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●各所の寺社仏閣には配布物が置かれていて、心打つ名言が書かれている事も多いが、そんな中から2題を挙げてみよう。まずは、宗教法人の新道大教の「失敗」というタイトルの文章から。「失敗と言うのは、何かに挑戦したから生まれて来たのです。何もしなければ失敗も起きませんが、その代わり成功も起きません。失敗するという事は、挑戦したという事の証なのです。」

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発明王エジソンが電球を発明した時に、「1万回も失敗したそうですね」と聞かれ、「私は1回も失敗していません。1万回電球がつかない方法を発見しただけです」と答えたという。人の使命は挑戦を続ける事であり、失敗だと確定するのは、挑戦を止めて諦めてしまった時なのだ。エジソンは、生涯をかけて挑戦し続けた偉人であった。

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●続いては、日蓮宗の大本山、大田区池上の長栄山池上本門寺(前22項)の「まんだら」の中から、相撲取りの大横綱「双葉山」だ。「イマダ モッケイニオヨバズ」。これは昭和14年(1939)の春場所4日目に70連勝を阻まれた時に、心の師、安岡正篤に送った電文の一説だ。「モッケイ」とは「木鶏」、木彫りの闘鶏の事で、敵と出会ってもその威徳により相手が委縮して逃げ出してしまうという。

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原文は、「ワレイマダモッケイタリエズ(我、未だ木鶏たりえず)」であったようだが、双葉山は、「私はいまだその域に達していない」と述懐したのであった。双葉山は信仰の人であり、粛々と法華信仰を育みながら相撲道に生きた人だ。7才の時、川遊びの最中に右眼を傷つけ失明した事を隠し通しているが、致命的なハンデを背負いながらも練習と精神力で最高位を獲得している。

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取り組みでは決して「マッタ」をせず、正々堂々と受けて立つ姿勢は、法華信仰の殊に「忍難慈勝」の教えから学んだと自ら語っている。双葉山は、「木鶏」という言葉を使うに相応しい人物であった。2人の画像は、ウィキペディアから転載。

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●さて、街中では、史跡や文化財などを説明するために、自治体や教育委員会などが掲示板を立てている。しかし気になる誤字や誤変換が多い。例えば「大きさは、直系50cm・・」とあるが、「直径」だ。

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「空から冬にかけては・・」とあったが、どう考えても「秋」だ。とあるリサイクルショップのチラシ広告に「不用品は早めに処分して、風邪通しを良くしましょう」とある。奥深い意味があるのかと勘ぐってしまうが、単に「風」だろう。

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なぜ途中で気付かないのだろうか。説明の内容を書き写して文字化する時、原文を尊重してそのまま・・、と言う訳にはどうしてもいかないのだ。また、やたらと長文を展開したり、専門用語を羅列している文章は、読んでいてどうにも疲れる。難字にルビ無しや、句読点の位置が不適切であったりするのも同じだ。当サイトでは、一字一句に気を配り、画像を多用しビジュアルに訴えかけ、判り易いページの作成に心掛けたい。

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●前回から、永瀬家系列の天水桶をアップしているが、永瀬和吉製は、前12項で紹介済み。北区西ケ原の七社神社の文字が逆になってしまっている桶で、「明治27年(1894)2月」鋳造だが、「北足立郡」が「北立足郡」になっている。誤植が一目瞭然だ。

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永瀬正吉製は、足立区東伊興の真宗大谷派、佛名山常福寺にある。常陸国那珂郡八田郷の常福寺12世信祐が、慶長元年(1596)に浅草に説教所を開設したのが始まりという。ここは昭和の爆笑王、落語家林家三平の墓所だ。初代林家三平(大正14年・1925~昭和55年・1980没)は、東京市下谷区根岸出身だ。

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旧制明治中学卒業、明治大学商学部入学、東宝名人会専属7代目林家正蔵の実子で長男という経歴だ。テレビ時代の申し子と謳われた三平は、テレビが生んだ最初のお笑いブームの火付け役かつ中心的存在で、「爆笑王」の盛名を欲しいままにしている。「もう大変なんすから」、「どうもすいません」と額にゲンコツをかざす仕草は、一世を風靡した。

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●この堂宇前に鋳鉄製の天水桶が1対ある。永瀬正吉は、西洋式生型鋳造法導入や送風機の動力化など、川口市(後100項)の近代鋳造業の先駆者として知られる。安政4年(1857)から昭和20年(1945)に活躍した人で、人物については後104項で詳細に解析している。寺紋は、「丸に日の丸扇」で厄除けの象徴だが、歌舞伎界で多用されている紋のようだ。

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銘は「明治21年(1888)5月 鋳造之 川口町 工人 永瀬正吉」だ。古来より、一般の職人全てを「大工」と呼び、責任者に対しては、棟梁、あるいは頭領と呼んでいる。鋳造人に対しては、この「工人」、あるいは「冶工(やこう)」と呼ぶこともあったようだ。ちなみに、天皇近くで都造りのために「木」に関わる職人を「右官」、「土」に関わる職人を「左官」と呼んでいるが、これは今なお継承されている。

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●港区高輪に丸山神社がある。本殿は土蔵造りで、拝殿は木造の瓦葺きだ。大正期の関東大震災など幾多もの災害に遭ったが、天照皇大神、宇迦之御魂命など六柱の祭神や神体立像は焼失破損を免れ、今も神社のご神体として崇められている。(境内説明板を要約)

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狭い境内だ、1対の鋳鉄製天水桶は、互いがかなり近い距離に置かれている。大きさは、口径Φ750、高さは660ミリとなっている。センターにあるのは、「右流れの三つ巴紋」で、横側には、12人の奉納者名が並んでいる。それを眺めていると、当時の人の命名の流行が判るが、「○○郎」と「郎」の文字を含む人が8人もいる。

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銘は「武州川口 鋳造人 永瀬庄吉 明治32年(1899)7月」だ。この「庄吉」が本名で、代々世襲されたようだ。先例の文字違いの「正吉」はブランド的な意味合いを持ち、先代が存命していた事などによる使われ方であった。

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●品川区南品川にある普海山心海寺。区教育委員会によれば、「心海寺文書」は、江戸時代の中期から明治時代に至る多数の文書で、この寺と周辺の寺院の関係や地域の歴史を語るとともに、浄土真宗の宗門研究にとって大変貴重な史料だという。

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1対の鋳鉄製天水桶の正面には、山号の「普海山」が見えるが、裏には、「武刕(州)川口宿 永瀬宇之七」と鋳出されている。宇之七は、「藤原姓」を賜り、藤原清秀(後68項)を名乗った御用達鋳物師であった。

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川口市立文化財センター(後30項後108項)には、「鑄物師職之事以由緒」に始まる許可状がある。「天保4年(1833)11月 武蔵国足立郡川口宿 鑄物師 永瀬卯之七」宛てで、当時すでに、藤原姓(前13項)を拝していたはずだ。

永瀬卯之吉・許可状

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●平べったい独特の書体だが、残念ながらここでは「藤原姓」の銘は見られない。この気になる個性的な書体は他に類例がないが、この事から次のように想像している。

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後53項の千葉県成田市の成田山新勝寺の釈迦堂の真裏では、画像の「明治7年(1874)10月吉日」銘の天水桶を見るが、鋳造者銘が見られず作者の特定はできていない。新勝寺には、永瀬卯之七が天水桶を鋳た記録があるので、この独特な書体から推して、世代違いではあろうが、これは同家の作例ではなかろうか。

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さて心海寺の桶は、「安政2年(1855)4月吉日」だから、160年前の鋳造物だ。 この年号期には、日米和親条約締結、大老井伊直弼による安政の大獄、桜田門外の変などがあり、激動の時代であった。また、安政2年10月2日の安政江戸地震など、各地で大きな地震に見舞われているが、この天水桶は災禍を逃れたようだ。


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●次に永瀬留十郎製の天水桶は、前4項の北区岩淵町・八雲神社で「明治37年(1904)製」を紹介済みだが、さらに2例をアップしてみよう。なお、この留十郎は、上の永瀬卯之七の系統に連なる鋳物師だ(後68項)。

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まず、品川区北品川の豊盛山一心寺だが、安政2年(1855)に、大老井伊直弼が開山したと伝わる。東海道七福神の寿老人で、参拝者も多いようだが、商店街の中にある、押し込められたような感じの、本当に小さな社だ。現在は見当たらないが、1対の正面に鋳出された「北惣町」はこの辺の地名であったのだろうか。


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●辞書によれば、「惣町(そうちょう)」には、「中世末から近世の都市の自治・支配の最上位の単位」とあるから、特定の地名ではなく、品川の北側の地区という意味合であろうか。この鋳鉄製天水桶は、「明治18年(1885)6月10日」に設置されているが、銘板には「昭和3年(1928) 品川町 一番組」が「天水桶修繕」した旨の経緯が刻まれている。

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作者銘は、「川口町 永瀬留十郎製」だ。紋章は「輪宝」で、提灯など境内の各所で見られるが、密教の法具を表している。法輪とも呼ばれるこの紋は、仏教の教義を示す物であり、八方向に教えを広める車輪形の法具として具現化され、卍紋と共に仏教のシンボルとして信仰されてきている。

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●足立区江北の江北氷川神社には、「明治34年(1901)10月」製の天水桶1対がある。近隣の沼田村の鎮守社で、皿沼稲荷神社、上沼田稲荷神など17社を統括する総本社でもある。鹿浜の獅子舞は、区指定の無形民俗文化財だ。

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鋳鉄製の天水桶だが、口径は3尺Φ900ミリで、高さは820ミリだ。「奉」と「納」の文字がそれぞれ1基づつに鋳出されているが、額縁には雷紋様(後116項)が際立っている。

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「浅草區馬道五丁目」の人らが奉納しているが、この町名の由来は、かつて台東区浅草寺に馬場があり、僧侶が馬術練習のため通った道であるという。現在は、浅草駅から真北に延びる「馬道通り」であり、「馬道」と呼称される交差点もある。

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銘は「武州川口町 永瀬留十郎製造」だ。どこかのサイトで、末裔の方がこの桶の見物に来られた旨の記述をみかけたが、「われわれの初代の作です」とあったのを記憶している。現在川口市で営業中の「永瀬留十郎工場」の方であろう。それにしても、いまだ鮮明な文字が心地いい。

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●最後は、文京区本郷の金刀比羅宮東京分社だ。JR水道橋駅から近く、目の前には東京ドームがそびえている。文政2年(1819)に、高松藩松平家が、本家の讃岐から分祀し創建されているが、明治13年(1880)には公認神社となっている。

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ウィキペディアによれば、この松平家は、徳川御三家水戸徳川家の支系、親藩・御連枝の1つで、水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖としている。讃岐国高松藩の藩主家であり、明治以後は伯爵となっている。

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天水桶表面の鋳出し文字を読むと、「油屋利兵衛、大阪屋武兵衛、鈴木越後」ら、江戸期らしい人物の奉納者名が見られる。石の台座は、消防組の「四番組 五番組」ら、鳶の人々による設置だ。なお、画像に写り込んでいないもう1基は、反対側の寺務所の入り口付近に置かれている。

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●鋳鉄製の1対で上部の額縁など一部に損壊も見られるが、本体に亀裂などの致命的な劣化は無いようで、水漏れは無く天水桶として現役を継続している。塗装など、現時点で補修すれば寿命を永らえる事ができようが、しかし、現今が限界だろう。例えば後33項で見るが、行く末は、墨田区向島の牛島神社のようなボロボロの天水桶なのだ。


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鋳造者の「武州足立郡川口 鋳物師 永瀬嘉右衛門」の文字は、いまだ鮮明だ。現存する「嘉右衛門」銘の作品は希少で、川口市にとっては国宝級の貴重な文化財だ。絶対に保護する必要があるだろう。因みに、リニューアルすれば、後79項で見るような天水桶達のように立派に甦るのだ。なお嘉右衛門については、後121項でも再登場しているのでご参照願いたい。

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「文化十三年丙子(1816)五月十五日」に鋳造されているが、この天水桶は、当サイトで見てきた中でも古い時期のもので、196年前、2世紀も前に造られている。また、「蜀山人書」と鋳出されているのも興味深い(後16項)。川口市金山町(前5項後121項)の昭和初期の地図を見ると、1丁目の荒川土手沿いに「永嘉」と記された工場があったが、この近辺での鋳造であったろうか。

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●昭和期の川口市勢要覧によれば、初代嘉右衛門は文化3年(1806)没、2代目は文化9年(1812)没、3代目は嘉永5年(1852)没とあるから、ここの天水桶は、3代目による作例だ。現存しないが、要覧には多くの作品が記録されている。なお4代目は明治17年(1884)に没しているが、この時に鋳造業を廃したようだ。

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沼口信一編著の「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」には、大正4年(1915)当時であるから代違いではあるが、6代目嘉右衛門の写真がある。「川口尋常高等小学校増築上棟式」の時で、真ん中の髭の人だが、名は代々世襲されてきた事が判る。なお、左端の人は上述の永瀬庄吉だ。

永瀬嘉右衛門

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昭和54年(1979)に刊行された、内田三郎(後65項)の「鋳物師」によれば、現存しないが、「享和2年(1802)3月21日 平間寺川崎大師(後24項など)」の嘉右衛門作の水盤(天水桶)1対が、鉄鋳物作品の第1号だとしている。川口鋳物師の初作でもあるようで、それまでの銅系鋳物の時代が終わり、鉄製時代到来の記念すべき年だとしている。これは、初代の嘉右衛門の作例だろう。

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●昭和60年(1985)刊行の増田卯吉の「武州川口鋳物師作品年表」を基に、本サイトに登場しない、嘉右衛門の作例の履歴を記しておこう。画像は、北区岸町の王子稲荷神社(後108項)だ。

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ここは、民話「王子の狐火」や落語「王子の狐」、歌川広重の浮世絵でも有名だ。鎮座1千年を迎えるというが、古くは岸稲荷と称されている。かつて海面水位が高く荒川流域が広かった頃、その岸に鎮座した事によっているが、「岸町」という地名はその名残だ。

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●年表には、現存しないが「天保11年(1840)2月 永瀬嘉右衛門 王子稲荷神社 天水鉢1対」が記録されている。これも3代目によるものだ。また、「享和2年(1802)3月 無銘 王子稲荷神社 天水鉢1個」とも見える。先の「川崎大師 嘉右衛門」と同年だが、神社との繋がりもあろうから、「無銘」ではあるが、これを初代永瀬嘉右衛門の作例としても無理はない。

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あるいは、これも現存しないが、「文政3年(1820)10月 吹屋嘉右衛門 文京区春日 (宝福山)龍閑寺 天水鉢1対」ともある。「吹屋(後67項後92項)」とは、鋳造業社であるという意味だ。

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姓は不明な訳だが、年代的にもこれも永瀬嘉右衛門製ではなかろうか。文政11年(1828)から嘉永5年(1852)の「諸国鋳物師名寄記 武蔵川口宿」を見ても、他に「嘉右衛門」名乗った人物は見当たらない。とすれば3代目の作例となろう。

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●ところで、本家の讃岐、香川県仲多度郡琴平町の金刀比羅宮にも鋳鉄製の天水桶がある。「ことひらぐう」と読むようだが、「こんぴらさん」が愛称だ。本堂前の1対には、正面に金の字の紋章が見られ、「国家安泰 五穀成就」と鋳出されている。「奉納」の文字は、別鋳造したものを取り付けてあるようだ。本体鋳造時に一体化する、鋳ぐるみ法であろうか。

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裏には、「昭和29年(1954)5月吉日発願」で、「製作者 高松市藤塚町 多田丈之助宗春」とある。この地方の「諸国御鋳物師姓名記(嘉永7年・1854)」や「由緒鋳物師人名録(明治12年・1879)」を見ても、多田姓の記載はないが、香川県高松市の多田鋳造所(前3項)による製造のようだ。

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愛媛県宇和島市の泰平寺にあるという「世界絶対平和万歳の鐘」や、香川県善通寺市の四国霊場第75番札所、五岳山善通寺の天水桶も手掛けている。あるいは、第34番札所の本尾山種間寺、35番の医王山清瀧寺や74番の医王山甲山寺の梵鐘には、鋳造者銘として多田姓が見られるが、全てが戦後直後の鋳造だ。14代ほど続いた名門のようだが、現況は不明だ。

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今回は永瀬家系列の画像をアップしてきたが、どなたのどこの桶も感慨深いものばかりで、すべてが文化財相当品だ。当サイトでは、この後続々と永瀬系の天水桶が登場してくるが、永年に亘って管理され、存在し続けて欲しいと願って止まない。次回は、天水桶に刻まれている文字に寄せられた「書」について考察しようと思う。つづく。