられる。時期は、「鈴木萬之助 昭和29年(1954)5月吉日」であるが、さらに四角い枠で囲まれ、「水戸出身鋳物師 鈴木萬之助作」となっていて、鋳工者の銘が2度も登場している。

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●後年に、文吾はこう語っている。「完成したこの火鉢を工場の前に置いておいたら、それを見た近所の鋳物屋の親父さんたちが、これだけの鋳物を吹ける人がいるのなら、地元の神社に天水桶を奉納しようじゃないか」という事になり、製作されたのが、画像の川口元郷氷川神社(前12項)の天水桶だ。

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「鈴木萬之助 仝(同)文吾作」という形になっていて、これが初登場の文吾銘であるが、文吾はこの己の名前の表記を喜び、これを機に仕事に邁進していくことになるのだ。「昭和30年(1955)10月 芝川鋳造(株)」銘となっていて、大火鉢の翌年の設置だ。当時、鈴木家の工場は狭く、芝川鋳造の敷地や設備を借りての鋳造であったが、察するに、大火鉢もそこで鋳造されたのかも知れない。

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●もう1例は、都内墨田区横網の東京都慰霊堂(前42項)にある花瓶1対だ。ここは、昭和5年(1930)に関東大震災の身元不明の遺骨を納め、その霊を祀る「震災記念堂」として創建されている。また、その後の東京大空襲の被災者の霊も祀っているようだ。

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「萬之助作」であるというご遺族の証言があったので確認に出向いたのだが、その証言とは、埼玉県深谷市本田の安養山教念寺(前44項)の、萬之助の墓地にある聖火台を模した碑の銘文だ。

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碑は、「維時 昭和四十九年甲寅(1974)三月吉辰」の造立であったが、銘文の5行目に、「代表作としては、東京本所震災記念堂の大花瓶、三峰神社(前44項前110項)の天水桶等数多く、優美な姿と共にその技術は広く世に認められた」とあるのだ。

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●許可をいただいて登壇、撮影させていただいたが、慰霊堂の堂内には祭壇があり、その両脇に1対の花瓶が置かれている。花瓶の裏側の文字は、「震災記念事業 完成感謝 昭和6年(1931)11月」となっていて、堂宇の創建の翌年には完成したようだが、鋳造者銘は鋳出されていないようだ。

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正面に「霊光仰粛」と鋳出されている。肩には若草紋様が巡っていて、その上下に細かい雷紋(後116項)が連続している。萬之助は、明治24年(1891)5月24日生まれで、昭和33年(1958)2月23日に、行年68才で没しているので、鋳造は、41才の時のものだ。 

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●さて、埼玉県所沢市中富にある神明社(しんめいしゃ)は、通称イモ神社として親しまれているが、「甘藷(かんしょ)乃神」、イモの神として吉田弥右衛門と青木昆陽を祀っている。吉田は、江戸中期の人で、今に広く知られる川越イモの基礎を確立しているし、青木は、8代将軍吉宗にイモの栽培を命じられ、天明の大飢饉では多くの人命を救っている。

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神社は、「川越イモ作りはじめ255周年記念」として、「平成18年(2006)11月23日」に創基しているが、イモのそのたくましい生命力にあやかり、健康、家内安全、子孫繁栄を祈願できるという。銘板の「甘藷乃神」は、「秩父神社宮司 薗田稔」の謹書だが、同氏は、京都大学名誉教授にして、宗教学の権威だ。大きさは、横の長さが60cm、総高は30cmとなっている。

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●このイモを撫でて、ご利益にあやかろうという訳だが、この神の拠り所の青銅物を鋳たのは、「平成18年11月 製作 川口鋳金工芸研究会 監修鋳物師 鈴木文吾」だ。現在この会は、(株)永瀬留十郎工場(前68項)の永瀬勇氏を会長として、湯釜や鉄瓶などの鋳造をしているが、文吾も講師として指導していた時期があったのだ。

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発会は昭和58年(1983)3月で、川口の伝統工芸美術品などの製作研究を行うというのが設立主旨であった。会長に、金星鋳造(株)の大熊利一氏、顧問に永瀬洋治(前108項)元市長、工芸家の木村庄太郎氏らが、相談役に鈴木文吾らが選出されていて、37名の会員で発足している。また設立総会では、文吾の良きパートナーであった山下誠一氏(前26項)が挨拶を述べている。

山下誠一

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●神社を見守る狛犬も青銅製で、これも文吾の監修で全く同じ銘が刻まれているが、狛犬が足の下に抑え込んでいるのはイモだ。なお、神社の遷座祭には文吾も立ち会っているが、晩年のことであり、最後の大仕事だったかも知れない。

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台座に「平成18年(2006)11月吉日 製作 川口鋳金工芸研究会」、「監修 鋳物師 鈴木文吾」銘が陽鋳造されている。

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●ところで、「鉄瓶」という言葉が登場したので触れておくと、とある商店の主人に伺って初めて知った事がある。鉄瓶には正面、裏面という向きがあるようなのだ。下の画像の右側にのみ、実の付いたブドウの紋様があるが、こちらが正面だという。この店の入り口も右側で、客が入ってすぐ目にするのは鉄瓶の正面であった。

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通常、茶席で客人が座るのは画像の右側で、鉄瓶を挟んで反対側に座るのが、当然、茶人だ。人の多くは右利きであるから、茶人は右手で取っ手を掴み、注ぎ口から茶を注ぐことになるという訳だ。そういう目で見ると、茶人側の紋様は、客人側に比べ質素であることが多いようだ。

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●では、文吾が手掛けた天水桶を見ていこう。板橋区西台にある曹洞宗、福寿山善長寺の創建は、掲示板によれば、延宝年間(1673~)で、西台村堀ノ下に住んでいた松浦長十郎によるという。本尊は釈迦如来像だが、秘仏として子安地蔵を祀っていて、「子安さま」として親しまれている寺だ。

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1対の青銅製天水桶には、「丸に桔梗紋」が描かれているが、見た目の印象としては決して美しい鋳肌ではない。奉納者として、総代や石材店、地元の檀家ら、そして「住職 森省一」の名が並んでいる。

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「昭和60年(1985)3月吉日」の造立で、その下に鋳造者名が角印で陽鋳されているが、「鈴木文吾」と読める。こういった表現法は2例目で、前26項で見た草加市遊馬町の遊馬山西願寺の、「昭和40年(1965)年10月」の鋳鉄製が前例であったから、20年ぶりに用いた手法であった。

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●千葉県八街市大関にある、日蓮宗経王山本昌寺。開山したのは、一乗院日受上人で、慶安元年頃(1648~)という。松戸市平賀にあるアジサイ寺、長谷山本土寺(前70項)の孫寺だ。

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1対の鋳鉄製天水桶は、「昭和59年(1984)2月吉日」の造立で、「第37世 日祐代」の時世であった。総代ら多くの世話人の名が並んでいるが、「宗祖日蓮大聖人 第七百遠忌報恩」と「本堂建立記念」として設置されていて、同時に境内を整備し寺観を一新させている。先代滅後の平成18年(2006)、現住の第38世は、庫裡の改修、永代供養墓である久遠廟を建立し現在に至っている。

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設置理由がもう一つあり、鋳出された4人の氏名の隣にこう記されている。「右四氏 本堂建立に尽力せられしも、完成を待たず逝去せらる。依ってその功を称え、併せて氏名を銘記す。」4人とはずいぶん大人数のような気がするが、事故でもあったのだろうか。その左には、鋳造者銘として、「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」と刻まれている。

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●栃木県芳賀郡益子町益子の時宗、一翁山阿弥陀院正宗寺。ホムペから引用すると、『寺伝によると、天治元年(1124)に紀貫之 七代の末孫 紀仲之(益子氏初代・之宗の父)が開基となり、専阿上人を開山上人に迎え、守り本尊を安置し、一宇建立したことが正宗寺の始まりとされています。

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地元では北寺の通称で親しまれています。「北」は神々と天皇の鎮座まします方位とされています。本堂の欄間に菊花紋(十六葉八重表菊)が掲げられていることからも皇室とは何らかの関係があったことがうかがわれ、以上のようなことから北寺の通称で呼ばれるようになったと推測されます』とある。天水桶の上部にも菊花紋が配されていて、由緒の深さを物語っているようだ。

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1対の鋳鉄製の天水桶の大きさは、大きさは口径Φ1m、高さは950ミリだ。正面に据えられた紋章は、「隅切り角に三文字」で、これは時宗の宗紋だが、その総本山は、藤沢市西富の藤沢山(とうたくさん)清浄光寺、通称遊行寺(後128項)だ。「昭和56年(1981)7月吉日」に造立され、鋳造者銘として、「設計者 山下誠一 鋳物師 鈴木文吾」と刻まれている。

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●続いては、埼玉県比企郡ときがわ町にある、端松山皎円寺(こうえんじ)。ここは、木曽(源)義仲の父君の源義賢の菩提寺だが、仁治2年(1242)、家臣の荻窪家が建立している。十一面観音を保持していて、入間郡越生町、比企郡を廻る入比板東三十三所観音霊場の3番札所だ。

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臨済宗妙心寺派だが、この宗派の本山は京都市右京区にある。ホムペによれば、「インドの達磨大師さまから中国の臨済禅師さまを経て、妙心寺開山無相大師さまへと受け嗣がれてきた一流の禅を宗旨・教義としています」という。

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●1対の天水桶は、ハス型の鋳鉄製だ。紋章は「下り藤」で、その中心に「十六菊紋」が菱形に変形され描かれているが、蓮葉を模した反花の台座に載っていて、味わい深い造形となっている。住職によれば、文吾が生前にここまで磨きに来ていたというが、かくしゃくとした印象が残っているという。

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「大東亜戦争彼我戦没者」や興祖600年遠忌、檀信徒の菩提供養のための奉納であった。銘は「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一」と鋳出されていて、「当山30世 有禅代」の時世、「昭和52年(1977)春日」の造立だ。

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●埼玉県本庄市千代田に鎮座する金鑚(かなさな)神社は、中仙道の宿場町として栄えた、日本橋から10番目の本庄宿の総鎮守だ。掲示板によると、創立は、第29代欽明天皇2年(541)と伝えられ、武蔵七党の1つである児玉党の氏神として、また、本庄城主歴代の崇信が篤かったという。

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権現造りの本殿は享保9年(1724)、拝殿は安永7年(1778)、幣殿は嘉永3年(1850)の再建で、細部に見事な極彩色の彫刻が施されていて、武州本庄七福神の恵比須様の地として訪れる参詣者も多い。

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●また、大鳥居には、松平定信が揮毫したという扁額がある。定信は、江戸時代中期の大名で老中職を務めた陸奥国白河藩3代藩主であった。江戸幕府8代将軍の徳川吉宗の次男宗武が父であるから、吉宗の孫に当たるが、寛政の改革(1787~1793)を行った事でも知られている。

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境内の3本の御神木、クス、カヤ、モミの木は、天然記念物として保護されているが、本庄城主・小笠原信嶺(のぶみね)の孫の総州関宿城主・小笠原忠貴が、寛永16年(1639)頃に植樹したという。信嶺は、天正18年(1590)に家康が関東に入った際、この地に1万石を与えられ、本庄藩の藩祖となっている。画像は大門だが、市指定の文化財となっている。

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●両側に鎮座する鋳鉄製天水桶のセンターには、三つ葉の葵紋があるが、徳川家とのつながりを意味するものだ。江戸時代、葵紋には40を超える種類があったようだ。三つ葉を取り囲む枠や、葉のしわや筋の形状や数、その曲がり方や角度に違いがあるのだ。それによって徳川宗家や御三家、親戚筋の松平家の区別が出来たというが、ここでの葵紋は、松平家の物であろうか。

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額縁には茎や葉を伴った十六菊紋があり、県から奉幣した神社である、旧県社としての高貴さを物語っている。石の台座に「當(当)所 新田町」と旧字体で刻まれている事からして、かつては先代の天水桶が据わっていただろうと思われる。

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背面には「昭和元号五十年記念」での奉納として、多くの氏子の名が連なっているが、宮司、禰宜、権禰宜は中山氏が代々に亘ってお努めのようだ。1対の鋳造は、「鋳物師 鈴木文吾 設計者 山下誠一 昭和50年(1975)11月3日」銘となっている。なお、川口鋳物師の鈴木文吾に関しては、前3項前58項前71項後122項など多くの項で登場しているので、ご参照いただきたい。つづく。