天竜川八ヶ岳富士~世界文明発祥の地からサスティナブルな未来へ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️





『春野町史』に示された縄文街道

春野町の遺跡群を繋ぐと、遮光器土偶(BC500頃)が発見された川根本町上長尾遺跡、5万年前とも推定される川根ヌタブラ遺跡と、東側の秋葉山が結ばれます。

現在のスーパー林道が通る秋葉山頂から龍頭山、山住山を経て、兵越峠から中央構造線に沿って秋葉街道に進むと、そこは蛇紋岩、黒曜石が露頭する石器の産地。

地蔵峠を越えると、希少な山塩が採れる鹿塩、そしてゼロ地場で有名な日本最強のパワースポット分杭峠。

高遠から杖突峠を越えて行けば、左手に諏訪湖、右手に八ヶ岳。
そして正面には、国宝『縄文のヴィーナス』『仮面の女神』が出土した茅野市尖石の遺跡群。

甲州街道に沿って東に進めば、八ヶ岳に抱かれた高天原、『人面形香炉』が出土した井戸尻遺跡。

甲州街道沿いに富士山の麓まで多数の縄文遺跡群があり、

そして、35000年前から近世までの遺跡群が集中する富士宮市に行き着きます。

富士宮市から西へ、安倍川を越えれば川根。グルッと一周出来ます。

赤石山脈を取り囲むように、旧石器時代~縄文時代の山岳ネットワークが存在していたことがわかります。

天竜川~諏訪湖~八ヶ岳~富士山を結ぶ三角地帯は、人類が自然と共生し、持続可能な暮らしを営みながら、五万年の歳月をかけて世界最初の文明を築いていく条件が全て揃った世界の縮図であったのです‼️

https://ameblo.jp/starless43/entry-12553638075.html

この“天竜川八ヶ岳富士の三角地帯"は、天武朝時代(天武天皇~宝字孝謙称徳皇帝)に編纂された『古事記』『日本書紀』によって封印された縄文人、倭人の歴史が連綿と刻まれていたようです。

https://ameblo.jp/starless43/entry-12553045865.html

古事記に記された、イザナミ、スサノオ、天孫降臨~ニニギ、ヒコホホデミ、大国主の国譲り~タケミナカタの神話が、

『ホツマツタエ』
『ウワツフミ』
『富士宮下文書』
などと照らし合わせ、

そして地元に伝わる伝承の断片と、

膨大な古代遺跡群と合わせて考察していくと、

この“天竜川八ヶ岳富士三角地帯"で起こった出来事であるとわかってきました。

( ・`ω・´)💡
↓以下、過去記事の再掲です。
邪馬台国と狗奴国が天竜川を挟んで対峙していたとする説があり、邪馬台国の時代に前後して、考古学的にも天竜川の東西で明らかな文化の断然があるとされています。

邪馬台国と出雲の国譲り~神功・応神期の東征に関連した天竜川流域の記事をビックアップしています( ・`ω・´)💡

https://ameblo.jp/starless43/entry-12432967121.html



東洋史学者、内藤虎次郎(号・湖南)が、明治43年に著した『卑弥呼考』は、陳壽『三國志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条』(通称・魏志倭人伝)に記された人物名や、国名の比定を行い、その後の邪馬臺(ヤマト)国研究に大きな影響を与えています。

三國志には、邪馬臺国の官として伊支馬(いきま)、次に弥馬升(みまと)、次に弥馬獲支(みまわけ)、次に奴佳(革是)(なかで)を記していますが、内藤説ではそれぞれ…

いきま=活目(いくめ)=イクメイリビコイサチノスメラミコト、垂仁天皇(十一代)

みまと=観松彦=ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇(五代)

みまわけ=御間城=ミマキイリビコニエノスメラミコト(十代)=崇神天皇

なかで=中臣氏

に比定しています。

イクメ、ミマ…、ワケは、代数が入れ替わっているとはいえ、当時の天皇の諱に符号するので、晋(陳壽は蜀の官僚で、のち晋に使え『三國志』を著しています)にはヤマト大王の名が、ある程度正確に伝わっていたと考えてもよさそうです。

然し、内藤湖南は何故、ナカデを中臣氏に比定したのでしょう?
素直に考えれば、

ナカデ=足仲彦(たらしなかつひこ)=仲哀天皇

としても良さそうなものですが…

三國志に書かれたヤマトの官が天皇の諱であるとするなら、垂仁、孝昭、崇神、仲哀天皇は、卑弥呼の前後にヤマト大王として実在したと考えられるでしょう。

ナカデ=仲哀と考えれば、彼は卑弥呼が崩じた後に立った男王で、その後年十三で女王となった卑弥呼の宗女(一族の娘)臺与とは神功天皇と素直に考えることが出来ます。

全国四万社の八幡神社の祭神として、子の応神天皇と共に皇祖神として祀られる神功天皇は、『宋史日本国伝』に太奈良姫大神(おおならひめおおかみ)と記されているように、畿内にあったヤマト王権の特別な女王であり、明治の頃までは実際に卑弥呼、臺与と同一と考えられ、日本国民から女神として絶大な崇敬を集めていました。

大正時代になると、何故か神功天皇は歴代天皇から外され、その後は皇后の扱いになっています。

三國志に記される邪馬臺(ヤマト)と、のちのヤマト王権は、万世一系で繋がっているのか?
或いは騎馬民族征服説に代表されるように、子の応神天皇は中国五胡十六国時代に海を渡ってきた渡来人で、邪馬臺国を滅ぼし新たにヤマト大王となった…王朝交代はあったのか?

仲哀(鎮国香椎大神)、神功(太奈良姫大神)、応神(八幡大菩薩)と宋史日本国伝に「神」として記された(初めの主、天御中主=アメノミナカヌシすら宋史には神とは記されていません)三人の親子が古代史の大きな鍵を握っているようですね。




天竜区大谷には、二俣郷がまだ海だった頃、八幡(ヤァタ)の神が金の磐舟に乗ってやって来た…その舟が突き刺さって大穴が開いたという大谷行者岩があります。

その磐山を嵩山(たけやま)と云い、その麓に宇佐八幡神社が祀られています。

さて、応神天皇はこの地で、もしや二俣神クナトと戦ったのでしょうか?

嵩山は、国指定史跡二俣城址のある城山とは尾根続き。
二俣城は武田信玄、勝頼と徳川家康が攻防を繰り広げた山城として有名ですが…かの太閤豊臣秀吉公が「二俣を制する者は天下を制する」と言ったという天険の要害。

秀吉公が天下を手中に納めた時、家臣の堀尾氏によって二俣城は桃山時代の豪華絢爛な別郭一城の城郭に大改修されていますが、関ヶ原では堀尾氏が東軍につき、二俣は再び天下人家康公の支配下となりました。

この二俣の地は、天竜川が東西を隔て、信州へと続く険しい山と(かつては)海が交わる交通の要衝で、戦乱の時代には必ず攻防の舞台となっていたようです。

伊勢に勢力のあった出雲族の伊勢津彦は、天孫族に破れ天竜川を遡って諏訪に逃げ込んだという伝承もあり、古代において、この地で何らかの大きな戦いがあったのではないかと想像しています❗

https://ameblo.jp/starless43/entry-12433229874.html



陳壽『三國志』魏書三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条(通称・魏志倭人伝)には、倭の女王(卑弥呼)に属する邪馬臺(ヤマト)国以外の旁国が幾つか記されています。

そのうち山田孝雄は『狗奴国孝』(明治43)で蘇奴(さな)国を遠江佐野郡に、内藤湖南は『卑弥呼考』(明治43)で華奴蘇奴(げなさな)国を遠江国磐田郡鹿苑神社に、それぞれ比定しています。

三國志によれば、女王の境界の尽くる所は奴(ぬ、な)国で、その南に狗奴(くぬ、くな)国が有り、男子を王と為し、その官には狗古智卑狗(くこちひこ)有り、女王に属せず、となっています。

魏の正始八年(247)倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼(ひめくこ)と素より和せず…相(互いに)攻撃する状(さま)であったらしく、魏の帯方郡では使者張政を遣わして卑弥呼に激を飛ばしましたが、張政が到着した時には既に卑弥呼は崩じて(原文では「死」)いたようです。

(*゜ー゜)ゞ⌒☆
狗奴国との戦争の最中、卑弥呼が崩御し、男王が立ったものの国中服せず、復た卑弥呼の宗女臺与(とよ)年十三なるものを立てて王と為し、張政はあらためて臺与を激励しています。

短期間立った男王を仲哀天皇、臺与を開化天皇の子孫(宗室)であった神功天皇とするならば、張政ら魏の後押しを得て臺与(神功天皇)、その息子応神天皇らが一気に狗奴国を滅ぼし、ヤマト王権の基礎を固めていったと考えても良さそうです。

魏志東夷伝倭人条の記述はその後、臺与が大夫率善中郎将・掖邪狗(やざく)ら二十人を遣わして張政を送って行かせ生口三十人、白珠五千孔、青大勾玉二枚、異文(珍らしい模様)雑錦二十匹を献上(貢)した記述で終わります。

一方、魏を滅ぼした司馬氏の晋朝についての史書(唐の時代に編纂)である晋書の四夷伝には、倭の女王が晋の初代武帝の父司馬昭が魏の相(相国)となる(魏の景元四年=263)に及んで何度か使者を遣わしたと記しており、また四夷伝に“秦始初(265)遣使重譯入貢”、晋書武帝紀に秦始二年(266)十一月五日に倭人が方物を献じたとあるところから、臺与が魏末晋初に頻繁に中国へ使者を送っていた様子がうかがえます。

臺与は、魏を後ろ楯に狗奴国との争いに勝利し、毎年の朝貢を行えるほど国力を高め、ヤマト王権の基盤を固めていたと考えて良いかもしれません。

神功天皇が皇祖神として(神武天皇を差し置いて)長年、崇め称えられてきた理由になりそうです。
また、毎年の朝貢が出来るということは、おそらく朝鮮半島にも勢力を広げていたのだ⁉️と考えれば三韓征伐の実態もあったと見ることも出来るでしょう。

晋の秦始初年とは、十二月に司馬炎が魏の元帝から禅譲を受け、匈奴南単于、四夷が参列し即位の儀式を盛大に執り行った年にあたります。魏に送ったはずの臺与の使者は、はからずも四夷の一員として晋武帝の即位の儀に列席することになったようです。
翌年十一月五日の貢を最後に倭の遣使の記録は百五十年間途絶えますが、ヤマト王権の確立の後ろ楯になってくれた魏が滅んだことが前年の使者が帰ったこと(使者の帰還まで半年から一年を要したと思われます)によって、それ以降、晋への遣使を見送ったと考える説もあるようです。

日本書記は、神功天皇の記事の註に、晋書の266年の倭女王遣使を記し、神功天皇=臺与を暗に仄めかしていますが、子の応神天皇を四世紀後半の人物とし、九州から攻め上って邪馬臺国を滅ぼし新たに応神朝が始まったと考える説、或いはそれ以前に崇神天皇が三世紀後半に邪馬臺国を滅ぼしていた説、また崇神王朝こそ邪馬臺国で、卑弥呼はヤマトトビモモソヒメ、臺与は崇神皇女トヨスキイリビメとする説、中国漢代の皇帝と同じ諡号を持つ孝昭、孝安、孝靈、孝元こそ邪馬臺国の王(この場合も卑弥呼は孝靈皇女ヤマトトビモモソヒメ)とする説など、邪馬臺国については様々な仮説があり、興味の尽きないところですね(*´・∀・`*)❗

( `・∀・´)ノ さて、内藤湖南博士が華奴蘇奴国に比定した磐田郡鹿苑神社…実はとんでもない山の奥に鎮座しているのです‼️

https://ameblo.jp/starless43/entry-12433411601.html




春野町の奥深い山中にひっそりと佇む遠淡海國最高神本宮小國神社

現存する遠淡海國最古の社です。

履中天皇四年(403)遠淡海國守護神を勧請し、磐田郡与利郷杉村神戸島に奉祀

延喜式神名帳 遠江国磐田郡鎮座 鹿苑神社

静岡県浜松市天竜区春野町杉字上ノ山485

祭神 
大己貴命 素戔雄命 猿田彦命 大山祇命 美知佐根命 品陀別命

嘉祥三年(850)文徳天皇の御代に従五位下
貞観二年(860)清和天皇の御代に従四位下
元慶五年(881)陽成天皇の御代に磐田郡を割ち山香郡を置く、この時磐田郡国府二宮に分霊
承平年間(931-938)小國神社と改称

古来は正国六音大菩薩社と称す。
歳々正月乾鹿壱石を貢とする習わしがあり、苑内に鹿を飼っていたため鹿苑神社と称された。

…あまり世に知られていないのですが、遠江一宮小國神社、二宮鹿苑神社の本宮は、天竜区春野町杉に鎮座しています。

延喜式神名帳にも載っている由緒正しき古社で、神戸島の地名は、現在門島(かどしま)として残っています。字の上ノ山は、神の山の意でしょうか?

神仏習合により小國鹿苑(おぐにかその)神が音読みされて正国六音(しょうごくろくおん)大菩薩と呼ばれていました。

磐田二宮への分霊を遷座とする説がありますが、本宮は現存しており分祀が正しいのです。

森町に鎮座する小國神社の創建は欽明天皇十六年(555)と本宮小國神社より百五十年程遅く、近年まで本宮小國神社大祭には、森の小國神社から必ず使者が参じていたようです。

本宮小國神社主祭神はオオナムチノミコト

オオナムチ神は大国主命の別名とされていますが、小國という神名の由来は、出雲(発祥の地)の大国に対して、出雲が滅んだ地だから小国という説もあります。

出雲族の残存勢力が天竜川を遡って信州諏訪へ逃げ込んだとするなら、天竜区付近で天孫族と出雲族の最後の戦いがあり、滅んだ出雲神の祟りを畏れて深い山中に小國神としてお祀りをしたということでしょうか…

与利郷を流れる杉川は下流の気多郷で気田川に合流します。
能登の気多大社、気多本宮の祭神もオオナムチノミコトですから、小國神=気多神ということになります。

秋葉大権現も江戸時代まではオオナムチ神であり、秋葉山を式内小國神社の比定地とする説もありました。

秋葉山や光明山の天狗の由来は出雲族が祀った天宮であるとは天狗研究家平野先生の説。

気田川流域は、出雲、オオナムチ神との強い結びつきがあるようです。

本宮小國神社祭神のうち、美知佐根命は聞き慣れない神名ですが、杉村から山を一つ越えた熊切川沿い長蔵寺地区の諏訪神社には菅原美知佐禰彦命が祀られており、おそらく菅原道真公のことと思われます。

磐田郡与利郷は、気多郷、大岑郷、岐階郷と共に山香郡として分置され深い山中であるにもかかわらず一郡が置かれました。

与利郷は、杉川流域(旧熊切村)から大井川西岸の川根地区までを含んでいたようです。

現天竜区龍山町大嶺辺りが大岑郷であったと思われ、のちの山香庄西手(北は瀬尻から南は横山、月、伊砂辺りまで)までを含んでいたと考えています。

大岑郷の北は平安時代以前は信濃国に属し、伊那郡奥山郷(現在の水窪町、佐久間町東部)であったと思われます。

気多郷は、内山真龍『遠江国風土記伝』を参考にすれば、気田川上流から下流の小川、更には相津付近まで。

岐階郷は、諸説ありますが…岐=クナト=二俣で、素直に考えれば二俣郷でしょう。
岐山(ふたまたやま)とは、山頂付近が岐(ふたまた)に分かれている光明山のことだろうと想定しています。

旧天竜区では、他に阿多古川流域は麁玉郡碧田郷。
鹿島は西が長上郡、東が長下郡といったところでしょう(長上、長下=長田郡は、磐田之海が干上がって出来た平野部と考えています)。

かつて二俣郷の旧名と考えられた壬生郷は磐田市匂坂付近が有力。山香郡とは別に磐田郡に属する山香郷は、旧豊岡村付近(敷地辺りから横川を含むと想定しています)が有力と思われます。

山間部ながら山香郡は独立した一郡が置かれたように、古代から人口が多かったと思われます。



そして、奇しくも山香郡の領域である現天竜区春野町、龍山町、旧天竜市域は、秋葉山本宮秋葉神社の氏地となっています。

山香郡が置かれた頃から秋葉信仰に繋がる山岳信仰が盛んになっていたと考えても良いでしょう。

明治の東洋史学者内藤湖南は、魏志倭人伝に登場する華奴蘇奴国を遠江国磐田郡鹿苑神社の所在地に擬定していますが、山香郡全域、秋葉の氏地に拡大して解釈すれば、ここに邪馬臺国(女王国)に属する一国があったとしても不思議ではない気がします。

https://ameblo.jp/starless43/entry-12433664391.html



縄文時代晩期から弥生時代にかけ、与利郷に縄文人が暮らしていたのは間違いないようですし、この遮光器土偶が発見された上長尾は、天竜区の大部分を占めていた山香郡内から発見された‼️という事実は見逃せません❗

春野町川上から川根本町上長尾まで直線距離で約七キロ。
峠を越えて活発に行き交う古代の人々にとって目と鼻の先程の距離なのです。

この秋葉山を中心とする山間地域、旧山香郡一円に古代から人々が暮らし、秋葉信仰へと繋がる山岳信仰の息吹は、おそらく縄文時代に源流があると思われます。

縄文時代前期(7000~5500年前)には、温暖化による海進(海水面の上昇)が進み、日本の平野部は大半が海に沈んでいたと考えられています。

遠州平野は天竜区二俣町鹿島から扇状に広がり、西の三方原台地、東の磐田原台地に囲まれていますが、この遠州平野一帯が「磐田之海」であったようです。

柳田國男「日本の祭」には、
“遠州の山住神社などは、海から数十里も離れた奥山郷であるが、そこでは祭には御潮取りに天竜川の下流、今では二俣のあたりまで行って川の水を汲んでいる。ここまでは海の潮が通うと見たのかと思う。”
と書いていますが、山住神社(奥山郷は平安時代以前は信濃国伊那郡)は縄文時代、この辺りが海であった記憶を伝えていたのでしょう。

実際に、満潮時にはここまで潮が来た、という「汐見渡(しおみど、しあみど)」という地名が今でも残っています。

縄文時代中期(5500~4500年前)には、天竜川を遡った長野県八ヶ岳付近で縄文遺跡が爆発的に増えています。この時代の長野県は全国的にみて人口密度が非常に高かったようです。



縄文中期後半(4500年前)の竪穴式住居が発見された天竜区熊(山香郡大岑郷の西端か?)のヒラシロ遺跡も標高六百メートルを超える高地にあります。

中部山岳地帯は氷河期であった旧石器時代から遺跡が多いのですが、信州産黒曜石が全国に流通しており、早くから広範な交易ルートが確立していました。

旧石器時代の遺跡としては50000~33000年前の野尻湖遺跡から67000点の化石遺物、250点の局部磨製石斧が出土。
世界的にも見ても群を抜く物量の遺跡で、世界初の磨製石器を作った日本の旧石器人、とりわけ中部山岳地帯が世界文明発祥の地とするイメージを膨らませる遺跡です。

氷河期終盤の遺跡としては、二俣町鹿島から一キロ程西よりに、本州最古、旧石器時代唯一の人骨「浜北人」が発見された根堅遺跡(18000~14000年前)があります。
狩猟民の行動範囲は非常に広範ですから、浜北人の生活圏は天竜区域にも及んでいたのでしょう。

氷河期が終わり、温暖化が進むと、遠州地方にいた浜北人の子孫の一部は、冷涼な信州の高地に移動していったかもしれません。

そして、高地に暮らした信州の縄文人が、再び寒冷化が進む縄文後期から天竜川を下り、遠州地方に進出してきたケースもあったでしょう。

縄文後期~晩期の浜松蜆塚遺跡、縄文晩期に謎の古代文字が刻まれた水窪石が発見された水窪遺跡など、遠州地方の隅々に多くの縄文遺跡が残されています。

平安時代の山香郡に相当する遠州山間地域は、縄文人の密集地帯であった信州の影響を受けながら山に暮らす人々が旧石器時代から連綿と暮らしていたと思われます。

寒冷化が進めば、海面が下がり、平野部が増えていきますので、自然と山から平野部へ移り住み、水田耕作が普及していくことになります。

そして、水田耕作の技術は、既に縄文人は持っていたとしても不思議ではないでしょう。
信州縄文人は、広範な交易ルートを持ち、遼河文明、黄河文明、長江文明とも交流があったようですから…

おそらく、弥生人が渡って来なかったとしても、この頃には水田耕作が普及していったと思われるのです。

!!ヽ(゚д゚ヽ)(ノ゚д゚)ノ!!

然し、縄文時代晩期になると、海を渡って東海地方の沿海部にも「もののふ」がやって来たようです…彼らの祖先は、海進期に海を渡って出ていった海洋系縄文人だったようですが、列島に残っていた山岳系縄文人との衝突は避けられなかったと思われるのです…

遠州にも山幸彦と海幸彦が一戦交えたと思われるエピソードが形を変えて遺されているのではないでしょうか?

( ・`ω・´)💡↑どうやらこの“もののふ”、海人族、徐福?たちの正体は、いったん(縄文早期~前期、鬼界カルデラ噴火期)日本列島から出て海外の海洋交易拠点に散らばっていた縄文人が帰還してきたものではないかと、その後の調査で明らかになってきています。今後、検証を重ねていきたいと思います。

( ・`ω・´)💡

“天武朝による縄文の巫女、比売神(ひめがみ)の封印"
https://ameblo.jp/starless43/entry-12546401943.html

“記紀では九州や出雲のこととされる神話が縄文遺跡密集地である東海甲信地方に伝承"
https://ameblo.jp/starless43/entry-12547697474.html
https://ameblo.jp/starless43/entry-12548504378.html

“縄文時代の東海甲信地方、関東地方には広域な経済ネットワークが存在した。
富士には35000年続く大集落がある"
https://ameblo.jp/starless43/entry-12552084456.html

“中国の史書や、記紀とは異なる古史古伝に描かれる海洋交易民族倭人"
https://ameblo.jp/starless43/entry-12529338312.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12530781620.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12534911239.html

(* ̄∇ ̄)ノ
邪馬台国については、様々な仮説が出され、卑弥呼が何処にいたとしても不思議ではない気がします。

然し、
中国の史書
古事記・日本書紀
偽史とされる古史古伝
は、
それぞれ異なるエピソードが描かれており、

どれか一つを重視することは出来ず、

全ての文献から断片を拾い集め、より古い時代や次の時代との整合性を取っていかなければなりません。

明らかなことは、
天竜川八ヶ岳富士の三角地帯には、
五万年前から連綿と続く膨大な遺跡群(考古学的知見)が確かに存在し、

東からやって来た❓シュメールが立ち上げた(アヌンナキに教えてもらった❓)西の文明(メソポタミア・エジプト・インダス)

炎帝神農氏から色々教えてもらった東の文明(長江・黄河・遼河)

の世界四大文明が、ある時から垂直に立ち上がっていくのに対し、

天竜川八ヶ岳富士には、ゆっくりと時間をかけて黎明期から徐々に立ち上がっていった文明の最古形があります。

それは、旧石器~縄文の古代倭人が、誰に教えられるでもなく、自分たちで創意工夫して時間をかけて育んでいった文明なのです。

天竜川八ヶ岳富士が世界文明の発祥の地であると考える理由がそこにあります。

そうした封印された歴史のアウトラインがはっきりしてくれば、

邪馬台国や史書、古史古伝に対する見方も変わってきますし、

今後もまた、何万年と、
人類がサスティナブルな未来を創り出していくための、大きなヒントになりうるのです。

( ・`ω・´)💡