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●埼玉県川口市には母なる川の荒川が流れていて、特に「水」に恵まれた地域であった。水害も多かったと言えるが、炊事洗濯の生活用水や田畑を潤す農業用水に事欠くことは無かった。鋳造産業にとっても、無料でふんだんに使える工業用水としての存在価値は大きかった。

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さらに、重量物という製品特性や燃料、原材料の運搬に対し、舟運として機能した水は産業隆盛の源であった。戦前には、東京港の延長として川口港の構想さえ持ち上がったが、トラック輸送の普及でそれは立ち消えたという。

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●多くの鋳物工場の敷地には自噴する井戸があったが、天保年間(1830~)に刊行された「江戸名所図会」には、「鍋屋の井」として挿絵が載っている。地下水が、常に勢いよく噴き出していたのだ。しかし、大正12年(1923)にユニオンビール工場が進出してくると枯渇が始まり、昭和初期には吹き井戸は機能しなくなったという。

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19世紀前半、隠居の僧、十方庵大浄敬順は、携帯コンロと煎茶道具を携え、江戸内外の名所旧跡を訪ね歩き、「遊歴雑記」を著している。川口地域も訪れたようで、「此の釜屋どもの庭中に悉く井あり、化粧側の高さは九尺、又は八尺、低きというも五尺より低きはなし。

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この側の上より清泉吹き溢れ迸り流る。此の土地の家々の井みなかくの如くというにあらず。釜屋のみに限ってかかる名水あり。依て釜屋の井戸とて名高し、蓋し、長流の川添は水の湧出するものにや」と記している。

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●高さ9尺は、約2.7mほどであるから、結構な高さの構えだ。下の画像は、昭和63年(1988)に川口市の夏祭りの「たたら祭り」で再現された、「川口の心 吹き井戸」と題された「鍋屋の井」だが、写り込んでいる人の背丈と比すればその大きさが判る。たたら祭りは、埼玉県川口市において、昭和53年(1978)から毎年8月初旬に、川口オートレース場で実施される夏祭りだ。

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次の画像は、明治40年代(1907~)に川口尋常高等小学校の校庭にあったという吹き井戸で、今の本町小学校内にあたり、湧水を3段で受けている様子が判る。女生徒だけが写っているが、卒業写真だという。男女が同席できない時代であって、男子生徒だけの同じ構図の写真もあるが、出典先は、昭和54年(1979)4月 沼口信一編著、「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 川口」だ。

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●因みに、吹き井戸は日本各地で見られた様で、歌川広重の東海道五拾三次の54図「大津 走井茶屋」にも、題名の由来となった吹き井戸が左下に描かれている。琵琶湖の南に位置する大津宿は、東海道の中でも最も栄えた大きな宿場であった。

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「走井は逢坂大谷町茶屋の軒場にあり、後の山水ここに走り下って湧き出づる事、瀝々として増減なく甘味なり」という。走井とは溢れ湧き出る清水という意味で、良質で水量豊かな所だが、この水を使って作られた走井餅は旅人の土産物として人気があったようだ。

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●話は変わって、散策の際、必ず携帯するデジカメ。性能、メーカーなど、素人の私にとってはこれと言ってこだわりは無い。小さくて軽くて、最低限の機能が備わっていればそれでいい。天水桶に鋳出されている文字を撮影するには、それなりの工夫が必要だ。裏側に廻り込めば、陰になってうす暗いことも多い訳だが、その時フラッシュをたけば、文字がテカテカに光ってしまって判読できないこともある。
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陽刻は凸文字だから、サビなどで角が丸まってしまっていて輪郭がハッキリしない場合も多いうえに、厚めに塗装されていてさらに高低差が無くなってしまっている。そこで文字の真上から、懐中電灯で照らして文字に陰を作ってやるのだ。するとフラッシュをたかなくても満足のいく、判読できる画像が撮れる。

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寺社境内や天水桶の裏側は、暗がりであることが多い。フラッシュをたくとこうだ。その差は歴然だが、ただし色合いは下の画像に近い。画像の銘は、前項で見た「文京区本郷・桜木神社 川口鋳物師 増田金太郎」だ。

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●初めの頃はそんなことに無頓着で、満足いかない画像が多かった。撮影してすぐにデジカメのディスプレイで見てみると、よく写っているように感じるのだが、あとでパソコンに取り込んでみると、特に文字の部分が納得いかないのである。

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上下の画像は、川口市宮町の日蓮宗光輝山本覚寺だが、ここは、日現(大永6年・1526寂)が開山したという。本堂前に1対の鋳鉄製天水桶があるが、額縁のぐるりには「丸に二つ引き両紋」が廻り、正面には大きく宗紋が据えられていて、「第37世 日戒代」、「御寶(宝)前」への奉納であった。

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屋根からつながるパイプを支える、荒波を連想させる金具も洒落ている。これは、丸い鉄棒を曲げて成形し溶接した構造のようだが、もはや芸術品だ。

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●天水桶を支える獅子脚(後33項)は、細部まで凝っていて手抜きがない。この様な凝った獅子脚は後24項のさいたま市浦和区岸町・調神社(つきじんじゃ)や、後56項のさいたま市浦和区東岸町・長久山円蔵寺でも見ているのでご参照いただきたい。施主の浅倉家が奉納しているが、ここが菩提寺のようだ。「六代目 七回忌 浅倉多吉」、「浅倉庄吉」らの名が見られるが、同家は市内の鋳造家で、後54項などで本サイトにも登場している。

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作者銘は「製作人 山崎甚五兵衛」で、「昭和33年(1958)2月吉日」の奉納であった。大きさは口径Φ970、高さは1.050ミリだ。何とか判読できるが、フラッシュ撮影のためテカッてしまっている。

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●さて、前13項で、花押の画像をアップした。岩田庄助と増田金太郎であるが、釜六の親戚筋である、田中七右衛門、通称釜七(後17項)の天水桶にも花押が見られるのでここでアップしておこう。

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大田区本羽田の羽田神社内にある富士塚は、区の有形文化財の「羽田富士」として有名だが、明治初年に築造されたもので、同区唯一の存在だ。羽田空港もここの氏子地域に含まれていたため、昔から航空安全祈祷をする人の参拝が多く、「航空安全祈願」神社に特化した理由だ。

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●鳥居の奥に鎮座する1対の鋳鉄製天水桶は、「明治7年(1874)5月吉日」の鋳造で、正面に「羽田横町」とあり、「鈴木源四郎 小野辰五郎 小川庄五郎 石井勝五郎 木村新之助」ら18名の世話方や施主が奉納している。

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大きさは口径Φ910ミリの3尺サイズ、高さは780ミリで、上縁を廻るシンプルな帯は、幅65ミリとなっている。「東京深川 鋳物師 釜屋七右衛門(花押)」(後18項)だが、地名はもう「江戸」ではない、「東京」の時代であった。光源の位置が良かったのだろう、これは鮮明に判読できる。

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釜六は「藤原姓」を名乗っているが、花押(前13項)を使用していた釜七もまた、御用鋳物師としてそれなりのステータスを担っていたのであろう。なお、羽田神社の本殿前の天水桶に関しては、後38項で登場している。

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●次は前回に引き続いて、御用達鋳物師たる「藤原姓」を賜った川口鋳物師作の天水桶を見てみよう。今の所、永瀬家の系列では、5名の「藤原姓」を確認できている。「永瀬源内 藤原富廣」、「永瀬源七 藤原寅定(前10項など)」、「永瀬喜市朗 藤原富次(後28項)」、「永瀬宇之七 藤原清秀(後68項など)」、「永瀬文左衛門 藤原光次(後108項など)」だ。
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調査すれば、もっと多くの藤原姓を名のった人がいるかも知れないし、鋳造物に必ずしも「藤原姓」が鋳出されている訳ではない。永瀬源内の桶は、既に2基アップしている。文京区白山にある白山神社は、前3項で紹介済み。銘は「鋳工川口住 永瀬源内 藤原富廣 文政9年(1826)6月吉日」銘であった。

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荒川区南千住の素戔雄(すさのお)神社は、前9項で。「御鋳物師 武州川口 永瀬源内 藤原富廣 天保12年(1841)6月吉日」銘であった。

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●続いて、未アップを2例。千住大橋(後131項)に近い、足立区千住河原町ある河原町稲荷神社。東京都中央卸売市場足立市場、やっちゃ場の鎮守で、千住七福神の福禄寿が祀られている。千住宿の青物市場だ。創建時期は不明だが、市場の誕生とともに歴史を刻んできたと推測されるという。

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境内にある高さ4mの、明治39年(1906)5月22日の「千住青物市場 創立三百三十年祭紀念碑」より遡れば、天正4年(1576)ごろが創立時期と推測される。そこそこの古社だが、説明板を要約してみよう。

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「この祝賀祭は盛大に挙行され、神宮皇后の山車と大蕉の山車を造り、各々に太鼓を備えつけ、これを打ち鳴らして町中を引き廻した。他に千貫神輿と呼ばれる大神輿を二天(2本の棒)で担いだ」という。この神輿は今も現存するようだ。


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●天水桶1対は口径Φ3尺ほど、高さ980ミリの鋳鉄製で、本体や3個の手桶の中央に見える文字は、河原町の「河」だ。手桶と屋根は青銅製だが、「大祭紀念 昭和50年(1975)9月14日」に追加鋳造されている。そこに「松下亀太郎 當摩武雄 謹製」という銘版が貼り付いているが、製作者であろう。また、同時に石灯籠1対も奉納されているので、記念すべき大祭であったに違いない。創立400周年記念であろう。

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周囲には、青物問屋の世話人として50名ほどの人名が刻まれている。「信濃屋忠三郎 油屋清次郎 和泉屋長次郎」らで、成田講千住総講中傘下の一派、御手長講による寄進だ。本体の鋳造銘は、「嘉永三庚戌年(1850)正月吉祥日 鋳工 永瀬源内 藤原富廣」で、その文字もくっきり読み取れる。川口鋳物師製だ。

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●内容が重複するが、「天水槽」と呼称されて掲げられている立て札の内容を記しておこう。「水槽は鋳鉄製で、高さ八五cm直径九八cm、上部の円周二八一cm、下部の円周二六二.五cmでやや下へつぼまり、上部に幅六cm厚さ六cmの縁取りがある。」高さと直径の数字を逆に取り違えているようだが、3尺サイズなので口径はΦ900ミリだ。円周281cmなら、割る3.14≒89.5cmだ。

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「千住の青物問屋街は戦前、千住のヤッチャバと呼ばれ東京の北門市場としてその名を馳せていた。嘉永三年の水槽は千住で熱心に行われていた成田講千住総講中傘下の一派御乎長講による寄進である。水槽には青物問屋等の構員名が記名されている。右水槽二十九名、左水槽二十一名(重複除く)総計五十名。

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鋳造工らしき者二名、書は徹斎である。御乎長講の遺物として大幟が現存している。いつの日か掲揚する」とある。鋳造工2人というのは、「鋳工 永瀬源内 藤原富廣」という同一人物名を別人の2人と勘違いしているようだ。また「御乎長講」は意味不明だが、成田山新勝寺(後52項)へ代参する「御手長講」であろう。

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後77項では、江東区富岡の深川不動堂で青銅製の天水桶1基を見るが、奉納は「御手長講」であった。不動堂は成田山新勝寺の東京別院なのだ。また「成田市史研究余話」には、「成田山の御手長講に出された精進料理・・」などという文言が出てくる。当然、成田山への奉納物も多く、画像の石碑や額堂の絵馬など豊富だ。この講に違いなかろうから、鋳出し文字は「乎」とも読めそうだが、「手」と解釈すべきだ。

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●足立区関原の関原山不動院大聖寺にある天水桶は、役目を終え御隠居様状態だ。1対は「天保7年(1836)霜月吉日」の鋳造だから、既に176年が経過、本堂の向かって左脇にひっそりと仲良く並べて置かれている。

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本堂正前にある主役の桶は、前12項でアップした通り、鈴木文吾作の青銅製の桶であったが、先代の鋳鉄製の天水桶が、ここに現存しているのだ。「江戸谷中 日護摩 講中」の奉献だ。

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穴があくほどサビて損壊し、割れていてボロボロだが、「御鋳物師 川口住 永瀬源内 藤原富廣」の陽鋳造文字は鮮明で、まだまだと言わんばかりに未だに健在だ。

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●昭和初期の川口商工便覧には源内の人物紹介がなされている。「現在の永瀬嘉右衛門(後15項)邸宅が、いわゆる源内の工場地であったのだが、何代目かの源内の弟が3代目嘉右衛門の養嗣子となって4代目を継承している。

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すなわち現代の父に当たる人であるが、当時源内の鋳物師株が嘉右衛門に譲られたものらしく思われる」となっている。営業を保証する株の移動があったとすれば、鋳物師としての源内の名はここで途切れたのであろうか。

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●永瀬源内の作例は、この後多数登場するが、本項で見られない項にリンクを貼っておこう。後28項後33項後36項後37項後49項後55項だが、「文政9(1826)年 文京区白山・白山神社」から「安政4(1857) 港区元麻布・善福寺」までの12例だ。

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また源内は、「川口九兵衛」を名乗った事もあり、あるいは幕末に大砲を製造した事もあるが、それは後16項後40項後82項で紹介しているので、是非ご参照いただきたい。

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最後に下賜された「藤原姓」のまとめだが、その後の自由競争の時代になると、所轄営業エリアを保護され、受領名を拝する「御用鋳物師」の存在自体に意味が無くなる訳で、同時に「藤原姓」うんぬんも立ち消えになったのだろう。次回はそんな永瀬氏系列の作品をアップしてみようと思う。つづく。