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●平成24年(2012)11月半ばの快晴の日に訪れた、葛飾区の水元公園。近くの池では太公望達がヘラブナ釣りに夢中だ。釣ってはリリースして楽しんでいたが、江戸時代の釣り糸は、どんなものだったのだろうか。ウィキペディアによると、『ナイロン糸が釣り糸に使用される以前は、テグスサンというヤママユガに近い蛾の幼虫の絹糸腺から作ったテグスや、スガ糸(絹)などが使用された。

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●釣り糸の販売は、江戸中期に徳島の漁師が薬剤を縛る半透明の紐を見て、「これを使えば魚はいくらでも釣れる」、と言ったのをきっかけに大阪の船場にある薬問屋だった「広田屋」がテグス商としてスタートさせたのが始まりである。

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その漁師が実際の漁でデモンストレーションし、これによって釣り糸としてのテグスがあっという間に世の中に広まった。現在でもテグスは釣り糸のことを指して使われることがある。転じて、染織の分野ではナイロンラインのことをテグスともいう』とある。
ヤママユガ

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漢字を当てると「天蚕糸」とするようだが、なるほど、透明でそこそこ強度もあって水にも耐え得る、そんなおあつらえ向きの蛾がいたとは、自然界は広い。現代の釣り糸は化学繊維であるが、江戸中期からテグス糸が存在していたとは驚きだ。

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●話は変わって、「江戸」という言葉の由来は何であろうか。初見できる文献は、源平の合戦が記され、鎌倉期前半までが描かれている歴史書、「吾妻鏡」だ。鎌倉幕府初代の将軍は、源頼朝であったが、治承4年(1180)から文永3年(1266)までの内容だ。編纂当時の権力者である北条家側からの記述であることや、編纂当時に残る記録や伝承などからの編纂である事に注意が必要だが、鎌倉時代研究の前提となる基本史料と言われている。

源頼朝

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この中に、「江戸太郎重長」という人物が登場している。江戸氏の始祖「重継」が本拠地としたのが、後の江戸期の江戸城本丸あたりとされているが、重長は、重継の長男だ。古来より、武者らは、所領地名を己の姓としている場合が多いというから、当時から「江戸」は地名であったのだろう。では、「江戸」という地名の呼称が消滅したのはいつであろうか。

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●明治元年(1868)4月に、江戸城が無血開城され、同7月には、「今より江戸を称して東京とせん」という詔書が出され、地名としての江戸は消えている。その歴史は、約700年と言えようか。画像は、東京都港区芝5丁目の薩摩藩蔵屋敷跡にある「江戸開城 西郷南州 勝海舟 会見之地(西郷吉之助書)」という石碑。

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慶応から明治への改元は9月8日であったが、1月1日に遡って適用されている。翌年には、明治天皇が東京へ移動なされ、正式な発表は為されていないが、事実上、遷都がなされた訳だ。しかし、現代においても庶民の中で「江戸」の2文字は馴染み深く、永遠に忘れ去られる事はなかろう。

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●さて、地域はバラバラだが、最近の散策中に出会った天水桶を紹介してみよう。水元公園近くにある、都内葛飾区東水元の真言宗豊山派、八幡山地蔵院延命寺。ここは奈良時代に泰澄が創建したと伝わるが、本尊は地蔵菩薩坐像だ。「新四国四箇領八十八ケ所霊場34番」だが、これは中川の両岸沿いにある弘法大師像を巡礼する霊場で、天保12年(1841)に開創している。

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階段下の天水桶1対は、「平成20年(2008)5月吉日」造立の花崗岩製(前11項)で、大きさは口径Φ760、高さは930ミリだ。湯呑み茶碗のイメージだが、ありそうで見かけなかったデザインとなっている。

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正面に「輪違い紋」が見られるが、この紋を使用した戦国大名としては、播磨龍野5万石の藩主脇坂安治が有名だ。本来は金剛界と胎蔵界を表すとも言う紋だが、同家の場合、雌雄2匹の貂(テン=イタチ科の動物)に由来するという。

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●東京都足立区鹿浜の医壷山(いこさん)福寿院宝蔵寺は、真言宗智山派、荒綾八十八ケ所霊場77番札所で、弘安年間(1278~)に、良算和尚によって鹿浜村南部に創建されたという。コンクリート製の天水受け1対は、「興教大師 八百五拾年 御遠忌記念」として「平成四年(1992)十二月十二日 第三十三世 諦俊代」に造立されている。大きさは口径Φ1.1m、高さは縦長で1.6mとなっている。

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●同じく都内足立区花畑の暁月山實(実)性寺は浄土宗の寺院で、創建は延徳元年(1489)だ。開基は北条氏岩槻城斉田右兵衛尉頼康公で、その墓石も現存している。その法号は「實性院殿霊山暁空大居士」で、大永元年辛巳(1521)7月23日の没日と刻まれている。石造りの天水桶1対は、口径1.1m、高さは920ミリで、正面に葵紋が据えられているのは、かつて徳川将軍が御成りになったご縁からだろう。

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●埼玉県草加市神明の東福寺は松寿山不動院と号する真言宗智山派の寺院で、慶長11年(1606)に小田原北条氏の旧臣の大川図書が開基している。大川は、天正18年(1590)の小田原落城によって浪人となり、岩槻に落ちていたが、徳川家康の天下統一後、朋友の伊奈備前守の計らいにより草加(前26項)の地に土着したという。口径3尺ほどの天水桶1対は、石造りとなっている。

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●神奈川県横浜市金沢区洲崎町の真言宗御室派の準別格本山である知足山龍華寺(りゅうげじ)は、明応8年(1499)の創建という。市指定の有形文化財である木造大日如来坐像を本尊としているが、他にも旧本尊の木造弥勒菩薩坐像や木造地蔵菩薩坐像、県指定重要文化財の梵鐘を保持している。

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1対の天水桶は四角い花崗岩製で、大きさは915ミリ角、高さは850ミリだ。正面の5枚葉の紋章は、「梅花紋」や「桔梗紋」にも見えるが、葉の意匠がハート形にくびれているので、これは「桜紋」のようだ。言わずとも知れた日本の国花とされるが、「花は桜木 人は武士」と讃えられ、家紋として使用されるようになったのは、江戸時代に入ってからであった。

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●先のその重文の銅鐘は、個室を誂えられ厳重に保管されている。口径Φ76.3、身高は109.5cmだが、鋳造者は不明だ。鐘身には「天文十年(1541)辛丑五月五日」、「知足山龍華寺」と陰刻されている。室町時代の日付けだ。説明書きによれば、刻まれた銘文は天文の頃とは思われない古様式の鐘という。

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さらに「鎌倉を中心とした地域特有の上下帯をもち、口径と鐘身の比、鐘身高と撞座高との比からみて、鎌倉時代末の作鐘とみられる。その後、当寺の鐘となった」とある。確かに、撞座の位置が高めなのは2、3世紀ほど前の鎌倉時代の作鐘の特徴だ。つまり、「天文」という刻みは、後日の彫り込みと言う事になろうか。凸文字の陽鋳造であれば、鋳造と同時でなければ成立しないが、凹文字は、タガネなどでいつでもどこへでも刻めるのだ。

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●葛飾区青戸の両鎮山慈眼院観音寺は、真言宗豊山派で、荒綾八十八ケ所霊場7番札所だ。これは、弘法大師ゆかりの88ケ所の寺院を祈願のために参詣するもので、有名な四国遍路八十八ケ所を模して創設されている。

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寺は、天正4年(1578)に真盛法印が創建していて、平成8年(1996)10月には、開創420年を記念して梵鐘が新鋳されている。近くの環七通りの向かいには葛西城跡、北側には水戸街道がある交通の要衝に位置する。

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天水桶1対は、「昭和58年(1983)8月吉日」奉納の青銅製で、作者は不明だ。額縁には唐草紋様が周囲を廻り、ここにも「輪違い紋」が見られるが、大きさは口径Φ1.070、高さは1.100ミリとそこそこ大きく迫力がある。「観音寺第四十二世 恵進代」の時世であった。

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●ここの法具を見ておくと、屋根下に風鐸(ふうたく)が備わっている。辞書によれば「堂塔などの軒の四隅に吊るして飾りとする、青銅製で鐘形をした鈴。宝鐸とも言う」とある。本体上部には乳もあり、中央に舌(ぜつ)が下げられ、それが鐘身の内側を打って音を出す構造だ。人が撞き木で打ち鳴らす梵鐘と違って、鳴らすのは自然の風であり、下部のハート型の猪目(前33項)の割れは、高音で鳴く音色に寄与するのだろう。これは鈴なのだ。

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堂宇の軒下に掛かる3口(こう)の半鐘は、「観音寺本堂 新築記念」や「観音寺護摩堂 新築慶賀」、「観音堂開堂入佛客殿 落慶記念」、「弘法大師御生誕 千二百年記念」として、「東京浅草 五雲堂 謹製」が扱っている。五雲の「雲」の文字が、天地逆になっているのは、前34項後92項で見た通りだ。

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●千葉県松戸市東松戸の日蓮宗、頂光山伝法寺にも例がある。慶長9(1604)の開山という境内には大きな枝垂れ桜があり、花見の穴場スポットとして知られる寺社だ。近年の松戸市はお花見の街としてアピールしている。八柱から常盤平、五香へと3キロも続く桜のトンネルは「日本の道100選」にも選ばれているし、「戸定が丘歴史公園」の一本桜は、「日本の歴史公園100選」だ。

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堂宇前に置かれた青銅製の天水桶1対は、いい寺観を醸し出している。寄進者は、伝法寺45世の日孝夫妻で、「昭和47年(1972)10月13日」の事であった。「東京浅草 五雲堂 謹製」が扱い者の銘だが、この意匠からして、鋳造は老子社(前8項など)であろうか。やはりここでも「雲」の文字が、天地逆になっている。

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●足立区中川の新義真言宗、紫雲山西光院にも桜の樹が多く、「桜寺」の俗名がある。区の掲示板によれば、慶長年間(1596~)に、近辺の「長右衛門新田」を開拓した浅田長右衛門が開基したという。本尊は阿弥陀如来だが、2世紀ほど前に田んぼの中から発掘されたと伝わる、自然木に観世音菩薩を半肉彫りした、区登録文化財の「田光り観音」が安置されている。

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天水桶は、「昭和56年(1981)秋彼岸 21世 了栄代」銘の青銅製の1対だ。正面の紋章は「丸に抱き茗荷」だが、「ミョウガ」の音が神仏の加護を受ける「冥加」に通じることから、縁起の良いものとして知られている。

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●東京メトロ有楽町線の江戸川橋駅近く、文京区関口の正八幡神社。区の神社詩によれば、「古来関口台の鎮守として祀られ、江戸時代、別当は龍泉山洞雲寺であった。古く水神社に並び鎮座していた椿山八幡宮を下の宮と呼ぶのに対し、上の宮とも、また関口八幡宮とも称せられた」という。

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「平成9年12月吉日」の造立で、「世田谷区深沢」の人が奉納している。青銅製の1対で、やはりメーカー不明だが、大きさは口径Φ960、高さは900ミリだ。正面に神紋の三つ巴紋が据えられていて、これは水が渦巻く様を表現しているが、防災厄除けを意味している。よく寺社の屋根瓦などにも見られるのはこのためだ。上部の額縁には、乱舞する獅子とボタンの花が描かれている。

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●足立区綾瀬の真言宗豊山派、宝珠山普門院薬師寺の創建は、寛永9年(1632)で、開山は賢明法師という。薬師如来は眼疾に効験があり、水戸光圀江戸参府の折、眼の痛みを治したと伝えている。堂上部の「医王堂」の扁額は千住の接骨医、名倉氏初代の書である。(区教育委員会掲示より)

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名倉家の初代は、名倉重直(1668~1712)だ。骨接ぎの代名詞として全国に知られる「千住の名倉家」は、4代目の名倉弥次兵衛直賢(1750~1828)が、日本初の接骨院を開業している。有名になったのは、7代目の弥一の頃からと言われ、最盛期の大正時代には、1日数百人もの患者がいて、戸板に乗った人や籠の行列ができたという。

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この「名倉堂」を名乗る接骨院は、名倉の下で修行を積み、家名継承を許された者達で、近代医学が進む中、現在でも日本古来の無血療法という、手術しないで治す方法を伝承している。この千住の建屋は、区の登録記念物、史跡となっている。

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さて1対の桶は「本堂再建記念」で、「昭和35年(1960)春彼岸 第25世 順正」の代に造立された青銅製で、上述の由来からだろうか、正面には「葵紋」が表示されている。導水パイプを固定する金具もいい感じに誂えてあり、3本の脚は猫足(前33項)で愛らしい。湯呑み茶碗やコーヒーカップのイメージだろうか、丸みを帯びたデザインだが、同じ様な意匠は、前33項後92項でも見ている。

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●葛飾区東金町の天台宗の玉島山明星院東江寺は、多田満仲が摂津国多田の里に、沙羅蓮山石峰寺として天徳2年(958)に創建したと伝えられている。満仲は、平安時代中期の武将で、清和源氏の六孫王経基の嫡男にして、多田源氏の祖だ。子育て薬師で、通称「多田薬師」とも言われるが、なるほど、境内で幼稚園も経営しているようだ。

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銘は「昭和59年(1984)9月吉日」の青銅製1対で、ハスの花弁ではなく、菊の花のイメージだろうが、かなり縦長で比類ない。上部に「篠笹紋」が見られるが、これはいつも青さを失わない強い生命力にあやかった紋だ。願主は、「28世住職 小山信順」であった。

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●遠く飛んで、静岡県沼津市東間門の法華宗光栄山妙伝寺。同市のサイトによれば、慶長9年(1604)の創建で、開基は日典という。当時の駿河国沼津の三枚橋城主の大久保治右衛門忠佐は篤く法華宗に帰依し、自らここを大久保家の菩提寺と定めている。

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作者不明の青銅製の1対は、「平成3年(1991)5月吉日 31世 晴隆」の時世に、檀家が  「本堂修復記念」として奉納している。正面には、大久保家由縁であろうか、「陰鶴の丸」らしき家紋が見える。優美な姿に加え長寿の象徴である鶴の紋は、多くの武家で使用されている。

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●同じく静岡県は、御殿場市中畑の浄土宗向雲山善龍寺。すぐ西側に富士山を望める見晴らしの良い場所だ。時期は不明ながら、正蓮社念誉真公上人が開創している。当初は富士山中の八ツ沢にあったが、延徳元年(1489)の火災で衰退、宝永4年(1708)に現在地に移されたという。慈覚大師作という阿弥陀如来座像を本尊としているが、大師は、円仁とも称される第3代天台座主で、最澄、空海らと共に入唐八家の1人だ。

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清廉な堂宇前に、独特なデザインの天水桶が1対置かれているが、ハスの葉が開花している様を表現しているようだ。寺紋は、「丸に笹竜胆(りんどう)」だ。平家物語でお馴染みの源義経や木曽義仲のほか、清和源氏の血統の武将が多用している。神奈川県鎌倉市の市章もこの紋だ。

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青銅製の天水桶は、「昭和53年(1978)11月吉日 第19世 典誉代」の時世に、「小山町 原向勝亦鋳工作」が鋳造している。静岡県駿東郡小山町が所在地のようだが、現況は判らない。鋳肌には多くの巣喰い(後67項後121項)が見られるので、手慣れた専門業者ではないようだ。

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●群馬県前橋市紅雲町に、曹洞宗大珠山龍海院がある。ホムペから要約すれば、享禄3年(1530)元旦、徳川家康の祖父・松平清康が、龍渓院の模外(もがい)禅師を開山として岡崎城下に建立し、その後は、徳川家に外護を命じられた譜代筆頭家老の酒井家の菩提寺となっている。

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石碑に「前橋藩主酒井氏歴代墓地」とあるが、市の指定史跡だ。1対の青銅製の天水桶は、「平成5年(1993)10月吉日 龍海一雄代」に、「本堂改修記念」として設置されているが、正面には、酒井家の家紋の「剣片喰(かたばみ)」が据えられている。その旺盛な繁殖力から、子孫繁栄の象徴として好まれた、日本十大紋だ。

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●次は、埼玉県さいたま市岩槻区本町の、曹洞宗雲居山大龍寺。岩槻城主の青山伯耆守忠俊公(寛永20年・1643年没)の開基だが、参道入口の大きな看板には、徳川3代将軍家光公御守役とある。

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忠俊は、徳川3代に仕えた譜代大名で、元和6年(1620)に岩槻城主となった時は、5万5千石であった。しばしば家光に諫言を繰り返したため、老中を免職され上総大多喜2万石に減転封されるなど、多難な大名であった。寛永20年(1643)享年66才で他界している。

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威容を誇る1対の青銅製天水桶は、「平成10年8月吉日 当山38世 修道代 本堂新築記念」として、檀家が奉納している。青山家の定紋は葉菊のようだが、このシンプルな裏銭も家紋としていて、俗に「青山銭」と呼ばれている。

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●渋谷区本町の光明山真言院荘厳寺の本尊は、薬師如来像という。不動堂の本尊不動明王立像(前20項)は、智證大師が三井寺を創建した際に彫刻、東大和市三光院より当寺へ安置したものと伝えられ、幡ケ谷不動尊として信仰を集めている。境内には2対4基の青銅製の天水桶がある。昭和49年(1974)と平成5年(1993)に奉納されたものだ。

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かつてここには、鋳鉄製の1対が存在したようだ。正面のこの紋章は「輪宝」だが、現在の1対にも配されている。元来は、古代インドの想像上の武器の1つだが、日本に伝来して密教の法具となっているという紋だ。

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天水桶にあった銘は、「昭和九年(1934)十一月二十八日 東京 ○に七の社章 釜七本店作」であった。この本店に関しては、前18項後117項で見ているが、いずれも明治35年製(1902)であり、昭和期でのものはお初だ。

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●新宿区原町に日蓮宗、蓮紹山瑞光寺があるが、都営大江戸線の牛込柳町の真南に位置している。この地下鉄は、平成初期から順次開業し、練馬区の光が丘駅と渋谷区の新宿駅を結ぶ放射部と、新宿駅から反時計回りに都庁前駅に至る環状部から成っている。路線距離は40.7km、駅数は38駅で、日本の地下鉄線では最も多い。路線記号は「E」で、マゼンダ色だ。(ウィキペディアより)

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青銅製で作者不明だが、ユーモアたっぷりにひしゃげていて、奇抜なデザインに目が釘付けだ。台座はハス葉の反花(かえりばな)で、本体には葉脈が見られるので、蓮華の花がモチーフであるに違いない。辞書によれば、反花とは仏像などに見られる蓮華座で、上向きについた受花に対して、下側へ反転するように開いた蓮弁をいい、反花のついたものは、最盛時の満開の状態を示すものと言われる。

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大きさは、最大横幅が1.250、高さは830ミリだ。「平成8年(1996)4月9日」の造立で、1基のみであるが、どんな方法で製作したのだろうか気になる所だ。張り付く3匹のカエルの存在がとにかく愛らしく、遊び心一杯で、眺めていて楽しくなる天水桶だ。

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そろそろ年末だ、年が明ければ初詣。有名どころの寺社はどこも混雑しよう、参拝どころではない。今の内だ、気に掛けてはいたが、遠くて躊躇していた千葉県の成田山新勝寺へ行ってみよう。という訳で次回は、そのレポートだ。つづく。