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●平成22年、西暦2010年、川口市本町に川口イーストゲートタワーが竣工した。31階建のタワーマンションで総戸数は188戸だが、鹿島建設が施工した物件だ。近隣は、道路の拡幅計画がきっかけで再開発された訳だが、かつては(株)田原製作所という鋳物工場で、機械の定盤などを作っていたという。「敷地8百坪、工場建物5百坪を有し、従業員50余名にして年生産能力10万円を突破するの隆盛を極む」と、後述の史料にはある。

川口イーストゲートタワー

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昭和初期の広告を見ると、「埼玉県川口町 合資会社 田原製作所 田原宗重郎」となっている。「モミガラ焚 福々竃(かまど)」や「回動除灰装置 ブレーキ・シュー」が写真入りで掲載されているので、これらが主力製品であろう。「旭日昇天の勢を以て 竃界の尖端を走る」、「帝国農会長 農学博士 矢作先生推奨」、「於博覧会 共進会 金銀牌受領」と記されているが、すごいキャッチフレーズだ。

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昭和初期の「川口市勢要覧」には、「千葉県銚子町出身 田原宗重郎」の名が見えるが、先の「福々竃」についての記載がある。「販路拡張には数年来の大努力が報ゐられ、相応の売れ行きを示せる外、日用品一般の研究には、常に一歩を先んじて多大の効果を挙ぐるに至って居る」とあり、大変な努力家であった事が知れる。また、千葉県成田市の成田山新勝寺(前52項など)境内の玉垣にも同氏の名が刻まれていたのでここにアップしておこう。

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さて、タワーの通路には、何やら一風変わったオブジェが並んでいる。鋳鉄製の鋳造物だが、何がモチーフだろうか。表面に見られる、無二の波紋の様子に美を見出しているのだろう。鋳物の街、川口ならではだが、見るたびに昔日の情景を想起する人も多いだろうし、往時の歴史を留められよう。

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●こちらは、JR川口駅前(前67項前81項)の商業ビル、「キャスティー(前69項前71項)」だ。元は、川口産業会館という名称であったが、川口鋳物工業協同組合所有の建物だ。正面左下には、288インチ(6.400×3.520ミリ)のキャスティビジョンが設置されていて、一般企業広告や、災害発生時の緊急情報も放映するという。

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その1階には、屏風をイメージしたような、鋳鉄鋳物のオブジェがある。 市内の(株)長谷川鋳工所の社長、長谷川善一氏(前101項)による製作という。同社は、全国の要地に営業所を持ち、マンホールや継手など、建築衛生設備資材を製造販売している。同氏は、鋳鉄製の楽器も鋳造したというが、どんな音色がするのだろうか。

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●川口市大字東本郷に所在する新郷公民館にも同氏の作品がある。同館の真北の川口市東貝塚には、新郷貝塚があるが、縄文時代後期の貝塚や環状集落の遺跡だ。市内最大規模で、大正12年(1923)に埼玉県指定史跡に指定されている。説明によれば、「この作品は、地層と水と光をモチーフに、永遠に繰り返される自然界の法則を表現しています」という。

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地べたに溶鉄を流し込み、浮き出た紋様を地層に見立てているのであろう。右下には、アワビ貝や巻貝、勾玉(まがたま)らしき出土物がイメージされて張り付いている。黄色く囲った勾玉には、作者名が陰刻されている。「ZEN」だが、長谷川善一氏であろう。

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●川口市川口1丁目の同社の敷地に公開空地がある。地下階が長谷川さんの工場で、地上はマンションだ。ここにも善一氏の作品が置かれている。「結 Yui」と題された鋳鉄製のオブジェだ。抱擁しているかの様に組み合った2人の心は結ばれている、という情景の表現であろう。

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こちらも鋳鉄製で、「鉄鬼の祭壇 -薪の舞台-」とある。1対の円形のかがり火台(前71項)を伴い、丸い面からは2本の角が手前に張り出ていて、空恐ろしい鬼の形相の様に見える。

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青銅製のオブジェも置かれている。「展 -成長する螺旋と祈りの形- 長谷川善一」で、「2005年 Remake」となっている。同氏はその持てる技術と設備で美術鋳物を手掛けているが、先のタワーマンションのオブジェも彼の作品であろう。

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●川口駅西口の公園内の果て、東京寄りのところに、最も川口の工業界を象徴するようなオブジェがある。高さは5mほどであろうか、鋳型の外枠を積み重ねた意匠だが、実際に使われていた金枠であろうか。

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4面には、市の花「テッポウユリ」が鋳出されているほか、作業着や作業帽、軍手、雪駄など働く職人の姿を連想させるアイテムが埋め込まれている。1992年の設置で、すぐそばの川口総合文化センター「リリア」が開館した頃だ。

川口駅・西口公園

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●では、最近出会った天水桶を見てみよう。区の教育委員会の掲示によれば、世田谷区瀬田の福来山法徳寺は浄土宗に属し、永禄元年(1558)、法阿因公和尚によって開山している。開基は、瀬田の旧家の祖先である白井法徳といい、本尊を木造で1尺余りの阿弥陀如来としている。

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寺紋は源氏の定紋、「笹竜胆」だというが、天水桶の表面に見えるのは「木瓜紋」だ。これは、瓜紋の亜種だといい、武将の織田信長が使用したのもこの木瓜紋だが、その葉数は「五輪五弁唐花」の5枚であった。青銅製の1対の取り扱いは、「昭和59年(1984)4月 青山堂 上野毛店 謹製」だ。

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●中野区上高田の曹洞宗、萬昌院功運禅寺。天正2年(1574)に開山した久宝山万昌院と、慶長3年(1598)に開山した龍谷山功運寺とが、昭和23年(1948)に合併し、仏照円鑑禅師と黙室芳誾禅師を開山としている。現在は、「まこと幼稚園」も運営しているようだ。

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説明板によると、吉良家の墓所は、区の登録文化財だが、義央の石碑面に「元禄十五壬午(1702)十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものという。

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他にも浮世絵師の歌川豊国の初代から3代まで、南蛮外科医の栗崎道有の墓所となっている。青銅製の天水桶1対の奉納は、「功運29世 萬昌24世 卓巌隆樹代」で、「平成6年(1994)正月 株式会社 老子製作所 謹製」だ。作者の詳細は、前8項前93項などで紹介している。

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●品川区西大井の天台宗、養玉院如来寺は、帰命山佛性院如来寺と、金光山大覚寺養玉院が、大正15年(1926)に合併して誕生しているが、荏原七福神として布袋尊を安置している。瑞應殿内には、5体の「木造五智如来坐像」があるが、薬師如来、宝生如来、大日如来、阿弥陀如来、釈迦如来だ。いずれも像高3mにも及び、「大井の大仏」と呼ばれている。(区の掲示板による)

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大雄寶殿前には、1基の青銅製の天水桶がある。正面には何の紋章も無く、スッキリしたデザインだ。菩提を弔うための奉納であったが、鋳造者は、「昭和六十三戊辰年(1988)吉祥月日 高岡市 株式会社 老子製作所 謹製」だ。大きさは口径Φ1.160ミリ、高さは1mとなっている。

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●鐘楼塔には、見事な梵鐘が吊り下がっている。作者は、「昭和六十三戊辰歳(1988)五月五日 高岡市 鋳物師 老子次右エ門」だ。その銘や先代の鐘を戦時に金属供出(前3項)した事、「天台宗開創 1200年慶祝」での鋳造である事は、鐘身の内側に陽鋳文字で記されている。

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一方、表面には雲間に舞う天女や獅子が配され、五智如来像の様々な様子が描かれている。そんな中への文字の配置は邪道だという事であろうが、老子製の梵鐘としては初めて見る趣向であった。

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●埼玉県東松山市岩殿にある、真言宗智山派の岩殿山修善院正法寺は、岩殿寺ともいわれる。掲示板によれば、源頼朝の命により、鎌倉幕府の御家人・比企能員(よしかず)が復興した古刹であり、天正2年(1574)に、僧栄俊が中興開山している。

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江戸期には、徳川家康より寺領25石の朱印地を与えられていて、仁王門の仁王は、運慶作といわれる。また口径78cmの銅鐘は、元亨(げんきょう)2年(1322)の鋳造で、県指定の有形文化財だ。

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寺は、坂東三十三所観音霊場10番、関東百八地蔵霊場13番、中武蔵七十二薬師47番、武州八十八所霊場31番となっている。天水桶の正面には「比企巌殿山」の山号と「九曜紋」が見えるが、でっぷり感のある青銅製の1対だ。檀家の奉納は、「平成2年(1990)7月吉日」で、作者は不明。

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●次は千葉県松戸市八ケ崎の、曹洞宗八照山(はっしょうざん)金谷寺。慶長5年(1600)に開山され、八ケ崎、金ケ作、中和倉など古くからつづく家々の菩提寺として当地に根ざしている。明治から昭和初期にかけては、寺子屋としても機能してきていて、現在は、昭和45年(1970)に「八照幼稚園」を開園、運営している。

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寺紋は、「五三桐」のようだ。この紋や「五七桐」については、前50項などでも記述している。青銅製の1対の天水桶は、「昭和60年(1985)3月彼岸会」に奉納され、「第24世 玄宗代」の時世であったが、鋳造者は不明だ。

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●埼玉県入間市宮寺の、真言宗豊山派、宮寺山無量壽寺西勝院。創建年代は不詳ながら、ここは、8世紀ほど前に建てられた「宮寺館跡」であり、市指定の史跡になっている。狭山三十三観音霊場の29番だが、この巡礼は、天明8年(1788)に、後述の山口観音の亮盛が開創している。

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「三十三」という数字は、観音様が色々な姿に身を変えて、人々を救ってくださるという事にちなんでいる。いわゆる変化観音だが、聖観音、千手観音、准胝(じゅんでい)観音、十一面観音、如意輪観音、不空羂索(けんさく)観音、馬頭観音の7姿態だ。また、「33回忌」や「33年に一度の御開帳」など、仏教界では縁深い数字でもある。

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寸胴型の大きな青銅製の天水桶1対だが、排水のため、台座周りにはお堀のような枠組みがあって工夫が見られる。ここは、元は館だ。「現住 恵光代」の時世で、「昭和50年(1975)10月吉祥日」の造立であったが、作者は不明だ。

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●都内昭島市郷地町の天台宗宝積寺は、寺記が火災で焼失しているため、創建時期や由緒については全く不明だという。本尊は、江戸時代初の木造坐像の薬師如来像だ。「郷地」は「ごうじ」と読むようで、かつての郷地村は、神奈川県、東京府北多摩郡に存在した村だが、現在の昭島市の東部に位置している。

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山号の「高田山」が表示されていて、外周の両脇には踊りださんばかりの獅子が取りついているが、「昭和34年(1959)2月6日」の奉納だ。一見、茶色くサビついた鋳鉄製の天水桶に思えたが、よく見るとこれはコンクリート製の1対であった。木型を起こし、そこに練ったコンクリートを流し込んだのであろう。

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●埼玉県所沢市上山口の真言宗豊山派金乗院。山号は吾庵山、寺号は放光寺で、通称は山口観音だ。弘仁年間(810~)に、奈良東大寺の「四聖」の一人、大僧正行基によって開かれている。本堂は宝暦12年(1762)に造営され、行基作の本尊、十間四面千手観音菩薩が祀られている。

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開山堂には、「ぽっくりさん」と呼ばれる地蔵がある。18世亮盛師が、元禄年間(1688~)に高野山に遊学した時、招聘した引導地蔵だという。「弘法大師が入定した時に、振り返って見送られたままの姿は、大変貴重な形です。この地蔵を信仰する人は、病気することなく極楽浄土へ見送られます」と説明されている。

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●境内にある鋳造物を見ていくが、本堂の裏には、「裏観音」がある。本尊は、33年毎の開帳時以外は拝めないため、8、9百年前に複製し祀ったという。ここに置かれている3尺ほどの青銅製の天水桶には、「輪違紋」と「山口観音 金乗院」とだけ刻まれているが、作者は不明だ。

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本堂前や開山堂前には、獅子脚(前33項)の鋳鉄製の香炉4基ほどがあちこちに見られるが、正面の龍の様な霊獣の顔からは、大陸風の様相を感じ取れる。「先祖供養 水子供養 家内安全 商売繁盛」と掲げられ、「山口観音金乗院 第34世 権大僧正 政海代」とあるが、各種の説明書きや石碑、ワニ口、梵鐘など各所にも名が見られ、境内整備に尽力した人である事が判る。

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●上の画像の右上、本堂の軒下に半鐘が下がっている。所沢市のサイトから要約すると、この銅鐘は、総高86cm、口径54.5cmで、乳(前8項)の数は64個、撞座は2ケ所だ。表面には、「許由巣父の図」と「郭巨金釜を得る図」の中国故事を画題とした図が配されている。

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伝説によると、霊亀2年(716)、高麗国の王辰爾が武蔵国に移住の折、自国から持参したもの、あるいは近隣の地の土中から掘り起こされたものと伝わるという。しかし乳の間の形状から判断するに、素人目にもこれは肩の部分がなだらかな和鐘だ。

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●古い朝鮮鐘は、国内では40例ほどしか知られていないというが、滋賀県大津市の長等山園城寺三井寺(後124項)の重要文化財の銅鐘を見てみよう。高麗時代の太平12年(1032)に鋳られた総高77.2cmの吊鐘だが、明らかに乳の間の意匠が独特だ。

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吊り手の竜頭の真下からなだらかに鐘身が広がる和鐘とは違い、朝鮮鐘の多くには平らな面が存在し、その端から一気に鐘身が下っている。また竜頭の横に、甬(よう)または旗指(旗挿)と呼ばれる鍵状の突起がついているが、これが朝鮮鐘の最大の特徴だ。これらの様相は、福井県敦賀市の国宝の朝鮮鐘、「太和七年(833)三月日 菁州蓮池寺鐘 総高112cm」を見ても同等なのだ。上述の伝説は後者であろう。

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余談ながら、この雰囲気は、昭和期に人間国宝であった鋳金工芸家の香取正彦やその父の秀真(後116項)の梵鐘によく見られるが、香取は、朝鮮鐘からヒントを得て派生し、独自の世界を確立したのではなかろうか。

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●続いては、青梅市住江町にある、総鎮守の住吉神社。境内掲示によれば、応安2年(1369)、延命寺(同町内)を開山した季竜元筍が、創建と同時に故郷の摂津国の住吉明神をこの地に祀ったのが始まりと伝えられる。

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祭神は上筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后で、変形春日造(背面入母屋造)の本殿は、正徳6年(1716)に建立され、棟札には泉州(大阪府南部)出身の大工名等も記載されていて、上方建築の影響がみられるという。

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青銅製の天水桶は、「昭和44年(1969)4月28日」に、宮司や氏子、奉賛委員会が奉納している。大きさは口径Φ900、高さは870、額縁の幅は200ミリだ。「住吉神社鎮座六百年記念」で、「東京日本橋 株式会社 田中清五郎商店 謹製」の設置であった。この会社は、現在も都内小伝馬町で営業していて、「東京金物卸商協同組合」の一員で、ハウスウエア部会(家庭金物)に属している。

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●拝殿への階段の手すりに見られるのが、次の画像の青銅製擬宝珠だ。橋や寺社の欄干に取り付けられているのをよく見かけるが、装飾目的と共に、雨水などによる木材の腐食を抑えるのが役目だ。ネギの花に似ていることから「葱台(そうだい)」とも呼ばれるが、一般的には、お椀を伏せたような部分を「覆鉢」、間をつなぐくびれた部分を「欠首」という。さらにその下の円筒形の部分を「胴」と呼ぶようだ。

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こういう所にも作者名が陰刻されている。「奉納」とあり、氏名が並んでいて、「天保6年(1835)5月吉辰 江戸本町三丁目新道 御鋳物師 多川八右衛門作」銘だ。香取秀眞(ほつま・後116項)の「日本鋳工史稿」をみると、この人は、「多川民部(前55項)あるいは多川主膳 神田住」であろうと記載されている。

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●ここにも多川作の擬宝珠がある。千葉県山武郡芝山町の天台宗、天応山観音教寺は、別称、芝山仁王尊だが、天応元年(781)、征東大使藤原継縄が十一面観世音菩薩を安置したのがこの寺の始まりとされ、代々、下総の豪族千葉氏の祈願所として栄えてきた。火事除け、泥棒除けの仁王尊として知られ、堂宇内に芝山はにわ博物館を併設している。

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ここでは、いくつもの講が組まれているようで奉納物も多い。額などに見えるのは、「木場睦講」、「忍ケ岡丸広講」、「成芝講」、「松栄講」などだ。本堂前の鋳鉄製の天水桶1対は、「向島千人講」の奉納となっている。

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造立は、「昭和53年(1978)5月吉日 第57世 徳永代」で、鋳造銘は、「「川口市 山崎甚五兵衛」だ。昭和の時代を代表する天水桶メーカーの大家だが、当サイトでは前41項前84項など多くの項で登場している。

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●ホムペによれば、仁王門は、明治15年(1882)の49世亮晄代に完成した総欅造りの建物で、仁王様は畳の敷かれた堂内の内陣須弥壇の上に祀られている。しばしば大火に見舞われた江戸の町では、町火消し衆の信仰を集め、「江戸の商家で仁王様のお姿を祀らないお店は無い」とまで言われたといい、江戸での出開帳や町火消しの総元締め新門辰五郎の石碑などがそれを物語っている。

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入り口に掛かるのは、直径300ミリほど高さは1.2mほどの、賞美に値する青銅製の提灯だ。轡(くつわ)紋様で透かしてあり、上下に雷紋様(後116項)が描かれていて、壁掛けの龍の鼻がこれを支えている。1つ1つの細工が精緻で見惚れる意匠だ。「下谷 〇に廣」の紋章が見えるが、下谷(上野)広小路の意味で、奉納者だ。

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●鋳造者は、「東京御鋳物師 全龍斎壽(寿)道 鑄(鋳造)」と底面に陰刻されているが、江戸末期から明治初期を代表する金工家だ。東京国立博物館のリストでは、「蟹(カニ)形文鎮」の存在が確認できる。これは、用途を超えた鑑賞性の高い美術品だが、巧緻な造形の自在置物だ。

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日本鋳工史稿には、1人の装飾彫金工の名が見える。「田中東龍斎 藤原清壽」だ。安政4年(1857)9月に、江戸鋳物師の粉川市正(後述)が「芝神明宮前 唐銅灯籠両基」を修復しているが、清壽がこの灯籠の片切彫りを担当している。名匠であったようで、「コレ東都一品ナリ」と評されている。

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また「獅子彫刻は、清壽の外に、壽輝、壽次(東雲斎)、常壽、壽春、義壽(東鶴斎)、5名の銘を見る」とある。「壽」繋がりでもあり同時期でもあり、門人か同僚かであろう。全龍斎と東龍斎の違いから別派かも知れないが、近しい関連する金工家に違いなかろう。

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●提灯の正確な造立年月日は不明だが、刻まれた奉納世話人の「上野元黒門丁 松坂屋源七」の名でおよそが判る。上野山下、仁王門前にあったという、割烹料理屋「松源」の主で、文政7年(1824)刊行の「江戸買物独案内(前37項前94項など)」にも掲載された名店だ。

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この本では、下り藤紋を店の紋章として、「御婚礼向仕出し御料理 松坂屋源七」と見える。明治35年(1902)12月に閉店しているが、明治初期に繁盛していたというから、その頃の鋳造であろう。

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●あるいは184店もの名飲食店が載る、安政6年(1859)初冬刊行の番付表「即席会席御料理」にも名が見える。中央の「行司」の欄には、大食い大会の会場で知られた「両国(柳橋) 万八(万八楼・万屋八郎兵衛)」、落語にも登場し、幕末にはペリー提督に料理を供したという「浮世(日本橋浮世小路) 百川」。

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さらに、万人が認めた最高級料理茶屋の「山谷 八百善(後129項・八百屋善四郎)」、前52項でも登場した「小梅 小倉庵」などが並んでいる。そして右側の「東大関」の「前頭七枚目」に「上野 松源」が登場しているのだ。

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画像の一番左端に「松坂屋源七」の名が見えるが、このブロンズ製提灯1対は、博物館保存級の美術品でもあろう。こういった提灯は稀有で現存数も少ないようだ。前52項でも、千葉県・成田山新勝寺仁王門、港区芝公園・三縁山増上寺(後126項)の2例を見たが、後世に伝え遺さなければならない文化財なのだ。また「全龍斎壽道」の名は、前65項の杉並区堀ノ内、厄除け祖師の日円山妙法寺でも登場しているのでご参照いただきたい。

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●さて、ここの階段の手摺の擬宝珠には、2人の鋳物師の名がある。1人は「文政9年(1826) 江戸 粉川市正作」で、前65項の杉並区堀ノ内の厄除け祖師妙法寺では、「文化8年(1811)6月」という擬宝珠を見ているが、同時代の同一人であろう。先の多川と同じ時代を生きた鋳物師だ。

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もう1人の銘が、「享保10年(1725)仲秋 多川民部作」であるが、さかのぼること1世紀前の時代違いの擬宝珠だ。香取の史料には、「文政10年(1827) 浅草正覚寺 観世音座像」に両者の名が並んでいるとの記載があり、仕事上、両家は協調関係にあった事が判る。

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●この多川の名は、神奈川県藤沢市の寂光山龍口寺(後114項)の多宝塔(寛政元年・1789)や、千代田区外神田の神田神社(前10項)の龍紋銅洗盤(天明2年・1782)には名が見られたと言うが、この現存しない洗盤には80余名もの江戸鋳物師や工人、世話人の名があったという。

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さながら当時の「鋳物師一覧表」であり、往時の業況を知る上で、香取は、「頗る(すこぶる)快事」と表現している。なおこの洗盤は、前31項前41項前49項前55項前65項前86項後124項でも登場しているので、ご参照いただきたい。

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●注目すべきは、正面に「奉納 東都鋳物師」として、少し大き目な文字の親方株相当18名の中に、神田・5代西村和泉(後110項)、深川・太田大掾釜六(前17項)、神田・粉川市正(前52項)らの巨匠と並んで、「多川八右衛門」の氏名が記されていたことだ。しかも、順序として、頭領格の西村の次に登場している。当時としては名の通った鋳物師で、そこそこの規模の工場を保持、運営していたのではなかろうか。

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さらに特徴的なのは、皆々が拝した冠名をあえて表記せず、通称を名乗っている点であるが、「西村伊右衛門、太田六右衛門(後126項)、粉川久左衛門」などだ。八右衛門は通称であり、「多川民部、多川主膳」が、厳めしく堅苦しい拝領名を含んだ呼び名であったのだ。

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残されている多川の鋳造物は少ないようだ、これらの擬宝珠は貴重な存在と言えよう。なお、擬宝珠に関しては、前89項ではお江戸日本橋の、後121項では各地のものや、次の画像の「山梨県甲州市塩山小屋敷・乾徳山(けんとくさん)恵林寺 製作者 株式会社 永瀬鐵工所」銘の川口鋳物師の作例も見ている。他にも前68項前91項前99項後116項後125項後127項など多くの項で登場しているのでご覧いただきたい。つづく。