縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



浜松市天竜区の神社には多くの出雲神が祀られています

諏訪神タケミナカタ
気多神オホナムチ
岐神(二俣神)クナト(=サルタヒコ)
弁財天アラハバキ(=スサノヲの娘イチキシマヒメ)
そして
縄文中期の諏訪の王スサノヲ




クナトノ大神威様
アラハバキノ大神威様
の結界は今も
修験者(ラビ)が守っており
山岳地帯の磐座を中心に張り巡らされています。

諏訪大社(御神体山は守屋山)御頭祭は
75頭の鹿の頭を神饌とします。

ユダヤでは75頭の羊の頭を神饌とする神事(イスラエルのモリヤ山で行われる過越祭)を行った。

遠州光明山、秋葉山には
フタマタノオロチ退治に由来する75膳献供の神事として伝えられています(サマリア人はゲリジム山で75頭の子羊を屠る神事を行った)。

出雲族の伝承によると
クナトノ大神威様とは

エジプト新王国時代第18王朝のファラオで
アマルナ革命を行ったアメンホテプ四世(アクエンアテン=イクナートン)と関連があると云う。

エジプトで一神教への宗教改革が失敗したのち、
イクナートンとアテン神を崇拝する司祭オサルセフが民を引き連れエジプトを出るのですが

・オサルセフはモーセと名を変えた

・オサルセフはエジプトで神々(アメン神を中心とする八百万の神)への崇拝を止めさせ、聖なる動物の肉を食べるよう命じた

・神はエジプトに初子を撃つ試練を与えた

・神は二本の門柱と鴨居に羊の血を塗っている家は災いが過ぎ越されるとモーセに伝えた(⛩️鳥居、過越祭の起源)

このようなエジプトの伝承から
モーセ一行のうち何人かは日本へやって来て
クナトを祀り
過ぎ越しの神事を伝えたのではないかと考えられています。

アマルナ革命(BC1358~1336)

モーセの出エジプトはBC1290頃

(映画『ハムナプトラ』の時代設定はBC1290にファラオを殺害したイムホテップが20世紀に復活、大災厄を及ぼす=クナト再臨を示唆)

この頃、中国では漢字が龜卜の骨に刻まれるようになります(卑弥呼の龜卜は殷と同じ方法『三國志』)。

甲骨文字の記録は殷(商)王朝第23代国君である武丁(在位BC1250~1192)の時代から残されています。

武丁の時代、殷は勢力を拡大し
土方、貢方、基方、苟方、人方、鬼方を次々と従え
合計で81の敵国や反乱した方国を征服しました。

殷はイ(夷、衣、委)であったと考えられ
アルタイ語を話す東夷族であり

郭沫若は漢字は東夷族が作ったとしています
SOVのアルタイ語を簡略化しSVOの文語体で記録したものが甲骨文であると

日本や契丹では
漢文で記録し、これを口語で読み下す運用をしてきましたが、
漢文をそのままの語順で読む周代以降の中国語ではなく、

こちらが本来の漢文の運用方法であり、異なる言語や方言(それぞれの方国で使用される言葉)を超えて意思の疎通を図れるツールとして漢字が使用されるようになったのです。

人方は山東の低地に住む委人で、のちに #倭人 と呼ばれるようになります。

鬼方は山西の高地に住む委人で、地名の魏になります。

委は禾=稲(本来は粟)を振って舞うシャマンを意味します。

鬼は高いを意味します。
倭は低く舞う様を表します。

漢字の原義として
そもそも「人」とは倭人のことを言ったのです。

『三國志』で陳壽は
古の東夷、九夷とは倭人のことであると断言しています。

殷は倭人の王朝であり
漢字を作ったのは倭人ですから、本来の「倭」に悪い意味があるはずがないのです。

中国文明を作ったのは東夷族であり、その中核部族である倭人とは、日本から海を渡ってきた #縄文人 なのです。

武丁の時代の殷は生産技術が発展し
婦好、婦癸らの女性が将軍として活躍しました。

武丁は宗教改革を行いました。

それまで殷の国君は王であり
東の天帝(日本にいる帝俊)を上帝として祀っていました。

武丁は自らを帝と名乗ったのです。

これまで発見された甲骨碑文の70%は武丁の時代のものです。

武丁は、それまでのように王が神を祀るのではなく、
自らを神(帝)としました。

これは、自らを現人神としたイクナートンのアマルナ革命に通じる宗教改革と言えます。

そして、力をつけた殷王が
東の天帝に背き、権力を集中させ

王家の出身母体である人方と激しく争うようになったのです。

殷の王は
甲乙丙丁といった十干(10の太陽)を示す名を持っており
殷王家は10支族に分かれていたと想定されています。

古代中国に伝わる射日神話は、他の9つの太陽を撃ち落とし、現王家へ権力の集中を示すエピソードと考えられますが、

武丁期以降、殷王家と他の方国との争いが激しくなってきました。

殷周革命(BC1046)により

周方(スハ)は殷に代わって中国の主となります。

周は西夷とされています。

周方と共に殷打倒に燃えたのが羌方です。

羌族(古羌)は羊をトーテムとする遊牧民でした。

現代、イスラエルでは古羌の末裔とされる中国の少数民族である羌(チャン)族をユダヤ人として認定しています。

周方を助けた羌方は斉を建国(姜姓呂氏、太公望呂尚)

武丁期以降、羌族は殷人から激しく弾圧されていましたが

姜斉の初期の君主は
2代丁公
3代乙公
4代癸公
と、殷王と同じく十干から名付けられており、太陽崇拝であったと想定されています。

・姜姓の祖は炎帝神農氏(スサノヲ)炎帝=炎尊(彦火火出見尊)

・斉の文化は日本と共通点が多い

・稲作は斉の美田(山東半島)から伝わった

・弥生時代の日本には山東と共通の支石墓や
山東人と想定される人骨が発見されている

などの神話伝承や考古学的知見から

出雲と斉の関係に関心が持たれてきました。

古ユダヤ=古羌=斉=古出雲

出雲族とユダヤの関係は確かに歴史的にも繋がりが示唆されるのです。

#日ユ同祖論 は
明治維新後すぐにスコットランド人のノーマン・マクラウド、N・マクレオッドが提唱し、広まっています。

日本にハザールユダヤ資本が入ると同時に英国人が広めた、というところに

ハザールのプロパガンダではないのか❓
という疑念はあるのですが😅

また、

秦の始皇帝の実父は呂不韋(姜姓呂氏)であり始皇帝はユダヤ人である‼といった

『日ユ同祖論』者がしきりに秦氏をユダヤ人認定したがるのは眉唾モノであると思います🤣🤣🤣

戦前には
極東の #緑ウクライナ計画
#河豚計画 など
ハザールユダヤが積極的に東方進出を企図しており

日突同祖論である
#トゥーラニズム
(ウラル・アルタイ語族学説)

日満鮮同祖論(東夷族の原郷は大凌河)

との対抗でハザールユダヤが積極的に流布した可能性も否定出来ません🤣

シュメル(回転縄文~回転印章)や
エラム(都はスーサ‼牛トーテム‼牛頭天王‼炎帝‼スサノヲ‼)
がアルタイ系に近い膠着語を話し、おそらくアジア人だった

・エラム➡ドラヴィダへアルタイ語要素が伝わった(日本語タミル語接触言語説)

・ナトゥーフ文化と草創期縄文文化の酷似

・ナトゥーフ人はわざわざ洞窟内に草葺屋根の木造竪穴式住居を建てた

・メソポタミアでも何故か初期の住居は現地の気候にそぐわない木造掘立柱地下ピット式(つまり竪穴式住居)

・エジプトの都市伝説では、ピラミッドは日本人が来て建てた

・トルコ人と日本人は兄弟(ユーラシアステップを介して交流があった)

・古代テュルク人は海の民だった(地中海~黒海~カスピ海~ユーラシアステップ~日本海の交易ルートがあった)

・フェニキア人と倭人が交易していた(浜松市天竜区の縄文遺跡からフェニキア文字❓トヨクニ文字❓に似た碑文が発見 #水窪石)


・エジプトとバビロニアの狭間にいたフェニキア人(カナン人)がユダヤ教に改宗し、#ラダナイト となり、フェニキア人~倭人の海洋交易ルートとステップ交易ルートを継承、
ラダナイトはハザール可汗国を乗っ取り、#ハザールユダヤ となった。

以上から

モーセが日本に来てクナトを祀った

ハザールユダヤの原郷は縄文時代の日本である(古出雲族)

その原郷とは
黒曜石交易の中心として36000年間繁栄した
諏訪である‼


クナトの封印が解かれたとき
メシアが再臨し
諏訪にイスラエル建国を宣言する‼

超正統派ユダヤ人が大挙して日本へやって来る‼

我々が真の日本人、出雲族である‼

大凌河から帰還する天孫族にくっ付いて来た中国人の子孫=大和族は出ていけ‼

🤣🤣🤣

シオニストというのは
こうした理論展開で
ハザール可汗国を奪ったように
世界各地で他国を奪っていく人達😱

ウクライナ最初の憲法
『オルリク憲法』
コサックはハザール人である‼
ロシア人を倒し
ウクライナ(=復活ハザール)を建国すべし‼

第一次世界大戦中に
ハザールユダヤは
ボリシェヴィキ革命を起こし
ウクライナ・ソビエト社会主義共和国(ハザリア2.0)を建国

第二次世界大戦後
ハザールユダヤは
(仮の)イスラエルを中東に建国

そして、第三次世界大戦によって…

🤣🤣🤣🤣🤣🤣

中世イスラムの文書によれば

ハザールでは時に
時間はゆっくり流れ
時に巻き戻される
ハザール人には昼の顔と夜の顔がある
ハザール人は子供の頃から他民族になりすます教育を受ける

ハザールの伝説によれば
過去と未来、全ての創造物は溶け合って交ざり合わさっている

ハザール人は時間ではなく空間に未来を見る

「時間と空間を分けずに時間と3次元空間が混然一体となった4次元時空としてとらえたほうがうまく説明できる」
アインシュタイン(ドイツ系ユダヤ人であり、シオニスト)

「時間は幻想。過去・現在・未来はすべて同時に起きている」
ブロック宇宙論

ハザール人の言葉
「夢は魔界の庭園に他ならない
現在、夢は現実との交換以外に成立しない」

ハザール人は時空を超え
永い年月を費やして
形而上のあらゆる創作(捏造❓)を行い
必ず野望を形而下に実現する

現実の世界で
現在、それに抗っているのは
ロシアと中国である

そして、一神教を捨てテングリに帰るべし、というカライ派の言葉に日本人は耳を傾けるべきでしょう。

一神教

イエスの再臨(ハルマゲドン)で救われるのは
イエスを信奉する僅か14万4000人
それ以外の、私たち含む異教徒は
サタンと共に地獄に落ちます😱

一方、
東洋の未来仏弥勒菩薩(マイトレーヤ)
遍く衆生96億を救済します🥰🤗🥰🤗

マイトレーヤ
ミトラス
アマテラス

太陽神は同一です

アメン神=アメ
アテン神=テン

日本人は
八百万の神(テングリ)信仰に立帰り
ロシア中国と力を合わせ
多民族共生、異文化共生、
共存共栄を実現し
誰もが救われる未来を目指さなくてはなりません





ウクライナ戦争の原因の一つとされ、

陰謀論界隈の主役として悪名高いハザール

日本ではその歴史は殆ど知られていないが、
歴史から現在を知り未来を予測するためにハザール史の知識は重要である。



ハザール可汗国(628~969)

中世において非常に強い影響力を持った国家を形成し、

黒海、ハザール海(カスピ海)とコーカサス、草原に君臨した。

テングリズム、
ユダヤ教、
イスラーム、
キリスト教に属する多様な集団を内包し、

ハザール可汗は祭祀王として君臨。

精強な軍隊と
交易ネットワークを駆使し、

一時は
ビザンツ帝国、唐と並び
世界の三大国家の一つとなった。

その複雑な歴史は、現代も東欧、中東社会に影響を及ぼし、ロシア、ウクライナは今まさに、ハザールの地を巡って激しく対立している。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧
それでは、これまで日本人が誰も書かなかった
知られざるハザールの歴史の闇に迫っていきます🔱( °᷄▽°᷅ )🔱



ハザール(Xazar、Khazar、Qazar)
の語源として

farsiファルシ(ペルシャ)、
Cesare、Kaiser(カエサル)、
「抑圧する」というテュルク語の動詞、

に由来するといった諸説がある。

ハザール可汗の最初の信仰であり、アルタイ諸語の遊牧民に広まったテングリと呼ばれるシャーマニズムは、

日本の神道に通じるものがあり、

その起源は、シュメル語の ディンギル(「空」) 、
古ノルド語の トール( Þōrr、北欧神話の雷神)、
中国語 で「空」を意味する天
に通じているという。

メソポタミアの記録にそれらしい部族が記録されている。

スバルトゥ、スビル(アッカド語Šubartum、シュメル語 Su-bir )は、

古代メソポタミアのアッカドから見て北に位置する蛮族。

シュメルでは、
「天幕に暮らし、神々の場所を知らず、動物の如くつがい、神への奉納を知らない」とされ、

都市に拠らずテントを建て移動する遊牧民が想定される。

ウルの王シュルギ(BC2094~2046)の碑文に、北方の恐るべき国として記録された。

スバルトゥはフルリ人の影響下にあったとされ、
ヒッタイトとの条約で言及された神の名Unag-astuasは、

アルメニアで今日も神の名であるAstvats(古典アルメニア語:Astuas)に関連し、

シュメルのネルガルと同一視されるアストゥバヌ(フルリ人の信仰では軍神アシュタビ)由来の可能性もあるという。

また、歴史家の一部はスバルトゥはチグリス川のアッシリア(Assyria)の初期の名前としている。



アゼルバイジャンの言語学者ガザンファル・カジモフは、

紀元後にフン族と共にアルバニアに戻った(ハザール可汗国の母体となった民族の一つ)サヴァールsavarların
が 

BC3千年紀にシュメール人の 北、ザグロス地方に住んでいたスビル族の一部であることは疑いようがなく、

フン族は 3000 年前にシュメル人の近くにいたスビル族と同じルーツに由来という。

Savirs(サヴィル)、Suvars(セイバーズ、スヴァール)と呼ばれる民族は2~6世紀にカスピ海沿岸にいた遊牧民で、

サヴィル人の一部はダゲスタンに居住し、
「アルメニアのヘロドトス」と呼ばれるモブセス・ホレナツィ(410~490)は、彼らをカスピ海のフン族と呼んでいる。

557年にアヴァールの攻撃を受け、
一部はアヴァール人と混ざりながらトランスコーカサスに移住し、アゼルバイジャン人の祖先の一つとなった。

※558年に西進を開始してローマ人に認識されるようになり、
568年にはハンガリー平原を制圧し突如として大帝国を築いたアヴァールは、
考古学的にも
支配層が北東アジア由来である蓋然性が高まっている。
最初にアヴァール=柔然説を唱えたのはフランスの東洋史学者ジョセフ・ド・ギー二ュ(1721~1800、彼はフン=匈奴説の提唱者であり、漢字はエジプトのヒエログリフ起源と唱えた)。
アヴァール=柔然(鳥丸)
フン=匈奴
クマン、カイ(オスマン王家の出身部族)=庫莫奚=韃靼
といった(チンギスハンのみならず)東洋の遊牧民が度々、西洋に侵略したとする説は、遺伝的にアヴァール支配層の東アジア由来が確認された事実に伴い(欧州の歴史学界において)近年急速に支持が高まってきた。
突厥の攻撃による柔然可汗国の崩壊は555年。

アヴァールの侵入を受けたサヴィル人の一部は北に撤退して突厥の支配を受け入れた者もいた。

7世紀には大半のサヴィル人はブルガール、ハザールに吸収され同化していくが、

ダゲスタンに残ったサヴィル人はフン族の王国 (サヴィル)を立て、

ハザール可汗国の影響下にありながらも10世紀まで独立を保ったという。

ビザンツ皇帝コンスタンティヌス7世は
“De administrando Imperio “『帝国の統治について』で、

 Tourkoi (マジャールのビザンチン呼称) は、以前はSabartoi asphaloi (「信頼できるセイバー」) として知られていたと述べている。

ハンガリーの言語学者ヤノス・ハルマッタは、
szabarsはサカ、スキタイ出身だとしている。

また、
サウロマタイSauromataをサヴィルSzabars と関連付け、その隣人であるMateroiをマジャル人と関連する部族とする説もあるが、

サヴィル人の一部がマジャル人(ハンガリー人)になったと考える研究者も多い。

マジャル七部族と
カヴァール(ハザールの分家)三部族によってハンガリーは建国され、

アルパード家はアッティラの子孫であり、阿史那氏と姻戚関係を結んでいたという。

また、現代のロシアのチュバシ族の名は、suvarに由来するとされ、サヴィル人の末裔とされる。

ハンガリーの言語学者ジュラ・メネスは
Säbir/Sabïr/Sabar/Säβir/Sävir/Savar/Sävär/Sawār/Säwēr のトルコ語の語源を語根 * sap- 「道に迷う」
=遊牧民だという。

アラブのヘロトドスと呼ばれる歴史家アル・マスディ(896~956)は、
ペルシア語のハザール
テュルク語のサヴィール
は同源だとする。

また、
サヴィールSavirsから
シベリアSiberiaの名前が発生した可能性を指摘する研究者もいる。

🤔

スビル、サビル、サウロマタイの名でコーカサス、黒海、ハザール海、草原に現れた民族は共通した集団であり、

現代も中東から東欧にかけて、その後裔が存在する。

19世紀以降、
シュメル、アッシリア、セイバー(サヴィル)、スキタイ、フン(=匈奴)の後裔として
ウラル・アルタイ語を話す遊牧民トゥーラーンの結集が提唱され、
第一次世界大戦、第二次世界大戦をハンガリー、ブルガリアはトゥーラニズムを掲げて戦い二度も敗戦国となった。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧


スキタイ、フン(匈奴)、突厥といった遊牧民は、

コーカソイドの印欧語族から
モンゴロイドのアルタイ語族まで多様な集団がいたが、

ユーラシアステップを駆け抜け、

黒海とカスピ海の間からコーカサス山脈を越え、シュメルの時代から存在が確認されていた。

シュメル語もアルタイ諸語同様の膠着語であり、

黒髪のシュメル人も、最初はステップを通って来た東方のモンゴロイド(縄文人🤣⁉️)だった可能性がある。

ウラル・アルタイ語族は(その危険性から)歴史上何度も否定されてきたが、

上述の通り、近年では
東欧のフンやアヴァールの遺跡から出た支配層の遺骨が、ゲノム解析により東アジア人の可能性が高まり、

フン=匈奴
アヴァール=柔然or鳥丸説も、ヨーロッパを中心に確実視されるようになっている。

考古学的に印欧語族も月氏やサカなど中国付近に進出していることが確かめられ、遊牧民の広域な活動、広範な交易ネットワークの存在が明らかになってきた。

新たにトランスユーラシア語族が提唱され、
その原郷が遼河付近
(遼河は東胡、庫莫奚の故地)
で、
日本語と弥生人の起源を遼河とする最新の学説は
トゥーラニアン(ウラル・アルタイ語族同源)学説の焼き直しに過ぎないが、
最新の遺伝子学、考古学に基づいた仮説である。

トゥーラニズムでは、
テュルク系民族の汎トルコ主義を
ウラル・アルタイ語を話す全ての民族(テュルク系に加え、フィン、マジャル、モンゴル、満州、朝鮮、日本人、シベリアの諸民族を含む)に拡大し、
「全てのトゥーラーニアンは兄弟であり、協力しなければならない」とした。

現代でも
ハンガリー、トルコ、キルギス、カザフなどで
「日本人と兄弟」
という発言が見られるが、
彼らが信じているトゥーラーンの歴史に起因する。

トゥーラニアンに
モンゴル、満州(東胡)
日本、朝鮮(東夷)
は含むが、

中国(漢)は含まない

この点は重要(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

第一次世界大戦では、
オーストリア・ハンガリー帝国とオスマン・トルコ帝国は、
トルコ人とハンガリー人を団結させ、スラヴ人と汎スラヴ主義がもたらす危険に対抗する手段として、トゥーラニズムを奨励した。
トゥーラニズムは、重要なトルコ-オーストリア-ハンガリーおよびブルガリア-オーストリア-ハンガリーの軍事および戦略的同盟の創設に繋がる。
これらの同盟は、北ユーラシア全域にトゥーラーンの帝国を拡大する目的によって第一次世界大戦を戦い、敗北した。

ハンガリーでは、第一次世界大戦の敗北後、より強い民族意識の高まりが見られ、トゥーラニズムは更に勢いを得た。

ハンガリーは、 
1923 年にトルコ共和国と 、 
1937 年にエストニア共和国と、 
1937 年にフィンランド共和国と、 
1938 年に日本と 、ブルガリアと友好協力条約に調印した。

ハンガリー人(マジャル人)には
東と西を仲介し、統合する力があると信じられ、
トゥーラニズムは
日本とドイツの同盟にも影響を及ぼした。

オーストリア・ハンガリー帝国の崩壊後に成立したハンガリー王国では、
ホルティ・ミクローシュが摂政となり、国王は空位のままであったため、
日本の皇族をハンガリー国王に迎えようとする動きさえあった。

日本にもツラン協会の支部が置かれ
ハンガリーの民俗学者バラートシ・バログ・ベネデクはアイヌ研究のために来日する一方、日本でのトゥーラニズムの普及を訴えている。

トゥーラニズムを掲げたハンガリー、ブルガリアが第一次世界大戦に続いて、第二次世界大戦でもドイツ、日本と共に敗戦国になったのは周知の通り。

二度の世界大戦と
トゥーラニズムが深く関係しているのは事実であり、

二度の対戦で激しく戦ったのは
ハザール可汗国の影響が及んだ地域の国々であったのは、
紛れもない事実である。

平和主義(❓)の研究者は
ウラル・アルタイ語族や
ハザール=アシュケナジム
を懸命に否定するが、

ウラル・アルタイ(トゥーラーン)、
ハザール
が歴史に与えた影響、

今もまた

ウクライナの戦況、
第三次世界大戦の行方に
トゥーラーン、ハザールの歴史が
大きく関係している事実は
否定しようがない。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧





ヘブライ語聖書のアシュケナズはノアの子ヤペテの孫、ゴメルの長男、リファトとトガルマの兄弟。

アシュケナズの名前は、ユーフラテス川上流地域のアルメニア高地からキンメリア人( Gimirrāi )を追放したスキタイ人のアッシリア人Aškūza ( Aškuzai 、Iškuzai )に関連しているとされる。

10世紀モロッコ出身カライ派の賢者デビッド・ビン・アブラハム・アル・ファシは、アシュケナズを ハザール の祖先と特定。

ハザール可汗ヨセフ・ビン・アーロンは960年の書簡でハザールはヤペテの孫 トガルマ (アシュケナズの兄弟)の子孫であると明言。

カインの末裔 トバルカイン や、ヤペテ、アシュケナズは スキタイ 、フン 、ヒッタイト との関連が古くから指摘されてきた。

アシュケナズ由来とも云われる北欧神話の
アース神Ás, Áss
複数形Æsirエーシル
(ゲルマン祖語ではansuz)、
女性形ásynja

ハザール可汗はAnsāの子孫に属すとされている。

アース神族の雷神がトールであり、
トゥーラーン(アルタイ諸語を話すスキタイ)の語源となった。

印欧語を話すスキタイはイーラーン(アーリア人)で、

イーラーンはトゥーラーン(中央アジア)より出づる、とされた。

Ansāはansuz、ásynjaとの関連から、

阿史那氏(突厥可汗家)=アシュケナズと同定する研究者が欧州に多い。

Ássは
アジアの語源とされるAssuwa(ヒッタイト語、アスワ州の連合はBC1400頃ヒッタイトに反乱したが失敗した)

アッシリアAssyria、
(アッシリアの都市)Aššur(アッシュル、神の名でもある)
にも通じる。

白鳥庫吉は
阿史那氏は烏孫âswin
の後裔であるとした。

最初のハザール可汗は西突厥の統葉護可汗、
続いて甥の步利設の後、
乙毗射匮可汗(西突厥)。

840年、カバール を率いてハザール可汗に反乱を起こしたトゥヴァン・カガンがスカンジナビアの貴族と結婚し 
ルーシ可汗 の父となったという。

ウクライナ出身の中世ウクライナ史学者オメリヤン・プリツァク(1919~2006)
は、

ハザール可汗国とキエフ大公国に関する詳細な研究で知られ、

Khan-Tuvan Dyggviという名前のハザール可汗が内戦に敗れ北欧に逃れ、スカンジナビアの貴族の娘と結婚し、
ルーシ可汗国の祖となったとしている。

ロシアの歴史科学博士であるアントン・アナトリエヴィチ・ゴルスキー(1959~)も、この説を支持している。



現代のウクライナの国章は、
ルーシ可汗国が歴史的に使用していたタムガであり、
ハザール可汗国起源であることが確定している。

つまり、
ウクライナの歴史家も
ロシアの歴史家も、
ウクライナとロシアのルーツが
ハザール可汗国にあると
明言しているのである(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

※ルーシ可汗国は リューリク朝 キエフ・ルーシの前身で、のちのロシア、ウクライナ、ベラルーシに発展。
820年代、カバール三部族はハザールに反乱し失敗、一部はマジャル人七部族と合流してハンガリーに向い、
一部の Kabars が Rus とともにキエフに定住し、830年代にルーシ可汗国が成立。
その後、可汗号の使用は控えていたようだが、
キエフ公スヴャトスラフ一世は965年、ハザール可汗国を攻め、ハザールの弱体化に成功。
彼と、その子のウラジミール一世はハザールのトライデント🔱を使用し、この頃のキエフ大公も可汗の称号が使われていた記録が残っている。

ハザール分家のリューリク朝が本宗家のハザール可汗国を事実上崩壊させ(その後も小国に転落しながらハザールは11世紀まで細々と継続した)、ハザール後継を名乗ったと言える。

阿史那可汗家は分裂を繰り返し同族同士で争いを繰り広げながらも永らく繁栄を保ち、ヨーロッパの貴族カガン家、中国の史家など子孫は世界各地に残っているという。

🔱( °᷄▽°᷅ )🔱

まとめると、

トガルマの子孫とされのは、
ハザール、アヴァール、ブルガール、カバール、サビル、ウイグル、オノグル(ハンガリー)、ペェシネグ、オグズ、アラン、デュロ家(ブルガリア王家)など。

阿史那氏は
突厥、
ハザール、
カラハン朝、
ブルガリアのアセン朝
の王家であるとされ、

分家のカヴァールは
ルーシ可汗国、
ハンガリーの建国に関わった。

トガルマの父ゴメルの末裔(トゥーラーニアン)は中国からヨーロッパまで世界中に存在。

アシュケナズ=阿史那氏はステップ交易の覇者。

旧石器時代からヨーロッパと北海道を犬ぞりで疾走していた黒曜石&毛皮交易集団の末裔。


ステップロードは中東、欧州と韃靼、日本をずっと繋いできた。

東の草創期縄文文化と
西のナトゥーフ文化(コーカサスからレバント)
は、
ナトゥーフが土器を持たない以外は酷似した文化であり、
ナッツを採集し、石皿で粉に挽いたデンプンを主食とし、掘立柱の茅葺竪穴住居に住んだ。

やがてアルタイ祖語の膠着語を話すシュメル人がステップ~コーカサスを南下し、メソポタミアで最初の文明を築いた。



コーカサスに留まり黒曜石や金属の採集をしていたアルタイ語集団がスビルと呼ばれた(ここからアッシリアやヒッタイトが出た)。

のちにスビル(サヴィル、セイバー)は、スキタイと呼ばれ、アシュケナズと同一視されるようになった。

サヴィル(スキタイ)集団は
匈奴の支配層に率いられればフン、
柔然(鳥丸)の支配層に率いられればアヴァール、
突厥阿史那氏に率いられればハザール、カヴァールと呼ばれた。

ハザール可汗国の影響下で
ロシア
ウクライナ
ブルガリア
ハンガリー
に繋がる最初の国家が建設された。

この地域は、
第一次世界大戦
第二次世界大戦
そして、
第三次世界大戦の
発端となった。

(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

また、
カザフ( Qazaqs、Kazakh)も、
ハザール(Qazar
Khazars)に由来するという。

カイラット・ザキリャノフは、日本人とカザフ人の 遺伝子プールは80%同一であると主張。

紀元前17世紀に中央アジアの遊牧民がアフリカ、小アジア、バビロンに侵入したとしている。

彼はまた、チンギス・ハーンとその子孫のおかげで、ヨーロッパは医学、占星術、代数などについて学んだ、と言い、

ヨーロッパに対するトゥーラニアンの優位性を主張する。

カザフ、キルギス、ハンガリー、トルコには、
現代もトゥーラー二ズムを主張する人々がおり、
西側に対し、
あくまで東側の立場に立っている。

ロシア対ウクライナは、
今のところ東側の内部の争いであり、
カザフ、キルギス、ハンガリー、トルコも、
侵略された側のウクライナに寄り添っているが、

ウクライナに西側諸国が介入し、

戦争が東側対西側の構図になってくれば、

話は別である。

ロシアによるウクライナへの侵攻は容認しないが、

西側によるトゥールの地への侵攻は、
トゥーラニアンの戦闘民族の血を呼び覚ますことになる。

メテハン(冒頓単于)の匈奴単于国
アッティラのフン
柔然可汗国とアヴァール可汗国
阿史那氏のギョクテュルク、ハザール可汗国、カラハン朝
耶律氏の遼、カラキタイ
チンギスハンのモンゴル

拠点を次々と移動しながら、瞬く間に世界帝国を作り上げたトゥーラニアンの祖先は、

コーカソイド、モンゴロイド、印欧語族、ウラル、テュルク、モンゴル、ツングースなど様々な諸族を短期間で纏め上げ、その圧倒的な武力と抜きん出た技術力、驚異的な結束によって世界を支配し強い影響を与えてきた。

今、その子孫であるトゥーラーンの人々は
現状に満足していないし、偉大な祖先に申し訳がないと考えている。

資本主義世界を支配しているとされるハザール・ユダヤ、
アシュケナジムは、
ハザールの身内から出た裏切り者でもある。

それが荒唐無稽な陰謀論であると言ったところで、
陰謀が彼らの身に迫っていると実感したなら、
流れる血はざわめくだろう。

我が国では、
中国やロシアが陰謀を企んでいると未だ信じられているが、

東側世界全体ではそうではないかもしれない。

石油・ガス分野のエコノミスト、ティラック・ドーシ氏は、フォーブスに寄せた自身の記事で、対ロシア制裁が発動されている状況の中で世界は制裁を支持する国と制裁に反対する2つのブロックに分割され、後者には一連の西側諸国とその同盟国を除く世界の大半の国が含まれているとの見方を示した。

“ウクライナ戦争は歴史の分岐点であり、世界は永遠に変わりました。

ユリウス・カエサルが紀元前 49 年にルビコン川を渡り「帰らぬ地点」を通過したとき、

彼は「賽は投げられた」(もう後戻りは出来ない)と言った。”
『續日本紀』卷第三十

寳龜元年
夏四月癸巳朔。

陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。

770年、高野天皇(寶字稱德孝謙皇帝重祚)の治世に、

黒川郡(現在の富谷市など仙台市北側郊外)、賀美郡(現・宮城県加美郡)など10郡の俘囚3920人が、父祖が王民であったとして、公民身分への編入を許された。

また、この前年(669)に

神護景雲三年七月己丑。

陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

陸奥国牡鹿郡の俘囚大友部押人は、
先祖は紀伊国の大友部値で、
征夷のため小田郡嶋田村に移住したが、
子孫が蝦夷の捕虜となり、
その後、俘囚とされてしまったため、
俘囚の名を取り除いて公民に編入されることを希望し、許された。

(o🌾'▽')o🌾
公民には租庸調の納税義務がある一方、

俘囚は庸調が免除され、国司から食糧が支給されるなど、
保護政策的な優遇措置があった。

また、狩猟や蝦夷伝統の弓術や馬術を訓練することも認められ、文化も保護されていた。

俘囚の中から選ばれた夷俘長には刑罰権も与えられ、部分的には自治が認められている。

これは、近代的な少数民族保護政策の話ではなく、
奈良時代の日本の朝廷が行った人権や異文化に配慮した人道的な政策である(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

左翼が利用するステレオタイプな、
渡来系弥生人であるヤマト朝廷が、
平和に暮らしていた縄文人を蹴散らし、
弾圧して同化させ、
一部は北海道に追われアイヌとなり、
現代まで迫害され続けているニダ٩(๑`ȏ´๑)۶

という妄想とは異なる歴史的事実である(๑•̀ㅂ•́)و✧

こうした本朝の政策の背景には、
漢魏における鳥丸、南匈奴のように体制内異民族として、
更なる北の鮮卑、北匈奴(まつろわぬ民)に対する藩屏として防衛線となることを期待した一面があったことは想像出来るが、

公民編入を願い出た俘囚に対しては納税を条件にこれを認めるといった柔軟な対応がなされていた。

俘囚側にとっては、北のまつろわぬ民に対する藩屏となるかわりに納税免除の恩恵を受けるか❓
納税して一定の安全を得るか❓
という選択にある程度の自由が認められていたということになる。

(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ

漢と匈奴の力関係は、西漢の前半期は匈奴が圧倒的に優勢で、

漢が下から徴税する農耕社会
匈奴は上から分配する交易社会であったため、

漢が市民から徴収した財源を使って絹製品などを匈奴に貢納し、
匈奴は西域に絹を転売した利益を部民に分配するという構図が成立した。

🤔政府が市民から集めた富で何故か米国民が潤うという現代日本とあまり変わらない🤣🤣🤣

匈奴では分配するものが無くなれば単于の地位が揺らぎ、有力な部族長に取って代わられる恐れがあるため、

時に長城を超え、漢辺境の村を襲い略奪を繰り返し、これを部民に分配することもあった。

辺境の漢人にとっては、(一部は匈奴に還流される)税金を納めた上に略奪までされるのでは、たまったものではない(๑•́ - •̀๑)

そこで、辺境の農民は(重税と略奪から逃れるために)長城を超え、匈奴の地に逃げ込む者が後を絶たなかった🤣

一般市民にとって 、民族とか文化といったアイデンティティより、まず安全に生きていける場所を選ぶことが生き残るための重要な戦略である。

辺境の庶民が、どちらに帰属するかという選択は、その時その時の情勢に応じたものであり、結果的に間違った選択をしなかった者が、より多くの子孫を残してきたとも言える。

西晋末期から中国に五胡が侵入してくるが、胡族の中には祖先が漢にルーツを持つ人々が大勢いたし、中国へ戻ってきた彼らの子孫はまた漢族と同化していった。

(〜🌾・ω・)〜🌾

奈良時代の日本朝が中国の北方政策や、その後の五胡の侵入などから学べる立場にあったのは間違いない。

まつろわぬ民への対応は、懐柔政策が基本で、

征夷の出兵も反乱鎮圧や(粛慎など)海外勢力の駆逐を目的とするものであり、

異民族への侵略や領土拡大を目的とするものではなかった。

阿倍比羅夫が北海道まで遠征したのは概ね事実と考えられているが、

その地に元からいた住民を排除したわけではなく、

ずっと南に後退した仙台平野~庄内平野辺りに境界を定めている。

この境界は稲作に適合する北限にも相当し、

それより北の住民は狩猟採集に依存せざるを得ない状況に充分配慮したものであっただろう。

尚、征夷の軍事行動の事後処理において、服属した蝦夷に徴税を課した時期もあったが、

それまで自由に狩猟採集していた人々にとって徴税に対する反発は強く反乱も相次いだ。

強引な公民編入が得策ではないという教訓も得た上での政策であったことも理由の一つであることに疑いはないが、

やはりこの時代に柔軟な対応がなされたことは日本という仕組みの形成に大きな影響を与えている。

🐗( '-' 🐗 )

公民に編入された東北の民にとって

北の狩猟民からもたらされる毛皮は、防寒対策の必需品であった。

北海道で狩猟された獣から得られた獣皮は、現地で一次加工されてから

船によって本州に運ばれ、

東北の農村内で二次加工され村民に販売された。

古墳時代の東北の農村に北海道の擦文人が雑居し、その場で皮なめしを行っていたと想定される考古学的証拠が得られている。

朝廷は一応の境界は定めたが、人々は完全に住み分かれていたわけではなく、同じ村の中で暮らしていた。

東北の村に出張してきた擦文人は、時に毛皮を現地調達する必要もあったかもしれない。

🤔そこにそのまま住み着き狩猟を生業とするマタギとなった者もいたのではないか❓

仮にその当時の北海道擦文人にアイヌ語話者がいたならば、マタギの言葉にアイヌ語の影響が残っていても不思議ではない
(近年は、東北蝦夷の夷語は日琉語に近いとする研究者が多い、また、『諏訪大明神絵詞』に登場する道南に住む渡党は日琉語を話していた)。

こうした北海道と東北の住民の共存共栄関係は、この時代だけではなく、縄文時代から近代まで連綿と続いていたものだ。

そうした共存共栄の文化の萌芽は岩宿時代の環状ブロック遺跡などから見られ、
遅くとも縄文時代には列島各地に黒曜石、ヒスイ、獣皮の加工流通を中心とする商工業と水運に基盤を置いた交易ネットワークが広がっていた。

日本列島の住民が何万年も前から共有してきた文化である。

縄文時代から昭和中期まで、

北海道から沖縄まで張り巡らされた交易ネットワークによる住民の交流、水運、行商の文化は継続し途切れることはなかった。

戦後、そうしたネットワークを担ってきた漂泊民、自由民と呼ばれた人々が戸籍に編入され消えていったが、

彼らこそ
真の意味での

“縄文文化の継承者”

と言えるのではないだろうか❓

(o🌾'▽')o🌾

そうした点を踏まえ、冒頭の続日本紀の黒川、賀美など3920人の俘囚の話に戻る。

彼らは元々、王民(皇民ではない)であった。

俘囚とされたからには、エミシと同じ文化集団であったのだろうが、

夷に調略され隷属していたのだという。

🤔

『日本書紀』神武天皇条

愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒

エミシヲ
ヒタリモモナヒト
ヒトハイヘドモ
タムカヒモセズ

エミシは一人で百人の敵を倒すというが(神武天皇の軍の前に)大した抵抗も出来なかった。

筑紫~安芸~吉備~奈良へと東征してきた神武天皇は、

エミシを倒してBC660年に橿原で即位。

考古学的には北九州に始まる弥生文化が瀬戸内を東進して奈良に到達するのがBC650年頃であり、

当時の橿原には、実際にカシの大木があったことが判明している。

また、弥生文化到達以前には、東北の「亀ケ岡文化」の影響を受けた土器が橿原から多数出土しており、遮光器土偶の欠片も発見されている。

日本書紀の年代観、記事内容は、弥生文化の到達時期と経緯を正しくとらえていたのではないかとする説が、近年有力になってきている。

『日本書紀』は弥生文化の視点から書かれていることは確かだろう。

🤔

書紀神武天皇条の終わりの方に、

天皇は橿原即位後、国を望見して言われた

昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國」

秀眞國、此云袍圖莽句爾(ホツマクニ)。

……🤔秀真国って何(๑•́ - •̀๑)❓

『ホツマツタヱ』梭の四

秀真国
東遥かに波高く
立ち昇る日の
日高見や

秀真国は東海・関東
日高見國は東北にあったとされ、
縄文文化が栄えた地域である。

『ホツマツタヱ』の成立年代は中世を遡るものではなさそうだが、

『古事記』『日本書紀』から省かれた“縄文時代”の歴史が伝えられているようだ。

『ホツマツタヱ』では、

クニトコタチは日高見國をタカミムスビに譲り、日高見は繁栄。

イサナギ、イサナミは筑波山で結ばれ、

アマテル神は富士山麓に生まれる(BC1285)

ニニキネはニハリ宮(茨城県新治郡新治村→2006年土浦市に編入)を治めた。
また、富士山麓のハラミ宮も治めた。

“ニハリの宮の 十八万に 
新民増えて 
名も高く
原見の宮に 
民を治し 
終に 
磯輪上秀真成る”

【茨城県稲敷市出土 注口土器
土浦市や稲敷市など霞ヶ浦周辺は縄文遺跡が多く、特に縄文晩期の逸品が集中する稲敷市は、当時の一大海洋交易拠点であったと推測されている。】

【富士宮市出土 注口土器
稲敷市出土の土器と似たS字の記号が使われている。
富士宮には縄文時代を通じて
多数の土器が出土。
山梨は縄文中期の土器、土偶の出土が極めて多く、『山梨長野縄文王国』と呼ばれている。】



ニニキネは灌漑農法を確立し、諸国に伝播。

BC1080、ホノアカリはヤマトアスカ王となる。

BC1065、筑紫で農地開拓

BC733、カンヤマトイワレヒコは淡海に生まれる。

BC661、カンヤマトイワレヒコ即位

🤔
『日本書紀』は秀真国や日高見國、新治宮の由来を削ってしまったために、

神武天皇条の秀真国の挿入が唐突になってしまった。

『日本書紀』景行天皇条

蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

ヤマトタケルが蝦夷を平定し、
日高見國から帰り、
常陸を経て甲斐に至り、
酒折宮で食事をし、
歌を作って従者に問いかけた。

“珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流”
(ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル)
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか❓

『ホツマツタヱ』では、

酒折の宮は昔の原の宮

とする。

日本武尊は、
祖先の建国の地である日高見國を攻め滅ぼし、

緣の筑波、新治を経て、
アマテル神が生まれ、
ニニキネが治めた
富士山麓ハラミ宮に至って
複雑な思いに駆られたのだろうが、
『日本書紀』では、何故、日高見、筑波、新治、酒折の地名がそこに出てくるのかを明らかにしていなかった。

『ホツマツタヱ』では、

“道奥曰く
今汝、
人の皇君として
仕える汝
衰えり
今来て国を奪わんや”

と、道奥(日高見の主)が武日(日本武尊)に問いかける。

“武日の曰く
神(景行天皇)の御子
汝を召せど
まつろわず
故に討つなり”

道奥は答えて云う

“それ我が国は
大御祖
タカミムスビの
この国を
開きて七代
これを継ぐ
日の神(アマテル神)ここに
道学ぶ
故日高見ぞ”

道奥は続けて、(元々、飛鳥宮はホノアカリが賜り、ニニキネは原見宮を賜った。
その時、日高見を賜ってから私の代まで十四代、他所の支配を受けたことがない)と説き、

更に続けて、

“それの君(神武天皇)
飛鳥を討ちて
国を取る
神に違えり
故馴れず(だから従うわけがない)
今また来たり
取らんとす
これも神かや
皇君よ”

と、(同族の)祖先の地を奪った神武天皇、
今また日高見を奪おうとする日本武尊を痛烈に非難した。

道奥はこの後も、祖先代々歩んできた日本の道を説き、

ついに日本武は道奥を赦し、
勿来より北は道奥に賜り国の守とした。
津軽蝦夷もこれに従った。

こうして日本武は矛を納め、日高見蝦夷と講和して、新治を経て酒折へと去って行く。

『ホツマツタヱ』は、
縄文晩期に日本の中心であった東北の亀ケ岡文化の視点から書かれており、

亀ケ岡文化が西へ南へ拡大し、飛鳥や九州にも影響を与えたという近年の考古学的成果と合致する事実を伝えている。

『ホツマツタヱ』は、『日本書紀』がバッサリ切り捨てたエピソードを収集して、
より確かな日本の歴史に近づかけたものと言える。

(o🌾'▽')o🌾

黒川、賀美の俘囚は、誰の王民だったのだろうか❓

この頃はまだ、日高見國が日本、天皇家の起源であり、本来カンヤマト朝は分家に過ぎなかったという『日本書紀』には書けない事実を知っている者が、日本朝にも多くいたのではないだろうか(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

邪馬壹『三國志』

邪馬臺『後漢書』

邪摩堆『北史』

邪靡堆『隋書』


『三國志』には

邪馬壹國,女王之所都


ヤマト国、女王の都する所


『隋書』によれば

都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。


邪摩堆(大和)に都しており、魏志で謂うところのヤマトである。


中国では倭人の都は一貫してヤマト(๑•̀ㅁ•́ฅ✧


中国人にはィヤァマトゥィのように聞こえたのかもしれないが…


歌舞音曲が好きだという東夷人は、話すというより詠って(吟じて)いたのでしょう。


言葉は通じないので中国人と倭人の交渉は漢文による筆談になります。


倭人の文字は中国の最新の書体ではなく(所謂結縄=甲骨、刻木=金文の類い)、意味も古式ゆかしい用法でしたが、何とか通じたと思われます。


漢字を作ったのは東夷族ですから倭人の知識層は当然知っています。

ただ、情報の古さは否めず、当時の中国人には奇異に映る部分もありましたが、陳壽や、その元資料を作った中国知識層はそれを読み解いた上で、倭人の正体が何であるか確信していたのだと思われます。


( ✧Д✧) カッ!!カツモク


女王の都は

邪馬壹か❓

邪馬臺か❓


日本ではそのような論争も繰り広げられてきました。


一般には

臺は台の旧字

壹は壱の旧字、一の大字とされますが、


臺と台はもともとは異なる漢字で、共に建物に関係した字ですが意味は異なります。


邪馬臺を邪馬台としたり、

邪馬壹を邪馬壱、邪馬一などと置き換えてしまうと、元の意味がわからなくなってしまいます(´⌒`。)




これが「壹」です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧



こちらが「臺」




そして「台」


臺と台はどちらも建物に関連しますが、

臺は楼閣、うてな、高い建物



お祭りで曳き回す屋臺も臺ですね(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺は神(天)と一体になった天子が政治を執り行う場所であり、

浜松市天竜区では、
神輿と共に巡幸する屋臺には神が乗り移り、戦前までは女人禁制とされていました。



臺は天高く突き出した神の依代でもあり、鉾、男性的なイメージがあります。

『三國志』東夷伝には
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

壹與の使者が(魏の天子の政庁である)臺を詣でた、のように
魏では皇帝の居場所として臺を用いています。

『山海経』には、黄帝の臺のような表現が見られます。

古の東夷族にとって臺は重要な建物になります。

臺で政治を執り行う天子は、中国では武則天を除いて男性です。



臺と台の違いは、文字の成り立ちを見れば一目瞭然(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺(うてな)を建てるとき、

その場所を決めるのに、まず一本の矢を放ちます。

矢は“天意”によって導かれた場所に飛んでいき、地面に突き刺さります。

至(矢の象形)に刀を添えた文字が到(トゥと読みます)

天意によって矢が到った場所に、はじめて鋤を入れ、穴を掘ります(基礎、土台を築く)。この所作の象形が台となります。

矢が刺さり、刀(鋤)を入れて基礎工事をした場所に高い建物が建てられ、この象形が臺です。



女+台で始まりを意味します。
肉+台で胎、生命の始まりです。

台には鋤(刀)♂を入れ︎︎ ♀穴を掘る…その礎から始まっていく凹のイメージ。

臺は矢♂を地面♀に突き立てた場所から草木が天に向かい聳えていく凸のイメージ。

臺と台は対になっている文字で、臺は男性的、台は女性的なイメージになっていることがわかります。

陳壽が、中国の天子(魏の皇帝)が政治を執り行う神聖な場所という意味の臺を、

女王が都する(政庁がある首都)場所に用いて

邪馬臺としたなら、

魏皇帝と親魏倭王を同等に扱っているわけですから随分大胆だと思われます。



邪馬壹の「邪」には
よこしま(な心)、邪気という意味があり、現代の解釈では好字ではありません。

然し、この意味は後からついたもので、本来は

人が集まるめでたい場所

邑を意味しています。

琅邪の邪は邑の意味です。
牙は異なった(身分の)上下の者を表し、本来の邪は、上下隔てなく集まって寛ぐ場所の意味があります。

また、東夷族には婚礼に牙を贈る習慣があったとも云われ、邪にはめでたい集まりの意味もあったとされています。

然し、のちに中国では、牙は上下が食い違う、噛み合わないという意味で、正しくないという意味で邪の字が使われるようになりました。

漢字は東夷族が作った(๑•̀ㅁ•́ฅ✧と郭沫若は言っています。

東夷族のルーツである倭人は、邪を本来の意味で使っていたと思われ、

人々が集まり上下の隔てなく寛いで平和に暮らしている女王の治める都に「邪」の字が使われることは理に適っていると陳壽は思ったことでしょう。



「馬」

馬は貴重です。
当時の中国でも馬は貴重ですが、倭国では大変珍しく価値のあるものです。

倭人は遊牧民と交流していましたし、倭地である韓半島に馬はいましたから、馬の貴重さを知っていたのでしょう。

女王の都は、人々が集まる価値の高い場所、ということになります(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




壹は
一番大切なものを入れて蓋をした壺の象形です。

豆(トゥと読む)も大切なもの、命の糧ですが、



刀と口
つまり、
♂と♀が納められています。

壺を女性の胎内に見たて
男女の交わりを神聖なもの、
子孫繁栄を殊更願って暮らしていた縄文人の強い思いが

壹の字に込められています。

漢字は東夷族が作ったのですから、そこに縄文の思想が流れているのは当然です。

壹という字は、
至上の
最高の(一番の)
という意味から、

漢数字の一の大字としても使われます。

掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

の壹は「ひとつにして」の意味で陳壽は用いています。

然し、
女王の都、邪馬壹の壹は本来の意味で用いられていると考えた方が良さそうです。

邪馬壹(ヤマト)は、

人々が分け隔てなく集まり
非常に価値の高い
至上の都

という意味になります。

『後漢書』は、
男王である倭国王帥升の時代を書いていますから、
都は臺で良いのです。



刀♂と口♀を大切に納めた壺は、

妊娠した女性をイメージしています。

卑弥呼は引き篭って政治をしていますから、
臺のようなひときわ目立つ楼閣でまつりごとをしていたわけではないでしょう。

陳壽は
邪馬臺ではなく、

邪馬壹であることが理に適っていると思ったことでしょう。




前方後円墳というのは、

縄文思想の延長で、後円部を女性の胎内に見たてています。

その形は壺形で、まさに壹です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

♂と♀が合体し、
棺の主は胎内で再生され、
一旦、前方部の滑走路から飛び立ち星(これは台です、台には星の意味があります)に還り、再びこの世に蘇って来ると信じられていたようです。

倭迹迹日百襲姫命の陵墓、箸墓は前方後円墳祭祀の画期となりました。

卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三爲王,國中遂定。

卑弥呼は結婚しておらず、後継者が定まらないまま世を去ってしまいます。

男王が立ち臺で政治を行いますが倭国連合は定まりません。

倭迹迹日百襲姫命は薨じる直前にオホモノヌシと結ばれ、箸でホト(女陰)を突かれたとされています。

刀と口の仕込みは完了した、という意味です。
早急に壺が必要になります。

箸墓は昼は人が作り、夜は神が作るという突貫工事で作られ、

卑弥呼再生の神事が始まったのでしょう。

卑弥呼と神の子が産まれてくる祭祀の場として。

その娘は
復た卑弥呼として立てられた
宗女の壹與

壹與は
壹を與られた者。

247年頃の卑弥呼薨ののち、
最大で263年頃までの空白ののち壹與は卑弥呼となって魏に遣使したとも読めるので、卑弥呼薨ののちに産まれた宗女が13歳になるには充分です。

卑弥呼は纒向の邪馬壹にいたと思われますが、

壹與(トヨともイトとも読める)の共立には九州勢や、
公孫氏(つまり赤染氏)、
楊(=木+昜、高木信仰、日神信仰=壱岐氏)の関与が強かったのではないかと推測しています(๑•̀ㅂ•́)و✧

それにしても…

『三國志』『日本書紀』『古事記』のコールアンドレスポンスと、圧倒的な情報力。
昔の人は本当に凄いと思う(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




且人

元は山東泰安東南一帶に居住していた東夷族であったらしい。

沮吳または徂徠とも云う。

且人は堯舜時代まで渤海湾岸に暮らしていたが、殷王朝の圧迫を受け、各地に拡散した。

東北に向かった一支を沃沮と云う。

西に遷入し、新疆に且未國を建てた支族もあった。

また一支は西南に遷し苴候國(古蜀)を建てた。

南に向かった者は且歐、且蘭(四川省南部、夜郎)、後の百越の一支となった。

現在の中国少数民族である
ウイグル(新疆のテュルク系)
チワン(百越後裔、雲南)
満州(粛慎後裔)
朝鮮族(韓半島ではなく古朝鮮の領域である中国東北部に住む朝鮮族)
は、且人の後裔と考えられている。

西遷した一支は当初、陝西且水に遷り甘肅に徂國を建てたが,後為周文王に滅ぼされた。

その後、河西に逃れ、新疆に遷り秦朝時期に且末國を建国したが、
匈奴の冒頓単于に敗れ属国となった。

“且渠”は且人の首領を意味し、匈奴沮渠部となって代々部族長は世襲された。

沮渠部にはサカ族も雑居しており、
のちの突厥王家阿史那氏は、沮渠部サカ系を出自とするという。

鮮卑拓跋氏も河西を出自としている。

羌、氐、小月氏も匈奴~河西鮮卑の支配下にあった。

匈奴単于を輩出した攣鞮氏は夏后氏の子孫で、殷末に北へ逃れた夏王朝の末裔とされる。

南へ逃れた夏の末裔の越、匈奴、そして渤海湾岸を訪れる海洋交易民倭人には“文身”胸に刺青する共通の習俗があった。

匈は胸に通じ、
倭の海人族も胸形(宗像)と言った。


阿史那氏はギョクテュルクの始祖であり、トルコ族国家の王朝は全て阿史那氏に繋がるとも云われ、
ウクライナのハザール可汗家、ブルガールのデュロ王家、アセン家なども阿史那氏族とされる。

拓跋氏は北魏だけではなく西夏、吐蕃(拓跋同族禿髪氏)の王家ともされるが、河西に勢力を誇った有力氏族であり、中国南朝では拓跋氏の出自を嬴姓李氏(のちの唐皇帝家同族)とした。

匈奴単于の血は、アッティラを通じてカール大帝に繋がっているとされる。

渤海湾岸の東夷支配層は、中華ファーストエンペラーの始皇帝からラストエンペラー袁世凱(袁紹末裔)まで、出自を明らかにしていない明を除く皇帝家の祖先となったが、

東夷(トゥーラーン)の支配は冒頓単于の血脈を通じて世界に及んだと、

ハンガリー、ウクライナ、トルコでは信じられています。

その、渤海湾岸の東夷族の祖神である東の天帝=帝俊は、

粛慎の東の海の彼方、
渤海湾岸の滑石山の東の海の彼方、
山東半島煙台の蜃気楼の彼方、
会稽の東の海の彼方

に、いると秦漢魏の時代に東夷族を祖とする皇帝家(秦、漢、魏、新、仲、呉)は信じていました。