倭国王は辛酉の年を狙って中国に遣使した~中国の史書から見た倭人⑥ | 縄文家族|天竜楽市

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『倭国王は辛酉の年を狙って中国に遣使した』

( ・`ω・´)💡

『日本書紀巻第九
氣長足姬尊 神功皇后』より

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

卌年。魏志云「正始元年、遣建忠校尉梯携等、奉詔書印綬、詣倭國也。」

卌三年。魏志云「正始四年、倭王復遣使大夫伊聲者掖耶約等八人上獻。」

六十六年。是年、晉武帝泰初二年。晉起居注云「武帝泰初二年十月、倭女王遣重譯貢獻。」

( ・`ω・´)💡
日本書紀では、神功皇后(大正十五年までは第十五代神功天皇とされていた)の記事に、

倭女王の中国遣使を載せています。

神功天皇39年、40年、43年、66年は、それぞれ

西暦239年、240年、243年、266年にあたります。

( ・`ω・´)💡
このことから、日本書紀の著者は、西暦を正しく知っていた可能性があると指摘されています。

神武天皇即位の皇紀元年(BC660)は、
干支(十干と十二支の組み合わせで60通りある)の58番目、辛酉の年にあたります。

ここから干支が11回巡り、第十一代垂仁天皇三十年(皇紀661)が12順目の辛酉の年で、
西暦1年にあたります。

『日本書紀』が完成したのは、養老四年(720)で、これは皇紀元年から干支がきっかり23順(60×23=1380年)、西暦1年からきっかり12順(60×12=720年)した年にあたり、

翌721年に神武天皇即位から数えて24順目の辛酉の年を迎えました。

(o´・∀・)o
辛酉の年は、天命の改まる年と云われるので、神武天皇即位を辛酉の年に設定したり、『日本書紀』完成を、辛酉の年を翌年に控えた720年に発表する狙いがあったようだね。

( ・`ω・´)💡
『男子、無大小皆黥面文身。自古以來、其使詣中國、皆自稱大夫。夏后少康之子封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之害。今倭水人好沈沒捕魚蛤、文身亦以厭大魚水禽。後、稍以爲飾。諸國文身各異、或左或右、或大或小、尊卑有差』
三國志烏丸鮮卑東夷倭傳、倭人

中国では、倭人の風俗を夏王朝の末裔に似ていると見ていました。

中国では倭人を夏王朝や殷王朝の遺民である東夷が海を渡った末裔であると考えていたようですし、倭人の側でも、
『自謂太伯之後』(「魏略」など)と、自ら(周の王族で呉の祖となった)太白の末裔を名乗っていたと云います。

なお、『新撰姓氏録』でも松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の末裔となっています。
註】太白、虞仲の兄弟は末弟の季歴に後継ぎを譲るため、荊蛮の地に出奔し、その地の風俗、断髪分身を採り入れ、句呉の国を起こしました。
季歴の子が周の実質的な創始者である文王になります。
太白には子がなく、弟の虞仲の子孫が春秋の覇者に数えられることもある呉王夫差であり、
呉の遺民が九州に渡ったことは、考古学的にも有力視されています。
銅鐸も呉越地方の鈴が原形になっているとする説があります。
太白は、周の王族で姫姓であり、日本を別名で「東海姫氏国」と呼びました。
実は倭人は、太白に子がないことを知っていて、ジョークのつもりで太白の末裔と言ったのではないかとする説もあります。

『其俗舉事行來、有所云爲、輒灼骨而卜、以占吉凶。先告所卜、其辭如令龜法。視火坼占兆。』
“其の俗を事を挙げ行来するに、云為【うんい】する所有れば、輒【すなわ】ち骨を灼【や】きて卜【ぼく】し、以って吉凶を占う。先ず卜する所を告ぐ、其の辞は令亀【れいき】の法の如く、火坼【かたく】を視て兆しを占う。”

倭人は、行事を行うときや外出する際に、骨を灼いて吉兆を占う。最初に占いの目的を告げる。その言辞は、中国の亀卜の言葉に似ているとも書かれています。

令亀法は殷王朝が用いた占卜法で、殷墟から亀甲に刻まれた辞が大量に出土しています。

このうち、命亀法と呼ばれる辞が、倭人の辞に相当すると考えられており、その辞の内容は、

占いの日(干支日)と、占う目的、というシンプルなものです。

辞を構成するたった二つの要素のうち、一つが欠けていたならば、“辞が似ている”とはならないはずですので、

倭人の辞には、
干支日と
占いの内容
の二つが刻まれていたと思われます。

このことから、倭人が干支を知っていたことは確実なようです。

( ・`ω・´)💡
そして、倭人は干支を知っているどころか非常に重視していたと思われるのです‼️

殷は干支を非常に重視していた王朝です。

その、殷の祭祀を倭人も同様に行っていたわけです。

縄文時代の環状列石や、太陽崇拝の磐座などからは、倭人が古くから天文学に通じ、冬至や夏至の日を正確に知っていたことがわかってきました。

暦を用い、何らかの紀年法が存在していても不思議ではありません❗

殷が用いた十干とは、太陽が十個あり、日によって昇ってくる太陽が異なり、十日で一巡すると考えられていたものです。

殷もまた、太陽崇拝を熱心に行う王朝でした。

( ・`ω・´)💡
殷が滅亡したのはBC1127~1018頃と考えられています。

殷の遺民は、元々の根拠地であった遼河付近に撤退し、高句麗や朝鮮、夫余といった東夷諸族に分かれました。
彼ら(夫余語族)は、原日本語に近い言語を話していたと考えられています。

一方、山東半島には、殷の王族と同じ子姓の來族がいました。
來の地から東の海を渡っていくと蓬莱、つまり日本に行くと考えられていました。

BC1000頃、山東半島から九州へ稲作が伝播しています。

殷の王族である來の民が、九州へ渡ってきた可能性は高いと言えるでしょう( ・`ω・´)💡

( ・`ω・´)💡💡💡‼️

『建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬』
(後漢書東夷伝)

 倭奴国王が漢委奴国王印を後漢光武帝から授かったのは57年。
この四年後に61年の“辛酉の年”となります。

( ・`ω・´)💡
107年には、倭国王帥升自ら考安皇帝に謁見していますが、その後、倭国大乱を経て、

奈良県天理市櫟本町にある東大寺山古墳から、
「中平(184~189)」の紀年銘を持つ鉄刀(国宝指定)が出土しています。

「中平□□(年)五月丙午造作文(支)刀百練清剛上応星宿□□□□」

と刻まれた鉄刀の銘から、後漢考靈皇帝の時代、いわゆる黄巾の乱の最中、倭国から後漢へ遣使があり、鉄刀を下賜された可能性が高いと考えられています。

この後、後漢王朝では董卓による洛陽炎上など事件が相次ぎますので、倭国遣使の記録が欠落していても不思議ではないでしょう。

倭国大乱の最中、後漢皇帝より鉄刀を授かった王は、倭国の中で充分な権威を示すことが出来たのではないでしょうか?

( ・`ω・´)💡
 
『(魏)正始元年春正月、 東倭重譯納貢,焉耆、危須諸國、弱水以南、鮮卑名王、皆遣使來獻。天子歸美宰輔、又増帝封邑。』
(晋書 帝紀第一 高祖宣帝懿紀)

“正始元年(240)春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。皇帝はこの威風を宰相の功によるものとし、宣帝に増封した。”

( ・`ω・´)💡
続いて、卑弥呼による239~240年の遣使を晋書宣帝(司馬懿)本紀から。

三國志と異なり、倭を東倭としていますが、明らかに邪馬台国の女王、卑弥呼の朝貢を指して言っています。

倭国来貢を司馬懿の功績として、挙げているのです。

“東倭”は、東にある倭、くらいの意味で、東と冠していることに、さしたる意味はないと思われます。

倭国女王入貢は、魏の宰相であった司馬懿の名声を高めるために、大いに利用されていたのでしょう。

この、卑弥呼による最初の遣使で、邪馬台国は親魏倭王の印授を手に入れます。

漢委奴国王の金印から183年後。
女王国連合、倭国内で卑弥呼の権威を高める目的が果たされました。

この翌241年が“辛酉の年”にあたります。

61年、その180年後の241年の辛酉の年に、倭国王は中国皇帝から賜った印授を所持していました。

( ・`ω・´)💡

『泰始初(265)、遣使重譯入貢。』(晋書東夷傳)

『(泰始)二年(266)十一月已卯、倭人來獻方物。』
(晋書 帝紀第三 世祖武帝炎紀)

266年、台与による遣使の後、しばらく晋書から倭国の記事は途切れます。

『(義熈)九年、是歳、高句驪、倭國、及西南夷、銅頭大帥、並獻方物。』
(晋書 帝紀第十 安帝徳宗紀)

そして、東晋末期の413年、再び倭国は使者を送りました。

420年、東晋恭帝は劉裕に禅譲し、南朝宋の時代になります。

『髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授』(宋書 蛮夷伝 倭国)

421年に、倭国王讃が宋の高祖武帝劉裕から徐授を賜います。

421年が、卑弥呼親魏倭王拝受の翌年の辛酉から180年後の辛酉の年にあたります。

倭国王讃としては、413年東晋に朝貢し、421年の辛酉に合わせて420年までに印授を賜るよう工作していたと思われますが、王朝交代のために421年正月には徐授が間に合わなかったと思われます。

( ・`ω・´)💡
『順帝昇明二年遣使上表曰
封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節
詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王』
(宋書 蛮夷伝 倭国)

その後、倭国王は宋に重ねて入貢しますが、478年(三年後の481年が辛酉)、倭国王武の上表を最後に、しばらく遣使の記録は途絶えます。

( ・`ω・´)💡

『開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之』(隋書東夷傳俀國)

隋の高祖文帝の開皇二十年(600)、倭王讃の徐授から179年後、倭国(推古天皇八年)は初めて遣隋使を送ります。

( ・`ω・´)💡

57年、漢委奴国王
61年、辛酉
240年、親魏倭王
241年、辛酉
421年、倭国王讃徐授
421年、辛酉
600年、遣隋使
601年、辛酉

( ・`ω・´)💡
こうして見ると、倭国王は、61、241、421、601と180年毎の辛酉の年をきっちり狙って中国に遣使していることがわかります。

註】57年の倭奴国は、漢に使訳通ずる他の30国を出し抜く目的で、早めに使者を送った可能性もあるでしょう。

天命が改まるという辛酉の年、特に三巡毎に大きな変革が起きると考えていた倭国王が、権威を国内に示すために、きっちり180年毎に対外工作を図っていたと考えられます。

特に1260年に一度の辛酉の年は、大革命があるとされ、推古天皇九年の辛酉の年には、

日出ずる国の天子として内外(特に韓半島)に威信を示す目的があったものと思われます。

( ・`ω・´)💡

倭国は、干支による紀年を行い、正確に年度を知っていた可能性が高いです。

『日本書紀』編纂時の著者は、西暦を知っていたとしても不思議ではなく、六世紀後半には、ローマから飛鳥までシルクロード交易を担っていたソグド人から、景教(キリスト教ネストリウス派)、ユダヤ教の情報も入手していたと思われます。

西暦1年が辛酉であることを知った倭人は、

( ・∇・)
ほら、やっぱり辛酉の年は天下が大きく動くのだ❗
俺たちは、縄文時代から、それを知っているんだぜ‼️

と、言ったことでしょう( ・`ω・´)💡

(。・´д`・。)ホントかよ❓

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