ホツマツタエに書かれた「不都合な真実」~中国の史書から見た倭人③ | 縄文家族|天竜楽市

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『ホツマツタエ』15綾
ミケヨロヅナリソメノアヤ 
より一部を抜粋

 ココリヒメノ
 カタレルコトハ
菊理姫(白山神)の語るところによれば

 トコタチノ
 ヤモオメクリテ
国常立尊が世界を巡って

 ニシノクニ
 クロソノツミテ
 カニアタル
西の国で建国したクロソノツミテ(玄圃を統べる者)とは、夏王朝のことなのです

 ナモアカガタノ
 トヨクンヌ
 ヨヨヲサムレト
赤県(中国)のトヨクンヌ(国常立尊の子孫、豊雲野神)以来、代々(中国を)治めてきましたが

 トシオヘテ
 ミチツキヌルオ
年月を経て
「道(tao)」が尽きてしまい

 ウケステメ
 ネノクニニキテ
ウケステメが根の国(越=北陸)に来て

 タマキネニ
 ヨクツカフレハ
 ミニコタエ
豊受大神によく仕えたので(豊受大神は)心を打たれ

 ココリノイモト
 ムスバセテ
 ヤマノミチノク
 サヅケマス
菊理姫と義理の姉妹の契りを結ばせて、ヤマノミチノク(倭の「道」の奥義)を授けました。

 ヨロコビカエル
 ウケステメ
 コロビンキミト
 チナミアイ
喜んで帰ったウケステメは、コロビン君(崑崙王、転日の国=日が沈む国)と結婚し、

 クロソノツモル
 ミコウミテ
 ニシノハハカミ
クロソノツモル(玄圃を統める)皇子を生んで西王母となりました。

(以下略)

この少しあとに「シナキミイテテ」(支那君出でて)の一説もあり、ホツマツタエ15綾のこの前後の部分は、

中国王朝は倭人が建国した‼️の根拠になっています。

中国=支那という呼称が日本で使われ出したのは、中世以降です。

『ホツマツタエ』の成立は、諸説ありますが、古くても中世以降という説が主流になっています。

中国王朝は、春秋時代以前から自国を「中国」と呼んできましたが、これは日本の「中つ国」と同じ意味になります。

日本の天皇が中国を指して「支那」と呼ぶときは、「本朝(日本)こそ真の中華」という主張ですので、中国政府は日本の天皇が「支那」と呼ぶことを警戒してきました。

『ホツマツタエ』が成立年代が新しそうだとしても、戦後に再発見されて以来、頭から「偽書」と決めつけられているのは、成立時から唐の知識層にも読ませることを想定して省いてしまったエピソードを載せてしまっているから…かもしれませんね(* ̄∇ ̄*)⁉️

ホツマツタエの成立が、より古いものと解釈する場合は、シナ=科野(しなの)とするようです。

赤県=中国というのは、戦国時代、斉の鄒衍が、中国は世界の81分の1に過ぎず、赤県神州という一つの州であるとしていることが根拠になっています。

玄圃は中国伝承で崑崙山にある神仙の住む場所。

崑崙山は、黄河(河水)の源とされ、現在の崑崙山脈の支脈であるバヤンカラ山脈が黄河の水源地となっています。
またバヤンカラ山脈は河水と江水(長江)の分水嶺でもあり、長江の支流もいくつか流れ出しています。

八ヶ岳が天竜川の水源地であり、千曲川(信濃川)支流との分水嶺となっていることと似ていますね…


『契丹古伝』にしろ『竹内文書』にしろ、戦前は日本の天皇が大東亜を統一する根拠として研究されたこともありましたが、戦後には「偽書」の烙印を押さざるを得ない事情がありました。

戦後の日本が教科書含め、これだけ中国に忖度しているにもかかわらず…

中国の研究者が堂々と

“炎帝と黄帝が戦い、勝った黄帝の子孫が漢民族の祖となり、敗れた炎帝の子孫が日本の天皇になった"

という説を唱えている…のは既にお伝えした通りです。

炎帝神農氏は、黄帝より先に王朝を開き、中国文明の基礎を築きました。

炎帝神農氏とは、まさに国常立尊なのです‼️

国常立尊は縄文思想(倭の「道tao」の奥義)をもって中国を治めたのです。

これが、春秋の知識人が上古の聖人の思想として尊んだ「道」の始まりです。

孔子も、この思想を理想として儒学を興したのです。

論語に

子欲居九夷、
或曰…如之何、
子曰、君子居之、
何…之有、

とあり、

孔子は九夷(東にある君子のいる国)に住みたいと言いました


子曰、道不行、
乗※浮于海、
従我者其由也與、
子路聞之喜、
子曰、由也、
好勇過我、
無所取材

※=いかだ

子曰く、道行われず、いかだに乗りて海に浮かばん…

(弟子の)由なら一緒に行ってくれるだろうが、彼は筏の材を調達出来ないだろう…

『漢書』

故孔子悼道不行、
設浮於海、
欲居九夷、有以也夫
楽浪海中有倭人…

漢書では、孔子のいう「九夷」とは倭人の国のことだろう…としています。

大阪府国分神社所蔵海東鏡(茶臼山古墳出土)の銘文には

「吾作明竟真大好浮由 天下 □ 四海用青同至海東」

と記されており、鏡の作者が、「浮遊」とすべきところをあえて「浮由」としたのは、この故事に倣ったためで、
「孔子は倭国に行こうとして実現出来なかったが、私(鏡の作者)は遂に倭国に来たのだ」との思いを刻んだと考えられています。

孔子が憧れた君子のいる国とは「九夷」
そして「九夷」とは倭人の国であると、漢代の中国人は考えていたのです。

然し、孔子の縄文思想の解釈には誤りがあるとして、孔子を批判した老子は、あらためて縄文思想を『老子道徳経』にまとめ、「道」の教えとして道教の経典になりました。

中国には老子が仏陀に「道」を説いたという伝承もあるようです。

道教の源流は老子より古く、
神仙は東の海の彼方にある蓬莱山、西の果ての崑崙山に住むとされています。

崑崙山上の天界(高天原)を統べる最上位の女神が西王母であり、

東海の扶桑の国、蓬莱山にいる最高神が東王父(豊受大神、ホツマ君)になります。

中国では、扶桑の国は日本、蓬莱山は富士山であると考えられてきました。

『三國志』が編纂された晋の時代279年に、戦国時代の魏の襄王の墓が荒らされ、そこから秦の始皇帝の焚書を免れた『竹書紀年』が発見されます。

竹書紀年の夏王朝時代の記録には「九夷来御」と記されていました…

来御とは夏后(夏の王)より上位の存在を意味します。

夏后の上位が「九夷」であると、確かに記されていることは、晋の知識層にとって衝撃的な事実でした。

もともと、夏后の祖は東夷であり、夏王朝以前の帝舜も東夷の出身とされていたので、古代中国は九夷(東夷)=倭に支配されていたのだと三國志の著者である陳儔は確信したようです。

三國志魏書東夷伝の序文には、

「中國失禮,求之四夷,猶信。」

中国が礼を失ったときには四夷に(教えを)求めるだろう…

と書かれています。

東夷伝では、烏丸、鮮卑を含め、九つの“夷"が記されていますが、そのうち海を渡ってくる“夷"である「倭人」にだけ“人"をつけています。

華人が教えを請うべき四夷とは「倭人」に他ならないのです。

のち、晋が匈奴や(陳儔が東夷の一つとした)鮮卑に終われ、江南へ亡命政権を樹立すると、漢民族のナショナリズムが高まり、華夷思想が生まれ、華より夷を上とする陳儔は批判に晒されました。

然し、中国の士人、道士には中国に文明を伝えた東の海の彼方の民に対する憧憬があり、道教の思想として民間に根付いていったのです。