契丹古伝
(神頌叙伝【しんしょうじょでん 】)
とは、
遼(契丹)太宗耶律堯骨の会同五(942)年に耶律羽之によって撰ばれた契丹王家の祖先に関する伝承を纏めた古文書とされています。
表向きは「偽書」とされていますが、

15000年前のベーリング・アレレード期に、
環日本海地域に興った東夷文化、
日本列島の縄文文化からの強い影響が見られるアムール地域のオシポフカ文化に始まる大陸東夷族の興亡史を綴った内容は、
中国の史書や近年の考古学、先史学の研究成果と整合性が取れており、
中華側からではなく、東夷族の視点から書かれた唯一の資料として、非常に価値があるものと言えます。
耶律羽之は東丹國中台省左大相として、東丹國の安定した運営に尽力しました。
東丹國は、契丹により滅ぼされた渤海(契丹語でDan guru)を統治するために置かれた契丹(遼)の封国で、
東丹は契丹語でDan guruと読んでいた事が明らかとなっています。
契丹古伝の内容が正しいなら、渤海の民は元々契丹と同族であったということになります。
契丹の国号「遼」は、大陸東夷族の原郷である大遼河から採ったとされており、
契丹の祖先が遼河文明に属していた事は、間違いないと思われます。
BC6200頃から始まる遼河文明は、東日本の縄文勢力と通交関係にあった事は確実視されており、
近年は遼河文明末期の
夏家店下層文化(BC2000~1500)と
黄河下流域の山東龍山文化(BC2500~1500)
の勢力が
殷(BC1600~1046)の母体となったと考えられていますから、契丹古伝の内容は概ね歴史的事実に沿ったものと言えるでしょう。
山東龍山文化と縄文時代後期末~晩期の九州には、黒色磨研土器という共通した土器様式が見られますので、
縄文人が殷王朝に対し、中国には産出しないタカラガイやヒスイの供給を行っていた可能性は高いでしょう。

(´-ω-`)
黄河文明の黎明期の土器が、西日本の縄文土器に影響を受けている、というのは最早周知の事実ですから、
遼河、沿海州、アムール地域に展開する東夷族(トゥーラーン、ウラル・アルタイ語族)が縄文人の子孫であると考えるのは、何らおかしいことではありません。
(´-ω-`)
少なくとも
岩宿時代(BC36000~)から
縄文時代早期(~BC5300)までは、
アジアで最も先進地域であったのは日本列島です。
遼河文明、
黄河文明、
長江文明の成立に、
日本列島の縄文人(倭人)が関与していたのは、ほぼ間違いないでしょう。
(´-ω-`)
未だに契丹古伝を「荒唐無稽」と言っている人々は、
最新の考古学、先史学の知見を知らないか、口止めでもされているのでしょうか。
日本の研究者の多くが、中国文明黎明期の土器と日本の縄文土器をより詳しく比較したいと考えており、
中国の土器に「回転縄文」が見られるかどうかに注目しています。
(´-ω-`)
※遼河と長江の土器からは回転縄文が見つかったという話は非公式ではあるものの、研究者の間ではよく知られているのです。
(´-ω-`)
日本には大陸には少ないハプロタイプY-D1a2a、Y-C1a1が見られ、
漢民族、ウラル民族の共通祖先であるY-NO*、
漢民族の祖先であるY-O2*が発見されているということは、
一部のネトウヨが言うような、
日本と中韓は人種が違う٩(๑`ȏ´๑)۶
のではなく、
ましてや
中韓より日本人はユダヤに近い٩(๑`ȏ´๑)۶
という卑屈な西洋かぶれでもなく、
(´-ω-`)
東夷族、漢民族は日本列島から拡散した‼
可能性を示すものです。
(´-ω-`)
ネトウヨの皆さんが縄文時代、岩宿時代の日本の先進性を知らないまま自虐史観に陥っている事実は非常に残念なことであり、
かつて世界を制し、今も世界をコントロールしている闇の正体である東夷族(トゥーラーン)の本拠である日本列島に暮らす人々の大部分が、
東夷族について何ら知識を持っていないという事実は、
日本王朝の存亡を危うくするものです。
契丹古伝の研究、
中国古典の研究、
日中共同による先史時代研究が進み、
大東亜の人々の封印された歴史が明らかになることを強く望んでいます。
(˶˙º̬˙˶)*॰
渤海は東夷族王家の本宗家である日本に朝貢していました。
渤海を滅ぼし建国した契丹傘下の東丹國も引き続き日本への朝貢を希望しますが、日本はこれを断りました。
唐は嬴姓李氏、
宋は嬴姓趙氏の王朝で、バリバリの東夷族でしたが、
遼(契丹)も、
そして日本も、
「本朝こそ真の中華」(=東夷の本家である)
という思想が根底にありました。
白村江の戦い(日唐戦争)
元寇(日元戦争)
倭寇(東シナ海の制海権を巡る日明間の紛争)
朝鮮出兵(日明戦争)
明治(東夷傍系の満州族である清に代わって、真の中華、東夷本家である日本が明=中国を治める)と宣言して戦った
日清戦争
中華民国を正当な中華と認めず、支那共和国であるとして、行った
日韓併合、
満州事変、
日中戦争は、
全て、
日本による中原支配の回復を目指して行われた戦争です。
(´-ω-`)
中国もその事実はよく理解していますから、
日本の政治家が「支那」と発言することに敏感に反応しているのです。
(´-ω-`)
天皇家の最大の目標が
「中原の回復」
であるという事実は現在も変わりません。
(古事記序文にあるように)日本【ひのもの】とは、真の中華でなくてはならず
日本という王朝にとって、
中原の回復
は、国是なのです。
(´-ω-`)
このため、
殊に戦後は、
立場ある研究者が歴史的事実を語ることが憚られてきました。
(´-ω-`)
周知の事実ですが、
日本という名の民族は存在しません‼
日本という王朝を構成する
アイヌ
琉球
ヤマト
という民族がいるのみです。
日本という王朝が無くなれば、私たちは日本人では無くなります。
果たしてその時、ヤマト族が民族として纏まることが可能でしょうか❓
歴史を失った民族は、他民族に埋もれ消えていくのが歴史の常です。
ヤマト族ほど、自分たちの出自が曖昧な民族はいないでしょう。
(。ì _ í。)
我々、倭人は、38000年前から日本列島に居住してきたのだ‼
という歴史的事実を声高に叫ぶ人は殆ど見当たりません。
( •́ㅿ•̀。 )
現代日本人の8割は、弥生時代に倭人が長江流域や朝鮮半島からやって来た、
などという考古学的事実に相反する荒唐無稽なほら話に惑わされて、民族の歴史を見失っていては、
同じ縄文人の末裔である大陸東夷族に敵いません‼
「分家の漢民族よ‼我々が本家なのだ‼」
(๑• - •`๑)
最近は、
日本人が無知なのをいいことに、
(漢民族が東夷の傍流である事実を実は知っている中国人研究者が)
縄文人は中国人の子孫٩(๑`ȏ´๑)۶
と事実を捻じ曲げた論文をこっそり発表しています。
(´-ω-`)
歴史を奪えば戦争に勝ったも同然‼であることを漢民族はよく知っています。
事実、これまでずっと、
漢族は東夷族に制圧されてきたにもかかわらず、
シレッと歴史を奪い、
東夷王朝の歴史を
漢族の歴史にすり替えてきたのです。
(´-ω-`)
武力行使が戦争の全てではありません。
歴史を奪い民族の誇りを喪わせることこそ、最大の侵略なのです。
(´-ω-`)
中国が日本を侵略するのに、
戦争という手段は必要ありません。
中国が国を挙げて
日本の天皇を
中華皇帝に復する
と、宣言すれば良いのです。
新たな「日本王朝」の90%が漢民族となり、ヤマト族は新・日本の少数民族に転落します。
倭漢満蒙鮮五族協和を掲げる天皇家にとって、ヤマト族だけが特別というわけではありません。
ニヴフ、ウィルタ、アイヌもヤマトも琉球も高砂も韓も等しく皇国の臣民であったように、
日本という王朝の王家にとって、その時その時の日本朝を構成する民族が全て「日本人」なのであって、
たまたま多数派のヤマト族が幅を利かせていただけで、
日本という王朝内に他に多数派
の民族が加われば、ヤマト族の地位(という幻想)は、崩れ去るのです。
民族としての文化、歴史、アイデンティティを守ろうという強い意志は、今の日本人の中ではアイヌが一番強く、次が琉球ですが、
ヤマト族は日本の中の多数派という現在の地位に安住して、民族としての団結力を喪っていると言わざるを得ません。
(•ө•)♡
アイヌの人々が、伝統的な民族衣装を身にまとい、歌や踊りを披露する機会が増えていますが、
民族として、同じ縄文人の直系子孫としての血が騒ぎ、湧き上がって来る高揚感を実感している映像を見る度に
非常に羨ましく感じるのです。
(´-ω-`)
明治政府がいったい何者であったのか❓
様々な議論が存在しています。
然し、ハッキリした歴史的事実があります。
アイヌは和人によって文化を奪われたと誤解している人がいますが、事実ではありません。
アイヌや琉球の文化を破壊し奪ったのは明治政府です。
そして、ヤマト族の文化も明治維新後に、
明治政府によって、
文明開化の号令の下に、徹底に破壊し尽くさられたのです。
(´-ω-`)
秋葉原の地名の元になった遠州秋葉山は、
江戸時代末期に日本最大の民間信仰でしたが、
明治政府の意向を承けた浜松県令によって完膚なきまでに叩き潰されています。
皇国史観の中心となる伊勢神宮の最大のライバルである秋葉は潰さなければならなかったのです。
神仏分離、一村一社令の号令によって民間信仰は破壊され、
伊勢神宮を頂点とする国家神道が創造されました。
(´-ω-`)
日本という国家がヤマト族のアイデンティティを担保しているわけではありません。
(。ì _ í。)
そもそも、ヤマト族は民間の力でアイデンティティを確立してきました。
江戸時代以前には治水事業のような公共工事も私財を投げ打って民間主導で行われたケースが多いのです。
庶民の識字率が高いのも、民間の教育施設である寺子屋が各地にあったからで、
ヤマトの民衆は自ら学問を糧に生きる術を模索してきました。
元々、ヤマト族は「お上」を本気で信用してはいませんでした。
だから民間人が率先して読み書き算盤を学び、国家から自立して生きられる民であろうとしたのです。
縄文時代の王家は、民の自由を奪おうとはしていなかったので、ヤマト族には国家に依存せず自立して生きる気風が備わっていました。
陳壽『三國志』にも見られるように、
東夷諸族の王達は積極的に蓄財をせず、一般人と同じ家に住み、民草と共に田畑へ出て汗を流しました。
いかに平等な分配が出来るか❓というのが東夷族のリーダーに求められる資質であり、各部族のリーダーは民衆の期待に応える努力をしていました。
東夷社会は民間の力が強いので、不公平な分配をすれば必ずリーダーの地位から引きずり下ろされてしまいます。
中国でも、三皇五帝は民衆の期待に応えた理想のリーダー像とされてきました。
日本にも貧富の差というのは存在しましたが、昭和に至るまで富の平等な分配は機能しており、富裕層は多額の累進課税を納めていました。
これは欧米や中国のような王権や皇帝が民を支配し搾取する農耕社会と異なり、
民が自由に経済活動を行い、村と村、民と民を直接結ぶ東夷族の狩猟採集交易ネットワーク社会が38000年の永きに亘って機能してきたからなのです。
富裕層が❝自由❞自在に大衆から搾取出来るトリクルダウン型の「新自由主義経済」か、
民衆が自由に経済活動を行いボトムアップしていく「社会民主経済」かの違いなのです。
(´-ω-`)
一方、中国では早くに
民が自由に商業活動を行い、富を平等に分配する東夷社会のシステムが崩れていきました。
(´-ω-`)
殷は東夷族の王朝で、殷人はのちに「商人」と呼ばれるように、民衆は東夷族的な交易民の性質を受け継いでいましたが、
殷王家は紂王に象徴されているように王朝後期になると独裁性を高め、王族が贅沢な生活を送るようになっていきます。
末期の殷は頻繁に戦争を行い、捕虜として捕らえた羌人を処刑していました。
周と羌が連合して殷を攻撃したのは事実と考えられています。
周の王家はY-Qの比率が高く、オビ川流域にいたケット族系の言語を話していたようですが、
殷代の羌はY-O2a2に属し、まだシナ・チベット系では無く、ウラル・アルタイ系の東夷族の一員であったと思われます。
契丹古伝の東族というのは、ウラル・アルタイ系の東夷族。
西族は(印欧語を話すアーリア人ではなく)ケット語とシナ・チベット語を含むデネ・エニセイ語族であると想定されます。
シュメルやユダヤに繋がるのはおそらくO2a2で、
古羌のO2a2a1a2や
氐のO2a2b1a1は慕容吐谷渾以来、チベット族D1a1とも合流していきます。
東夷族の中でもY-N1とY-O2a2は特に広域に拡散していきました。
N1とO2a2が縄文文化を世界へ拡げる担い手となっていましたが、
列島の縄文人は常に大陸東夷族と連絡を取り、交易に出掛けては大陸の様子を窺う中で、
農耕に過度に依存した社会、都市化による人口の過密が争いのもとであると判断していました。
日本列島には、後期旧石器時代(岩宿時代)から既に、一歩進んだ社会システムが構築されていたのです。
(˶˙º̬˙˶)*॰
先史時代の日本には都市はありません。
それゆえ王権の存在も遺跡などからは明確に見えてこないのですが、
王家や国家は縄文時代(或いは岩宿時代)から確かに存在していたのです。
彼らは都市のような人口密集地を作らず、
列島に隈無く張り巡らされた連絡網で繋がりながら、
無数のムラに分かれて暮らしていました。
山の頂上には通信施設があり、鏡のように磨いた岩などに光を反射させ、連絡事項を列島中に素早く伝えていました。
数多のムラとムラは、それぞれ意思の疎通と合意が形成されていましたが、
都市に人々を集めて文書で伝える都市ごとの住民による合意の形成ではなく、
文字を使わず、光の信号によって通信することで、広範囲の村々に合意が形成されていました。
このような通信手段の確立により、文字を使わず、人口を集中させずに合意が形成されるムラとムラが集まった国家群が出来ていました。
ムラとムラが繋がったネットワーク社会は、実は文字を使う都市型社会(文明)より一歩進んだ未来のシステムであったのです。
分散して孤立したムラとムラが争うのではなく、
人々は列島の隅々まで交易をしたり旅をして自由に動き回りましたが、
意思が統一されたネットワークによって旅の安全が保障されていたのです。
(˶˙º̬˙˶)*॰
曰若稽諸。
傳有之曰。
神者耀體。
無以能名焉。
維鑑能象。
故稱鑑曰日神體。
讀如戞珂旻。
曰若【ここ】に諸【これ】を稽【かんが】ふるに。
伝にこれ有りて曰く。
神なる者の体は耀【かかや】き。
以て能【よ】く名づくる無し。
維【これ】鑑能く象【かたど】る。
故に鑑を称して日神体と曰ふ。
読んで戞珂旻【かかみ】の如し。
契丹古伝第一章は『鏡の本義』について。
古代は山の頂上など見通しの良い場所にある鏡石、鏡岩などの古代の通信施設が重要であったために、後世に鏡は崇敬の対象として伝えられています。
太陽や月、星への信仰は、やはり山頂で行っていた天文観測(天文学は農事暦のためではなく最初は海洋航海を行うために必要な情報でした)から生まれ、
日(ひ・か・り)は、日(ひ)または日(か)と読みました。
神体は、神(かみ)の体(身=み)で「かみ」と読み、
日神体で「かがみ」と読んでいました。
(˶˙º̬˙˶)*॰
東夷族全体に伝わる
天、光、
日、月、星への信仰、
鏡の崇敬というのは、
岩宿時代に始まる日本列島の人々の暮らし、社会の仕組を背景に生まれてきたものなのです。
(´-ω-`)
ヤマト族は38000年前から本州に住む世界最古の民族であり、
卓越した技術と、
一人一人が自立し、現代より遥かに精神性の高い自由な文化を持っていた、
誇り高き民族なのです。