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●今回は、「日光」、「東照宮」というキーワードを中心にして天水桶を見ていこう。辞書から引くと、東照宮とは、東照大権現である徳川家康公を祀る神社だ。徳川実紀の台徳院殿御実紀42巻によれば、家康は没する間際に金地院崇伝、南光坊天海、本多正純を呼び次のように遺言したとされる。

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「久能山に納め、御法会を江戸増上寺、霊牌は三州大樹寺、御周忌終て下野国日光山へ小堂を営造、京都には金地院に小堂をいとなみ所司代はじめ武家の輩進拜せしむべし」だ。かつて全国では、500社ほどの東照宮が造営されたという。各地の徳川、松平一門、譜代大名や縁戚関係がある外様大名家も競って建立したのだ。

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その後、明治維新以後の廃仏毀釈前63項などによって廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされている。関東近辺では、群馬県太田市・世良田東照宮、群馬県太田市・徳川東照宮、埼玉県行田市・忍東照宮、東京都港区・芝東照宮、画像の埼玉県川越市小仙波町・仙波東照宮などが知られている。また、茨城県水戸市の水戸東照宮は、後118項で登場している。

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●まずは、都内台東区の上野動物園内にある、五重塔から。高さは32.3mだが、この塔は、寛永8年(1631)に、老中土井利勝が上野東照宮(前64項前74項)に創建、寄進している。しかし、同16年に失火消滅してしまったので、当時一流の建築家であった、甲良豊後守宗広らが直ちに再建している。

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宗広は、日光東照宮の工事でも作事方の大棟梁として活躍している。塔は、昭和33年(1958)に管轄の東叡山寛永寺から東京都に寄付されていて、明治44年(1911)に、国の重要文化財に指定されている。

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●ある日、栃木県日光市へ向かったが、途中立ち寄った地で見た天水桶を見てみよう。最初は、栃木市出流町にある、坂東三十三観音第十七番札所の出流山満願寺で、天平神護元年(765)、勝道上人によって開山されている。奥の院にある「観音の霊窟」には、鍾乳石によって自然にできた十一面観音像があり、子授け、安産、子育てにご利益があるという。

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1対の青銅製天水桶は、「東京四恩講」が「昭和45年(1970)9月吉日」に奉納していて、「第37世大僧正 教智代」であった。香炉が、「昭和48年4月 東京翠雲堂 謹製」であるので、この桶も同社製ではないかと思う。

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香炉には「本講結成満二十年を記念し 併せて当山第37世大僧正教智和尚 真言宗智山派管長就任を祝い 大香炉を奉献して報恩謝徳の微意を表す 東京出流山観喜講」と刻まれている。

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●鹿沼市今宮町の鹿沼市役所のすぐ東側にある今宮神社。延暦元年(782)の創建で、天文3年(1535)、日光神領惣政所の地位にあった壬生綱房が、鹿沼築城と共に現在地に遷し城の鎮守としていて、その後は、徳川幕府から50石の朱印地を拝領している。例大祭に行われる「鹿沼今宮付け祭り」は、国指定の重要無形民俗文化財だ。

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鎮座する天水桶は青銅製の1対だが、三つ巴紋の上では龍の装飾が踊っていて、「平成13年(2001)5月31日」に個人が「奉納」し設置している。初めて見るデザインだが、鋳造者は不明だ。

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●十数年ぶりに、栃木県日光市柄倉の江戸ワンダーランド日光江戸村(後113項)に立ち寄った。村内は、「街道、宿場町、商家街、武家屋敷、忍者の里」の5エリアに区分けされていて、江戸時代の情景をリアルに体験できる。入口は「関所」という設定だが、やがて街並みが見えてくる。

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掘割には、日本橋や両国橋も架かっている。他にも、火の見櫓、旅籠、番屋、天満宮、屋形船、矢場などが再現されていて、タイムスリップ感抜群だ。

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多くのイベントも催されていて、当時の実際を体感できる。忍者屋敷、花魁道中、水芸、芝居などで、画像は「南町奉行所」で裁きを受けるシーンだが、プロの役者の演技だから、臨場感たっぷりだ。

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●場内には、たくさんの木製の天水桶が置かれている。画像は、発券所前の待合所にある木製の天水桶だが、味わいがあるいい情緒だ。

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商家の前にも角型の桶がある。手桶を背負い、「丸に蔦(つた)紋」が焼き付けられているが、蔦は優雅ながらも絡みついて離さない姿に重ねられて、芸妓や商家などに好まれている。

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●こんな大きな、手桶置き場が実際にあったのだろうか。本体の天水桶は存在せず、鋭角な屋根の下には手桶だけが並んでいるのだ。

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手桶より大きい玄番桶(前75項)には、2本のツノが上に向かって突き出ていて、それぞれに穴が開いている。場内にある「江戸町火消資料館」の玄蕃桶には、画像のようにその穴にかつぎ棒である腕木を通してあるが、こうして2人で担いで運んだのだ。

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●そして、日光市山内の世界遺産、日光東照宮にたどりついた。ここは、江戸幕府初代将軍の徳川家康を神格化した東照大権現を祀っていて、全国各地に散在する東照宮の総本社だ。日本三大東照宮とされるのは、ここと後述の久能山東照宮、そして規模や華麗さでは劣るというが、冒頭でも登場した京都市左京区の南禅寺塔頭金地院東照宮であろう。ここは家康の遺言で建てられ、家康の遺髪と念持仏を祀っているからだ。

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3代将軍家光は、寛永13年(1636)の21年神忌に向けて「寛永の大造替」を始め、今日に見られる荘厳な社殿への大規模改築を行っている。国宝の陽明門は、1日中見ていても飽きないという事で、別名「日暮門」とも言われ、日本一美麗だが、古事記の逸話や聖人など500以上の彫刻があり豪華絢爛だ。

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「昭和大修理事業」を終え、現在は平成36年度(2024)までを「平成大修理事業」と位置付けて工事中だ。その最中に発見された壁画、「松と巣ごもりの鶴」は初公開で、「海と錦花鳥」は40年ぶりの公開になるという。

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●石鳥居は、江戸期のものとしては最も高い9mで、鎮座翌年の元和4年(1618)に、筑前(福岡県)藩主黒田長政公によって奉納されている。また本殿を修理する際に、御祭神を一時移動した仮殿前や、奥宮への途上には青銅製の鳥居がある。

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水盤舎前の鳥居は、2千両をかけ日本で最初に作られた青銅製の鳥居だが、脚元は、蓮華座の意匠で鋳造されている。また表裏には、計10ケ所に徳川家の象徴たる「葵紋」が見られるが、しかし、これらの銅鳥居には、作者銘などの陰刻は一切存在しない。

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見どころが盛り沢山なので、鋳造物を中心に見ていくが、これは、30本ほどのローソクを一気に灯せるスタンド式の燭台だ。開花している様を思わせ、洋風な雰囲気だが、オランダからの奉納物だ。首都アムステルダムで鋳造され、長崎の出島経由で江戸まで運ばれたものだという。

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●次のこれは、「逆紋の回転青銅燭台」と言われ、火が灯ると自然に回転するらしいが、こんなに重そうなものが本当に廻るのだろうか。鳥かごのような透かしの窓があり手が込んでいるが、縦の「ねじり棒」は、先の燭台にも見られた意匠と同じだ。

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屋根の四隅に居るのは、想像上の動物の「蜃(しん)」であろうか。頂上には宝珠が冠され水煙(前33項)が揚がり、4柱の基部は蓮華座になっているので、これらは和製であろう。この燭台も、寛永20年(1643)にオランダから奉納されている。

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何が「逆」なのかと言うと、9ケ所ある唐草模様に囲まれた「葵紋」が180度回転してしまっていて、通常、上部にあるべき1葉が、下に位置しているのだ。幕府は、出来栄えの見事さに悪意がなかった事を認め、うっかりミスとして特にお咎めはなかったという。

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●この銅鐘は、家光の長男4代将軍家綱の誕生に際し、寛永19年(1642)、李氏朝鮮の第16代国王仁祖(インジョ)によって献じられた朝鮮鐘(後109項)だ。大きさは、口径91、高さ145cmとなっている。

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乳の出っ張りが少なく、縦横の帯は見当たらず、池の間、草の間(前8項)の区別が無い。描かれている紋様は唐風で、高低差が無い大きな星形の撞座は和風ではない。確認はできなかったが、笠の部分に穴が開いている事から「虫食いの鐘」と称されるという。穴は、鋳造の際の不具合であろうか。

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表記の文字はハングル文字ではなく漢字だ。ハングル文字は、1443年に李氏朝鮮第4代国王の世宗大王が公布したが、朝鮮半島では、15世紀半ばまで、朝鮮語を表記する固有の文字を持たず、知識層は漢字を使用していたという。いずれにしてもこの銅鐘は日本と朝鮮との平和外交のシンボルだ。

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●域内には、文化財相当の青銅製の灯籠は16基あるが、名の知れた大名たちが寄進したものばかりだ。また、鋳鉄製の灯籠は2基1対あり、頂上に宝珠を冠しているが目立った装飾は見られない。なお、現存する江戸期の金属製の灯籠は、前33項にリンク先を貼ってあるのでご参照いただきたい。

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素材をポルトガルから調達したとも言われる「南蛮鉄灯籠」だが、形は、いわゆる、柚木型灯籠(前87項)だろう。火袋には、月光紋様、逆卍紋様、七曜紋様の透かしがある。伊達家の定紋は「竹に雀」で、藩祖の政宗の時代からは「九曜」も用いられているが、ここでは何故か「七曜紋」となっている。

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●高さは2mほどで、蓮華の反花(前51項)があしらわれた丸い脚と、対抗する獅子が描かれた6角形の台座も鋳鉄製だ。竿部正面の線のように細い陽鋳文字を読むと、「元和三年丁巳(1617)卯月(4月)十七日 奉寄進 東照大権現 御宝前 敬白」、「仙台宰相 藤原朝臣政宗」となっている。家康が没した翌年の月命日、1周忌だ。年代からしても、間違いなく仙台藩初代藩主の独眼竜、伊達政宗だが貴重な1対だ。

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政宗の銘の真裏に、やはり陽鋳造された銘がある。「鋳師 仙台住人 早山弥兵衛」だ。宮城県宮城郡松島町の松島青龍山瑞巌寺には、彼が鋳た県指定文化財の銅鐘が現存している。同県によれば、総長168cm、口径99.9cmで、「現存する藩政時代最古の在銘鐘であり、瑞巌寺創立の時を明らかにする。

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鋳師早山家の初代早山弥兵衛尉景次の鋳造である。慶長13年(1608)、政宗の師である虎哉和尚の撰文で、政宗が瑞巌寺を建て終って、鐘を造らせたことなどを記している。慶長十三年 早山弥兵衛尉景次 鋳造の銘がある」という。

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●家康公の神柩を収めた「奥宮御宝塔」へは、長い階段を昇り詰めなければならない。宝塔は8角で9段の基盤上にあり、高さは5mだ。当初は木製であったが、5代綱吉の時に、金銀銅の合金の唐銅製に改められている。天和3年(1683)の地震で損壊したためだ。この宝塔は、栃木県の佐野天明(後108項)の鋳物師らによる鋳造という。

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左側に見えるのは、鶴の燭台、唐獅子の香炉と華台の三具足で、これらを鋳た鋳物師は、後述の椎名伊予家だ。ここの一般公開は、昭和40年(1965)の350年式年大祭からだが、神柩は建立以来、一度も開けられたことがないという。

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●ここの鋳抜き門も、江戸鋳物師の「椎名伊予守(前99項)」による慶安3年(1650)の鋳造だ。椎名家の初代は吉次で、「伊予守」の受領は、慶長19年(1614)4月、京都東山の大仏殿の鐘鋳造の棟梁であった時に、片桐且元の肝煎りによって賜ったとされる。

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且元は、豊臣家の直参家臣で、賤ケ岳の七本槍のひとりだ。後126項などにも記述しているが、家康は江戸開府に前後して、城下整備のために多くの工人を呼んでいる。椎名家もその内の1家だが、徳川家の信任を得た鋳物師の家系なのだ。

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●家康の来歴をごく簡単に記しておこう。生誕は、天文11年(1543)12月26日、死没は、元和2年(1616)4月17日で、享年74才。幼名の竹千代から、松平元信→松平元康→松平家康→徳川家康へと改名している。

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父は松平広忠、母は於大の方で、江戸幕府初代征夷大将軍在位は、慶長8年(1603)からの2年間であったが、15代慶喜に次いで短い。神号は、東照大権現、戒名は、安国院殿徳蓮社崇譽道和大居士だ。

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●神輿舎(しんよしゃ)近く、それと先の陽明門裏には、同じ大きさ、形状の青銅製の天水桶が計4基ある。大きさは、高さ900ミリ、横1.3m、奥行き950ミリだが、これらは、劣化具合から推しても近年の設置だろう。神輿舎はやはり重文で、春秋の渡御祭(5月18日と10月17日)に使われる、家康公、秀吉公、源頼朝公の3基の神輿が納められている。

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方形の側面の6ケ所に、金色に彩られた「三つ葉葵紋」が存在するが、徳川家ゆかりの天水桶は、前10項の文京区湯島の湯島聖堂でも見ている。外寸1.300ミリ角×高さ900ミリの1対と、外寸1.200ミリ角×高さ850ミリの1対の計4基だ。真四角形状の鋳鉄製であったが、三つ葉葵紋が据えられているなど基本的な意匠は同じようだ。

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御紋の外には、鋳造者名、寄進者名などの鋳出し文字情報は一切は見られない。前10項では文京区湯島の春日局の麟祥院の、前74項の台東区上野公園の上野東照宮や前101項の千代田区九段北の靖国神社の天水桶などでも述べ、見てきたが、為政者と比肩するかのような一個人の名前の表示は、畏れ多い事であった。

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●大正3年(1914)刊行の、香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」には、「日光東照宮の寛永の造営(1634年)に、椎名兵庫吉綱(前89項)が、鉱(鉄)の御水溜六つを鋳た。幅三尺五寸(1.050ミリ)、長四尺五寸(1.350)、高参尺(900)とある。

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将軍廟は古くから火災の用心に充分の注意を払ったもので、火に対しては、葉から水を吹くという、モチノ木をも必ず植えてあって、お霊屋には今も繁茂している」と書かれている。方形の天水桶だが、今もこの形は踏襲されているのだ。

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●同じ敷地内の日光市山内に、下野国一宮、日光二荒山(ふたらさん)神社が鎮まっているが、一帯は日光の社寺として世界遺産に登録されている。日光三山の霊峰男体山を祀っているが、この山の古名は二荒山だ。「二荒」を音読みして「にこう」、これに「日光」の字を当て「にっこう」と読み、地名の語源となっている。入口には青銅製の明神鳥居(前3項)が建っているが、「寛政十一己未年(1799)九月」の造立だ。

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「大工棟梁」として、「荒川武助 岡本荘九郎 丹治専左衛門」の名があり、鋳造者銘は、「鋳物師 西村和泉(後110項)」と陰刻されている。西村家は、江戸時代中期から大正時代にかけて、連綿として12代に亘り活躍した鋳物師の家系だ。

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5代目の「西村政平」は、造立前年の寛政10年に没しているので、鳥居の西村和泉は6代目の「政寿」だろう。彼は、前94項の新宿区市谷八幡町・市谷亀岡八幡宮の銅鳥居も手掛けている。「文化元年(1804)12月」の事であったが、多忙を極めた時期であったに違いない。

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●さて次は、日を改め東海道を西へ向かった。快晴の中、雲が掛かっていない富士山に出会えた。壮大な写真を撮影できたが、冠雪の無い富士山はなぜかどこか物足りない。富士山は、山梨県と静岡県に跨る独立した活火山だ。

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標高は、約3.776mであり日本の最高峰だが、古来より霊峰とされ、特に山頂部は浅間大神が鎮座するとされたため、神聖視されてきている。平成25年(2013)には、「富士山 信仰の対象と芸術の源泉」の名で世界文化遺産に登録されている。

富士山

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●寄り道したのは、神奈川県小田原市城内の報徳二宮神社で、江戸後期の農政家、二宮尊徳を祀っている。ウィキペディアによれば、尊徳は報徳社を設立して農村の救済や教化運動を行っていたが、没後、報徳社員の間で尊徳を祀る神社創建の動きが起き、明治27年(1894)4月、ここに鎮座している。

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鋳鉄製天水桶1対の「寄附人 青木惣吉 青木重左エ門 青木定治郎」らは、「相州足柄下郡真名鶴村」の人であったが、社員であろうか。また今の地名は「真鶴町」と表示されるようだ。大きさは口径Φ1.2m、高さは1mとなっている。

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神紋は、「丸に横木瓜」で横長だが、瓜の切り口を図案化したものだ。戦国武将の滝川一益も「木瓜紋」を使用していて、縦長の「縦木瓜」であったが、差別化のため、様々にアレンジされてきた事が判る。額縁を廻る紋様は、二宮の「二」の文字の連続であろう。

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設置は、神社創建時の「明治27年(1894)4月」で、鋳造は「釜七製(前17項前18項)」、江戸深川鋳物師の田中七右衛門で、社章としての「○七」が鋳出されているから、この頃は会社組織であったようだ。同人製の鋳造物を当サイトで見るのは、羽釜を含めて28例だが、明治の末期に廃業したという。

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●標高216mにある久能山東照宮は、静岡市駿河区根古屋に鎮座している。徳川家康の死後、その遺骸は遺命によって久能山に葬られ、元和2年(1616)12月には2代将軍・秀忠によってここの社殿が造営されている。遺命は、さらに日光山への神社造営であったので、日光東照宮もほぼ同時期に造営が始まっている。

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3代将軍・家光の代には、日光山と久能山の整備を命じており、社殿以外の透塀、薬師堂、神楽殿、鐘楼、五重塔、画像の楼門が増築されている。本殿、石の間、拝殿は国宝で、その他に多くの国指定重要文化財を保持している。

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遺命は他に、葬礼は江戸芝の増上寺で行うこと、位牌は三河の大樹寺に立つべきこと、そして「関八州の鎮守とならん」としている。また、相殿として、織田信長公と豊臣秀吉公を祀っているのは興味深い。一の鳥居からは、1.159段の階段を登らなければならないが、お駕籠をイメージした葵紋が入った日本平ロープウェイなら5分で到着する。

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●境内の日枝神社の祭神は大山咋命で、元々薬師如来を安置してあったが、明治期の神仏分離で仏像を廃している。また楼門には、第108代後水尾天皇宸筆(しんぴつ)の「東照大権現」の額があり、勅額御門とも言われる。双方とも、元和3年(1617)の建造で重要文化財だ。

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この日枝神社と楼門の2ケ所に鋳鉄製の天水桶が計4基ある。 奉納主は、「従五位下 源朝臣 土岐下野守朝昌」だ。彼は、安政6年(1859)4月22日に駿府城代に就任しているので、その立場での奉納であった。駿府城代は老中支配で、駿府に駐在して当城警護の総監、大手門の守衛、久能山代拝などを管轄する役職だ。

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鋳造は4基とも、「安政七年庚申(1860)正月十七日 武(州)川口住 冶工 増田金太郎 藤原栄相(花押)」で、幕末に大砲を鋳造していた川口鋳物師で、増田家(前2項など)の4代目だが、藤原姓を名乗った桶に出会うのは2例目だ。前に見たのは、前32項の「江東区亀戸天神社 鋳工 増田金太郎 藤原栄相(花押) 天保7年(1836)8月」であった。

久能山東照宮・日枝・楼門

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●神饌(しんせん)所前には、2基の天水桶がある。鋳造時期は、「萬延元庚申年(1860)」と翌年の「萬延二辛酉年」で、なぜか左右で時間差がある。神饌(しんせん)とは、神社や神棚に供える供物のことだ。

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奉納は「三御加番」、つまり門番の役人で、「織田豊前守」、「朽木山城守」、「舩越左門」、「松平左衛門」、「小出順之助」、「岡部兵庫」の6人の名が見られる。作者は、「次工 駿(河国)大谷住 田中助右衛門 藤原善次(花押)」であった。「次工」は「冶工」の意味であろう。

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昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」によれば、この桶は、田中の工場で増田が製作技術を教えながら、出吹き(前10項)で鋳造したという。増田家は既に、天水桶鋳造者として実績も多く、この地での前例もあり、名も通っていた。田中が請負い、増田に協力を求めたのだろう。久能山は遠隔地で山高く、この当時は運搬設置にも問題があったはずだ。現地での鋳造には、増田のアドバイスが不可欠であったに違いない。

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●鼓楼の中には太鼓が納められているのであろうか。この前に鳥居があるが、その足元には2基の天水桶がある。正面の三つ葉葵紋は、別鋳造され、ビス止めされている。これも、「田中助右衛門 藤原善次(花押)」の作であった。

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設置は、「文久元辛酉年(1861)九月十七日」で、「従五位下 伯耆守藤原朝臣 本多正訥(まさもり)」が奉納している。駿府国田中藩(現静岡県藤枝市)の第7代藩主で、元治元年(1864)7月21日に駿府城代に就任しているが、桶の奉納は就任前であった。

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●最後の天水桶は、社務所脇の売店前に、1基だけ置かれている。口径Φ1.340ミリで一番大きい。他の8基は、ほぼ同じでありΦ1.220ミリできっちり4尺サイズだ。正面には、大きな徳川家の葵紋が見える。

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「文久元年辛酉(1861)四月十七日」で、「従五位下 源朝臣 榊原越中守照求」の奉納だ。駿府城代支配下の久能山総門番として、代々久能の地を領してここを管理したのは、交代寄合の旗本の榊原家であった。徳川四天王であった榊原康政の系譜につながる家柄だろうが、当時、「照求」は、安政6年(1859)からこの役を務めている。

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鋳造は、これも「駿(河国)大谷住 次工 田中助右衛門 藤原善次(花押)」だ。「次工」と読めるのだが、これは本来、「冶工」なのであろう。「冶(や)」という漢字には、「金属や鉱石をとかしてある形につくる」という意味があるから、的を得た表現だ。

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●この「田中助右衛門」は、鋳物師元締めの京都真継家(前40項)などの諸書には登場しない。幕末の文久期(1861~)の人名録の「駿河」の欄に見られるのは「山田姓」の鋳物師だけだ。「鋳鉄製天水鉢総覧」を記した中野俊雄によれば、助右衛門の初代は、「滋賀県辻村(栗太郡栗東町辻)から静岡に移ってきて鋳物工場を営んでいたが、名を世襲していてその10代目に当たる」という。

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先に見た、小田原市・報徳二宮神社の桶の作者は、深川の鋳物師、釜七であったが「田中七右衛門」のことだ。助右衛門とは同郷で、万治年間(1658~)に江戸深川に出店し、いとこである太田六右衛門、通称釜六と共に代々にわたって鋳物業を営んでいたようで、近しい間柄であったかも知れない。

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●一方、「静岡クラシックカークラブ」さんのサイトにすごい事が書かれていた。ご子孫の方がメンバーのようで、「慶長19年(1614)、豊臣秀頼の時、京都方広寺大仏殿(前66項)の大梵鐘(国家安康と刻まれている)の鋳造に、先祖の助右衛門が正棟梁として従事していたそうです。」

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「また、宝暦4年(1755)に、静岡市葵区大岩にある臨済寺(徳川家康が今川氏の人質として幼少期を過ごした寺)の吊り鐘を製造。安政2年(1855)には、韮山反射炉(前90項)による大砲鋳造に職人を引き連れて製造指導したそうです。これは江川太郎左衛門の記録に載っているそうです」という。

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●そして現在も、子孫の方は、静岡県菊川市で鋳造業を営んでおられるようだ。明治39年(1906)12月に会社組織化されたようだが、歴史ある由緒ある鋳物師であった。また、天水桶に刻まれていたように、助右衛門は、「藤原姓(前13項)」を受領し花押を使用していた。

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京都真継家の傘下に属していなかったようだが、属さずとも、時の為政者の織田信長、豊臣秀吉あるいは、徳川家康あたりから朱印状を下賜されるなどして、御用達鋳物師として鋳造していたのではないかと想像できる。色々な背景が見えてくる訳で、鋳出し文字の存在は貴重であった。つづく。