物部の系譜『先代旧事本紀』古代ヤマト王権の確立~欠史八代②孝安天皇(二) | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



( ・`ω・´)💡
⬇️こちらの記事の続きになります。



( ・`ω・´)💡
⬇️『日本書紀 孝安天皇紀』の全文。

『日本足彥國押人天皇、觀松彥香殖稻天皇第二子也。母曰世襲足媛、尾張連遠祖瀛津世襲之妹也。

天皇、以觀松彥香殖稻天皇六十八年春正月、立爲皇太子。八十三年秋八月、觀松彥香殖稻天皇崩。

元年春正月乙酉朔辛卯、皇太子卽天皇位。秋八月辛巳朔、尊皇后曰皇太后。是年也、太歲己丑。

二年冬十月、遷都於室地、是謂秋津嶋宮。

廿六年春二月己丑朔壬寅、立姪押媛爲皇后。一云、磯城縣主葉江女長媛。一云、十市縣主五十坂彥女五十坂媛也。后生大日本根子彥太瓊天皇。

卅八年秋八月丙子朔己丑、葬觀松彥香殖稻天皇于掖上博多山上陵。

七十六年春正月己巳朔癸酉、立大日本根子彥太瓊尊、爲皇太子、年廿六。

百二年春正月戊戌朔丙午、天皇崩。』

( ・`ω・´)💡
ここから年譜を拾い出してみると、

觀松彥香殖稻天皇(孝昭天皇)68年【皇紀253=BC408癸酉】正月、立太子。

孝昭天皇は83年【皇紀268=BC393戊子】秋、八月に崩御された。

孝安天皇元年【皇紀269=BC392己丑】春1月27日に即位。
秋8月、先代の皇后(世襲足媛)を尊び、皇太后とされた。
この年は太歲己丑にあたる。

孝安2年【皇紀270=BC391庚寅】室に遷都、これを秋津嶋宮と謂う。

26年【皇紀294=BC367甲寅】春2
月14日。姪の押媛【おしひめ】を皇后にされた。

38年【皇紀306=BC355丙寅】秋8月14日。
觀松彦香殖稻天皇(孝昭天皇)を掖上博多山上陵【わきがみはかたのやまのかみのみささき】に葬られた。

76年【皇紀344=BC317甲辰】の春1月5日。
大日本根子彦太瓊天皇(=孝靈天皇)を立てて皇太子とした。
このとき(皇太子の)年齢は26歳。

102年【皇紀370=BC291庚午】の春1月9日に孝安天皇は崩御された。

( ・`ω・´)💡
続いて、『先代旧事本紀』の
日本足彦国押人尊の年譜。

(孝昭天皇68年春正月、日本足彦国押人尊を皇太子とされた。太子は20歳)

(孝昭天皇83年崩御。
翌年8月、掖上博多山上陵へ葬られた。)

治世元年己丑年
春正月、即位。
8月、先の皇后を皇太后とされた。

2年10月、室に遷都、これを秋津嶋宮と謂う。

3年8月、宇摩志麻治命【うましまちのみこと】の裔孫の六見命【むつみのみこと】と三見命【みつみのみこと】を足尼【すくね】とし、次に宿禰【すくね】とした。

26年、姪の押媛を皇后とされた。

76年、大日本根子彦太瓊尊(=孝靈天皇)を立てて皇太子とした。
(皇太子の年齢は26歳。)

102年春正月、天皇は崩御された。
秋九月、玉手丘上陵【たまてのをかのかみのみささぎ】に葬られた。

( ・`ω・´)💡
『先代旧事本紀』【天皇本紀】では、孝昭天皇条に、崩御の翌年、掖上博多山上陵に葬られたとあります。

また、3年に宇摩志麻治命の四世、六見命、三見命を足尼、宿禰にしたとする記事は、日本書紀には無いものです。
註】『先代旧事本紀』【天孫本紀】では、三見命を最初の宿禰としている

( ・`ω・´)💡

三見宿禰命は、
出雲醜大臣命【いずもしこおおおみのみこと(出雲色命)】と真鳥姫【まとりひめ】との間に生まれた三男で、

宇摩志麻治命を祭神とする石見国一之宮、
物部神社(島根県大田市川合町川合)には、

境内末社として、
須賀見神社に六見宿禰命、
乙見神社に三見宿禰命が祀られているようです。

物部神社主祭神は、
宇摩志麻遅命
相殿神右座に、
饒速日命、布都霊神、
左座に、
天御中主大神、天照大神

( ・`ω・´)💡

饒速日命【にぎはやひのみこと】は、
天照大神から授かった十種神宝を奉じ、
天磐舟に乗って河内国(大阪府交野市)の河上(物部神社社伝では大和国哮峯)に天降り、

御炊屋姫命(長髄彦の妹、『日本書紀』では三炊屋媛【みかしきやひめ】、『古事記』では登美夜毘賣【とみやびめ】を娶って、
宇摩志麻治命が生まれました。

( ・`ω・´)💡
宇摩志麻治命は、

物部連【もののべのおみ】、
穂積臣【ほづみのおみ】、
婇臣【うねめのおみ】祖(古事記) 

物部連公【もののべのむらじきみ】遠祖(先代旧事本紀)

( ・`ω・´)💡
『先代旧事本紀』では、

饒速日命と天道日女命【あめのみちひめのみこと】の子を、
天香語山命【あめのかごやまのみこと】(尾張連等祖)
としていて、

物部氏、尾張氏を共に
饒速日命
(天照國照彥天火明櫛玉饒速日尊【あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと】を祖神とする同族としています。

( ・`ω・´)💡
記紀では、あまり活躍しない宇摩志麻治命ですが、
『先代旧事本紀』では、

神武天皇東征の際、
饒速日命、宇摩志麻治命
の二神に仕える長髄彦が戦いを挑みますが、
その(義理の父である)長髄彦を斬って神武天皇に帰順するのは、
宇摩志麻治命となっています
(『日本書紀』では饒速日命が長髄彦を斬って帰順する)。

( ・`ω・´)

『日本書紀』では、神武東征の際、
熊野高倉下【くまのたかくらじ】が見た夢に、
天照大神と武甕雷神が現れ、
「葦原中国は騒がしいと聞く」ということで、
武甕雷神は高倉に韴霊【ふつのみたま】を授けることになります。

高倉下が目覚めると、倉に韴霊の剣があり、これを神武天皇に奉じて、東征軍の窮地を救います。

このエピソードは、『先代旧事本紀』【皇孫本紀】にも見えます。

なお、『古事記』では、高倉下の夢に出る神には、高木神が加わっています。

( ・`ω・´)💡
『先代旧事本紀』では、高倉下を、
天香語山命(尾張氏祖)の天下り後の名前としています。

『先代旧事本紀』【天孫本紀】では、
宇摩志麻治命は、天香語山命の弟として登場します。

長髄彦は饒速日命の子、宇摩志麻治命を推戴し主君として使えていました(旧事本紀では長髄彦を宇摩志麻治命の伯父とする)。

長髄彦は「天神の御子は、宇摩志麻治命一人だけだ」として、天孫(神武天皇)の軍と戦います。
天孫の軍は、連戦しますが勝つことは出来ませんでした。

然し、宇摩志麻治命は、長髄彦を殺し、軍を率いて、神武天皇に帰順する道を選びました。

( ・`ω・´)💡
神武天皇は喜び、宇摩志麻治命に、神剣韴霊を与えます。

天孫が宇摩志麻治命に詔して仰せになりました。
「長髄彦の人となりは狂迷だった。
兵の勢いは猛り鋭く、敵として戦えども、勝つことが難しかった。
然し、舅(長髄彦)の謀【はかりごと】に従わずに(宇摩志麻治命が)軍を率いて帰順してくれたので、
官軍に真(勝利)があったのだ。
朕はその忠節を喜ぶ」

特に加えて褒めて寵し、神剣を授けて、その大勲にお応えになられました。

その神剣は韴霊剣刀【ふつのみたまのつるぎ】。
またの名は布都主神魂刀【ふつぬしのかみたまのつるぎ】。
または佐土布都【さしふつ】。
または建布都【たけふつ】。
または豊布都神【とよふつのかみ】といいます。

また宇摩志麻治命は、天神の御祖が饒速日尊に授けた天璽瑞宝十種【あまつしるしみつのたからとくさ】を天孫に献上した。
天孫は大いに喜んで、特に増して寵愛されました。

( ・`ω・´)💡
また『先代旧事本紀』【天皇本紀】では、

己未年春2月28日、

宇摩志麻治命は、天物部【あめのもののべ】を率いて逆賊を征伐し、軍兵を率いて天下平定した様子を奏上しました。

( ・`ω・´)💡
そして、辛酉を元年とし、神武天皇が即位すると、

春正月一日、

宇摩志麻治命は天瑞【あまつみつ】を奉献し、
神楯を立てて斎【と】き祀り、
今木【いまき】を立て、
五十櫛【いくし】を布都主剣【ふつぬしのつるぎ】に刺し巡らせて、大神を殿内に崇め祀りました。

また、十宝【とくさのたから】を蔵【おさ】めて(天皇に)近侍しました。

(宇摩志麻治命を)名付けて足尼【すくね】とし、
足尼の号は、これより始まりました。

また、宇摩志麻治命は、内物部を率いて宮門を守り、矛と楯を作り備えました。

( ・`ω・´)💡
11月15日、

宇摩志麻治命は殿内に天璽瑞宝【あまつしるしみつのたから】を斎き奉り、
帝と皇后の為に御魂を崇【あが】め鎮めて、寿祚を祈りました。

所謂御鎮魂祭【みたましずめのまつり】はこれより始まりました。

天瑞【あまつみつ】とは、
宇摩志麻治命の親の饒速日尊が天より授かって持って来た天璽瑞宝十種【あまつしるしみつのたからとくさ】のことであり、

瀛都鏡【おきつかがみ】
辺都鏡【へつかがみ】
八握剣【やつかのつるぎ】
生玉【いくたま】
死反玉【よみかえしのたま】
足玉【たるたま】
道反玉【ちかえしのたま】
蛇比礼【へみのみれ】
蜂比礼【はちのひれ】
品物比礼【くさぐさのもののひれ】
のことであります。

天神が(饒速日尊に)教え導びかれて仰有るには、
「もし痛むところがあれば、この十宝を振るわせ、
『一、二、三、四、五、六、七、八、九、十、ふるべ、ゆらゆらとふるべ』と言いなさい。
このようにすれば、死人は生き返ります」と。

即ちこれが布瑠之言【ふるのこと】の起源であり、
御鎮魂祭の由来であります。

その鎮魂祭の日には、
猿女君【さるめのきみ】らが
百歌女【もものうため】を率いて、
その言の本を挙げて(布留の言を唱え)神楽を歌い舞うのは、ここから始まりました。

( ・`ω・´)💡
神武天皇治世2年2月2日、天皇は論功行賞をなさいました。

宇摩志麻治命に詔して仰せられるには、
「お前の勲功は、思えば大いなる功である。
公は至って忠節である。
よって先に神霊の剣を授けて、不世の勲に酬【むく】いた。

今、股肱の職に配【そ】えて、永く二心の無い美【よしみ】を伝え、
今より後、子々孫々代々にわたって、必ずこの職を継ぎ、永く大いなる鑑とするように」

宇摩志麻治命と天日方奇日方命【あまひかたくしひかたのみこと】は共に拝命して、申食國政大夫【をすくにのまつりごとまをすまへつきみ】となりました。

その申食国政(食国の政治を執り行う)大夫【たいふ】とは、今の大連【おおむらじ】であり、または大臣【おおおみ】のことであります。

天日方奇日方命は、皇后の兄で、大神【おおみわ】君の祖であります。

( ・`ω・´)💡
さて、ここで「大夫」という官職が出てきました。

のちの、大連、大臣のことであると云っています❗

日本では一般には、大夫は、律令時代になって取り入れられた官職とされます。

( ・`ω・´)💡
このため、
『日本書紀』【崇神天皇紀】の、

『冬十二月丙申朔乙卯、
天皇、以大田々根子令祭大神。是日、活日、自舉神酒、獻天皇。仍歌之曰、

許能瀰枳破 和餓瀰枳那羅孺 椰磨等那殊 於朋望能農之能 介瀰之瀰枳 伊句臂佐 伊久臂佐

如此歌之、宴于神宮。卽宴竟之、諸“大夫”等歌之曰、

宇磨佐開 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 伊弟氐由介那 瀰和能等能渡塢

於茲、天皇歌之曰、

宇磨佐階 瀰和能等能々 阿佐妬珥毛 於辭寐羅箇禰 瀰和能等能渡烏

卽開神宮門而幸行之。所謂大田々根子、今三輪君等之始祖也。』

に出てくる“大夫”は、

(#`皿´)大夫は、律令時代に使われ始めた官職だから、崇神天皇の時代にあるわけがない❗
(#`皿´)『日本書紀』の編者が当時の官職を書き加えたんだ❗

( ・`ω・´)💡
と、思いっきり自説をご開陳するのが、日本の歴史学者です。

(。・´д`・。)アホヤ…

(o´・∀・)oバカでしょ❓やっぱり日本の学者ってバカでしょ❓

( ・∇・)
一部ですよ。あくまで一部。先入観に囚われない優秀な研究者はいます❗

一部の声が、やたらデカイのと、残念ながら学界で権威を持ってるってだけだから❗

( ・`ω・´)💡
『日本書紀』のこの記事の少し前に、

天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「“奇日方天日方”武茅渟祇之女也。」

と、あります。

崇神天皇8年の、この辺りの下りは、

奇日方天日方=天日方奇日方命の子孫である、

“大田々根子、今三輪君等之始祖也”
について触れています。

( ・`ω・´)💡
その、天日方奇日方命が初めて任命されたという“大夫”という官職名が、子孫の大田々根子に付随して『日本書紀』の崇神天皇紀に出てくるわけです❗

(#`皿´)
だからどうしたって言うんだ❗
『先代旧事本紀』なんて偽書なんだ❗
『日本書紀』の“大夫”は、あとから書き加えたに決まってるんだ❗

(。・´д`・。)キメツケルナヨ

( ・`ω・´)💡
ろくに考察もせず、決めつけるのは学問ではありません。

歴史に関する学説は常に、
暫定的な仮説であり、

仮説を積み上げ、様々な史書や、考古学の成果と照らし合わせながら、より確かな答えに近づけていく…

それが歴史という学問では無いでしょうか❓

歴史学者というのは、常に後世の研究に答えを委ねながら、
徹底的に可能性を追究し、今後の叩き台としていく“道の途中”にいる者なのです。

(o´・∀・)o
科学とは、全てそういうものだよ❗
99.99%は仮説❗
あらゆる科学は、果てしなき道の途上にいるのだから❗
様々な仮説を立て、答えは後世に委ねていくもの❗
そうした過去の偉大な科学者の積み重ねの途上に、現代の文明社会があるのだ❗

( ・∇・)
あり得ないと決めつけて何も探さないのではなくて、あり得るを前提に探していかないと、探し物は見つかりません❗

(#`皿´)
縄文人が海を渡って中国に行けるわけがない❗
古代の倭人が中国の干支を知っているわけがない❗
初期ヤマト王権に、確かな記録なんてなかったんだ❗

( ・`ω・´)💡
こうした輩が、日本の歴史学の芽を摘んでいます。
道を閉ざしています。

(o´・∀・)o
こうした一部の偏狭な学者たちや、魏志倭人伝だけで邪馬台国を断言するような輩がいるから、
いつまでたっても日本人は、日本の輝かしい時代の歴史を知ることが出来ないんだね❗

( ・`ω・´)💡
邪馬台国どこにあった論争は、かれこれ100年続き結論が出ていませんが、

国史、中国史、考古学の成果から、7~80%の確率で畿内にあったと見てよいでしょう。

これは、客観的に現時点で手に入る史料から判断すれば、

“2020年、今現在の暫定的な仮説として”

動かしようはありません❗

唐古・鍵遺跡、纒向遺跡、箸墓古墳…史書を裏付ける遺跡の調査が進んでいます。
そこには、日本全国、そして大陸半島からの文化の流入が認められています。

そして、畿内説は、九州から東海辺りまで広範に連合国の領域を想定して考えていますから、他説を頭から否定するものではありません。

( ・`ω・´)💡
もちろん、今後、考古学的大発見や、古文書における大発見があれば、

その暫定的な仮説が揺らぐ可能性は大いにあります❗

(o´・∀・)o
邪馬台国、エジプトにあったかもしれないよね❗

( ・`ω・´)💡
北九州だって、熊本だって、吉備だって、出雲だって、四国だって、奄美だって、沖縄だって、東海・関東・北陸・甲信・東北地方だって、台湾だって、韓半島だって、シベリアだって、可能性がないわけではありません❗

然し、九州説の論者には、重箱の隅をつついて、

(#`皿´)
○○だから、畿内はあり得ない❗
魏志倭人伝は、こう読むんだ❗

( ・`ω・´)💡
という、中国史書の勝手な解釈と、まだ全容が明らかになったわけではない遺跡の些細な部分にイチャモンをつけ、畿内説の否定に躍起になり過ぎています。

畿内説には、無視出来ない膨大な考古学的根拠があり、何より日中の史書を素直に読めば、邪馬台国がのちのヤマトであることは(今のところ)揺らぎません。

九州説が成り立つ為には、日中の史書が、あらゆる作為をしているという膨大な傍証を示さなければなりません。

(o´・∀・)o
ここをアクロバティックに曲解するからおかしくなる…

( ・`ω・´)💡

九州の女酋長❓卑弥呼が魏とヤマト王権を欺き続けることが可能だと証明するのも難しいでしょう。

畿内に最大勢力があった可能性が高まっているのだから、邪馬台国が九州の一小国に過ぎないのであれば、邪馬台国の価値が下がるだけで、考古学的な畿内政権の優位は変わりません。

九州説が完璧ではないにもかかわらず、近畿説の一点や二点、ここがあり得ない、あそこが納得出来ない、というのでは…

(。・´д`・。)ダレモナットクシナイ

( ・`ω・´)💡
それでも、今後の“世紀の大発見”に備えて、九州説論者は、

今は劣勢を認めつつ、研究を積み重ねていく必要があります。

(#`皿´)
畿内なんて認めない❗
九州に決まってるんだ❗

(o´・∀・)o
感情的になるのは、わかるけれど、畿内の可能性が高いという現状は認めるべきだね。

( ・`ω・´)💡
もちろん、邪馬台国はおそらく畿内だろうという現状ですが、日本のあらゆる地域で、ここが邪馬台国の可能性があるというデータは、積み重ねておく必要があります。

何度も言いますが、大発見があれば、シーソーの傾きは変わります❗

(o´・∀・)o
歴史に正解はないけれど、今は、畿内説に傾いている。
とはいえ、他の地域に邪馬台国に繋がる大発見があり得る場合に備えて、史料は揃えておきたいよね❗

( ・`ω・´)💡
未来の研究者のためにね❗
まだまだ鍵を握る遺跡は眠っているはず❗

( ・∇・)
で、先代旧事本紀は、偽書なの❓

( ・`ω・´)💡
中国の史書にしても、日本書紀、古事記にしても、そこに書いてある全てが史実なわけではありません。

今朝の新聞ですら、昨日のニュースの全てが事実であるとは限らないのですから❗

( ・`ω・´)💡
逆に先代旧事本紀が偽書であったとしても、史実が紛れ込んでいる可能性も大いにあるんです。

もしかしたら、書いてあることの多くが、後世に記紀や中国史書を見ながら書かれたフィクションかもしれないし、もしかしたら、天武朝の焚書を逃れた古記録を元に書かれているのかもしれません❗

( ・`ω・´)💡
まず、“大夫”ですが、

『後漢書』【東夷傳】

『建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫』
“建武中元二年(57)、倭奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら【大夫】と称した。”

『三國志』【烏丸鮮卑東夷傳】

『倭女王遣大夫難升米等詣郡』
“倭女王は【大夫】、難升米等を遣わして郡に詣り”

( ・`ω・´)💡
1~2世紀の倭国に【大夫】という官職があったのは、ほぼほぼ確実です。

中国では、周の時代に大夫は卿の下、士の上に位する身分を指しました。

漢魏にしてみれば、

(* ̄∇ ̄)ノ
随分古い中国と同じ官職名を使ってるんだな~

( ・`ω・´)💡
と、いうことで、史書に特記したのでしょう。
倭人に対して敬意を示した理由の一つかもしれません。

また、倭国が中国の古い官制を用いていた可能性、ある程度、古くから中国から情報を得ていた根拠の一つには、なり得ます。

( ・`ω・´)💡
もちろん、『日本書紀』や『先代旧事本紀』の編者は、こうした中国の史書『三國志』『後漢書』を見て書いていますから、“大夫”を紛れ込ませた可能性はあります。

(o´・∀・)o
でも、邪馬台国や、後漢に朝貢していた証拠は、なるべく消そうとしているよね❓

( ・`ω・´)💡
そう❗
だから、事実を消し忘れたか、
或いは意図的に邪馬台国、倭奴国との繋がりを匂わせようとしたか、

の可能性が高いと言えます❗

( ・`ω・´)💡
先代旧事本紀は、見ての通り、記紀にはない物部氏の活躍を大幅に追加していますから、

物部氏の関係者が記紀成立以降に、それらを書き加えた可能性も当然あるでしょう。

(o´・∀・)o
だけど記紀が、物部守屋滅亡後に、蘇我氏によって物部氏関係の記事を大幅に削った資料を元にした可能性もあるよね❓

( ・`ω・´)💡
だから、後世の物部関係者の加筆だとしても、事実を復元しただけ、の可能性もあります。

( ・∇・)
奇日方天日方の子孫の三輪氏は、
初代神武天皇から皇后を入れ、

饒速日尊のもう一方の子孫(天香語山命=高倉下)である尾張氏が、
五代孝昭天皇から皇后を入れたのに対して、

物部氏が皇后を入れたのは、八代孝元天皇から。

( ・`ω・´)💡
『先代旧事本紀』による系譜は、

彥湯支命【ひこゆきのみこと】
⬇️
出石心命【 いづしこころのみこと】
『物部連公【もののべのむらじきみ】祖』
⬇️
大矢口命【おほやくちのみこと】
⬇️
欝色謎命【うつしこめのみこと】(鬱色謎命)
『孝元天皇皇后』穂積氏祖

( ・`ω・´)💡
因みに、

彥湯支命
⬇️
出雲色命【いづものしこのみこと】
⬇️
六見命、三見命

( ・`ω・´)💡
先代旧事本紀が記紀の饒速日尊(尾張氏祖でもある)から、物部氏祖の宇摩志麻治命に、長髄彦を斬った功績を移動させたのは、

同祖とはいえ、皇后擁立で先を越された尾張氏の功績を低く見せる意図と考えられなくはありません。

(o´・∀・)o
でも、壬申革命に功績があった尾張氏や、
天武朝朝臣筆頭の大三輪氏が、記紀編集に注文をつけた可能性だってあるよね❓

( ・`ω・´)💡
先代旧事本紀は、高倉下や天日方奇日方命の功績を削っているわけではないから、物部氏関係の記事が事実としたら、ニュートラルな立場から書いているとは言えます。

もちろん、物部氏は守屋が滅んだとはいえ、有力な後裔氏族は、記紀作成時にいなかったわけではありません。

( ・`ω・´)💡
石上麻呂【いそのかみのまろ】(物部麻呂)は、壬申革命で近江朝に最後まで忠節を尽くしたにもかかわらず、天武朝に重用され、古事記成立前の708年には左大臣(少なくとも形式上は右大臣藤原不比等より格上)の地位にあり、のち人臣の最高位を極めて日本書紀成立3年前の717年に薨去しています。
物部連では石上氏、穂積氏が朝臣姓となっています。

(o´・∀・)o
不比等が石上麻呂にライバル心を燃やした可能性は❓

( ・`ω・´)💡
まぁ、記紀から物部氏の功績が削られた可能性は、いくらでも考えられますから、先代旧事本紀だけを一方的に偽書と決めつけるのは宜しくありませんね❗

( ・`ω・´)💡

また、物部神社の社伝によれば、
宇摩志麻治命は美濃国、越国を平定した後に石見国で薨去し、社殿の裏に埋葬されたことになっていますが、

彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)の社伝では、越国平定は、(異母兄で尾張氏祖)の天香山命の事績となっています。

( ・`ω・´)💡
このことから、物部氏が尾張氏から系譜を奪ったとする説もあります。

然し、宮中で行われる鎮魂祭を、
物部神社、彌彦神社と石上神宮も執り行っており、

先代旧事本紀にあるように、物部神社祭神の宇摩志麻遅命が始めたとする御鎮魂祭【みたましずめのまつり】が、この三社で今も執り行われることに意味がありそうです。

( ・`ω・´)💡
石上神宮は、日本最古の神宮とされ、

布都御魂大神【ふつのみたまのおおかみ】(御神体である布都御魂剣【ふつのみたまのつるぎ】に宿る神霊)を主祭神とし、

配神の一柱に宇摩志麻治命、
末社の神田神社に高倉下命を祀っています。

また、物部神社の境外摂社には
伊夜彦神社に天香具山命(天香語山命)、
境外末社の熊野神社に高倉下命を少彦名命と共に祀っています。

(o´・∀・)o
その三社が、先代旧事本紀を見て、後世に鎮魂祭を始めたんだろうとか、疑いだせばキリがないけれど、史書にハッキリ書かれていることを、現時点では素直に受け入れた方が佳いよね❗

( ・`ω・´)💡
史料批判は大切ですが、片っ端から否定していたら、一向に前へ進みません。

邪馬台国どこにあった論争は、堂々巡り過ぎて、あらぬ方向へ進んでいます。

この辺りで一度、最も可能性が高い畿内説、縄文時代から邪馬台国、ヤマト王権を一本に繋ぐ(史書を素直に読めばそうなります)仮説を、不毛な論争とは別の次元で追究しておくべきでしょう。

( ・`ω・´)💡
初期ヤマト王権を支えた海神族、政祭を執り仕切り大王家に后妃(秘の本の巫女)を入れた三輪氏、尾張氏、和邇氏、物部氏(何れの氏族も、日本国内の多くの古社で神官家として現代に血統を伝えています)の実態が明らかになってきました❗

もう一つの史書である『ホツマツタヱ』を見ると、欠史は更に補完されていきます。

(#`皿´)
ホツマツタヱなんて偽書だ~❗

( ・`ω・´)💡
と、いう声は無視して次回、考察を続けていきます。

( ・∇・)つづくよ❗
先入観に囚われず思考の次元を超えていこう❗