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●最近のこと、尺貫法で言うところの「尺」に関して、こじゃれたと言うか、粋な言い回しを聞いた。「尺上」と書いて「しゃっかみ」と読むと言う。よく釣人がこんな風に使うらしい。「今日は尺上のヘラブナを釣ったよ」。1尺は約30センチ、尺の上、つまり30センチオーバーの魚を釣ったという表現だ。

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なるほど粋だ、尺貫法はまだまだ健在なのだ。この尺貫法は、長さに「尺」を、重さに「貫」をあてて基本単位とする方法だ。国内では計量法により、昭和33年(1958)から同41年にかけて、使用を禁止されているが、違反すると罰金刑に処せられるという。しかし今でも、液体類を入れる角型のブリキの容器は「一斗缶」と呼ばれるが、これは約18Lの容量だ。

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●1匁は3.75gだが、現在流通する5円玉の重さだ。真珠、パールは日本の特産品だが、商取引上は、国際的にも質量の単位として「匁」が使われている。タオルメーカーなども、その厚みというか、重さを「匁」で表現している。一般的に、家庭でよく使われるタオルは1ダース当たり200匁のタオルで、1枚あたり約62.5g、温泉宿でよく使われる薄めのタオルは、160匁、約50gだ。

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ベニヤ板などの大きさは、「3×6(さぶろく)」などと称される。これは、3尺×6尺で、90cm×1.8mを意味する。「しはち」と言えば「4×8」だし、「ごっとう」と言えば「5×10」だ。京間尺サイズの日本間、1反の田んぼ、1皿2貫の寿司(後50項)など、かなり身近だ。天水桶や梵鐘も大きさの呼称として、口径3尺や4尺などと呼んでいる。まだまだ生きている単位なのだ。

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●さて、埼玉県川口市本町には「川口市立文化財センター(後108項)」がある。文字通り、市内の文化財を集めて展示している。入場料は100円だが、今日現在では平日のみの開館なので、仕事の合間を割いて訪館した。後年の鳩ケ谷市との合併後は、日祝日も開館しているようだ。

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館内には遺跡からの出土品、古い看板などがあるが、鋳物の町として当然ながら、寄贈された巨大な羽釜(後108項)や懐かしのダルマストーブ、井戸ポンプや天水桶などの鋳物製品も展示されている。

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●ベーゴマの鋳型もあり、造り方もここで判る。「ベーゴマの歴史は古く、平安時代に京都でバイ貝に砂や粘土を詰めて、それを子供がヒモで回したのが始まりだと言われています。

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ベーゴマと言う名前は、関東に伝わってからバイゴマがなまって ベーゴマになったもので、今でも関西ではバイゴマと言うそうです。」また、「戦時中には金属供出(前3項)によって姿を消してしまいましたが、瀬戸物やガラスでできたベーゴマが作られて遊ばれていました」という。

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●画像の民芸品を購入したが、昭和28年(1953)2月創業の、川口市弥平の(株)日三鋳造所の商品で、「川口べーごま 武州川口宿産」と命名されている。「独楽(コマ)は昔から、物事が上手く回りますようにと、縁起物として、贈り物やお飾りとして親しまれてきました」といい、毎年の干支に合わせたベーゴマの置物も鋳造しているが、これらの説明文は、同社のサイトに記されている

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現在は、ここだけでの取り扱いだが、実際の鋳造は別の場所のようだ。ベーゴマは未だに人気があるようで、同社の取扱店一覧を見ると、関東地方を中心に全国区だ。都内だけでも50ケ所以上の販売所で扱われている。近郊で遊び場所の提供もしているので記しておこう。「川口ベーゴマクラブ・川口リリア公園(後67項)」、「台場一丁目商店街」、「下町風俗資料館(後123項)・台東区上野公園」、「新横浜ラーメン博物館」などだ。

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奥に見える赤茶色の物体が甑炉(こしきろ)だが、実際に使われていたものだ。「江戸時代より使われている、鉄を溶かすための比較的小型の炉です。これの何倍もの大きさの炉をキューポラ(後68項)と言います。燃料(マキやコークス)を鉄と交互に入れて下から火をつけてから、風を送り込んで鉄を溶かします」と説明されている。

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●文化財センターには、鋳物師の総元締め、京都真継家(後40項)からの勅許状が展示されていた。「天保4年(1833)11月 武蔵国足立郡川口宿 鋳物師 岡本音次郎」とある。文久元年(1861)の「諸国鋳物師控帳(川口市・増田忠彦蔵)」などにも名前が見える川口鋳物師だ。

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前2項で紹介した、幕末の大砲製造家の増田安次郎が、軍兵学者の高島秋帆(後55項)から受けた褒章状のレプリカもある。秋帆は、天保11年(1840)のアへン戦争に際して日本を憂い、西洋の進んだ軍事技術を導入して海防する必要性を説き、時の老中水野忠邦の命で、西洋式砲術訓練を行っている。訓練に参加した者は、秋帆以下百名で、見物には諸大名をはじめ、数千名が徳丸ケ原を埋めたという。

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●注目の天水桶は、地下倉庫に4種類が安置されている。特別に見せていただき写真撮影はしたが、所蔵権の問題だろうか、公開は不可とのこと。ルールは守ろう、是非訪館されたし。4例をリストアップしておくと・・

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①1基=浜田照雄氏寄贈(金山町)で、正面に「左流れの二つ巴紋」、「文化14歳(1817)7月吉辰」、「須譽(意味不明)」とあり、4尺サイズだ。浜田家は、川口市金山町で6代続いた鋳物屋だ。

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先祖の浜田惣左衛門(前13項)は、京都真継家(後40項)傘下の勅許鋳物師であったが、「藤原道久」を名乗っていた。昭和初期には、川口市本町へつながる「橋際」に位置したが、それが訛って、俗に「ハシギヤ」と呼ばれたという。寄贈された照雄氏は、ご子孫の方だ。

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●②1基=「願主 増田安次郎」、「嘉永7年(1854)11月」で、真正面に「御嶽山 末廣万人講」と陽鋳されているが、これも口径4尺ほどだ。その脇には、「山に丸三つ引き両」といわれる御嶽山の神紋が据えられている。

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後43項では、大田区北嶺町の御嶽神社に詣でているが、ここに、これと全く同じ天水桶が現存しているので、ご参照いただきたい。また、増田家に関しては、前13項後82項など多項で登場している。

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●③1基=正面に「丸に抱き茗荷」の紋章があるが、抱き合わせの部分が大きく凹んでいるのが特徴的だ。「天保10年(1839)10月吉日」の製造で、前4項もご参照いただきたいが、大きさは口径Φ1.3m、高さは1mほどとなっている。

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これは、元川口市長の故永瀬洋治(後108項など)の高祖父、「永瀬文左衛門光次(後108項)」作で、この名の鋳出し文字は無いが、市指定の有形文化財となっている。(画像は、文化財センターの資料より)

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●④2基1対=田中博寄贈、「武州川口町 田中鋳工所製(印影)」、同形状で、「武州川口町 早水鋳工所(後131項) 昭和3年(1928)12月」銘で、2基とも「廣澤製作所」向けであろう、正面にそう鋳出されている。2尺半ほどの大きさであった。なお、田中家の作例に関しては、前6項に全てのリンクを貼ってあるので、ご参照いただきたい。

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この早水鋳工所は、昭和初期の人名録には、「川口市栄町 早水米蔵」の登録があり、「電機用鋳物」を得意としたようだ。昭和6年(1931)当時の広告もある。やはり「早水鋳工所 主 早水米蔵」となっていて、営業品目に「工作機械 電気器具 其他(その他)諸機械」を挙げている。絵を見ると、旋盤の鋳造や組立てもしていたようだ。

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あるいは、「蕎麦銅壺(どうこ)」も作っていたようだ。辞書によれば、「銅壺(後55項後65項後121項)」とは、火鉢の中に置き、湯を沸かし燗酒、お燗(かん)をつくる民具」とあるが、酒ではなくソバを茹でるために開発した器具であろうか。それでも、「鋳造品目 電気機械器具」も謳っているので、やはりそれがメインであったのだろう。

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●逸れるが、寛政9年(1797)の曲亭(滝沢)馬琴の「无筆節用似字尽」には、主が「燗銅壺」でつけたチロリを取り出している様子が描かれている。清酒は、お燗をする事でほのかな香りが立ち、味が円やかになる。

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炭火で銅壺の水を温め、そのお湯を介してつけた湯煎のお燗は、酒を間接的にゆっくり温めるため、酒の味を損なわずう旨味を引き出すという。画像はとある歴史博物館で見た銅壺だ。古来より、「銅壺の水は腐らない」と言われるが、これは銅イオンの殺菌作用によるものだという。

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●世界的にみても、酒を温めて飲むのは、日本酒と中国の紹興酒くらいなものだ。特に江戸時代では、専門のお燗番がいて付きっ切りで温度管理をしてもいたが、店の信用にも関わる重要な作業であったようだ。熱からず冷たからず、丁度よく温めるから「間(燗)」であるという説もある。

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お燗の程度には、「ごく熱燗(50℃以上) 熱燗 上燗 ぬる燗(40℃ほど) 人肌燗 日向燗(33℃ほど)」などがあると言うが、温度計など無い時代においては職人技であったろう。 

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これらの天水桶は、大事にしまい込まれている川口市の文化財であったが、ほとんどの川口市民でさえこの存在を知らないだろう。全国に名だたる鋳物の街を謳う都市であればこそ、天水桶に限らず、川口鋳物師らの文化財を、人目に付く駅前での展示などで積極的に公開していただきたいと思う。

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●今日は令和3年(2021)1月だが、追記をしておこう。新たに川口遺産が2例、追加保存されたのだ。⑤となるのが、4尺サイズの鋳鉄製の天水桶1基だ。「明治二十一年戊子(1888)四月吉辰」銘となっているが、作者銘は見られない。

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寄贈は(株)薬研屋(後104項)というから、ここでの鋳造であろう。川口鋳造業界の中興の祖ともいわれる、永瀬庄吉に連なる家系だ。額縁には、意味不明ながらカッコに囲まれた「田」の文字が連続している。奉納はゼネコンの「鹿島組」で、人名が並んでいる。

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●もう1例は鋳鉄製の手水盤で、大きさは、長さ640、高さは400ミリ程となっているが、これも同家の寄贈と言う。台車に載っていたので画像を天地逆にしてみたが、側面に見られる銘はかなり不鮮明だ。

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「明治」らしき文字だけは判読できる。正面の紋章は植物由来であろうか、楓(かえで)でも梶(かじ)でもないが、不明だ。昭和の戦争以前の金属製の手水盤の現存はかなり稀有だが、前7項に全てのリンク先を貼ってあるので、ご参照いただきたい。

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●さて、最近出会った天水桶をアップしよう。まずは前項からの流れで、「都心」続きだ。東京慈恵大病院の東側で、港区新橋だ。ぐるりはビルの林立であるが、ここに塩釜神社がある。神社は元禄8年(1695)に、伊達藩内にある塩釜神社本社から分霊を勧請して、伊達家上屋敷に創建、安政3年(1856)に、当地にあった伊達藩中屋敷に遷座したという。今は、小さな公園として整備されている。

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小さな社だが、正式には画像の様に書く。この難解な「しお」という漢字は、「塩が取れる池」という意味を持っているようで、異体字が「塩」だ。下の文字は、「かまど へっつい」などの意味をもつ漢字で、「釜」の文字を充てている。パソコンなどで表記はできるが、それを印刷すると空欄になってしまうなど問題があるようだ。

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●ここの境内の鳥居の足元に、鋳鉄製の樽形天水桶が1対、四角い桶が1基ある。すでにお役御免のようで、社殿からはかなり離れた位置に置かれている。

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正面に菊の御紋と共に、「惣宿守」、「宿守小頭」と鋳出されていて、多くの寄進者名が刻まれているが、「弥助」、「新兵衛」など下の名前だけで名字は無い。まだ姓名乗りは許されず、あるいは、はばかられる時代であった。

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口径は3尺サイズで、高さは850ミリだ。銘は、「鋳物師 釜屋七右エ門 安政3年(1856)春3月吉日」とあり、釜七製だ。(前18項

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●気になるのは四角い鋳造物で、銘は同じく「江戸深川 鋳物師 釜屋七右エ門」、釜七製だが、どうやらこれは、天水桶としてではなく、「百度石」的な使用目的で鋳造されたようだ。大きさは、90×48cm、高さは85cmだ。

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1基しかないし、正面に「百度」と鋳出されている。こちらも同じく安政3年(1856)だが、「9月吉日」製で半年遅れだ。木製のフタを開けてみると中はがらんどうで、天水桶としても使えるが、当初は百度石として、神社正面のそれなりの距離の所に設置されていたのではあるまいか。

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●ウィキペディアによると、「百度参り(ひゃくどまいり)は、日本の民間信仰で、神仏に祈願するために同一の社寺に百度参拝することである。お百度(おひゃくど)ともいう。百度参りの祈願の内容は、多くは個人的なものであり、その内容が切実なものである場合に、一度の参拝ではなく何度も参拝することで、より心願が成就するようにと願ったものである」とある。

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百度石の説明は、「社寺の入口近くに、その目標となる百度石という石柱が立てられていることがある。回数を間違えないように、小石やこより、竹串などを百個用意しておいて参拝のたびに拝殿・本堂に1個ずつ置いたり、百度石に備えつけられているそろばん状のもので数を数えたりする」である。上下の画像はどこかの寺社で見かけたものだが、木製や金属製の札が備わっていて、100回をカウントできるようになっている。

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熊谷市妻沼の妻沼聖天山歓喜院(後97項)の百度石は、如何にも現代的だ。摩尼車が付属しているが、穴開きの板状の小石が備わっていて、左右に移動させてカウントできる構造になっている。摩尼車は通常円筒形で、側面にはマントラが刻まれている。この輪蔵を右回りに回転させると、廻した数だけ内蔵されたお経や真言を唱えるのと同じ功徳があるとされている。

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●ではこの現代において、お百度を踏む方はいらっしゃるのだろうか。だらだら祭りや、め組の喧嘩で知られる、港区芝大門の芝大神宮(後106項)には次のような案内があった。『最近、特に参詣に来られる人の多くがお百度参りを致します。

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以前には「竹串」、「こより」などによって数えましたが、このたびは神社で、「心願成就御百度お詣り」の木札を調整致しました。1組百枚(番号入り)となっておりますので、ぜひご利用ください』 とあるのだ。

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需要があるから供給があるのだろう、決して忘れ去られた信仰ではないのだ。とは言え、一般的で無くなっているのも事実で、ここの百度石も植込みの中にあって、もはやオブジェだ。塩釜神社でも、正面の本来の位置から今の場所へと移動させられたのは時代の流れなのだ。

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●さて、富岡八幡宮の西側(後48項後77項)、江東区牡丹には、於三(おさん)稲荷神社がある。落語家の5代目古今亭志ん生の噺、「怪談・阿三の森」に所縁のある社らしいが、個人が管理する神社だ。5代目は20世紀を代表する名人と称され、明治23年(1890)に東京神田で生まれ、昭和48年(1973)に没している。

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鋳鉄製の天水桶1対は、赤く塗装されていて手入れは良いが、設置されている場所が問題で、入り口の鳥居の真裏のかなり狭い境内の壁際だ。声を掛けてお許しを得て撮影した。

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●大きさは、口径Φ850ミリの3尺サイズ、高さは700ミリで、センターには、稲荷社の稲穂の紋章が据わっている。奉納は、「東京深川區(区)」の人達だ。

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カメラを持った手を無理やり裏側にねじ込み、何十枚も撮影。一番良かった画像がこれだ。「丸に七の社章 釜七製 明治30年(1897)」とある。撮影できて釜七製と知って大満足。最近では、狭い敷地に追いやられた寺社も多いが、無理繰りにでも天水桶を保存し設置している所もある訳で、実に喜ばしい。既に1世紀を永らえた文化財であり、有難い限りだ。

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●東京ドームの北側、文京区小石川に、浄土宗礫川山善光寺分院がある。本尊は、阿弥陀如来像だ。区の教育委員会の掲示によれば、分院は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、無量山伝通院(徳川将軍家の菩提寺・後110項)の塔頭で、縁受院と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺(後122項)の分院となっている。

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ここに「太田氏」釜六製らしき鋳鉄製の天水桶1対があるが、ここで驚くべき話を聞いた。まずは桶の画像だが、どこかで見たことのあるデザイン。そう、前26項でアップした世田谷区北烏山の弥勒山源正寺の桶で、釜七との共作だ。「天保4年(1833) 創造之」とあったが、ここのは鋳造年月日は不明だ。

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画像奥の、向かって右側の桶はのっぺりとしていて、何の鋳出し文字も無い。紋様は一切見られずデザインもいたってシンプルだが、大きさは、口径Φ940ミリ、高さは740ミリで3尺のサイズだ。

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●手前の「太田氏」側の裏には鋳出し文字らしきものがあるが、高低差が無く読み切れない。「太田氏」の文字とデザインからして釜六作、あるいは釜七との共作であると判断してよかろう。

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下は、ここ善光寺分院の、陰鋳造文字のデザイン。梵字(後47項)だろうか、判読できず意味は不明だ。

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下は弥勒山源正寺のもので、田中氏、釜七側の天水桶にあったものだが、全く同じだ。察するに製造年月日はほぼ同時期であろう。

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●驚きはこの事ではない。上の文字の判読を試みていたところ、御歳80程の、話好きな寺の老婆が近寄ってきて、丁寧に話しかけられたのである。「ここの天水桶を見に来ました」と言うと、「この桶はねえ、戦時中の金属供出(前3項)の時に、コンクリートで覆って隠して、金属じゃないと言い張って、供出を逃れたんですよ。」何という意外な暴露証言か。

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今となっては何のお咎めも無かろうが、時代が時代だった訳で、軍部に偽装してまで逃れたというのだ。驚きである。それでモヤモヤが解消された。判読不明部分のアップが下の画像だが、サビにしてはおかしいな、何かパテでも塗ったのかなと思っていたのである。指で擦ってみると砂らしきものがそぎ取れる。ここには、コンクリートが剥がし切れずに残っているのではあるまいか。

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もしかすると、右側ののっぺり桶は、凹み文字がコンクリートで埋まったままではないのか。そこには北烏山の源正寺同様、「田中氏」の陰鋳文字があるのかも知れない。だとすれば、老婆の証言は貴重だ、いつか確認したいものである。

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●もし、金属供出してしまうと、こんな風になる。八王子市元本郷町の多賀神社だ。ここは、全国の多賀神社(78社)のなかの旧郷社、4社のうちの一社で、関東最大の規模を誇っており、新撰組(甲陽鎮撫隊)解散の地としても知られる。境内にある樹齢400年余の大銀杏の御神木や、八王子祭りでの渡御で有名な宮神輿、「千貫神輿」も広く知られている。総重量は3トンもあり、有形文化財だ。(ホムペと掲示板を要約)

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ここには「天保12年(1841)6月建造」の、恐らくは鋳鉄製の天水桶があったのだが、「昭和18年(1943)6月吉日 大東亜戦供出(前3項)」、その後「改造」された桶は、コンクリート製だ。残念ながら、味気ない。因みに供出した桶は、現八幡町の阿波屋金物店さんのご先祖である阿波屋忠輔作だという。

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●この容姿を見て思うのだが、これは供出した天水桶の完全なるコピーではなかろうか。供出前の桶を基に型を取り、そこへコンクリートを流し込んだのだろう。大きさはもちろん、額縁の雷紋様(後116項)や三つ巴紋、文字などは供出した桶の意匠なのかも知れない。

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先の北烏山の弥勒山源正寺の桶は、区の文化財に指定されている。結果的に金属供出されずに残った善光寺分院の天水桶も、文化遺産として是非とも認定されるべきであろう。つづく。