縄文家族|天竜楽市 -2ページ目

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

『續日本紀』卷第三十

寳龜元年
夏四月癸巳朔。

陸奥國黒川。賀美等一十郡俘囚三千九百廿人言曰。己等父祖。本是王民。而爲夷所略。遂成賎隷。今既殺敵歸降。子孫蕃息。伏願。除俘囚之名。輸調庸之貢。許之。

770年、高野天皇(寶字稱德孝謙皇帝重祚)の治世に、

黒川郡(現在の富谷市など仙台市北側郊外)、賀美郡(現・宮城県加美郡)など10郡の俘囚3920人が、父祖が王民であったとして、公民身分への編入を許された。

また、この前年(669)に

神護景雲三年七月己丑。

陸奥國牡鹿郡俘囚外少初位上勲七等大伴部押人言。傳聞。押人等本是紀伊國名草郡片岡里人也。昔者先祖大伴部直征夷之時。到於小田郡嶋田村而居焉。其後。子孫爲夷被虜。歴代爲俘。幸頼聖朝撫運神武威邊。拔彼虜庭久爲化民。望請。除俘囚名。爲調庸民。許之。

陸奥国牡鹿郡の俘囚大友部押人は、
先祖は紀伊国の大友部値で、
征夷のため小田郡嶋田村に移住したが、
子孫が蝦夷の捕虜となり、
その後、俘囚とされてしまったため、
俘囚の名を取り除いて公民に編入されることを希望し、許された。

(o🌾'▽')o🌾
公民には租庸調の納税義務がある一方、

俘囚は庸調が免除され、国司から食糧が支給されるなど、
保護政策的な優遇措置があった。

また、狩猟や蝦夷伝統の弓術や馬術を訓練することも認められ、文化も保護されていた。

俘囚の中から選ばれた夷俘長には刑罰権も与えられ、部分的には自治が認められている。

これは、近代的な少数民族保護政策の話ではなく、
奈良時代の日本の朝廷が行った人権や異文化に配慮した人道的な政策である(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

左翼が利用するステレオタイプな、
渡来系弥生人であるヤマト朝廷が、
平和に暮らしていた縄文人を蹴散らし、
弾圧して同化させ、
一部は北海道に追われアイヌとなり、
現代まで迫害され続けているニダ٩(๑`ȏ´๑)۶

という妄想とは異なる歴史的事実である(๑•̀ㅂ•́)و✧

こうした本朝の政策の背景には、
漢魏における鳥丸、南匈奴のように体制内異民族として、
更なる北の鮮卑、北匈奴(まつろわぬ民)に対する藩屏として防衛線となることを期待した一面があったことは想像出来るが、

公民編入を願い出た俘囚に対しては納税を条件にこれを認めるといった柔軟な対応がなされていた。

俘囚側にとっては、北のまつろわぬ民に対する藩屏となるかわりに納税免除の恩恵を受けるか❓
納税して一定の安全を得るか❓
という選択にある程度の自由が認められていたということになる。

(゚∀゚)人(゚∀゚)ナカーマ

漢と匈奴の力関係は、西漢の前半期は匈奴が圧倒的に優勢で、

漢が下から徴税する農耕社会
匈奴は上から分配する交易社会であったため、

漢が市民から徴収した財源を使って絹製品などを匈奴に貢納し、
匈奴は西域に絹を転売した利益を部民に分配するという構図が成立した。

🤔政府が市民から集めた富で何故か米国民が潤うという現代日本とあまり変わらない🤣🤣🤣

匈奴では分配するものが無くなれば単于の地位が揺らぎ、有力な部族長に取って代わられる恐れがあるため、

時に長城を超え、漢辺境の村を襲い略奪を繰り返し、これを部民に分配することもあった。

辺境の漢人にとっては、(一部は匈奴に還流される)税金を納めた上に略奪までされるのでは、たまったものではない(๑•́ - •̀๑)

そこで、辺境の農民は(重税と略奪から逃れるために)長城を超え、匈奴の地に逃げ込む者が後を絶たなかった🤣

一般市民にとって 、民族とか文化といったアイデンティティより、まず安全に生きていける場所を選ぶことが生き残るための重要な戦略である。

辺境の庶民が、どちらに帰属するかという選択は、その時その時の情勢に応じたものであり、結果的に間違った選択をしなかった者が、より多くの子孫を残してきたとも言える。

西晋末期から中国に五胡が侵入してくるが、胡族の中には祖先が漢にルーツを持つ人々が大勢いたし、中国へ戻ってきた彼らの子孫はまた漢族と同化していった。

(〜🌾・ω・)〜🌾

奈良時代の日本朝が中国の北方政策や、その後の五胡の侵入などから学べる立場にあったのは間違いない。

まつろわぬ民への対応は、懐柔政策が基本で、

征夷の出兵も反乱鎮圧や(粛慎など)海外勢力の駆逐を目的とするものであり、

異民族への侵略や領土拡大を目的とするものではなかった。

阿倍比羅夫が北海道まで遠征したのは概ね事実と考えられているが、

その地に元からいた住民を排除したわけではなく、

ずっと南に後退した仙台平野~庄内平野辺りに境界を定めている。

この境界は稲作に適合する北限にも相当し、

それより北の住民は狩猟採集に依存せざるを得ない状況に充分配慮したものであっただろう。

尚、征夷の軍事行動の事後処理において、服属した蝦夷に徴税を課した時期もあったが、

それまで自由に狩猟採集していた人々にとって徴税に対する反発は強く反乱も相次いだ。

強引な公民編入が得策ではないという教訓も得た上での政策であったことも理由の一つであることに疑いはないが、

やはりこの時代に柔軟な対応がなされたことは日本という仕組みの形成に大きな影響を与えている。

🐗( '-' 🐗 )

公民に編入された東北の民にとって

北の狩猟民からもたらされる毛皮は、防寒対策の必需品であった。

北海道で狩猟された獣から得られた獣皮は、現地で一次加工されてから

船によって本州に運ばれ、

東北の農村内で二次加工され村民に販売された。

古墳時代の東北の農村に北海道の擦文人が雑居し、その場で皮なめしを行っていたと想定される考古学的証拠が得られている。

朝廷は一応の境界は定めたが、人々は完全に住み分かれていたわけではなく、同じ村の中で暮らしていた。

東北の村に出張してきた擦文人は、時に毛皮を現地調達する必要もあったかもしれない。

🤔そこにそのまま住み着き狩猟を生業とするマタギとなった者もいたのではないか❓

仮にその当時の北海道擦文人にアイヌ語話者がいたならば、マタギの言葉にアイヌ語の影響が残っていても不思議ではない
(近年は、東北蝦夷の夷語は日琉語に近いとする研究者が多い、また、『諏訪大明神絵詞』に登場する道南に住む渡党は日琉語を話していた)。

こうした北海道と東北の住民の共存共栄関係は、この時代だけではなく、縄文時代から近代まで連綿と続いていたものだ。

そうした共存共栄の文化の萌芽は岩宿時代の環状ブロック遺跡などから見られ、
遅くとも縄文時代には列島各地に黒曜石、ヒスイ、獣皮の加工流通を中心とする商工業と水運に基盤を置いた交易ネットワークが広がっていた。

日本列島の住民が何万年も前から共有してきた文化である。

縄文時代から昭和中期まで、

北海道から沖縄まで張り巡らされた交易ネットワークによる住民の交流、水運、行商の文化は継続し途切れることはなかった。

戦後、そうしたネットワークを担ってきた漂泊民、自由民と呼ばれた人々が戸籍に編入され消えていったが、

彼らこそ
真の意味での

“縄文文化の継承者”

と言えるのではないだろうか❓

(o🌾'▽')o🌾

そうした点を踏まえ、冒頭の続日本紀の黒川、賀美など3920人の俘囚の話に戻る。

彼らは元々、王民(皇民ではない)であった。

俘囚とされたからには、エミシと同じ文化集団であったのだろうが、

夷に調略され隷属していたのだという。

🤔

『日本書紀』神武天皇条

愛瀰詩烏 毗儾利 毛々那比苔 比苔破易陪廼毛 多牟伽毗毛勢儒

エミシヲ
ヒタリモモナヒト
ヒトハイヘドモ
タムカヒモセズ

エミシは一人で百人の敵を倒すというが(神武天皇の軍の前に)大した抵抗も出来なかった。

筑紫~安芸~吉備~奈良へと東征してきた神武天皇は、

エミシを倒してBC660年に橿原で即位。

考古学的には北九州に始まる弥生文化が瀬戸内を東進して奈良に到達するのがBC650年頃であり、

当時の橿原には、実際にカシの大木があったことが判明している。

また、弥生文化到達以前には、東北の「亀ケ岡文化」の影響を受けた土器が橿原から多数出土しており、遮光器土偶の欠片も発見されている。

日本書紀の年代観、記事内容は、弥生文化の到達時期と経緯を正しくとらえていたのではないかとする説が、近年有力になってきている。

『日本書紀』は弥生文化の視点から書かれていることは確かだろう。

🤔

書紀神武天皇条の終わりの方に、

天皇は橿原即位後、国を望見して言われた

昔、伊弉諾尊目此國曰「日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國。」復、大己貴大神目之曰「玉牆內國」

秀眞國、此云袍圖莽句爾(ホツマクニ)。

……🤔秀真国って何(๑•́ - •̀๑)❓

『ホツマツタヱ』梭の四

秀真国
東遥かに波高く
立ち昇る日の
日高見や

秀真国は東海・関東
日高見國は東北にあったとされ、
縄文文化が栄えた地域である。

『ホツマツタヱ』の成立年代は中世を遡るものではなさそうだが、

『古事記』『日本書紀』から省かれた“縄文時代”の歴史が伝えられているようだ。

『ホツマツタヱ』では、

クニトコタチは日高見國をタカミムスビに譲り、日高見は繁栄。

イサナギ、イサナミは筑波山で結ばれ、

アマテル神は富士山麓に生まれる(BC1285)

ニニキネはニハリ宮(茨城県新治郡新治村→2006年土浦市に編入)を治めた。
また、富士山麓のハラミ宮も治めた。

“ニハリの宮の 十八万に 
新民増えて 
名も高く
原見の宮に 
民を治し 
終に 
磯輪上秀真成る”

【茨城県稲敷市出土 注口土器
土浦市や稲敷市など霞ヶ浦周辺は縄文遺跡が多く、特に縄文晩期の逸品が集中する稲敷市は、当時の一大海洋交易拠点であったと推測されている。】

【富士宮市出土 注口土器
稲敷市出土の土器と似たS字の記号が使われている。
富士宮には縄文時代を通じて
多数の土器が出土。
山梨は縄文中期の土器、土偶の出土が極めて多く、『山梨長野縄文王国』と呼ばれている。】



ニニキネは灌漑農法を確立し、諸国に伝播。

BC1080、ホノアカリはヤマトアスカ王となる。

BC1065、筑紫で農地開拓

BC733、カンヤマトイワレヒコは淡海に生まれる。

BC661、カンヤマトイワレヒコ即位

🤔
『日本書紀』は秀真国や日高見國、新治宮の由来を削ってしまったために、

神武天皇条の秀真国の挿入が唐突になってしまった。

『日本書紀』景行天皇条

蝦夷既平、自日高見國還之、西南歷常陸、至甲斐國、居于酒折宮。時舉燭而進食、是夜、以歌之問侍者曰、

ヤマトタケルが蝦夷を平定し、
日高見國から帰り、
常陸を経て甲斐に至り、
酒折宮で食事をし、
歌を作って従者に問いかけた。

“珥比麼利 菟玖波塢須擬氐 異玖用伽禰菟流”
(ニヒバリ、ツクバヲスギテ、イクヨカネツル)
新治や筑波を過ぎて幾夜寝ただろうか❓

『ホツマツタヱ』では、

酒折の宮は昔の原の宮

とする。

日本武尊は、
祖先の建国の地である日高見國を攻め滅ぼし、

緣の筑波、新治を経て、
アマテル神が生まれ、
ニニキネが治めた
富士山麓ハラミ宮に至って
複雑な思いに駆られたのだろうが、
『日本書紀』では、何故、日高見、筑波、新治、酒折の地名がそこに出てくるのかを明らかにしていなかった。

『ホツマツタヱ』では、

“道奥曰く
今汝、
人の皇君として
仕える汝
衰えり
今来て国を奪わんや”

と、道奥(日高見の主)が武日(日本武尊)に問いかける。

“武日の曰く
神(景行天皇)の御子
汝を召せど
まつろわず
故に討つなり”

道奥は答えて云う

“それ我が国は
大御祖
タカミムスビの
この国を
開きて七代
これを継ぐ
日の神(アマテル神)ここに
道学ぶ
故日高見ぞ”

道奥は続けて、(元々、飛鳥宮はホノアカリが賜り、ニニキネは原見宮を賜った。
その時、日高見を賜ってから私の代まで十四代、他所の支配を受けたことがない)と説き、

更に続けて、

“それの君(神武天皇)
飛鳥を討ちて
国を取る
神に違えり
故馴れず(だから従うわけがない)
今また来たり
取らんとす
これも神かや
皇君よ”

と、(同族の)祖先の地を奪った神武天皇、
今また日高見を奪おうとする日本武尊を痛烈に非難した。

道奥はこの後も、祖先代々歩んできた日本の道を説き、

ついに日本武は道奥を赦し、
勿来より北は道奥に賜り国の守とした。
津軽蝦夷もこれに従った。

こうして日本武は矛を納め、日高見蝦夷と講和して、新治を経て酒折へと去って行く。

『ホツマツタヱ』は、
縄文晩期に日本の中心であった東北の亀ケ岡文化の視点から書かれており、

亀ケ岡文化が西へ南へ拡大し、飛鳥や九州にも影響を与えたという近年の考古学的成果と合致する事実を伝えている。

『ホツマツタヱ』は、『日本書紀』がバッサリ切り捨てたエピソードを収集して、
より確かな日本の歴史に近づかけたものと言える。

(o🌾'▽')o🌾

黒川、賀美の俘囚は、誰の王民だったのだろうか❓

この頃はまだ、日高見國が日本、天皇家の起源であり、本来カンヤマト朝は分家に過ぎなかったという『日本書紀』には書けない事実を知っている者が、日本朝にも多くいたのではないだろうか(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

邪馬壹『三國志』

邪馬臺『後漢書』

邪摩堆『北史』

邪靡堆『隋書』


『三國志』には

邪馬壹國,女王之所都


ヤマト国、女王の都する所


『隋書』によれば

都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也。


邪摩堆(大和)に都しており、魏志で謂うところのヤマトである。


中国では倭人の都は一貫してヤマト(๑•̀ㅁ•́ฅ✧


中国人にはィヤァマトゥィのように聞こえたのかもしれないが…


歌舞音曲が好きだという東夷人は、話すというより詠って(吟じて)いたのでしょう。


言葉は通じないので中国人と倭人の交渉は漢文による筆談になります。


倭人の文字は中国の最新の書体ではなく(所謂結縄=甲骨、刻木=金文の類い)、意味も古式ゆかしい用法でしたが、何とか通じたと思われます。


漢字を作ったのは東夷族ですから倭人の知識層は当然知っています。

ただ、情報の古さは否めず、当時の中国人には奇異に映る部分もありましたが、陳壽や、その元資料を作った中国知識層はそれを読み解いた上で、倭人の正体が何であるか確信していたのだと思われます。


( ✧Д✧) カッ!!カツモク


女王の都は

邪馬壹か❓

邪馬臺か❓


日本ではそのような論争も繰り広げられてきました。


一般には

臺は台の旧字

壹は壱の旧字、一の大字とされますが、


臺と台はもともとは異なる漢字で、共に建物に関係した字ですが意味は異なります。


邪馬臺を邪馬台としたり、

邪馬壹を邪馬壱、邪馬一などと置き換えてしまうと、元の意味がわからなくなってしまいます(´⌒`。)




これが「壹」です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧



こちらが「臺」




そして「台」


臺と台はどちらも建物に関連しますが、

臺は楼閣、うてな、高い建物



お祭りで曳き回す屋臺も臺ですね(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺は神(天)と一体になった天子が政治を執り行う場所であり、

浜松市天竜区では、
神輿と共に巡幸する屋臺には神が乗り移り、戦前までは女人禁制とされていました。



臺は天高く突き出した神の依代でもあり、鉾、男性的なイメージがあります。

『三國志』東夷伝には
壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因詣臺

壹與の使者が(魏の天子の政庁である)臺を詣でた、のように
魏では皇帝の居場所として臺を用いています。

『山海経』には、黄帝の臺のような表現が見られます。

古の東夷族にとって臺は重要な建物になります。

臺で政治を執り行う天子は、中国では武則天を除いて男性です。



臺と台の違いは、文字の成り立ちを見れば一目瞭然(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

臺(うてな)を建てるとき、

その場所を決めるのに、まず一本の矢を放ちます。

矢は“天意”によって導かれた場所に飛んでいき、地面に突き刺さります。

至(矢の象形)に刀を添えた文字が到(トゥと読みます)

天意によって矢が到った場所に、はじめて鋤を入れ、穴を掘ります(基礎、土台を築く)。この所作の象形が台となります。

矢が刺さり、刀(鋤)を入れて基礎工事をした場所に高い建物が建てられ、この象形が臺です。



女+台で始まりを意味します。
肉+台で胎、生命の始まりです。

台には鋤(刀)♂を入れ︎︎ ♀穴を掘る…その礎から始まっていく凹のイメージ。

臺は矢♂を地面♀に突き立てた場所から草木が天に向かい聳えていく凸のイメージ。

臺と台は対になっている文字で、臺は男性的、台は女性的なイメージになっていることがわかります。

陳壽が、中国の天子(魏の皇帝)が政治を執り行う神聖な場所という意味の臺を、

女王が都する(政庁がある首都)場所に用いて

邪馬臺としたなら、

魏皇帝と親魏倭王を同等に扱っているわけですから随分大胆だと思われます。



邪馬壹の「邪」には
よこしま(な心)、邪気という意味があり、現代の解釈では好字ではありません。

然し、この意味は後からついたもので、本来は

人が集まるめでたい場所

邑を意味しています。

琅邪の邪は邑の意味です。
牙は異なった(身分の)上下の者を表し、本来の邪は、上下隔てなく集まって寛ぐ場所の意味があります。

また、東夷族には婚礼に牙を贈る習慣があったとも云われ、邪にはめでたい集まりの意味もあったとされています。

然し、のちに中国では、牙は上下が食い違う、噛み合わないという意味で、正しくないという意味で邪の字が使われるようになりました。

漢字は東夷族が作った(๑•̀ㅁ•́ฅ✧と郭沫若は言っています。

東夷族のルーツである倭人は、邪を本来の意味で使っていたと思われ、

人々が集まり上下の隔てなく寛いで平和に暮らしている女王の治める都に「邪」の字が使われることは理に適っていると陳壽は思ったことでしょう。



「馬」

馬は貴重です。
当時の中国でも馬は貴重ですが、倭国では大変珍しく価値のあるものです。

倭人は遊牧民と交流していましたし、倭地である韓半島に馬はいましたから、馬の貴重さを知っていたのでしょう。

女王の都は、人々が集まる価値の高い場所、ということになります(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




壹は
一番大切なものを入れて蓋をした壺の象形です。

豆(トゥと読む)も大切なもの、命の糧ですが、



刀と口
つまり、
♂と♀が納められています。

壺を女性の胎内に見たて
男女の交わりを神聖なもの、
子孫繁栄を殊更願って暮らしていた縄文人の強い思いが

壹の字に込められています。

漢字は東夷族が作ったのですから、そこに縄文の思想が流れているのは当然です。

壹という字は、
至上の
最高の(一番の)
という意味から、

漢数字の一の大字としても使われます。

掖邪狗等壹拜率善中郎將印綬

の壹は「ひとつにして」の意味で陳壽は用いています。

然し、
女王の都、邪馬壹の壹は本来の意味で用いられていると考えた方が良さそうです。

邪馬壹(ヤマト)は、

人々が分け隔てなく集まり
非常に価値の高い
至上の都

という意味になります。

『後漢書』は、
男王である倭国王帥升の時代を書いていますから、
都は臺で良いのです。



刀♂と口♀を大切に納めた壺は、

妊娠した女性をイメージしています。

卑弥呼は引き篭って政治をしていますから、
臺のようなひときわ目立つ楼閣でまつりごとをしていたわけではないでしょう。

陳壽は
邪馬臺ではなく、

邪馬壹であることが理に適っていると思ったことでしょう。




前方後円墳というのは、

縄文思想の延長で、後円部を女性の胎内に見たてています。

その形は壺形で、まさに壹です(๑•̀ㅁ•́ฅ✧

♂と♀が合体し、
棺の主は胎内で再生され、
一旦、前方部の滑走路から飛び立ち星(これは台です、台には星の意味があります)に還り、再びこの世に蘇って来ると信じられていたようです。

倭迹迹日百襲姫命の陵墓、箸墓は前方後円墳祭祀の画期となりました。

卑彌呼以死,大作塚,徑百餘步,徇葬者奴婢百餘人。更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三爲王,國中遂定。

卑弥呼は結婚しておらず、後継者が定まらないまま世を去ってしまいます。

男王が立ち臺で政治を行いますが倭国連合は定まりません。

倭迹迹日百襲姫命は薨じる直前にオホモノヌシと結ばれ、箸でホト(女陰)を突かれたとされています。

刀と口の仕込みは完了した、という意味です。
早急に壺が必要になります。

箸墓は昼は人が作り、夜は神が作るという突貫工事で作られ、

卑弥呼再生の神事が始まったのでしょう。

卑弥呼と神の子が産まれてくる祭祀の場として。

その娘は
復た卑弥呼として立てられた
宗女の壹與

壹與は
壹を與られた者。

247年頃の卑弥呼薨ののち、
最大で263年頃までの空白ののち壹與は卑弥呼となって魏に遣使したとも読めるので、卑弥呼薨ののちに産まれた宗女が13歳になるには充分です。

卑弥呼は纒向の邪馬壹にいたと思われますが、

壹與(トヨともイトとも読める)の共立には九州勢や、
公孫氏(つまり赤染氏)、
楊(=木+昜、高木信仰、日神信仰=壱岐氏)の関与が強かったのではないかと推測しています(๑•̀ㅂ•́)و✧

それにしても…

『三國志』『日本書紀』『古事記』のコールアンドレスポンスと、圧倒的な情報力。
昔の人は本当に凄いと思う(๑•̀ㅁ•́ฅ✧




且人

元は山東泰安東南一帶に居住していた東夷族であったらしい。

沮吳または徂徠とも云う。

且人は堯舜時代まで渤海湾岸に暮らしていたが、殷王朝の圧迫を受け、各地に拡散した。

東北に向かった一支を沃沮と云う。

西に遷入し、新疆に且未國を建てた支族もあった。

また一支は西南に遷し苴候國(古蜀)を建てた。

南に向かった者は且歐、且蘭(四川省南部、夜郎)、後の百越の一支となった。

現在の中国少数民族である
ウイグル(新疆のテュルク系)
チワン(百越後裔、雲南)
満州(粛慎後裔)
朝鮮族(韓半島ではなく古朝鮮の領域である中国東北部に住む朝鮮族)
は、且人の後裔と考えられている。

西遷した一支は当初、陝西且水に遷り甘肅に徂國を建てたが,後為周文王に滅ぼされた。

その後、河西に逃れ、新疆に遷り秦朝時期に且末國を建国したが、
匈奴の冒頓単于に敗れ属国となった。

“且渠”は且人の首領を意味し、匈奴沮渠部となって代々部族長は世襲された。

沮渠部にはサカ族も雑居しており、
のちの突厥王家阿史那氏は、沮渠部サカ系を出自とするという。

鮮卑拓跋氏も河西を出自としている。

羌、氐、小月氏も匈奴~河西鮮卑の支配下にあった。

匈奴単于を輩出した攣鞮氏は夏后氏の子孫で、殷末に北へ逃れた夏王朝の末裔とされる。

南へ逃れた夏の末裔の越、匈奴、そして渤海湾岸を訪れる海洋交易民倭人には“文身”胸に刺青する共通の習俗があった。

匈は胸に通じ、
倭の海人族も胸形(宗像)と言った。


阿史那氏はギョクテュルクの始祖であり、トルコ族国家の王朝は全て阿史那氏に繋がるとも云われ、
ウクライナのハザール可汗家、ブルガールのデュロ王家、アセン家なども阿史那氏族とされる。

拓跋氏は北魏だけではなく西夏、吐蕃(拓跋同族禿髪氏)の王家ともされるが、河西に勢力を誇った有力氏族であり、中国南朝では拓跋氏の出自を嬴姓李氏(のちの唐皇帝家同族)とした。

匈奴単于の血は、アッティラを通じてカール大帝に繋がっているとされる。

渤海湾岸の東夷支配層は、中華ファーストエンペラーの始皇帝からラストエンペラー袁世凱(袁紹末裔)まで、出自を明らかにしていない明を除く皇帝家の祖先となったが、

東夷(トゥーラーン)の支配は冒頓単于の血脈を通じて世界に及んだと、

ハンガリー、ウクライナ、トルコでは信じられています。

その、渤海湾岸の東夷族の祖神である東の天帝=帝俊は、

粛慎の東の海の彼方、
渤海湾岸の滑石山の東の海の彼方、
山東半島煙台の蜃気楼の彼方、
会稽の東の海の彼方

に、いると秦漢魏の時代に東夷族を祖とする皇帝家(秦、漢、魏、新、仲、呉)は信じていました。


えほしやまと嵩山(たけやま)

二俣がまだ蒼海だった頃、

金の磐船に乗ってヤアタの神がやって来ました。

磐船が突き刺さった場所が烏帽子山と嵩山の

二俣地溝帯上部礫岩に空いた穴。


天竜川水運が隆盛となった江戸時代初期以降、二俣郷城下村(二俣村)は上下諏訪明神を信奉するようになりますが、


元々の二俣郷社は、山東村と二俣村の境にある山(おそらく烏帽子山)に鎮座した八幡神社であったようです。



山頂の奇岩に大穴が空いた山が二つ連なっている、というのは確かに不思議な光景ですね‼

(˶˙º̬˙˶)*॰

嵩山と尾根続きの宝林寺山(現光明山)には、

八幡大神である応神天皇の大仙古墳と同形とされる光明山古墳があり、
応神天皇に関連した皇族の古墳である可能性があるそうです。

応神天皇の子に
若野毛二俣王がいます。

二俣王は継体天皇の祖先にあたりますが、

二俣王の父を
誉田別尊(ホムタワケ、応神天皇)ではなく、

垂仁天皇の王子である誉津別命(ホムツワケ)とする説があります。

ホムツワケは、伯父である狭穂彦の乱に巻き込まれ、火中で生まれ救い出されました。

このショックからか王子は成長しても言葉を発することが出来ませんでしたが、

垂仁天皇はホムツワケ王子を溺愛し、

尾張の相津の二俣杉で二俣小船を作らせ、その船を運ばせて市師池、軽池に浮かばせて王子と戯れたとの逸話があります。

( ・ิϖ・ิ)っ

尾張(おわり)とは、
ヤマト朝支配圏の終わり(end)を意味すると云われています。

垂仁朝では、まだ遠淡海国造は置かれていませんから、

ヤマト朝の支配が及ぶ(狗奴國、久努国との境である)天竜川辺りまでが尾張国だったのでしょう。

(´-ω-`)

尾張の相津の二俣杉とは、

二俣相津マリーナ周辺(相津は気多郷、その隣の山中村までが二俣郷)の杉を指しているのでしょう。

垂仁天皇は、自らの支配が及ぶ最も遠い場所(根国=奴國)で作った二俣舟(双胴カヌー)を取り寄せることでホムツワケ王子への愛情の強さを示したかったのかもしれません。

( ・ิϖ・ิ)っ

天竜川は銅鐸分布の東限であり、

(二俣町)鹿島(かじま)は、東(あづま)の果て=かづまを意味し、

根堅=根国、奴國

二俣がヤマト朝の支配が及ぶ
この世の終わり、境界(岐)であることが地名から明らかです。

炎帝氏族(彦火火出見、炎尊)であるヤマト朝にとって岐山(岐階)は聖山であり、

本来の岐山(縄文時代にはツインピークであった富士山)に支配が及ばなかった(孝靈天皇=桃太郎の代に一度は大月まで遠征していますが)ため、ツインピークの光明山を岐山(二俣山)に見立てたのでしょう。

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明治初期まで鳥羽山峠には
猿田彦大神を祀る鳥羽山神社がありましたから、

元は二俣神(クナトノ大神威様)を祀っていた事が明らかです。

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豊臣秀吉が
「二俣を制する者は天下を制す」と言ったのは、この歴史的事実を知っていたからでした。

秀吉が天下統一にあたって、家康を江戸へ追いやったのは、

二俣が欲しかったからです。

秀吉は腹心の堀尾吉晴に命じ、二俣城、鳥羽山城(国指定史跡)を豪華絢爛な桃山様式の城に改造させました。

織田信長もこうした事実を知っていましたから、
炎帝の重要な地である
岐山、曲阜から一字づつ採って「岐阜」という地名を定めたのです。

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本当の天下の分かれ目とは、

この世とあの世を分かつ場所、

海と山、空と陸が交わるところ、

遠州二俣

なのです。


 

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天竜川の源流は、

諏訪、霧ヶ峰、蓼科、八ヶ岳

最高品質の黒曜石産地です。


石器時代を通じて、最も価値が高かったモノは黒曜石でしたから、諏訪地域は交易ルートの中心として永らく繁栄していました。

諏訪から南関東へ抜ける甲州街道、諏訪湖から太平洋へ流れる天竜川は、
岩宿時代にナウマンゾウを追いかけた道であったとされています。

諏訪から糸魚川への翡翠ロード、
八ヶ岳南麓から千曲川流域に周り込めば、新潟、北関東へと通じる道、
それは日本海、そして大陸との交易ルートでもありました。

富士川沿いに山梨、富士宮、駿河湾へと進めば太平洋岸海洋民との交易ルート。

中山道は東海近畿へ繋がり、

中央構造線とフォッサマグナ、
日本三霊山の立山、白山、富士山からの龍脈、地脈の流れが諏訪から天竜川、中央構造線(秋葉街道)を通じて南へ向かっています。



3000メートル級の赤石山脈から流れ出す急峻な天竜川支流は、良質な石材や鉱物の宝庫で、
岩宿時代には

蛇紋岩、チャートなどの石器材料、

設楽火山から噴出した宝石類などが容易に採集可能でした。

諏訪から浜松市天竜区の秋葉山に至る赤石山脈直下には、日本最大の銅鉄鉱脈があり、天竜川下流域を深遠なブルーグリーンに染めています。


岩宿時代、縄文時代を通じて日本の中心、世界最先端の地でもあった諏訪湖と直結する天竜川流域には、

非常に重要な更新世の遺跡が集中しています。

50000BPに遡る可能性がある局部磨製石斧の祖形となる石器が発見されている飯田市の竹佐中原遺跡。

22000年前の世界最古級の石皿、確実な植物質食料の利用が見られる磐田原の遺跡。

本州最古の人骨(18000BP)が発見された浜北根堅遺跡。


天竜川は人類史を解き明かす上でも非常に重要な鍵を握っているのです。


天竜川は、
国神国常立尊が座する八ヶ岳から諏訪湖までの源流部を

上川

諏訪湖から磐田海へ注ぐ二俣までを

天の中川

弥生海退後に遠州平野西側(三方原)を流れる

麁玉川

同じく遠州平野東側(磐田原)を流れる

廣瀬川

で構成されています。

白樺湖も天竜川源流の一つであり、天竜川水系の一部になっています。

諏訪信仰、秋葉信仰は、

皇祖を祀る伊勢、八幡とは異なる

縄文由来の民間信仰としてヤマト族、イヅモ族の心を支えてきました。

分杭峠のようなアジア有数のパワースポットも、諏訪と天竜川下流域を結ぶ秋葉街道沿いに位置していますが、

他にもまだ広く知られていない50000年以上の歴史を刻んだパワースポットが多数集中しています。





柳田國男『石神問答』の最終回答となる聖地、

カグツチ、イザナミ、スサノオが関わる黄泉、根堅の冥界との接点、

天竜川は神話と古代ロマン(ㅅ´ ˘ `)の宝庫なのです。



縄文家族では、引き続きamebloとTwitterで天竜川スピリチュアルツアーをご案内していきます(˶˙º̬˙˶)*॰