縄文家族|天竜楽市 -2ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

邪馬壹『三國志』

邪馬臺『後漢書』

邪摩堆『北史』

邪靡堆『隋書』


『三國志』には

邪馬壹國,女王之所都


ヤマト国、女王の都する所


『隋書』によれば

都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。


邪摩堆(大和)に都しており、魏志で謂うところのヤマトである。


中国では倭人の都は一貫してヤマト(๑•̀ㅁ•́ฅ✧


中国人にはィヤァマトゥィのように聞こえたのかもしれないが…


歌舞音曲が好きだという東夷人は、話すというより詠って(吟じて)いたのでしょう。


言葉は通じないので中国人と倭人の交渉は漢文による筆談になります。


倭人の文字は中国の最新の書体ではなく(所謂結縄=甲骨、刻木=金文の類い)、意味も古式ゆかしい用法でしたが、何とか通じたと思われます。


漢字を作ったのは東夷族ですから倭人の知識層は当然知っています。

ただ、情報の古さは否めず、当時の中国人には奇異に映る部分もありましたが、陳壽や、その元資料を作った中国知識層はそれを読み解いた上で、倭人の正体が何であるか確信していたのだと思われます。


( ✧Д✧) カッ!!カツモク


女王の都は

邪馬壹か❓

邪馬臺か❓


日本ではそのような論争も繰り広げられてきました。


一般には

臺は台の旧字

壹は壱の旧字、一の大字とされますが、


臺と台はもともとは異なる漢字で、共に建物に関係した字ですが意味は異なります。


邪馬臺を邪馬台としたり、

邪馬壹を邪馬壱、邪馬一などと置き換えてしまうと、元の意味がわからなくなってしまいます(´⌒`。)




これが「壹」です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧



こちらが「臺」




そして「台」


臺と台はどちらも建物に関連しますが、

臺は楼閣、うてな、高い建物



お祭りで曳き回す屋臺も臺ですね(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺は神(天)と一体になった天子が政治を執り行う場所であり、

浜松市天竜区では、
神輿と共に巡幸する屋臺には神が乗り移り、戦前までは女人禁制とされていました。



臺は天高く突き出した神の依代でもあり、鉾、男性的なイメージがあります。

『三國志』東夷伝には
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

壹與の使者が(魏の天子の政庁である)臺を詣でた、のように
魏では皇帝の居場所として臺を用いています。

『山海経』には、黄帝の臺のような表現が見られます。

古の東夷族にとって臺は重要な建物になります。

臺で政治を執り行う天子は、中国では武則天を除いて男性です。



臺と台の違いは、文字の成り立ちを見れば一目瞭然(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺(うてな)を建てるとき、

その場所を決めるのに、まず一本の矢を放ちます。

矢は“天意”によって導かれた場所に飛んでいき、地面に突き刺さります。

至(矢の象形)に刀を添えた文字が到(トゥと読みます)

天意によって矢が到った場所に、はじめて鋤を入れ、穴を掘ります(基礎、土台を築く)。この所作の象形が台となります。

矢が刺さり、刀(鋤)を入れて基礎工事をした場所に高い建物が建てられ、この象形が臺です。



女+台で始まりを意味します。
肉+台で胎、生命の始まりです。

台には鋤(刀)♂を入れ︎︎ ♀穴を掘る…その礎から始まっていく凹のイメージ。

臺は矢♂を地面♀に突き立てた場所から草木が天に向かい聳えていく凸のイメージ。

臺と台は対になっている文字で、臺は男性的、台は女性的なイメージになっていることがわかります。

陳壽が、中国の天子(魏の皇帝)が政治を執り行う神聖な場所という意味の臺を、

女王が都する(政庁がある首都)場所に用いて

邪馬臺としたなら、

魏皇帝と親魏倭王を同等に扱っているわけですから随分大胆だと思われます。



邪馬壹の「邪」には
よこしま(な心)、邪気という意味があり、現代の解釈では好字ではありません。

然し、この意味は後からついたもので、本来は

人が集まるめでたい場所

邑を意味しています。

琅邪の邪は邑の意味です。
牙は異なった(身分の)上下の者を表し、本来の邪は、上下隔てなく集まって寛ぐ場所の意味があります。

また、東夷族には婚礼に牙を贈る習慣があったとも云われ、邪にはめでたい集まりの意味もあったとされています。

然し、のちに中国では、牙は上下が食い違う、噛み合わないという意味で、正しくないという意味で邪の字が使われるようになりました。

漢字は東夷族が作った(๑•̀ㅁ•́ฅ✧と郭沫若は言っています。

東夷族のルーツである倭人は、邪を本来の意味で使っていたと思われ、

人々が集まり上下の隔てなく寛いで平和に暮らしている女王の治める都に「邪」の字が使われることは理に適っていると陳壽は思ったことでしょう。



「馬」

馬は貴重です。
当時の中国でも馬は貴重ですが、倭国では大変珍しく価値のあるものです。

倭人は遊牧民と交流していましたし、倭地である韓半島に馬はいましたから、馬の貴重さを知っていたのでしょう。

女王の都は、人々が集まる価値の高い場所、ということになります(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




壹は
一番大切なものを入れて蓋をした壺の象形です。

豆(トゥと読む)も大切なもの、命の糧ですが、



刀と口
つまり、
♂と♀が納められています。

壺を女性の胎内に見たて
男女の交わりを神聖なもの、
子孫繁栄を殊更願って暮らしていた縄文人の強い思いが

壹の字に込められています。

漢字は東夷族が作ったのですから、そこに縄文の思想が流れているのは当然です。

壹という字は、
至上の
最高の(一番の)
という意味から、

漢数字の一の大字としても使われます。

掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

の壹は「ひとつにして」の意味で陳壽は用いています。

然し、
女王の都、邪馬壹の壹は本来の意味で用いられていると考えた方が良さそうです。

邪馬壹(ヤマト)は、

人々が分け隔てなく集まり
非常に価値の高い
至上の都

という意味になります。

『後漢書』は、
男王である倭国王帥升の時代を書いていますから、
都は臺で良いのです。



刀♂と口♀を大切に納めた壺は、

妊娠した女性をイメージしています。

卑弥呼は引き篭って政治をしていますから、
臺のようなひときわ目立つ楼閣でまつりごとをしていたわけではないでしょう。

陳壽は
邪馬臺ではなく、

邪馬壹であることが理に適っていると思ったことでしょう。




前方後円墳というのは、

縄文思想の延長で、後円部を女性の胎内に見たてています。

その形は壺形で、まさに壹です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

♂と♀が合体し、
棺の主は胎内で再生され、
一旦、前方部の滑走路から飛び立ち星(これは台です、台には星の意味があります)に還り、再びこの世に蘇って来ると信じられていたようです。

倭迹迹日百襲姫命の陵墓、箸墓は前方後円墳祭祀の画期となりました。

卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三爲王,國中遂定。

卑弥呼は結婚しておらず、後継者が定まらないまま世を去ってしまいます。

男王が立ち臺で政治を行いますが倭国連合は定まりません。

倭迹迹日百襲姫命は薨じる直前にオホモノヌシと結ばれ、箸でホト(女陰)を突かれたとされています。

刀と口の仕込みは完了した、という意味です。
早急に壺が必要になります。

箸墓は昼は人が作り、夜は神が作るという突貫工事で作られ、

卑弥呼再生の神事が始まったのでしょう。

卑弥呼と神の子が産まれてくる祭祀の場として。

その娘は
復た卑弥呼として立てられた
宗女の壹與

壹與は
壹を與られた者。

247年頃の卑弥呼薨ののち、
最大で263年頃までの空白ののち壹與は卑弥呼となって魏に遣使したとも読めるので、卑弥呼薨ののちに産まれた宗女が13歳になるには充分です。

卑弥呼は纒向の邪馬壹にいたと思われますが、

壹與(トヨともイトとも読める)の共立には九州勢や、
公孫氏(つまり赤染氏)、
楊(=木+昜、高木信仰、日神信仰=壱岐氏)の関与が強かったのではないかと推測しています(๑•̀ㅂ•́)و✧

それにしても…

『三國志』『日本書紀』『古事記』のコールアンドレスポンスと、圧倒的な情報力。
昔の人は本当に凄いと思う(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




且人

元は山東泰安東南一帶に居住していた東夷族であったらしい。

沮吳または徂徠とも云う。

且人は堯舜時代まで渤海湾岸に暮らしていたが、殷王朝の圧迫を受け、各地に拡散した。

東北に向かった一支を沃沮と云う。

西に遷入し、新疆に且未國を建てた支族もあった。

また一支は西南に遷し苴候國(古蜀)を建てた。

南に向かった者は且歐、且蘭(四川省南部、夜郎)、後の百越の一支となった。

現在の中国少数民族である
ウイグル(新疆のテュルク系)
チワン(百越後裔、雲南)
満州(粛慎後裔)
朝鮮族(韓半島ではなく古朝鮮の領域である中国東北部に住む朝鮮族)
は、且人の後裔と考えられている。

西遷した一支は当初、陝西且水に遷り甘肅に徂國を建てたが,後為周文王に滅ぼされた。

その後、河西に逃れ、新疆に遷り秦朝時期に且末國を建国したが、
匈奴の冒頓単于に敗れ属国となった。

“且渠”は且人の首領を意味し、匈奴沮渠部となって代々部族長は世襲された。

沮渠部にはサカ族も雑居しており、
のちの突厥王家阿史那氏は、沮渠部サカ系を出自とするという。

鮮卑拓跋氏も河西を出自としている。

羌、氐、小月氏も匈奴~河西鮮卑の支配下にあった。

匈奴単于を輩出した攣鞮氏は夏后氏の子孫で、殷末に北へ逃れた夏王朝の末裔とされる。

南へ逃れた夏の末裔の越、匈奴、そして渤海湾岸を訪れる海洋交易民倭人には“文身”胸に刺青する共通の習俗があった。

匈は胸に通じ、
倭の海人族も胸形(宗像)と言った。


阿史那氏はギョクテュルクの始祖であり、トルコ族国家の王朝は全て阿史那氏に繋がるとも云われ、
ウクライナのハザール可汗家、ブルガールのデュロ王家、アセン家なども阿史那氏族とされる。

拓跋氏は北魏だけではなく西夏、吐蕃(拓跋同族禿髪氏)の王家ともされるが、河西に勢力を誇った有力氏族であり、中国南朝では拓跋氏の出自を嬴姓李氏(のちの唐皇帝家同族)とした。

匈奴単于の血は、アッティラを通じてカール大帝に繋がっているとされる。

渤海湾岸の東夷支配層は、中華ファーストエンペラーの始皇帝からラストエンペラー袁世凱(袁紹末裔)まで、出自を明らかにしていない明を除く皇帝家の祖先となったが、

東夷(トゥーラーン)の支配は冒頓単于の血脈を通じて世界に及んだと、

ハンガリー、ウクライナ、トルコでは信じられています。

その、渤海湾岸の東夷族の祖神である東の天帝=帝俊は、

粛慎の東の海の彼方、
渤海湾岸の滑石山の東の海の彼方、
山東半島煙台の蜃気楼の彼方、
会稽の東の海の彼方

に、いると秦漢魏の時代に東夷族を祖とする皇帝家(秦、漢、魏、新、仲、呉)は信じていました。


えほしやまと嵩山(たけやま)

二俣がまだ蒼海だった頃、

金の磐船に乗ってヤアタの神がやって来ました。

磐船が突き刺さった場所が烏帽子山と嵩山の

二俣地溝帯上部礫岩に空いた穴。


天竜川水運が隆盛となった江戸時代初期以降、二俣郷城下村(二俣村)は上下諏訪明神を信奉するようになりますが、


元々の二俣郷社は、山東村と二俣村の境にある山(おそらく烏帽子山)に鎮座した八幡神社であったようです。



山頂の奇岩に大穴が空いた山が二つ連なっている、というのは確かに不思議な光景ですね‼

(˶˙º̬˙˶)*॰

嵩山と尾根続きの宝林寺山(現光明山)には、

八幡大神である応神天皇の大仙古墳と同形とされる光明山古墳があり、
応神天皇に関連した皇族の古墳である可能性があるそうです。

応神天皇の子に
若野毛二俣王がいます。

二俣王は継体天皇の祖先にあたりますが、

二俣王の父を
誉田別尊(ホムタワケ、応神天皇)ではなく、

垂仁天皇の王子である誉津別命(ホムツワケ)とする説があります。

ホムツワケは、伯父である狭穂彦の乱に巻き込まれ、火中で生まれ救い出されました。

このショックからか王子は成長しても言葉を発することが出来ませんでしたが、

垂仁天皇はホムツワケ王子を溺愛し、

尾張の相津の二俣杉で二俣小船を作らせ、その船を運ばせて市師池、軽池に浮かばせて王子と戯れたとの逸話があります。

( ・ิϖ・ิ)っ

尾張(おわり)とは、
ヤマト朝支配圏の終わり(end)を意味すると云われています。

垂仁朝では、まだ遠淡海国造は置かれていませんから、

ヤマト朝の支配が及ぶ(狗奴國、久努国との境である)天竜川辺りまでが尾張国だったのでしょう。

(´-ω-`)

尾張の相津の二俣杉とは、

二俣相津マリーナ周辺(相津は気多郷、その隣の山中村までが二俣郷)の杉を指しているのでしょう。

垂仁天皇は、自らの支配が及ぶ最も遠い場所(根国=奴國)で作った二俣舟(双胴カヌー)を取り寄せることでホムツワケ王子への愛情の強さを示したかったのかもしれません。

( ・ิϖ・ิ)っ

天竜川は銅鐸分布の東限であり、

(二俣町)鹿島(かじま)は、東(あづま)の果て=かづまを意味し、

根堅=根国、奴國

二俣がヤマト朝の支配が及ぶ
この世の終わり、境界(岐)であることが地名から明らかです。

炎帝氏族(彦火火出見、炎尊)であるヤマト朝にとって岐山(岐階)は聖山であり、

本来の岐山(縄文時代にはツインピークであった富士山)に支配が及ばなかった(孝靈天皇=桃太郎の代に一度は大月まで遠征していますが)ため、ツインピークの光明山を岐山(二俣山)に見立てたのでしょう。

(˶˙º̬˙˶)*॰

明治初期まで鳥羽山峠には
猿田彦大神を祀る鳥羽山神社がありましたから、

元は二俣神(クナトノ大神威様)を祀っていた事が明らかです。

(´-ω-`)

豊臣秀吉が
「二俣を制する者は天下を制す」と言ったのは、この歴史的事実を知っていたからでした。

秀吉が天下統一にあたって、家康を江戸へ追いやったのは、

二俣が欲しかったからです。

秀吉は腹心の堀尾吉晴に命じ、二俣城、鳥羽山城(国指定史跡)を豪華絢爛な桃山様式の城に改造させました。

織田信長もこうした事実を知っていましたから、
炎帝の重要な地である
岐山、曲阜から一字づつ採って「岐阜」という地名を定めたのです。

(´-ω-`)

本当の天下の分かれ目とは、

この世とあの世を分かつ場所、

海と山、空と陸が交わるところ、

遠州二俣

なのです。


 

 ameblo読者の皆様、最新情報を随時更新中のTwitterのフォローも宜しくお願い申し上げますm(_ _)m


天竜川の源流は、

諏訪、霧ヶ峰、蓼科、八ヶ岳

最高品質の黒曜石産地です。


石器時代を通じて、最も価値が高かったモノは黒曜石でしたから、諏訪地域は交易ルートの中心として永らく繁栄していました。

諏訪から南関東へ抜ける甲州街道、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川は、
岩宿時代にナウマンゾウを追いかけた道であったとされています。

諏訪から糸魚川への翡翠ロード、
八ヶ岳南麓から千曲川流域に周り込めば、新潟、北関東へと通じる道、
それは日本海、そして大陸との交易ルートでもありました。

富士川沿いに山梨、富士宮、駿河湾へと進めば太平洋岸海洋民との交易ルート。

中山道は東海近畿へ繋がり、

中央構造線とフォッサマグナ、
日本三霊山の立山、白山、富士山からの龍脈、地脈の流れが諏訪から天竜川、中央構造線(秋葉街道)を通じて南へ向かっています。



3000メートル級の赤石山脈から流れ出す急峻な天竜川支流は、良質な石材や鉱物の宝庫で、
岩宿時代には

蛇紋岩、チャートなどの石器材料、

設楽火山から噴出した宝石類などが容易に採集可能でした。

諏訪から浜松市天竜区の秋葉山に至る赤石山脈直下には、日本最大の銅鉄鉱脈があり、天竜川下流域を深遠なブルーグリーンに染めています。


岩宿時代、縄文時代を通じて日本の中心、世界最先端の地でもあった諏訪湖と直結する天竜川流域には、

非常に重要な更新世の遺跡が集中しています。

50000BPに遡る可能性がある局部磨製石斧の祖形となる石器が発見されている飯田市の竹佐中原遺跡。

22000年前の世界最古級の石皿、確実な植物質食料の利用が見られる磐田原の遺跡。

本州最古の人骨(18000BP)が発見された浜北根堅遺跡。


天竜川は人類史を解き明かす上でも非常に重要な鍵を握っているのです。


天竜川は、
国神国常立尊が座する八ヶ岳から諏訪湖までの源流部を

上川

諏訪湖から磐田海へ注ぐ二俣までを

天の中川

弥生海退後に遠州平野西側(三方原)を流れる

麁玉川

同じく遠州平野東側(磐田原)を流れる

廣瀬川

で構成されています。

白樺湖も天竜川源流の一つであり、天竜川水系の一部になっています。

諏訪信仰、秋葉信仰は、

皇祖を祀る伊勢、八幡とは異なる

縄文由来の民間信仰としてヤマト族、イヅモ族の心を支えてきました。

分杭峠のようなアジア有数のパワースポットも、諏訪と天竜川下流域を結ぶ秋葉街道沿いに位置していますが、

他にもまだ広く知られていない50000年以上の歴史を刻んだパワースポットが多数集中しています。





柳田國男『石神問答』の最終回答となる聖地、

カグツチ、イザナミ、スサノオが関わる黄泉、根堅の冥界との接点、

天竜川は神話と古代ロマン(ㅅ´ ˘ `)の宝庫なのです。



縄文家族では、引き続きamebloとTwitterで天竜川スピリチュアルツアーをご案内していきます(˶˙º̬˙˶)*॰
 



いか飯12個セット商品追加しましたฅ( ̳• ·̫ • ̳ฅ)

送料無料で大変お買い得になっています( ͒ ु•·̫• ू ͒) ♡


縄文講座も期日が迫ってきました(*^^*)



日本列島に土器が出現する16500年前、

荒屋型彫刻刀石器の分布範囲は、

日本列島、本州島と交流があった地域と考えて、まず問題はないでしょう。

日本列島では、

後期旧石器時代終末期
(浜北時代、BC16000~13000、18000BP~15000BP)
16500BPに

無文土器が出現します。

その後、

無文→
豆粒文→
隆線文→
押圧縄文→
回転縄文

というように土器が進化していく様子が見られます。

( ・ิϖ・ิ)っ

荒屋型彫刻刀石器の分布域は本州に近いところからジワジワと土器が出現していきます。

(´-ω-`)

土器は本州で継続的に進化し、大陸へ伝搬していったと考えられます。

中国華北に土器が現れるのは完新世が始まる縄文時代早期(BC9700~、11700BP)以降であり、これは九州から伝搬した可能性が高いです。

(˶˙º̬˙˶)*॰

本州の土器が目まぐるしく進化する一方、長江の土器は、たった一つの資料が示す22000年前という数値から11700年前の間に、縄紋陶器が散見されますが、進化したような痕跡もなく、土器は普及したと言えるほど増えていきません。

長江の土器が示す22000BP、18000BPという年代は疑問視されており、

押圧縄文土器の出現以降(14000~13000年前頃か❓)に日本から長江へ土器が伝わった可能性があります。

13000年前からヤンガードリアスの寒の戻りがあり、



植生の似た長江流域へ縄文人が移動した可能性はじゅうぶん考えられるでしょう。

むしろ、対馬水道を越えるだけですぐに東シナ平原へ行けるのですから、

岩宿時代、浜北時代の日本列島人にとって、東シナ平原~長江流域は活動範囲内であった可能性があります。

( ・ิϖ・ิ)っ

縄文人は何処から来たか❓ではなく、

土器出現後、縄文人は何処まで行ったのか❓を考える時代となってきました。

(˶˙º̬˙˶)*॰

世界の何処まで縄文人らしき痕跡が存在するのか❓

皆様と一緒に考察していきたいと思います(。・ω・。)