『日本書紀』『ホツマツタヱ』から見た亀ケ岡文化 | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

『續日本紀』卷第三十

寳龜元年
夏四月癸巳朔。

陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。

770年、高野天皇(寶字稱德孝謙皇帝重祚)の治世に、

黒川郡(現在の富谷市など仙台市北側郊外)、賀美郡(現・宮城県加美郡)など10郡の俘囚3920人が、父祖が王民であったとして、公民身分への編入を許された。

また、この前年(669)に

神護景雲三年七月己丑。

陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

陸奥国牡鹿郡の俘囚大友部押人は、
先祖は紀伊国の大友部値で、
征夷のため小田郡嶋田村に移住したが、
子孫が蝦夷の捕虜となり、
その後、俘囚とされてしまったため、
俘囚の名を取り除いて公民に編入されることを希望し、許された。

(o🌾'▽')o🌾
公民には租庸調の納税義務がある一方、

俘囚は庸調が免除され、国司から食糧が支給されるなど、
保護政策的な優遇措置があった。

また、狩猟や蝦夷伝統の弓術や馬術を訓練することも認められ、文化も保護されていた。

俘囚の中から選ばれた夷俘長には刑罰権も与えられ、部分的には自治が認められている。

これは、近代的な少数民族保護政策の話ではなく、
奈良時代の日本の朝廷が行った人権や異文化に配慮した人道的な政策である(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

左翼が利用するステレオタイプな、
渡来系弥生人であるヤマト朝廷が、
平和に暮らしていた縄文人を蹴散らし、
弾圧して同化させ、
一部は北海道に追われアイヌとなり、
現代まで迫害され続けているニダ٩(๑`ȏ´๑)۶

という妄想とは異なる歴史的事実である(๑•̀ㅂ•́)و✧

こうした本朝の政策の背景には、
漢魏における鳥丸、南匈奴のように体制内異民族として、
更なる北の鮮卑、北匈奴(まつろわぬ民)に対する藩屏として防衛線となることを期待した一面があったことは想像出来るが、

公民編入を願い出た俘囚に対しては納税を条件にこれを認めるといった柔軟な対応がなされていた。

俘囚側にとっては、北のまつろわぬ民に対する藩屏となるかわりに納税免除の恩恵を受けるか❓
納税して一定の安全を得るか❓
という選択にある程度の自由が認められていたということになる。

(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ

漢と匈奴の力関係は、西漢の前半期は匈奴が圧倒的に優勢で、

漢が下から徴税する農耕社会
匈奴は上から分配する交易社会であったため、

漢が市民から徴収した財源を使って絹製品などを匈奴に貢納し、
匈奴は西域に絹を転売した利益を部民に分配するという構図が成立した。

🤔政府が市民から集めた富で何故か米国民が潤うという現代日本とあまり変わらない🤣🤣🤣

匈奴では分配するものが無くなれば単于の地位が揺らぎ、有力な部族長に取って代わられる恐れがあるため、

時に長城を超え、漢辺境の村を襲い略奪を繰り返し、これを部民に分配することもあった。

辺境の漢人にとっては、(一部は匈奴に還流される)税金を納めた上に略奪までされるのでは、たまったものではない(๑•́ - •̀๑)

そこで、辺境の農民は(重税と略奪から逃れるために)長城を超え、匈奴の地に逃げ込む者が後を絶たなかった🤣

一般市民にとって 、民族とか文化といったアイデンティティより、まず安全に生きていける場所を選ぶことが生き残るための重要な戦略である。

辺境の庶民が、どちらに帰属するかという選択は、その時その時の情勢に応じたものであり、結果的に間違った選択をしなかった者が、より多くの子孫を残してきたとも言える。

西晋末期から中国に五胡が侵入してくるが、胡族の中には祖先が漢にルーツを持つ人々が大勢いたし、中国へ戻ってきた彼らの子孫はまた漢族と同化していった。

(〜🌾・ω・)〜🌾

奈良時代の日本朝が中国の北方政策や、その後の五胡の侵入などから学べる立場にあったのは間違いない。

まつろわぬ民への対応は、懐柔政策が基本で、

征夷の出兵も反乱鎮圧や(粛慎など)海外勢力の駆逐を目的とするものであり、

異民族への侵略や領土拡大を目的とするものではなかった。

阿倍比羅夫が北海道まで遠征したのは概ね事実と考えられているが、

その地に元からいた住民を排除したわけではなく、

ずっと南に後退した仙台平野~庄内平野辺りに境界を定めている。

この境界は稲作に適合する北限にも相当し、

それより北の住民は狩猟採集に依存せざるを得ない状況に充分配慮したものであっただろう。

尚、征夷の軍事行動の事後処理において、服属した蝦夷に徴税を課した時期もあったが、

それまで自由に狩猟採集していた人々にとって徴税に対する反発は強く反乱も相次いだ。

強引な公民編入が得策ではないという教訓も得た上での政策であったことも理由の一つであることに疑いはないが、

やはりこの時代に柔軟な対応がなされたことは日本という仕組みの形成に大きな影響を与えている。

🐗( '-' 🐗 )

公民に編入された東北の民にとって

北の狩猟民からもたらされる毛皮は、防寒対策の必需品であった。

北海道で狩猟された獣から得られた獣皮は、現地で一次加工されてから

船によって本州に運ばれ、

東北の農村内で二次加工され村民に販売された。

古墳時代の東北の農村に北海道の擦文人が雑居し、その場で皮なめしを行っていたと想定される考古学的証拠が得られている。

朝廷は一応の境界は定めたが、人々は完全に住み分かれていたわけではなく、同じ村の中で暮らしていた。

東北の村に出張してきた擦文人は、時に毛皮を現地調達する必要もあったかもしれない。

🤔そこにそのまま住み着き狩猟を生業とするマタギとなった者もいたのではないか❓

仮にその当時の北海道擦文人にアイヌ語話者がいたならば、マタギの言葉にアイヌ語の影響が残っていても不思議ではない
(近年は、東北蝦夷の夷語は日琉語に近いとする研究者が多い、また、『諏訪大明神絵詞』に登場する道南に住む渡党は日琉語を話していた)。

こうした北海道と東北の住民の共存共栄関係は、この時代だけではなく、縄文時代から近代まで連綿と続いていたものだ。

そうした共存共栄の文化の萌芽は岩宿時代の環状ブロック遺跡などから見られ、
遅くとも縄文時代には列島各地に黒曜石、ヒスイ、獣皮の加工流通を中心とする商工業と水運に基盤を置いた交易ネットワークが広がっていた。

日本列島の住民が何万年も前から共有してきた文化である。

縄文時代から昭和中期まで、

北海道から沖縄まで張り巡らされた交易ネットワークによる住民の交流、水運、行商の文化は継続し途切れることはなかった。

戦後、そうしたネットワークを担ってきた漂泊民、自由民と呼ばれた人々が戸籍に編入され消えていったが、

彼らこそ
真の意味での

“縄文文化の継承者”

と言えるのではないだろうか❓

(o🌾'▽')o🌾

そうした点を踏まえ、冒頭の続日本紀の黒川、賀美など3920人の俘囚の話に戻る。

彼らは元々、王民(皇民ではない)であった。

俘囚とされたからには、エミシと同じ文化集団であったのだろうが、

夷に調略され隷属していたのだという。

🤔

『日本書紀』神武天皇条

愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒

エミシヲ
ヒタリモモナヒト
ヒトハイヘドモ
タムカヒモセズ

エミシは一人で百人の敵を倒すというが(神武天皇の軍の前に)大した抵抗も出来なかった。

筑紫~安芸~吉備~奈良へと東征してきた神武天皇は、

エミシを倒してBC660年に橿原で即位。

考古学的には北九州に始まる弥生文化が瀬戸内を東進して奈良に到達するのがBC650年頃であり、

当時の橿原には、実際にカシの大木があったことが判明している。

また、弥生文化到達以前には、東北の「亀ケ岡文化」の影響を受けた土器が橿原から多数出土しており、遮光器土偶の欠片も発見されている。

日本書紀の年代観、記事内容は、弥生文化の到達時期と経緯を正しくとらえていたのではないかとする説が、近年有力になってきている。

『日本書紀』は弥生文化の視点から書かれていることは確かだろう。

🤔

書紀神武天皇条の終わりの方に、

天皇は橿原即位後、国を望見して言われた

昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國」

秀眞國、此云袍圖莽句爾(ホツマクニ)。

……🤔秀真国って何(๑•́ - •̀๑)❓

『ホツマツタヱ』梭の四

秀真国
東遥かに波高く
立ち昇る日の
日高見や

秀真国は東海・関東
日高見國は東北にあったとされ、
縄文文化が栄えた地域である。

『ホツマツタヱ』の成立年代は中世を遡るものではなさそうだが、

『古事記』『日本書紀』から省かれた“縄文時代”の歴史が伝えられているようだ。

『ホツマツタヱ』では、

クニトコタチは日高見國をタカミムスビに譲り、日高見は繁栄。

イサナギ、イサナミは筑波山で結ばれ、

アマテル神は富士山麓に生まれる(BC1285)

ニニキネはニハリ宮(茨城県新治郡新治村→2006年土浦市に編入)を治めた。
また、富士山麓のハラミ宮も治めた。

“ニハリの宮の 十八万に 
新民増えて 
名も高く
原見の宮に 
民を治し 
終に 
磯輪上秀真成る”

【茨城県稲敷市出土 注口土器
土浦市や稲敷市など霞ヶ浦周辺は縄文遺跡が多く、特に縄文晩期の逸品が集中する稲敷市は、当時の一大海洋交易拠点であったと推測されている。】

【富士宮市出土 注口土器
稲敷市出土の土器と似たS字の記号が使われている。
富士宮には縄文時代を通じて
多数の土器が出土。
山梨は縄文中期の土器、土偶の出土が極めて多く、『山梨長野縄文王国』と呼ばれている。】



ニニキネは灌漑農法を確立し、諸国に伝播。

BC1080、ホノアカリはヤマトアスカ王となる。

BC1065、筑紫で農地開拓

BC733、カンヤマトイワレヒコは淡海に生まれる。

BC661、カンヤマトイワレヒコ即位

🤔
『日本書紀』は秀真国や日高見國、新治宮の由来を削ってしまったために、

神武天皇条の秀真国の挿入が唐突になってしまった。

『日本書紀』景行天皇条

蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

ヤマトタケルが蝦夷を平定し、
日高見國から帰り、
常陸を経て甲斐に至り、
酒折宮で食事をし、
歌を作って従者に問いかけた。

“珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流”
(ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル)
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか❓

『ホツマツタヱ』では、

酒折の宮は昔の原の宮

とする。

日本武尊は、
祖先の建国の地である日高見國を攻め滅ぼし、

緣の筑波、新治を経て、
アマテル神が生まれ、
ニニキネが治めた
富士山麓ハラミ宮に至って
複雑な思いに駆られたのだろうが、
『日本書紀』では、何故、日高見、筑波、新治、酒折の地名がそこに出てくるのかを明らかにしていなかった。

『ホツマツタヱ』では、

“道奥曰く
今汝、
人の皇君として
仕える汝
衰えり
今来て国を奪わんや”

と、道奥(日高見の主)が武日(日本武尊)に問いかける。

“武日の曰く
神(景行天皇)の御子
汝を召せど
まつろわず
故に討つなり”

道奥は答えて云う

“それ我が国は
大御祖
タカミムスビの
この国を
開きて七代
これを継ぐ
日の神(アマテル神)ここに
道学ぶ
故日高見ぞ”

道奥は続けて、(元々、飛鳥宮はホノアカリが賜り、ニニキネは原見宮を賜った。
その時、日高見を賜ってから私の代まで十四代、他所の支配を受けたことがない)と説き、

更に続けて、

“それの君(神武天皇)
飛鳥を討ちて
国を取る
神に違えり
故馴れず(だから従うわけがない)
今また来たり
取らんとす
これも神かや
皇君よ”

と、(同族の)祖先の地を奪った神武天皇、
今また日高見を奪おうとする日本武尊を痛烈に非難した。

道奥はこの後も、祖先代々歩んできた日本の道を説き、

ついに日本武は道奥を赦し、
勿来より北は道奥に賜り国の守とした。
津軽蝦夷もこれに従った。

こうして日本武は矛を納め、日高見蝦夷と講和して、新治を経て酒折へと去って行く。

『ホツマツタヱ』は、
縄文晩期に日本の中心であった東北の亀ケ岡文化の視点から書かれており、

亀ケ岡文化が西へ南へ拡大し、飛鳥や九州にも影響を与えたという近年の考古学的成果と合致する事実を伝えている。

『ホツマツタヱ』は、『日本書紀』がバッサリ切り捨てたエピソードを収集して、
より確かな日本の歴史に近づかけたものと言える。

(o🌾'▽')o🌾

黒川、賀美の俘囚は、誰の王民だったのだろうか❓

この頃はまだ、日高見國が日本、天皇家の起源であり、本来カンヤマト朝は分家に過ぎなかったという『日本書紀』には書けない事実を知っている者が、日本朝にも多くいたのではないだろうか(๑•̀ㅁ•́ฅ✧