前置き無しで早速。
さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/7 明治27年6月13日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03030205300)』から。
11画像目→10画像目。
小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月25日発『電受第311号』。

Mutsu
Tokio

It appears that arrival of 3,000 Japanese soldiers at 仁川 was decisive in changing attitude of 李鴻章 and convinced him of war in resisting Japanese action in Corea.
Most of foreign representatives have not yet grasped exact situation at this moment.
In the meantime Japan's vigorous and decisive action is necessary in order to give no time for European intervention and Chinese warlike preparations.
British Minister suggests that 王大臣 will be disposed to consider proposals if they are approached on a basis of the integrity of Corean territory and prevention of disturbances.
Telegraph your views regarding this suggestion.

Komura
3,000人の日本兵の仁川到着が、李鴻章の態度の変化を決定的にし、朝鮮における日本の行動を阻止する戦争を確信させたようだ。
いや、日本の追加派兵は、日本が撤兵しないなら清国人保護のため追加派兵すると言われ、更に5,500人が派遣される動きをキャッチしたからですが・・・。
つうか汪鳳藻、本当に清国の追加派兵について、李鴻章や本国政府から訓令受けたのかよ。(笑)
内政改革委員の件といい、追加派兵の件といい、清国政府あるいは李鴻章と、どういう連絡の取り方してんだよ。

で、大部分の外国代表者達は、まだ現在の正確な状況を把握していない。
差し当たって、ヨーロッパの干渉と中国の戦争準備に時間を全く与えないために、日本の主導的で決定的な行動が必要だ。
イギリス公使は、もし朝鮮の領土保全と騒乱防止を基本にした申し入れがなされれば、王大臣は提案を考慮するだろうと申し入れてきた。
この申し入れに対する貴下の見解を知らせて欲しい、と。

いや、清国に拒否された提議って、基本的に騒乱防止に関する件なんですが・・・。(笑)
領土保全ということになれば、日本側としては異論があろう筈もなく。
まぁ、「属邦保護」の話を含めて、清国側も異論がなければ、ですが。(笑)

さて、次からは26日付の史料に入っていきます。
まずは、混成旅団の動きから。
『明治27年 「秘密 日清朝事件 第5師団混成旅団報告綴」/混成旅団報告第7号(6月26日大島混成旅団長) 記載したる順序により諸隊仁川出発途中大なる困難を以て午後6時幕営地に到着す 竜山着後の給養は京城大隊に於て炊爨・・・(レファレンスコード:C06060160600)』より。

混成旅団報告第7号
6月24日

情報

一.本日、大同江視察の為め派遣ありし軍艦赤城号帰仁。
大同江附近極めて平穏。
平常に異なることなき旨、八重山艦長より報告あり。

一.在全州監衛髙嶌留学生電報。
6月21日午後7時、公使館落手のもの左の如し。

巡辺使今日帰途に就きたり。
一文銭万両火災者に下賜せらる。
泰仁の説諭懇加後おさまり帰る。
一.6月22日、渡辺巡査報告筆記左の如し。

今朝、沈参奉の妻(袁世凱の妾の母)来り、昨朝迄は何事のなかりしも、昨日正午頃より俄に様子異り、袁世凱は其婦女を仁川に赴かしめたり。
同氏の云ふ処に依るに、一昨日清兵平壌に着せりとの電報来りしかば、右平定不実入京することとならん。
然らば変事を生ずべしとの趣にて、斯くは避難せしめしなりと云ふ。

同人は、又渡辺巡査に勧めて其妻子を本日中に他所に移すべき旨を以てせり。
一.6月20日夜、某日本人の報告

清艦平安道鐵島来泊せりとの電報、閔泳純の許に本日達せりと云ふ。
一.全州髙島留学生電報左の如し(22日午后2時半公使館接手)

招討使午前9時帰途に着けり。
江華兵と清州兵(忠清道清州兵営の兵を指す)は暫らく残る。
一.嘗て開城府に出しありし士官斥候を、平壌迄前進せしむる目的を以て、其趣を同斥候に報ずる為め、22日午后公使館より使者1名を出発せしめたり。

一.一昨23日夜の報告に記載せし順序により諸隊仁川出発。
途中、大なる困難を以て午後6時当幕営地に到着す。
輸卒の人員、行李に比して少数なる為め、出発前兵站監に命じ人夫を雇ひ入れしむべき筈なりしが、韓人其命に従はざるものと見へ、一名をも雇入るること能はず。
已むを得ず、甚しきものにありては1駄分を2人にて運ばしむることとなり、之が為め大行李の到着は意外に遅延し、其全く到着せしは翌25日朝なりし。
茲に悲むべき一事は、途中に於て歩兵第11連隊第6中隊の現役兵1名、日射病を以て遂に死亡せり。

一.竜山着後の給養は、京城大隊に於て炊爨せしめ、翌25日昼食迄は京城より運搬して支給したり。

一.竜山附近幕営配置図は、別紙の如し(図面は略す)

右謹て報告仕候也

明治26年6月26日午前7時
混成旅団長 大島 義昌

参謀総長 熾仁親王 殿
・・・つうか、何で文書の途中がタイトルになってんのよ?
しかも、あんな長文ままで。(笑)
まぁ、ちゃんと混成旅団報告第7号って入ってるんで良いんですが。

で、肝心の中身ですが、それほど重要な話も無く。
最初の赤城の報告では、大同江附近は平穏。
次の高島留学生の電報は、3月11日のエントリーの4)まま。

その次の渡辺巡査の報告が結構面白いかな?
3月24日のエントリーでの能勢領事の報告を始め、袁世凱の家族を含めた清国人の帰国の話が出てましたが、その関連事項ですね。
で、これは20日に清国兵が平壌に到着したという電報が来たから、近いうちに入京することになるだろう。
そうなれば何らかの事変がおきるだろうという趣旨で避難させたものだ、と。

つうかさ、正式な清国の拒否回答は3月6日のエントリーで見たとおり6月22日。
それに対する日本側の遺憾表明と撤兵拒否は6月23日に送付されるわけで。
それなのに、3月24日のエントリーでも21日には帰国開始してるわけで、袁世凱の動き、早すぎ。
やる気なんじゃん。(笑)

次は、清の船が平安道の鐵島に来たという電報が、閔泳純の元に20日に届いた、と。
閔泳純ってのは、実際にこの時代にいる人なんですが、名前が本当に合っているかは不明。
つうか、「某日本人の報告」なんで、割と真偽も不明。(笑)

続いての高島留学生の報告は、これまでまだ出てきてませんが、22日に公使館の元に届いたもので、招討使も帰途に着いたけど、江華兵と清州兵は暫く残る、と。
まぁ、3月11日のエントリーでも予想されてた動きですけどね。

次は、前に開城まで斥候に出してた士官を平壌まで前進させるため、その斥候に向けて使者を発した、と。
まぁ、先ほども「20日に清国兵が平壌に到着したという電報が来た」という話がありましたからね。

その次が、仁川から京城近郊まで部隊を移した件の報告。
特に、荷物運びが大変だったようで。
結局、6月24日午前1時に出発して、完全に移動が終わったのは25日の朝、と。
丸一日以上ですな・・・。
で、その中で日射病で1人死亡。
竜山到着後は京城大隊にメシを炊かせ、25日の昼までは京城からの運搬により支給。
最後の図面は省略されてますが、清書版である『明治27年自6月至9月 「混成第9旅団 第5師団 報告」/混成旅団報告第7号(レファレンスコード:C06061758200)』の5画像目にありますので、御覧になりたい方はそちらをどうぞ。


ってことで、今日も長くなってしまいましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一) 日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二) 日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三) 日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四) 日清戦争開戦まで(三十四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



温泉最高!
ひゃっほう!

・・・。
さて。
外務大臣陸奥宗光と駐日ロシア公使ヒトロヴォの会談の様子の続きを。

前回は、日清両国委員による朝鮮政府への勧告の話と、日本側としては清国政府にこの提議するに当たって、日本政府は敢えて朝鮮の内政に関与する意思があったわけではないという話までをお伝えしました。
ここでヒトロヴォが口を挟みます。

ってことで、前回に引き続き、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/6 明治二七年六月二十五日外務省二於テ外務大臣ト露国公使ヒトロヴォー氏ト対話概要(レファレンスコード:B03030205200)』の続きを。

(是に於て露国公使が、右改革に関する両国委員任命の必要如何を問ひたるに答て外務大臣)
朝鮮の改革を為すに、日清両国に於て協同委員を設ざるべからざるの理由如何と云ふに、従来日本政府より清国政府に向ひ、朝鮮国に関しては協同の行動を為さんと謀りたるに、清国政府は常に全然同意を公言するにも拘はらず、未だ嘗て其公言を実行せざるのみならず、現に之に反対の意志あるが如く察せらるるを以て、日清両国間に於て判然確定する所あるに非ざれば、日本政府より朝鮮に向ひ一方の改革を勧告しつつあるに際し、清国政府は之に正反対の措置を勧告するが如き感なき能はず。
故に今回は、日本政府は双方一致の意志を以て朝鮮施政の改良を謀らんと決したり。
然れども、清国政府は断然日本政府の提案を拒みたるを以て、日本政府は已むを得ず独力を以て朝鮮政府に向ひ、日本と朝鮮との関係上将来安心し得るに足るの改革を施さんことを勧告せんとす。
尤も、日本政府の意志は、徹頭徹尾平和と友誼を以て朝鮮国の改良を謀るにあるなり。
ヒトロヴォが口を挟んで、改革に関する両国委員任命の必要性を問うわけです。
それに対して陸奥は、朝鮮の改革を行うのに、日清両国で共同委員を設けなければならない理由については、これまで日本政府から清国に向かって朝鮮について協調行動をしようと謀り、清国政府はいつも全く同意すると公言しながら、これまでその公言を実行した事が無いだけでなく、実際にはこれと反対の意志があるように見えるので、日清両国の間でハッキリと確定しなければ、日本が朝鮮に向かって一つの勧告をしているのに、清国政府はそれと正反対の措置を勧告するような事も無いとは言えない。

だから今回日本政府は、双方一致の意思によって朝鮮の施政改良を謀ろうと決めた。
しかし、清国政府は日本の提議を断然拒否したので、日本政府としてはやむを得ず単独で朝鮮政府に向かって、日本と朝鮮の関係上将来安心しうるに十分な改革を行う事を勧告しようとしている。
もっとも、日本政府の意志は、徹頭徹尾平和と友誼をもって朝鮮国の改良を図る事にある、と。

んじゃ続き。

露国公使
若し清国にして撤兵するときは、日本政府に於ても撤兵することに不同意なきや。
果して然らば、之を日本外務大臣の諾言として本国政府に通報して苦しからずや。
もし清国が撤兵するときは、日本政府も撤兵する事に不同意は無いか?
もしそうなら、それを日本外務大臣の承諾の言葉として、ロシア政府に伝えても良いか?と。

日本の一番の泣き所キタ━━━(゚∀゚≡(゚∀゚≡゚∀゚)≡゚∀゚)━━━!!!!!!!!!! (笑)
暴動鎮圧のために来た清国が撤兵する=暴動鎮圧ですから、天津条約に則って日本も撤兵しなければならないわけで。
出兵して何も得ることなく撤兵となると、今度は日本の国内問題として、兵力出兵の予算浪費等について議会とかマスコミに攻撃されちゃうわけですね。
逆に、何らかの成果が得られれば、日清戦争に至らなかった気はしないでも無いんですけどね。
さて、このピンチに対して陸奥は何と答えるんでしょうか。(笑)

外務大臣
其議は大体の主義に於ては異議なきが如しと雖ども、両国相対峙するの場合に於ては彼我互に猜疑を起し易く、而して其一たび起るときは之を解く事頗る難きは、独り日清両国に於けるのみならず、欧洲各強国に於ても往々亦た然りとす。
況んや、近来の歴史に徴すれば、右の如き猜疑は全く理由なきに非ざること判然なるに於てをや。
朝鮮の関係上、清国の信実如何に付ては、日本をして猜疑を抱かざるを得ざらしむるの事実甚だ多しとす。
清国は嘗て、軍艦を朝鮮に派出して強ひて其国王の父を捕へ、之を清国に送致せり。
又た清国は嘗て、朝鮮の内政に干与する爲め其革命を謀てんとしたるの風聞あり。
現に朝鮮王妃の親戚なる閔泳翊は、右の謀に与りたるを以て逃亡して香港に在るも亦事実なり。
又明治17年に於て清国は、日本兵の寡少なるに乗じて多数の兵を以て之を襲撃したるも事実なり。
且つ又今日に於ても、清国政府は日本に向ひ撤兵を促しつつあるにも拘はらず、現に朝鮮に2,000有余の兵を駐在せしむるの外、李鴻章麾下の兵5,500人は既に出師の準備を整へ、昨今続々之を派遣し、且つ丁汝昌は其艦隊を率ひて仁川に着したるも事実なり。
此等の事実あるを以て、清国は今単に撤兵するも、以て日本が一たび撤兵するに於ては、直ちに復た其兵を派出して朝鮮を其隷属たらしめむるの目的を達せんとするの野心なきを保するに足らざるなり。
而して、清国より出兵するには僅に13、4時を要するに過ぎざれども、日本より出兵するには40時間以上を費さざるを得ず。
故に、将来朝鮮の平和と秩序とを維持し、其独立国たるの体面を全ふせしむる為めには、勿論清国が撤兵したる上左の條件あるに於ては、日本も亦た均しく撤兵すべし。

第一 清国政府に於て、日清協同して朝鮮改革の完結を担当する事に同意したる場合

又は

第二 清国政府に於て若し其何等の理由の為め、右改革の処置に関し日本と協同することを拒むときは、日本が其独力を以て朝鮮の独立を維持し、及び其施政を改良せんと勉むるに当り、清国政府は直接にも間接にも之に干渉せざるとの保証を与へたる場合
清国が撤兵したら撤兵という事について、大体は異論は無いといえども、両国が対峙している場合にはお互いに猜疑が起きやすく、一回何か起きればそれを解く事が難しいのは、日清間だけでなくヨーロッパでもそうでしょ?と。
言うまでもなく、最近の歴史を見ても、そういった猜疑は全く理由がないわけではない事も判然としているし。
しかも、朝鮮との関係上において、清国が信じられるかどうかといえば、日本に猜疑を抱かせても仕方ない事実が甚だ多い。

清国は、壬午事変で大院君を捕縛して清国へ送った。
また、清国はかつて朝鮮の内政に関与するために、その革命を企てたという風聞もあった。
現に閔妃の親戚である閔泳翊は、その謀に参与したということで逃亡し、香港にいるのも事実だ、と。
閔泳翊云々って事は、甲午事変後の清国撤兵に閔泳翊が異を唱えた話の関係かな?
良く分からんけど、それと甲申事変でも清国は日本兵が少ない事に乗じて、多数の兵によってこれを襲撃したのも事実だ、と。

更に現在でも、清国は日本に向かって撤兵を促しつつあるにも係わらず、現に朝鮮に2,000名余りの兵を駐留させているほか、李鴻章配下の兵5,500名は既に出兵の準備を整え、昨今続々とこれを派遣し、かつ丁汝昌が艦隊を率いて仁川に到着したのも事実だ。
いや、実はまだ5,500人は出発してないんですが。(笑)

こういった事実があるため、清国は今単純に撤兵したとしても、日本が一度撤兵すれば直ぐにまた兵を派遣して朝鮮を隷属させる目的を達しようという野心が無い事を保証するのに不充分だ、と。
この辺、言い訳っぽい。(笑)

しかし、清国から出兵するには13~14時間もあれば到着するに過ぎないが、日本から出兵するには40時間以上かかる。
だから、将来の朝鮮の平和と秩序を維持し、朝鮮の独立国としての体面を全うさせるには、勿論清国が撤兵した上で、左の条件があれば、日本もまた同様に撤兵するだろう、と。
その条件は、清国政府が日清共同で朝鮮改革の完結を担当する事に同意した場合。
または、清国がもし何らかの理由によってその処置について日本との協同を拒否する場合には、日本が単独で朝鮮の独立維持や施政改良をしようと努力するに当たって、清国政府は直接的にも間接的にも干渉しないという保証を与えた場合の二つ。

おお、話が変わってきた。(笑)
いや、単純に清国政府が先に撤兵して、天津条約に基づいて日本も撤兵汁!と言われるのを避けようとしてるんでしょうけどね。

露国公使
日清間の談判に関する件は、今に暫く措き、露国も亦た朝鮮近隣の国なれば此迄既に協議に与かりて然るべきものなりと思考す。
DANGER!DANGER!
と、頭の中に、RAINBOWの"KILL THE KING"の歌い出しが流れるくらい危険。(笑)
ま、ロシアにとっては当然の要求ですが、日清共にそれだけは避けたいお話で。

外務大臣
朝鮮の独立に関しては、清国を除く外、他に異議ある国なしと信じ、且つ露国政府も全く日本の意見に同感なることは露国公使に於て従来屡々確言せられたりと記臆するを以て、日本政府は露国政府に協議するの必要なしと思考せり。
終に当り、露国公使に左の2件を確言す。

第一 日本政府は朝鮮に対し、其條約中に包含する同国独立を維持し、且つ同国の平和安寧を確実ならしめんとするの希望より生する意向の外、他の意向あることなし

第二 清国政府に於て何等の挙動あるも、日本政府は自ら交戦を挑まざるべし。
若し不幸にして交戦するに至りたるときは、日本は止むを得ず此に至りたるものと知るべし
朝鮮の独立について、清国以外には異議のある国は無いものと信じ、かつロシア政府も日本の意見に同感な事は、ヒトロヴォがこれまで屡々確言してきたと記憶するので、日本政府はロシア政府に協議する必要は無いと思考する。
無理矢理気味にロシアの攻撃をかわす陸奥。(笑)

で、最後にヒトロヴォに向かって確言。
一つは、日本政府は条約中に含まれている朝鮮独立を指示し、かつ朝鮮の平和安寧を確実にさせようという希望から生じる意向以外、他に意向は無い。
もう一つは、清国政府がどのような挙動をしても、日本政府は自分から交戦を挑むことは無い。
もし不幸にして交戦するに至った時は、日本はやむを得ず交戦するに至ったものと弁えて欲しい、と。


前回に続いてかなり長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一) 日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二) 日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三) 日清戦争開戦まで(三十三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



さて、ゴールデンウィークの真っ最中ですが、そんな中に更新してみるテスツ。
後半は某温泉に一泊しに行くんで、その前に、みたいな。(笑)
( ´H`)y-~~

いやね、史料っつっても仕事に使ってた公文書なわけで、仕事毎に簿冊が分かれてるってのは分かるんだけどね・・・。
分かるんだけどね・・・。(笑)
きっと、見つけられてないNo5とかNo7も、どっか別の簿冊に綴られてんだろうなぁ・・・。

さて、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/6 明治二七年六月二十五日外務省二於テ外務大臣ト露国公使ヒトロヴォー氏ト対話概要(レファレンスコード:B03030205200)』という、タイトルままのお話。
11画像目までは英文のもので、12画像目から日本語版が載っていますので、日本語版の方だけテキスト化しておきます。
それでは、1894年(明治27年)6月25日『外務省に於て外務大臣と露公使ヒトロヴォー氏と対話の概略』。
長いので、分割しながら。

露国公使
清国政府は、目下の形勢に関し露国の斡旋を乞ひたるを以て、露国政府の訓令に由り只今面会を求めたり。
抑も日清両国の兵は、目下朝鮮に於て開戦の意向を以て相ひ対峙す。
此場合に於て、露国政府は成るべくは開戦に至らざらしむるの目的を以て、日本政府に申込を為すを其義務なるべしと感ぜり。
尤も、清国政府が既に露国政府に告げたる所に拠れば、清国の出兵は全く朝鮮政府より暴動鎮定の依頼ありたるに由るものなり。
然るに、日本も亦た大兵を発し、今ま暴徒既に平定したるも、日本政府は朝鮮事件に関し3箇條の提案を出だし、其兵の撤去を肯ぜずとの旨なり。
且つ清国政府は、日本提案の第1條即ち日清両国兵を合せ以て東学党の暴動を鎮定せん云々に付ては、東学党は既に平定に帰したるを以て、該條の目的は已に遂げたりと回答し、同時に清国政府は、朝鮮の内政に干与するは到底出来ざることなりと宣言したるものの如し。
然るに日本政府は清国政府の意見を容れず、清国が撤兵する場合に於ても日本は尚ほ其撤兵を肯ぜざるべしと宣言したるものの如し。
然るに、陸奧氏は本件に付き委細を示されざるを以て、公使に於ては其政府へ何等の報告を為す能はず、其政府は本件に関する清国政府一方の主旨を知るのみにして、日本の本意を解する能はざるは其極めて遺憾とする所なり。
駐日ロシア公使のヒトロヴォが、清国からロシアに斡旋依頼があったため、ロシア政府の訓令により面会を求めたんですね。
で、日清両国は朝鮮で開戦する意向を持って対峙してるけど、ロシアはなるべく開戦に至らせない目的で、日本政府に申し込みを行うのを義務だと感じている、と。

で、清国政府がロシア政府に言ったのは、これまで見てきた顛末の概略。
ただ、「是を以て帝国政府に於て其兵を撤去するには、必ず将来該国の安寧静謐を保持し、政道其宜を得ることを保証するに足るの辨法を協定するに非されば決行し難く候。」という、大事な話が抜けてるようですが。(笑)
ま、清国側の言い分なんで、仕方ないですけどね。

その辺はヒトロヴォも考えてて、これまで陸奥は詳細を言ってないからロシア政府に何の報告もできず、ロシア政府は今回の件について清国だけの言い分だけを知ってるだけで、日本の本意が分からないのは遺憾だ、と。

つうか、2月11日のエントリーなんか見ても、李鴻章ってロシアの介入嫌ってた筈ですし、イギリスも嫌がると思うんだけどなぁ・・・。
どういう経緯でロシアに斡旋依頼という事になったのか、多少気になるところ。
3月4日のエントリーで見たように、在清ロシア公使だったカッシーニは、日清の交渉があった22日の前の17日に帰国してるので、代わりに清国に行ったウェベルが絡んで、3月26日のエントリーでも大鳥にロシアの代理公使が早期撤兵を主張する事になってんだろうなぁと予測してるんですが、果たして。

んじゃ、続き。

外務大臣
第一日本政府が其朝鮮に関する本意を沈黙に付したる理由を説明せんに、本政府が最初より取る所の主義は今日まで毫も変更することなきを以て、本件に付き殊更に露国公使に協議せず、且つ当初開陳したるが如く、右の主義は朝鮮をして独立の地位を維持せしめんと欲するに基づくものなり。
而して、此目的を達する為めには朝鮮に於て相当の勢力権衡を保ち、而して清国をして独り其威力を恣にせしめざることを必要とするものの如し。
而して帝国政府は常に此主義を守り、今日に至るまで敢て之を変更せず。
唯だ、今回の事件は一時特に此主義を確実にするの大必要を感ぜしむるのみ。
故に帝国政府は、成るべく清国との衝突を避けんと希望し、此希望を遂ぐるに足るの処置は其の正当なる以上は其種を問はず之を施さんと欲するものにして、日本出兵の如きは清国の非望を箝制して本件の平和の局を結ばんとするに外ならざるなり。
又た、東学党の暴動は、最初数万乱民の蜂起したるにありとのことにして、官軍も屡々敗北し、終に朝鮮政府をして清国の援兵を乞はしたるに至るまで危機の逼迫したる事実あるを以て観れば、清国兵未だ一丸を発せざるに先だち、右暴動早く既に鎮定したりと云ふが如きは甚だ疑ふべきのみならず、縦令ひ一時鎮定したるが如くなるも、日清撤兵後其再び蜂起するの恐なき能はず。
蓋し、日清両国共に朝に撤兵し夕に復た出兵せざるを得ざるの形勢あるは、朝鮮の国情上疑を容れざるものの如し。
故に日本政府に於ては、朝鮮将来の平和秩序に就き未だ幾分の保証を得ずして容易に撤兵するが如きは、朝鮮の為めのみならず日本の為めにも不得策なりと思惟せり。
隨て、日本政府は清国政府に向ひ両国協同の委員を命じ、朝鮮国将来の安寧を確実ならしむべき改革施行に付き朝鮮政府に勧告せしむべきことを提議せり。
尤も、清国政府に向ひ此提議を為すに於て、日本政府は敢て朝鮮の内政に干与するの意志あるに非ざるなり。
まず、日本政府が朝鮮に関して黙して語らないのは、最初から朝鮮の独立維持という方針が変わってないから、と。
その目的を達するには、朝鮮で相当の勢力均衡を保ち、清国が単独で威力を欲しいままにさせない事を必要とするようだ。
日本政府は常にその主義をとり、現在まで敢えて変更してこなかった。

ただ、今回の事件は特にその主義を確実にする必要を大きく感じただけで、だから日本政府はなるべく清国との衝突を避けようとし、その希望を遂げるのに十分な処置は、それが正当であれば手段を問わずに実施しようと思ってのもので、日本の出兵は清国の邪な欲求を束縛して、今回の一件の平和的解決を目指すものに外ならない。
割と、直球告白ですなぁ。

また、東学党の乱は最初数万人の乱民が蜂起し、官軍も屡々敗北して、最終的に朝鮮政府から清国の援助を求めるまで危機が逼迫した事実があるのを見れば、清国兵が未だに一発も撃たないうちにその暴動が既に鎮圧されたというのは信じがたいだけでなく、仮に一時鎮定したように見えても、日清の撤兵後は再び蜂起する恐れがある。
日清両国とも、朝に撤兵して夕方にはまた出兵せざるを得ない形勢があるのは、朝鮮の国情上疑いが無い、と。
何回も言いますが、全州和約が無い、或いは日本側に通知されていない状態では、当たり前の疑義なわけで。

ってことで日本政府としては、朝鮮の将来的平和や秩序について何らかの保証を得ずに簡単に撤兵するような事は、朝鮮のためだけではなく日本のためにも不得策だと考える。
だから日本政府は清国に両国共同の委員を任命して、朝鮮の将来的安寧を確実にする改革の施行について、朝鮮政府に勧告させる事を提議した、と。

つうか、天津条約の第2条での「両国均しく允す。朝鮮国王に勧め兵士を教練し、以て自ら治安を護するに足らしむ。」という前例。
昨年の4月5日のエントリーでは「伊藤総理大臣と清国公使汪鳳藻との面談の節に於て、既に日清両国相ひ提挈して以て朝鮮を保護すること必要なりとの点に関し互に幾分かの意見を交換」。
で、この時点ではまだ届いていませんが、2月15日のエントリーで李鴻章が「在京城公使の勢力を以て国王を説き、宜しく行政なり財政なり軍事なり助言勧告して隣邦の好しみを尽すは可なり。」と言ってるわけで。
更に昨年の4月11日のエントリーでは、陸奥が汪鳳藻に向かって、「依て先づ貴国政府と協議の上委員を派遣するか、或は別に貴政府より何か提出せらるべき案に賛同するか、何れにしても到底後日の患なしと十分安心を得る場合に至らざれば、容易に護衛の軍隊を撤回するに至り難きやも計られず」と、後顧の憂いを経つための代案があれば賛同しうる旨を伝えているわけで、頭っから拒否回答ってのは、やっぱり陸奥もその返事を「第一次絶交書」とか言っちゃうよなぁ、と。(笑)

尤も、日本側としては清国政府にこの提議するに当たって、日本政府は敢えて朝鮮の内政に関与する意思があったわけではない、と。
ええ。
「或は別に貴政府より何か提出せらるべき案に賛同するか」ですからねぇ。
まぁ、そもそも汪鳳藻が清国政府に伝えて無いっぽいですが。(笑)


ってところで、かなり中途半端な部分で区切りましたが、長くなりましたので今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一) 日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二) 日清戦争開戦まで(三十二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



今月、3回しか更新してねぇ・・・。(;´H`)y-~~
回顧するまでも無いような気もしますが、逆に数が少ないので今月の回顧録が書ける、みたいな。(笑)

< 2008年4月のエントリー >
冒頭に言ったとおり、今月はほぼ何もしてねぇ。

日清戦争開戦まで(三十)

安駉壽の内話。
閔泳駿の話やら、閔妃の話やら、袁世凱の話やら、改革派は日本兵の駐留を当てにしてたり。
感想を一言で言うと、甘えんな、と。(笑)


日清戦争開戦まで(三十一)

日本側は京城に軍を移動。
清国は東学党の残党狩りを朝鮮政府に要請。
袁世凱と閔泳駿は仲違い。
短い史料が多いエントリーですが、動きはかなり激しい。


日清戦争開戦まで(三十二)

大した史料も無い回なんですが、見つからなかった史料が全く別の簿冊で発見した回。
いやね、史料って言っても、元々はお仕事で使ってた公文書なわけで、連番じゃなくお仕事毎に綴るってのは当たり前なんですがね。
当たり前なんですがね・・・。(笑)


ってことで、こんなペースでやってたら、この話だけで子供が結婚するくらいの年齢になりそうだよなぁ・・・。(笑)
まぁ、仕事も落ち着いてきたことだし、もう少しペースアップすべく努力いたしますです、はい。
( ´H`)y-~~



まだバタバタしてて、テキスト起こしどころか史料読む暇すら中々無い昨今、如何お過ごしでしょうか。
( ´H`)y-~~

さて、日本側は全軍を京城に移動。
一方で、清国側も東学党の残党狩りを朝鮮政府に要請してたり、袁世凱が閔泳駿と仲違いしたり、結構動きも激しくなってたところまで見てきました。

今日最初の史料は『駐韓日本公使館記録2』から。
芝罘の伊集院領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月25日付『機密京第2号信』。

爾来、当地方清国軍艦并に陸兵等の挙動に付、一層注意致し居るも、当港は威海・旅順と間接の関係にて事実殊に認め難く、当道台には当初李帥の隨伴せしに付、如何の口気なるやを聞かん為め帰国を待受け往来致候も、当政府の決心并に出兵後朝鮮模様等は秘する様より寧ろ分り居ざるものの如し。
然も我国出兵の件に付ては稍々不満の意に有之候。
右の次第に付、一般の人気は自然平穏の方なりしが、百■岱并に四砲台は、工事の行き掛りとも候得共、兼て独国に注文致置きたる大砲24サンチメートル3門、15サンチメ―トル3門、53密里8門、40密里12門も本月初上海より遇順艦に搭載し、威海衛に廻到し、夫より利運にて直に当港へ運送し来り。
更に、据付方殊に取急ぎ、10日を出でず何れとも其工を終へ候趣。
又、弾薬運搬等軍備致居候。
其後天津より朝鮮へ可送達大砲9門、法国船にて威海に廻達せしも、其の已に転送せしや詳にせず。
而して、丁提督陳統領にも出韓の探聞に接し、其の筋に付事実確め中、本22日帝国千代田艦突然入港致し、経遠に提督旗を飜へし、超勇・広乙を率ひ已に仁川沖にて出遇ひ候趣に付、右は確実と認め不取敢及御電報置き候も、後にて丁提督尚ほ威海に在り、林統領之を率ひ、軍艦は鎮遠、超勇、広丙たる事を探聞致候。
又、陳統領には芝罘より2営、張統領には3営を率ひ、目下一令の下に出韓の準備整ひ居り、愈々両統領にて出韓候節は、東山縣より1営、栄城縣より2営募墊候手筈に相成居候。
且つ、各軍艦は何時にても出韓の予意致し居候趣。
是等の事実は、昨今探聞に掛り急電可仕候処、析柄当港と済南府間電信線路に故障起り候為め、当港より本邦北京及び京城への電信は不通と相成り、且つ一週間後にあらざれば修繕覚束なきとの事同局員より聞及び候。
右は当政府の政略なるや否やは探偵中に候も、此際斯る通信の不便亦不得止次第に候。
当時威海にある軍艦は、定遠、経遠、来遠、威遠、広乙、鎮辺、広済なり。
致遠、済遠は、旅順にて工事尤も取急ぎ居候も、来月ならでは修繕し終らざる由。
又、朝鮮より支那に向け、続々帰国致し、22日鎮東にて700余名、翌23日肥後丸にて50名計。
是日千代田艦は佐世保に向け出帆せり。
又24日、平遠にて袁公使家族は当港に帰着せり。
兼て備へたる元と三井物産会社跡に仮便致し居候。
今般当政府出兵せる同予意の厳備なるは、何程迄の決心なるや知る能はざるも、要するに一朝事あるときは我が駐兵に劣らざるを期するものと為考候。
右は其確実と認め候もの、一括及御報告候也。
んー、分かりづらい報告だねぇ・・・。(笑)

清国の挙動については一層注意してたけど、芝罘港は威海衛や旅順港と間接的な関係なので特に報告すべき事項も無く、李帥の帰国を待ってどんな口ぶりか聞こうと思ってたけど、清国政府の心づもりや出兵後の朝鮮の様子などについては、秘密にしてるというより寧ろ分からないようで、日本の出兵についてはやや不満だ、と。
ってかんじで、一般の雰囲気も当然平穏な方なんだけど、百■岱と四砲台では、工期の関係かもしれないけど、以前ドイツに注文してた各砲が上海→威海衛経由で運ばれてきて、据え付け工事も10日も経たずに完工。
弾薬運搬等の軍備もしている、と。

で、その後天津から朝鮮へ送られる大砲が9門、フランス船で威海衛に輸送されてきたけど、それが既に朝鮮に転送されたかは分からない。
ただ、丁提督や陳統領が朝鮮に行くという情報を受け、その筋に事実確認を行ってる最中、6月22日に千代田が突然入港し、仁川沖で提督旗を掲げた経遠が超勇・広乙を率いてるのと出会ったってことなので、確実と認めて取りあえず電報しておいたけど、後になって丁提督はまだ威海衛におり、林統領が率いる鎮遠、超勇、広丙だったと聞いた。

また、陳統領は芝罘から2営、張統領は3営を率いて、現在命令が下れば直ぐ朝鮮へ出発する準備が整っており、正に両人が出発するときには、更に東山縣から1営、栄城縣から2営を集める手筈になっており、各軍艦もいつでも出発できるようにしてる。

以上の事実は、最近探聞したので急電しようとしたけど、芝罘と済南府間の電信に故障があって日本・北京・京城への電信が不通となり、修繕も1週間後でなければ覚束ないという事を聞いた。
この電信不通が清国政府の政略なのかどうかは調査中だけど、この時期このような通信の不便はやむを得ない事。

現在威海衛にある軍艦は、定遠、経遠、来遠、威遠、広乙、鎮辺、広済。
致遠、済遠は旅順で修理を急いでるけど、7月でなければ修繕し終わらないとの事。

また、3月24日のエントリーでも仁川の能勢領事が述べていたように、清国人は朝鮮から清国へ続々帰国しており、22日には700名ほど、23日には50名ほどが帰国。
24日には平遠で袁世凱の家族が到着。
千代田は23日に佐世保へ向け出港。
ってことで、今回清国政府の出兵の準備が、どこまでの決心によるものかは知る事が出来ないが、要するに何かあれば日本の朝鮮駐留兵に劣らない事を期しているものと考える、と。
やはり、一両日程度で清国兵は仁川に着けるんでしょうねぇ・・・。

さて、続いてはアジア歴史資料センターの史料から。
『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の23画像目。
北京の小村から陸奥への、1894年(明治27年)6月25日発『電受第308号』より。

Mutsu
Tokio

(9) All your telegrams to no. 12 received.
Telegraph for my information disposition of treaty powers especially Great Britain, Russia, France about the attitude of Japan toward Corea and also telegraph from time to time every change of the disposition.

Otori
No12までの総ての貴下の電文を受け取った。
当方の知識のために、朝鮮に対する日本の態度について、条約国、特にイギリス、ロシア、フランスの意向を送り、また、その意向のいかなる変化についてもその都度知らせてよ、と。
まぁ、現場の公使としては当然の要求。

で、3月17日のエントリーで6号まで受け取った話が出ていましたが、その後のNo7が不明。
No8は3月7日のエントリーの1894年(明治27年)6月22日発『電送第236号』。
No9は3月17日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日発『電送第240号』。
No10と11は、3月18日のエントリーの1894年(明治27年)6月23日発『電送第242号』と1894年(明治27年)6月23日発『電送第243号』。
No12も不明、というところまで書いたところで、No12発見。

アジア歴史資料センターの『日清韓交渉事件ノ際二於ケル軍用電線架設関係雑件/1.軍用電信線架設ノ件(レファレンスコード:B07090434500)』の4画像目左側。
1894年(明治27年)6月24日発『電送第244号』。

Otori
Seoul

12 Telegraph line between 京城 and 釜山浦 will be repaired quickest by military engineers commencing from both ends.
Use your discretion whether the work is done as under direct control of Japanese Government or in the form of request of Corean in compliance with which Japanese Government furnished engineers and necessaries, which will be sent soon.
Consult with 大島 who will receive instructions on the subject.
Arrange for commencing repairs from 釜山浦 end.

Mutsu
京釜間の電信線は、陸軍の技術者により両端から始められ、迅速に修理される筈だ。
その作業が直接日本政府の管理下で行われるか、朝鮮政府の依頼に応じて日本政府が間もなく送られるだろう技術者と必需品を提供する形式にするかは、貴下の裁量に任せる。
大島がその件に関する命令を受けるはずなので、彼と相談すること。
釜山の方で修繕を始める用意をすること、と。

つうか、この史料の右側とか2画像目とか見ると、大鳥から修繕用の材料や技術者派遣の要請が来てたのね・・・。
いや、3月6日のエントリーで「「今朝電信にて申上候」の電信が見つからないわけですが、京城・釜山間の電信線の修復に関する電信のようで。」とか言ってたヤツじゃん・・・。
_| ̄|○
こんなにバラバラだと、探すの大変じゃんかよぉ!(笑)


ってところで、長くなりましたが今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一) 日清戦争開戦まで(三十一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



ただ忙しいだけじゃなく、会社のパソコンは壊れるわ、リズムは掴めないわで大変・・・。
(;´H`)y-~~

さて。
今日はまず、アジア歴史資料センターの『韓国内政改革ニ関スル交渉雑件 第一巻/1 明治27年6月8日から1894〔明治27〕年6月30日(レファレンスコード:B03050308100)』の21画像目。
仁川の能勢領事から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第300号』を。

Mutsu
Tokio

(2) All Japanese troops will leave for 京城 1 a.m. 六月二十四日.

Nosse
3月21日のエントリーで、仁川に駐留していた日本軍が京城に向かう事になってましたが、24日の午前1時に京城に向けて出発予定、と。
まぁ、目立たないように夜間行軍って事でしょうか。
つうか、3月21日のエントリーで「6月24日午前1時出発に臨み」って大島が書いてたね・・・。_| ̄|○

続いて、同じく22画像目。
大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第303号』。

Mutsu
Tokio

(7) According to secret information it appears that 閔泳駿 is now in bad terms with 袁世凱, and 金嘉鎮 and several others of Japanese party have been appointed officials.
Men desiring entry of 大院君 into Government are gradually increasing.

Otori
秘密情報によれば、閔泳駿は現在袁世凱と不仲となったようで、金嘉鎮及びその他何人かの親日派が官吏に任命されたという。
大院君の入闕を希望する人が、次第に増えている、と。
3月24日のエントリーの大鳥から上野領事への1894年(明治27年)6月24日付『機密105号』や前回の1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』などで見られた話ですね。

前回の1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』は接受日が7月4日ですので、それよりは10日ほど先に着いてる事になるのか。

さて、次からは6月25日の史料になっていきます。
まずは、『駐韓日本公使館記録1』から。
1894年(明治27年)6月25日の報告。

5月22日(我6月20日)袁世凱より朝鮮政府に送りたる機密書簡

敬密啓者頃接葉大師電開頃接史丞探報沿道地方官與雲史丞意見均合准全羅道今聞雲前往古阜一帯百計阻攔不慮匪而慮倭并言匪已散蓋其中顕有情弊等語地方官既不協又無嚮導良莠不齋勦撫無従措手祈兄転達韓廷迅飭辨理并催韓進勦云准此応即備函請煩貴政府速飭各官前往進勦以期一律粛清免留餘孼致復萌起甲并飭該道地方官遇有我処探軍妥派嚮導勿更延阻爲要專此密布敬頌
勛安維祈電照不既


探報者云 此書翰、袁世凱より議政府に抵したるものなり。
東学已に散ず。
而聶帥前進剿滅を期せんと欲す。
故に迎接使の切に進む勿れと阻擋す。
然るに、聶帥は其言を信ぜず、雲史丞を送り兵を率ひて往かしむるに至る。
実に勦討すべきものなきなり。
此を以て迎接使書を政府に送る。
再昨日、閔泳駿清館に進み、其余徒の慮るに足らざるを以て、速に清兵撤還を請ふ。
袁氏其言を信せず。
因循の答を為し、敢て決する所あらざりし。
葉志超からの電報によれば、雲史丞の探報では沿道の地方官と雲史丞の意見は、全羅道を目標とする事について一致してたけど、今聞いたところによれば、雲史丞は匪賊対策ではなく日本対策のために先に古阜辺りに行っており、匪賊は既に解散したって言ってたけど、その中に情弊とか言うヤツもいるし、地方官は協力せず、道案内もせず、良民と匪賊の区別もせず、討伐もせず、慰撫もしない、かな?
だから葉さんから朝鮮政府に速やかに伝え、朝鮮は軍隊を出して彼等を討伐させて下さいと言ってる。
ってことで、秘密裏に朝鮮は速やかに各官吏に命令して、匪賊を討伐させて残党が再び蜂起しないようにし、同時に地方官にも道案内させるように言え、と。

3月14日のエントリーでも、袁世凱が韓国に匪賊を剿滅させろと言われて、それを朝鮮政府に伝えてましたが、これもその一環なのかな?

で、探報者が言うには、東学党は既に逃げ散ったけど、聶士成は更に前進して掃滅しようとしたので迎接使が進まないでくれと邪魔する。
しかし、聶士成はそれを聞き入れずに雲史丞を古阜に行かせた。
でもやっぱり掃討すべき賊が居ない。
ってことで迎接使は朝鮮政府に書簡を送る。

閔泳駿は袁世凱の処に行って、残党は心配するほどじゃないので、速やかに撤兵してくれと述べたけど、袁世凱はそれを聞き入れず、歯切れの悪い答えをして敢えて何も決めなかった、と。
つうか、朝鮮側も朝鮮側で、残党対策として討伐するなり慰撫するなり、何かしろよと思うわけですが。(笑)

続いての史料は、『駐韓日本公使館記録2』から、元山の上野領事から大鳥公使への1894年(明治27年)6月25日付『機密第7号』。

本港へは、是迄帝国軍艦の繋泊するもの無之候処、機密第6号信を以て報上致置候通り、清国兵員の風評追々流布致し、殊に露国軍艦来航の説も有之。
此際一隻の保護艦も無之ては、大に我居留人民の感情にも相関候間、帝国臣民保護として急に一隻丈けにても派遣相成候様致度候。
且つ、此度我国陸兵の発送せらるるは、専ら在韓帝国臣民の安全を保つ為めの主意なる事は、既に世間の公認致居候事なれば、当地へも釜山同様相当の兵員派遣相成候様致度と存候。
尤も、右等の事は既に夫々決定致居候義とは推考被致候へ共、当港の如き通信不便の地方に在ては殊更に人民の感情も強く、隨て兵員派遣等の事は最も渇望致居候。
此に付、前情不取敢上申致置候。
悤々敬具
「機密第6号信」は、3月26日のエントリーで見ました。
ってことで、清国の駐留の噂とロシア軍艦が来る噂があるけど、元山港には1隻も日本の軍艦が居ないので、元山の居留民の感情にも係わってくるから、日本人居留民保護用に1隻だけでも送ってくれ。
ついでに、日本兵が朝鮮に送られたのは日本人居留民保護のためだってのは既に世間の公認を得てるんだから、元山にも釜山と同様に相当数の兵を送って欲しい、と。

当時の開港地は、仁川・釜山・元山の3港。
仁川や釜山に比べたら、重要性については一段落ちるしなぁ・・・。


ってところで、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)
日清戦争開戦まで(三十)



久しぶりの更新です。
会社の部署の異動があって忙しく、エンコリにすら中々顔を出せない日々が続いてまして。
もう暫くの間は、更新期間が空くかも知れませんが、御容赦の程を。

それでは、今日はアジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/9 明治27年6月19日から明治27年7月3日(レファレンスコード:B03030205500)』の21画像目から。
1894年(明治27年)6月24日付『発第85号』。
長いので、分割しながら。

安駉壽氏の内話

本月20日同氏来館。
内話の要点を摘挙すれば、日本兵入城已来我政府の驚擾者甚敷、諸大臣拱手して策なく、独り閔泳駿は局面に当りて心配すれども、是とても好案なければ、専ら袁世凱に依頼し其説を聴て運動する迄なり。
又諸大臣は、日本兵入城の罪を外務督弁の不行届に帰するを以て、同協辨は病後に拘はらず、雨天を犯して奔走するは誠に気の毒の次第なり。
非職大臣中、金炳始・金宏集の2人は人物と称せらるるも、矢張他の老大臣等と同様に更に口を開かず、諸閔氏は本と泳駿と不中なれば、目下の困難を傍観して敢て之を助けず、却て其失錯を喜ぶものの如し。
政府外の有志者は勿論、現職に在る官吏と雖ども、日本兵の大挙入韓は我国改革の時機を促せりと雀躍し、平生閔氏に結托の人と雖ども、窃に保身の覚悟を為し、且つ内実皆閔氏に離心せり。
又改革希望派の人々は三々五々相集りて相談を為せども、之を発するの勇気に乏きと、之を引率する統領なきに苦めり。
大院君は最も之を統率するに適当の人物なりと雖ども、今日の場合はまだ閔氏を憚り、其門に出入して協議する者なきは勿論、院君も亦同志を引て事を謀るの機会を得ざるなり。
大君主陛下には時務の不可を悟られざるにあらず、去乍王妃殿下は左右を離れられずして、機密に参与せらるる趣。
到底御英断の御処分あること能はざる次第なり。
要之挙朝策略もなく、考案もなく、一に袁世凱に依頼し、いざと云ふときは難を避するの支度を為すに過ぎざるなり。

今日我政府は取捨去就に迷ひ居る要点は、一は日本兵の入城は本と清兵の来援ありしが為め興りしことなれば、清兵さへ引去るときは日兵も直ちに引去るべし。
故に清兵を撤回せしむるは急務なりと云ふこと。
他の一は、日兵の大挙して来るは、必らず他の意志あることなれば、若し清兵退去せば其機に乗じて発すべし。
故に清兵を引て内を守るは急務なりとの二説相対峙して、未だ決せざる姿なり。
第一説は外国事情に通する者之を唱ひ、第二説は袁世凱の主唱に出で、而して朝官の多数は第二説を是とするが如し。
抑々近年我政府が執りたる対日本方略は、総て袁世凱の方寸中に出で、一事件の興る毎に同氏に就いて相談を受けたりしが、袁氏の勧告は毎事其図に中らず、却て我国をして其弊を受けしめたり。
袁氏は、事の初めに於ては我政府に教唆して日本の請求を抗拒せしめ、事の敗るるに及んでは、手を収めて知らぬ顔するは其常なり。
斯く多年我政府は袁氏の為めに誤られたるにも懲戒せず、今日猶ほ毎事袁氏に依頼せんとする傾きあるが故に、過日余は閔泳駿に向て其不可を極諫したれども、毫も其耳に入らず、実に手の附け様なき状況なり。
何卒此上は、外兵の余威を借りて内部の改革を行ふより外に手段なきに付、貴国は今暫く其兵を駐留せしめられんこと、内心希望せり云々。

右の内話は、能く目下の事情を穿ちたる者と認められ候に付、特に報告中に■■申候。
安駉壽といえば、所謂開化派・進歩派の人であり、1898年の「高宗譲位上疏未遂事件」を始め結構頻出な人です。
その安駉壽が日本公使館を6月20日に訪れた、と。

その要旨は、日本兵の入城したけど諸大臣に策もなく、ただ閔泳駿だけがその局面に当って心配してるけど、やはり良い案は無いため、専ら袁世凱に依頼して彼の言う事に従おうと運動してるだけ。
諸大臣は、日本兵の入城の罪を外務督辨の趙秉稷の不行き届きのせいだとしてるので、趙秉稷は病気の後にも関わらず雨天の中奔走してるのはマジ気の毒、と。
確かに趙秉稷カワイソスwww

非職大臣の中で、金炳始と金宏集の2人は有能な人物を言われてるけど、やはり他の老大臣と同様に口を開かず、諸閔氏は元々閔泳駿とは不仲なので、傍観して閔泳駿を助けるような事はせず、かえってその失策を喜んでいるようだ、と。
閔氏にも色々あるのねぇ・・・。
つうか、何故みんな傍観者気取りなんだ?(笑)

政府外の有識者は勿論、現職官吏でも日本の入韓について朝鮮改革の時機が来たと小躍りし、普段閔氏と結託している人でも密かに保身の方向に走って、内実も皆閔氏から心が離れている。
改革希望派の人々は、三々五々集まって相談してるけど、改革を言う勇気が乏しいのとリーダー不在に苦しんでる。
大院君がそれを率いるのに適当な人物ではあるけど、現在はまだ閔氏を憚って大院君の元を訪れて協議する者がいないのは勿論、大院君も同志を率いて謀議するチャンスを得ていない、と。
高宗は現状じゃ駄目だと悟ってないわけではないけど、閔妃が常に側について離れず、機密に参与しているようなので、到底英断の処分は行えないという状況。
ま、開化派・進歩派の人の話なので、この辺は話半分に聞いておきましょう。

ってことで、結局政府には何の策略もアイデアも無く、まずは袁世凱にを頼り、いざというときには難を避ける準備をしているに過ぎない、と。

現在朝鮮政府がどちらを取るか迷っている点は、まず一つは、日本が来たのは清国が来たからなんだから、清国が撤兵すれば日本も撤兵するだろうってことで、まずは清国を撤兵させるのが急務だとする説。
もう一つは、日本が大挙として来たのは、必ず他の目的があるんだろうから、もし清国が撤兵すればその機会に乗じて事を起こすだろうってことで、清国兵で内を守るのが急務だという説。
以上の2説が対峙して、未だに決まらない状態。
清国の撤兵を急務とするの、外国の事情に通じた者で、清国兵の守護が急務だというのは袁世凱の主唱。
で、官吏の多数も清国兵の守護が急務という説を是としている、と。

最近朝鮮政府がとってきた対日本戦略は、全て袁世凱の胸の内から出たもので、一つ事件が起きるたびに袁世凱に相談してきたけど、袁世凱の勧告は毎回的を外し、かえって朝鮮に弊害を与えてきた。
袁世凱は、事の最初は朝鮮政府を教唆して日本の請求を拒絶させ、それが失敗すると手を収めて知らない顔をするのが常道。
つうか、朝鮮政府も学習しろよ。(笑)

そのように長年袁世凱のせいで失敗してきたにも係わらず、現在でも何事も袁世凱に頼る傾向があるので、先日私は閔泳駿に向かって言葉を尽くして厳しく諫めたんだけど、少しも聞く耳を持たず、実に手の付けようが無い有様なので、こうなったら外兵の威を借りて内部の改革を行うほかに手段が無いため、日本はもう少し兵を駐留させることを内心希望している、と。

これ以降の流れについて、この辺から話が出てくるんですね。

んじゃ、続き。

袁・閔両氏俄に隔絶を生じたるに付詳報

袁・閔両氏は、久く相結托して事を行ひ、特に今回の援兵は専ら両氏の相談に依て成功したる処、清兵の着韓に引続き我大兵の入韓したるが為め、両氏の計画全く齟齬し、今や幾んど進退維谷の苦境に迫りたりと評するも正鵠を失はざるが如し。
然るに、5、6日前の事とかや、閔泳駿氏が清館を訪問したる際、袁氏は頻りに清兵入衛の談を促し、一隊を派して京城外義州路の要害を守らしめ、一隊は漢江沿岸の要処に置き、残兵を以て城内各処を守らしむ可きに付、必要の処々は貴方より指示されたしと相迫り候処、閔氏始めより清兵撤回の請求を申出でんとする際、案外の談合にて返答に窮し、拙者は軍事に諳んぜざれば何処を守り何処を固むべきや更に相分らず。
其辺は韓圭・(咼の上にト)に御尋ね下されたしと相答候処、袁氏は其色を見て大に怒り、是迄汝の如き小人と事を謀りたるは余の失錯なりと罵り、逐出すが如くにして之を返したるより、閔氏大に恐懼を懐き夫より俄に其思考を転じたるものにや、本月22日已来、平生彼に反対せる金嘉鎮氏を始めとして、2、3の日本派の人を採用し、我国に依頼せんとの意向を相示したり。
3月13日のエントリー3月24日のエントリー等で出ていた、閔泳駿と袁世凱の仲違い&閔泳駿がヒッキーになった話の詳細。

5~6日前に閔泳駿が袁世凱のところを訪問した際、袁世凱からしきりに清国兵で朝鮮を守備する話が出、どこを守らせれば良いか指示を出せと迫ったんですが、その時には閔泳駿は清国の撤兵請求を申し出ようとしていたので、返事に窮し、「ウリ、軍事の事は分からないから、どこを守ってどこを固めるかは更に分からないニダ。韓圭・(咼の上にト)に聞いて欲しいニダ」と答えたところ、袁世凱激怒。
「これまでお前のような小人と謀議してきたのは、儂の失策だったアル!」と罵って追い出すように帰したため、閔泳駿ビビリまくり。
で、急に考えを変えたようで、22日以来、普段から閔泳駿に反対している金嘉鎮を始め、2~3人の日本派を採用して、日本に擦り寄る意向を見せ始めた、と。
だから、変わり身早すぎだって。(笑)

政府改革派の運動

今般我兵入韓して韓廷に大驚動を与へたるを好時機として、平生改革を希望する人々は盛に運動を初め、其機漸く熟したるが如くに伝聞せり。
其人々は、金嘉鎮・趙羲淵・権永鎮・兪吉濬・金鶴羽・安駉壽・洪鍾宇等にして、先づ閔氏を退け、大院君を総理に載き、政事を根本より改革せんとする計画なりと云へり。
依て該派の人々は、日本兵の一日も永く滞陣するを希望し、其撤回前に改革を決行したしと目下頻りに事功を急ぎ居ると云ふ。

右及具報候也。
ってことで、日本の入韓が朝鮮政府に大きな驚きを与えたのをチャンスに、普段改革を希望している人々は盛んに運動を始め、その機が熟したと聞いている。
その人々は、金嘉鎮・趙羲淵・権永鎮・兪吉濬・金鶴羽・安駉壽・洪鍾宇等であり、まずは閔氏を退けて大院君を総理にし、政治の抜本的改革をする計画だという。
そのためそれらの派の人々は、日本兵が一日も長く滞陣することを希望し、その撤兵前に改革を決行したいと現在しきりに効果を上げようと急いでいるという、と。
相変わらず、他人頼りの迷惑な奴らですなぁ。


長くなりましたが、ここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
日清戦争開戦まで(四)
日清戦争開戦まで(五)
日清戦争開戦まで(六)
日清戦争開戦まで(七)
日清戦争開戦まで(八)
日清戦争開戦まで(九)
日清戦争開戦まで(十)
日清戦争開戦まで(十一)
日清戦争開戦まで(十二)
日清戦争開戦まで(十三)
日清戦争開戦まで(十四)
日清戦争開戦まで(十五)
日清戦争開戦まで(十六)
日清戦争開戦まで(十七)
日清戦争開戦まで(十八)
日清戦争開戦まで(十九)
日清戦争開戦まで(二十)
日清戦争開戦まで(二十一)
日清戦争開戦まで(二十二)
日清戦争開戦まで(二十三)
日清戦争開戦まで(二十四)
日清戦争開戦まで(二十五)
日清戦争開戦まで(二十六)
日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)
日清戦争開戦まで(二十九)



概略として分かっている事でも、細かく調べていくと新しい発見があったり。
特に、この頃の安定していない通信状況の中では、発着日の関係は、非常に重要だなと思います。
つうか、素直に京釜電信線、修繕しとけばねぇ・・・。
( ´H`)y-~~

< 2008年3月のエントリー >
今月は、先月と比較して英文史料や漢文史料が少なかった気がする。
多少楽だった感じ。
このまま行きたい。(笑)

日清戦争開戦まで(十六)

小村寿太郎と清国の総署大臣等との会談筆記。
日本の提議に対する回答督促です。
この時点の清国側の対応は、李鴻章の判断に従ってる形なのかな?
かなり薄味なエントリー。


日清戦争開戦まで(十七)

英・独・露・仏の各国の意向もある中で、李鴻章の動き。
ちょっと情報収集不足の感もありますがね。
一方で、日本側は清国の拒否回答に伴う出兵準備を進め、関連する外交面での動きが活発化してきます。


日清戦争開戦まで(十八)

これまでの経緯が、「半公信」によって大鳥に届けられます。
というか、簡略にまとまってるので、それだけで価値あり。(笑)
一方で、清国出兵の噂が出てきます。


日清戦争開戦まで(十九)

もう一つの「半公信」によって、特に京釜間の電信修繕について尽力しろという訓令が出ます。
一方で、清国は正式に日本の提議を拒否。
これに対して、日本もすぐさま遺憾表明と将来的な保証が無い限り撤兵できない旨を回答。
焦臭くなってきました。


日清戦争開戦まで(二十)

清国の拒否回答と増派の報告を受けて、日本側は兵力を京城へ移動。
また、京釜間の電信修繕について更に訓令が下り、朝鮮政府が回答を引き延ばすようなら、日本陸軍で工事してその旨を朝鮮政府に伝えろ、と。
一方大鳥公使は、「日清戦争開戦まで(十)」で見た朝鮮政府のマズイ発言についてすかさずツッコミ。


朝鮮国有森林未墾地及森林産物特別処分令に依る森林の縁故者及木材業者の資格

今月のエントリーで、唯一日清戦争関連ではない話。
朝鮮国有森林未墾地及森林産物特別処分令」中の、「縁故者」及び「木材業者」についての規定。
国有森林を「無料」で借りる事のできる対象者は、明確に寺の所持であることが分かる寺と、入会慣行がある者と、森林法に基づく地籍届を行わなかった所有者と、森林法施行前に適法に占有した森林山野の所有者。
ちゃんと法的フォローも入ってるわけで。( ´H`)y-~~


日清戦争開戦まで(二十一)

高島留学生による全羅道近辺の状況報告が主。
いよいよ、招討使や巡辺使の軍も撤収するお話に。
つうか、やっぱり鎮定されたのに居座る清国の方が、名分が無い気がしますがねぇ。(笑)


日清戦争開戦まで(二十二)

宮中からの情報とされる報告が、信憑性に薄いと言われるだけあってそれなりに面白い。(笑)
要するに、今日我国の禍害消滅せしは専ぱら日本兵入城の力に由れるなり。」がイヤらしい部分。
つうか、量の割にかなり内容は薄い。

日清戦争開戦まで(二十三)

袁世凱と閔泳駿の関係が切れ、且つ閔泳駿がヒッキーになっちゃった話が秀逸。(笑)
この後の史料においても度々出てくる事になります。
そして、見事に掌を返す様がまた素敵。(笑)


日清戦争開戦まで(二十四)

袁世凱フィルター発動。(笑)
「その時日本は韓国を併呑する陰謀を敢行できないのは、みんな知ってる事だ」って、重要な部分を抜かす素敵さ。
同じ電報で、「日本に撤兵を迫るのではなく、韓国に匪賊を剿滅しろと言え」という話は興味深いです。
まぁ、その意図までは推測しきれませんが。


日清戦争開戦まで(二十五)

大鳥のツッコミに対する、朝鮮の回答になってない回答。(笑)
困るといつもコレだもんなぁ。
一方、日本は正式に京城に向けて2,000人増派する事に決定。


日清戦争開戦まで(二十六)

電信の不通によって錯綜する情報。
文書の着日の前後によって、話が繋がってない部分が出てきてます。


日清戦争開戦まで(二十七)

この回のエントリーは、混成旅団報告から。
これまでは外交文書を中心として見てきましたが、兵力を京城に集中させる話が出てきましたので、そろそろ混成旅団の動きも取り上げなければ、と。
まぁ、この時点ではまだ大したことの無い内容。


日清戦争開戦まで(二十八)

この回でも袁世凱と閔泳駿の決裂の話が見られます。
また、仁川からは続々清国人が帰国。
それに伴って、仁川港中立問題が起き始める形。


日清戦争開戦まで(二十九)

日本軍の移動。
ロシア臨時代理公使の撤兵勧告。
イギリスの動き等、徐々に逼迫していく情勢ですが、それだけに笑い所が無いのが難点。
いや、お前は何を求めてるんだとつっこまれても困るんですが。(笑)


ってことで、もっと面白い話が多かったと思っていたら、割とそうでもなく、真面目な話が続いてた月でしたねぇ・・・。
ツマンネ。(笑)




仕事イソガシス・・・。_| ̄|○
ってことで、ちょいと更新滞り気味になると思いますが、乞う御容赦。
ハァ・・・。

さて、日本の提案に対する清国側の拒否回答&撤兵要求と、それに対する日本の遺憾表明&撤兵拒否回答から、非常に焦臭い史料が続いております。
もっとも、閔泳駿なんかが笑いのスパイスを振りまいてくれてはいるんですが。
あまりシリアスになり過ぎると「ボクが」飽きてくるんで、丁度良いタイミングでやらかしてくれてると思います。(笑)

さて、今日最初の史料も『駐韓日本公使館記録2』から見ていきたいと思います。
今日最初は、元山の上野二等領事から大鳥公使への、1894年(明治27年)6月24日付『機密第6号』から。

清国兵員を咸鏡道北部に派遣云々の風説

東学党一事に付ては、咸鏡・江原両道共に是迄至極平穏にして、民間の評説も余り無之候処、昨今に至て当元山市韓人の間に専ら風説有之候は、今般清国兵員を全羅・忠清両道に発送したるを機会とし、清国政府は当国政府と協議の上当咸鏡道の北青より以北、慶興までの間に当る要害の場処二、三ヶ所を撰定し、兵営を築造し、之れに清兵を分派し以て露国兵の侵入を防禦し、永遠の安全を謀る事に密約相整たりとの説頻りに流布致候。
又た、一説には露国兵も公使の護衛を名とし、浦鹽斯徳より陸路慶興を経て京城に派出せしむるに際し、慶興近辺に兵隊を屯在せしめ、尚ほ当元山港へも軍艦を定繋せしめ、万一の用に備ふべし。
而して右軍艦は、不日当港に向け来航すべしとの取沙汰有之候、右両説共に其出処相分兼ね、固より信を置くに足らざる事とは存候得共、当地電報局幇辨なども多少如是説を聞込居候由内話致候。
殊に露国兵員派遣云々の事に付ては、先頃来御内報にも相成居候に付、右は速に電報を以て報上可致と存候得共、去15日より電線断絶未だ修繕相整はず。
不得已郵信に付し、右の趣報明に及候。
尚ほ、此後の景況は探知次第重て可申上候。
匆々敬具
東学党の乱については、咸鏡道・江原道ではこれまで非常に平穏であり、民間の評説も無かったけど、この頃元山市の韓国人内で、清国の今回の出兵を機会に、清国政府は朝鮮政府と協議の上、咸鏡道の北青から慶興までの要害2~3ヶ所に兵営を造り、そこに清国兵を入れてロシアの侵入を防ぎ、朝鮮の安全を図るという密約が整ったという噂が、頻りに流布してる、と。
一説には、ロシアも公使館護衛の名目でウラジオストックから陸路で京城に派出する際、慶興附近に軍を駐屯させ、万一の事態に備えて元山港にも軍艦を停泊させるめ、遠からず元山港に来航するという噂も出てる、と。

どちらも出所不明の噂で信用できる話ではないけど、昨年の4月7日のエントリーで大鳥から上野に電信があったように、以前ロシアの派兵についての話が来てたので、速やかに電報で送ろうと思ったけど、電線の断絶がまだ修理されてないから、仕方なく郵便で送ります、と。

毎度ながらイザベラおばさんの「朝鮮は流言蜚語の国なのである。」を思い出すわけで。(笑)
朝鮮で流れている噂を一々気にしててもしょうがない。
でも、当てずっぽうでも当たるときはあるわけで、内容が内容だけに報告しないわけにはいかないという。
困ったものですなぁ。(笑)

さて、次。
3月21日のエントリーで、仁川に駐留していた日本軍が京城に向かう事が決まっていましたが、それに関連した史料。
大鳥公使から趙秉稷への書簡を『駐韓日本公使館記録2』より。
1894年(明治27年)6月24日付『第56号』。

敬啓者我兵之向在仁川港逗留者本属応調入京城以充備警但本公使審察時勢暫令該処逗留候命祗以現在該処良水漸形短絀未可久留等情屡有所報茲於本日将該兵調來楊花津一帯地方暫行結幕紮住矣為特備函奉佈即希貴督辨照諒可也耑此順頌
台祉
仁川港に逗留している我が兵は、元々京城で警備に充てる予定だったけど、大鳥が状況を察して暫くそのまま逗留させるよう命じていた。
しかし、現在そこでは水があまり出ないため、長期間留まる事ができないという報告がしばしば送られて来たため、軍を楊花津一帯の地方に移して駐屯することとした、と。

楊花津ってのは、現在のソウル特別市麻浦区合井洞。
京城のすぐ近くですね。
駐屯地がそこになるって話なのかな?

さて、続いての史料は、アジア歴史資料センターの『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から。
39画像目。
大鳥公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第303号』。

Mutsu
Tokio

8. In a private conversation 六月二十三日 evening Russian Chargé d'Affairs ad-interim argued withdrawal of Japanese soldiers as soon as possible.
He said that he has telegraphed morning 六月二十三日 在日本露公使 to inquire into real intention of Japanese Government.
He added that Russian Government would not send their soldiers to Corea in the present circumstances.
I answered that I am waiting for instructions about the withdrawal, that Japanese Government have no object other than to protect our Legation and the people; in this connection I have confidentially informed him Chinese Government have declared to Japanese Government that China has sent troops to Corea in order to assist tributary state.
He told me he would inform his Government the said declaration.

Otori
6月23日夜の非公式会談において、ロシア臨時代理公使は日本軍の早期撤兵を主張した。
彼は、6月23日の朝、日本政府の実際の意図を問い合わせるよう、電信を発したという。
彼は、現在の状況ではロシア政府は朝鮮に軍を派遣しないと付け加えた。
私は、撤兵に関する訓令を待っており、日本政府は我々の公使館と居留民保護以外の何の目的も無いと言った。
これと関連して、私は清国政府が日本政府に対して、属国援助のために朝鮮に軍を送ったと宣言した事を内々に知らせた。
彼は、本国政府にその宣言を伝えると述べた。
このロシア臨時代理公使って、ウェベルかな?

さて、続いてはイギリスの状況。
同じく『東学党変乱ノ際韓国保護ニ関スル日清交渉関係一件 第一巻/5 明治27年6月8日から明治27年6月24日(レファレンスコード:B03030205100)』から、40画像目に本文が。
41~42画像目に訳文が載っていますので、訳文の方のみ取り上げてみたいと思います。
それでは、在英青木公使から陸奥への、1894年(明治27年)6月24日発『電受第305号』。

英国外務大臣は本日本使を招き、東京及北京よりの電信3通を示せり。
該電信中に、袁世凱は6万の兵丁を要求せりとあり。
英国政府に於て、日清間に交戦起らば第三国の干渉を招くべきに付き、之を防がんと欲すること甚切にして、貴大臣最後の電信に関し穏便の処置を貴大臣に勧告あり度旨本使へ依頼せり。
本使は一己の考として、清国自侭の措置を弁駁し多少説明を為したるに、同大臣も清国と何か適当の談合を付くること望ましからんと自認したり。
然れども同大臣の意見にては、右撤兵を為したる後に談合を付くるを以て可とする方なり。
本使の私かに希望するところは、若し貴大臣に於て英国外務大臣の斡旋を望まるるなれば、常に本使に向て報告し置かるること必要なり。
本使は、今回の事件に付き英国を日本方に引入れんと尽力せり。
東京及び北京からの3通の電信ってのがどういうものかは分かりませんが、その中に袁世凱が6万の兵を要求したってのがあった、と。
袁世凱、やる気じゃん。(笑)

しかし、イギリス政府は日清間で戦争が起きれば第3国の干渉を招くだろうから、それを防ぐことを切に願っており、陸奥の最後の電信に関して穏便の処置を陸奥に勧告してほしいと、青木に依頼した、と。
この最後の電信ってどれだっけ?

で、青木は一個人的考えとして、清国のわがままな措置について弁駁し、多少の説明を行ったところ、イギリス外務大臣も清国と何か適切な話し合いを付ける事が望ましいと自認した、と。
しかし、イギリス外務大臣の意見では、それは撤兵後に話し合いする方が良い、と。
撤兵後に出来るんなら、苦労しねぇ。(笑)

青木が密かに希望しているのは、もし陸奥がイギリス外務大臣の斡旋を望むなら、常に青木に向かって報告しておくことが必要だ、と。
で、青木は今回の事件について、イギリスを日本側に引き入れるように尽力する。
いや、それ当たり前だし。(笑)

何か青木公使はピントがずれてる気がするなぁ・・・。(笑)


長くなりましたが、今日はここまで。



日清戦争開戦まで(一)
日清戦争開戦まで(二)
日清戦争開戦まで(三)
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日清戦争開戦まで(二十七)
日清戦争開戦まで(二十八)



今日は前置き無しで早速。
『駐韓日本公使館記録1』より、大鳥公使から元山の上野二等領事への、京城の情勢に関する文書。
1894年(明治27年)6月24日付『機密105号』。

漢城に於ける現在の事勢一班

全羅道に於ける民乱は幾んど鎮定に帰し、清国援軍凡2,000名程は依然牙山に滞陣致居る義は、追々の報告にて御承知相成り候事と存候。
然るに、軍兵引揚方に付本官と清使との意見相違致し、清使は飽迄我兵と同時に引揚げしめんと試み、我は先づ清兵退回せしむるは事の順序なりと主張致候より、雙方の間に漸く隔絶を生じ、今は協議の中止の姿に相成り居り候。
然るに、一両日已来天津又は北京よりの電信に拠れば、清国政府は北塘小站及山海関の兵併せて5,500名程を朝鮮に派遣せんとの計画有之、而して其内500名程は去22日午後既に出発したりとの事実相分り、本省の電訓に従ひ我兵は盡く京城若くは漢江近傍に集合せしめ、而して更に2,000名の兵は本日仁川に向け出発の筈に有之候。
尤も、袁世凱氏を始め清国官吏は孰れも清兵続発の事は虚伝なりと断言致居り候。
此後の模様は如何に変化すべきや。
若し清兵増遣の報告事実に有之候はば、或は日清両兵の衝突測り難しと雖ども、幸に増兵の事実なきに於ては、結局無事落着に至るべくと被考候。

将又朝鮮政府の内部を顧みれば、是迄閔泳駿は専ら袁世凱と結托し、諸事同氏の指図に依りて取計ひ居候処、数日前支那兵を以て大闕を守衛せしむるの相談相纏らざりしが為め俄に仲別れと為り、断然袁氏に拒絶せられたるに因り、閔氏は急に金嘉鎮氏外日本党数名を採用し漸く我方に傾向せんとの兆候有之。
又、是より先き当国にて開化党と称せらるる人々は、我兵の入朝を機として切りに政府改革の運動を始め居り、其機に乗じて大院君再び政府に飛込まんとの様子相見得候へ共、右は果して如何程迄の点に相運び候哉、未だ確探致兼居り候。
右は目下の形勢御通報迄申上候也。
東学党の乱はほとんど鎮定され、清国兵約2,000人は依然として牙山に駐留し続けてるのは、これまでの報告で分かってると思うけど、撤兵の方法について俺と袁世凱の意見が相違し、袁世凱はあくまで両国の同時撤兵を主張し、俺はまず清国が撤兵するのが順序だろと主張したので、双方の間に隔絶が生じて、今は協議中止の状態になった。

しかし、天津または北京からの電信で、清国政府は5,500名ほどの追加派兵をする計画があり、そのうち500名ほどは既に22日の午後に出発した事が分かり、外務省の電訓に従って日本兵を全て京城または漢江近くに集合させ、さらに2,000人が追加兵として今日出発予定。
もっとも、袁世凱を始めとした清国官吏は、いづれも追加派兵の事は虚報だと断言している。
もし清国の増援が事実であれば、あるいは日清の衝突となるかもしれないが、増援の事実がなければ結局無事に落着するだろうと考えている。

一方で、朝鮮政府の内部を見れば、これまで閔泳駿は専ら袁世凱と結託し、様々なことを袁世凱の指図で取りはからっていたけど、数日前清国兵によって宮廷を守らせる相談がまとまらずに仲違いを生じ、断然袁世凱に拒絶されたため、閔泳駿は急に金嘉鎮ほかの日本党数名を採用し、日本に傾向する兆候がある、と。
ちょっ!変わり身早っ!(笑)

また、朝鮮で開化党と呼ばれる人々は、日本の入京を機会として頻りに政府改革の運動を始めており、その機会に更に乗じて大院君が再び政府に飛び込もうとしている様子も見え、これらは果たしてどの辺までになるのか、いまだ判然としない、と。
巷間、日本党と開化党は同一視されていますが、この報告の中では区別されてる感じがしますが、どうなんでしょうねぇ。

さて、続いては『駐韓日本公使館記録2』から。
仁川の能勢領事から大鳥公使に向けた、1894年(明治27年)6月24日付『機密諸第8号』より。

仁川港が、日清両国交兵の地より各自生命財産の危険に陥らん事を懼れ、在港清国人は貧富老幼を論ぜず避難帰国するもの実に夥しく、本月21日出帆の汽船鎮南号にて500余名を搭載し去り。
尚、袁氏の家族并に当港理事府員の家族を始め、大小商民は幾んど数を盡して軍艦平遠号及汽船北平号に乗込み、続々帰国の途に就きたる次第は、昨23日の電文を以て御推諒相成たる儀と存候。
右等情形なるを以て、在港各外国人も弥よ租界の安寧を保ちがたきを恐るるの念甚しく、明25日各国居留地会に於て、仁川港を以て純然たる局外地たらしめんとの議定をなし、以て京城使臣会議へ提出すべき都合有之。
而して、本件は英米各使臣を始め仏独俄等外交官も至極賛同の様子なるのみならず、在北京英公使ヲコンナー氏の如きも遙かに応援をなしつつありとの事に有之候得共、不日貴地使臣会議の議題として現れ出づべくと存候。
抑も本件は、国際上頗る緊要の問題に属し候処、前年清仏戦争の際上海租界を以て局外中立の区となし、又福洲船廠砲撃の時に当り、各国居留地の災険を保証せしむる等の近例も有之。
右中立説にして成立するを得ば、仁川港は局外者の兵力を籍て之れが保護を受くる事を得、本港居留本邦人は勿論、各外国人は無上の幸福に可有之候得共、退て我軍隊の当地に於ける情況を察するに、清兵は已に南陽湾間牙山を以て軍隊の起動点となしたるの観あり。
我軍隊が上陸地及糧餉万端の便を有する起動地として、当仁川港を除き他に適当の地有之間敷、且つ今日の有様を以て見れば、我大兵は現に当港邦船会社支店を以て兵站監部となし、いざ開戦とならば直刻埠頭に堆積せる支那米と清商の倉庫を封抄し、其電報局を押領するの手段を取るべき旨其筋の軍議も有之趣なるに付ては、清国果して大軍を挙げて当国に来らんには、決して一矢を発せずして此形勝の区を退譲すべきにあらず。
況んや港内には、日清軍艦互相睥睨咄嗟の間轟砲攻衝の機あり。
又清国人退去の挙動は、殆んど清野の計とも可申の観あるに於ておや。
於是当港は、彼我両軍が起動点争奪の為め、第一着に兵焚に罹るの虞あるものと云ふを得べきかに相考候。

前述せる如く、仁川港が局外の地位に立つべきや、将た我軍隊の起動点となすべきかの問題は、我後継隊として本日忠海を発せる軍隊の来着と同時に生起すべきものと被存候。
就ては、右に関し小官心得方の為め、予め貴官の御意見相伺置度候間、折返し何分の御回訓相仰候也。
日清両国が交戦して各自の生命財産が危険に陥る事を恐れて、仁川の清国人は貧富老若を問わず避難帰国する者が非常に多く、21日には鎮南号が500名を載せて出航するような状況。
袁世凱の家族や仁川港理事府員の家族など、商民も含めてほとんどが平遠号や北平号に乗り込み帰国した件については、23日の電報でご存じの事と思う、と。
23日の電報はまだ見つけられてませんが、兎も角、政府関係者以外は皆帰国状態って事でしょうね。

ってことで、在仁川の各外国人も租界の安寧を保ちがたくなる事を恐れ、翌25日に各国居留地会で仁川港を局外地にしようという議定をし、それを京城使臣会議へ提出する予定がある、と。
このことについては、イギリス・アメリカ・フランス・ドイツ・ロシア等の外交官等も積極的に賛成している様子であり、それだけでなく在北京のイギリス公使オコンナーも応援しつつあるってことで、遠からず京城の使臣会議の議題として上るだろう。

この中立説が成立すれば、仁川港は局外者の兵力を借りてその保護を受ける事ができ、仁川港居留日本人は勿論、各外国人も安心。
しかし、日本軍の置かれた朝鮮での状況を見れば、清国は南陽湾・牙山を軍の拠点としている観がある。
日本軍が上陸や兵站の準備をする場所としては、仁川港以外には適当な場所もなく、現在の状況からいけば、日本軍は仁川の日本の船会社の支店を兵站監部としており、いざ開戦となった時には直ぐに埠頭に積まれた清国の米と清国商人の倉庫を封鎖し、電報局を押さえる手筈をとる軍議もあるようなので、清国がもし大軍を朝鮮に送ってきた時には、何もせずに仁川を去るべきではない。

まして港内で日清軍艦がにらみ合い、撃ち合いの機会もあるだろう。
また、清国人退去の挙動は、ほとんど清野の計とも言うべき感じがあるわけで、と。
清野の計って焦土作戦だっけっか?
この状況を指す比喩としては、どうなんだろう?(笑)
兎も角、そういうわけで仁川港は日清両軍が起動点確保のため、一番最初に兵火が起きる恐れがあると言えると思う。

以上のように、仁川港が局外地になった場合、日本軍の起動点とするべきかどうかという問題は、日本の後続部隊の来着と同時に起こる形になるだろうから、前もって心得までに大鳥公使の意見を聞いておきたい、と。

んー、仁川以外なら釜山って事になるのかもしれませんが、そこからだと補給線も非常に長くなりますしねぇ。
仁川港が使えなくなるっつうのは、結構問題。


今日はここまで。



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