炎帝神農氏は日本人だった⁉️ 東夷に支配され続ける漢民族の歴史~中国の史書から見た倭人② | 縄文家族|天竜楽市

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大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



中華(漢)民族の祖は黄帝とされています。

近年、中国では黄帝の実在性を探る研究が進んでいます。

黄帝は、それ以前に中原(黄河中流域)を治めていた炎帝神農氏に勝利して中原を制するのですが、近年の研究では、

黄帝=黄河文明(雑穀畑作民)
炎帝=長江文明(稲作漁労民)

の戦いと考えられています。

さて、ここから先が面白いのですが…
今、中国の研究者がどう考えているかというと…

勝った黄帝の子孫が漢民族となり、敗れた炎帝の子孫が日本の天皇になった⁉️←今ココ‼️

…のだそうです!Σ( ̄□ ̄;)

本気でそう考えているらしいですよ( ・`ω・´)

長江文明の方が優れていたにもかかわらず…中国からは、その文明の痕跡は跡形もなく消え去りました…

然し、長江下流にあった呉越の習俗と倭人の習俗は似ています。

現在、中国で炎帝の子孫を称するミャオ族の習俗も、倭人にそっくりです。

炎帝の本拠地は岐山(のちに周王朝の起源ともなった)であり、ここには隋の時代に岐階県が置かれていました。
…岐階郷は、平安時代の天竜区(山香郡)にあった郷名ですね。

岐=クナト神であり、岐神(二俣神)は出雲の最高神とも云われています。

炎帝神農氏は、牛頭人身…つまり牛頭天王=スサノオですね。

スサノオが中国由来、とくに斉(山東半島にあった国で、黄河下流だが長江文明圏に属し、遼河文明の影響も強い)由来という説は日本でも唱えられています…

中国研究者の見立てとしては…長江文明の担い手、炎帝神農氏のY染色体ハプロタイプはO1b2の稲作民で、大半が中国には残らず、日本に渡るか、朝鮮半島、満州へ逃げ込んだ…

こうした中国研究者の仮説は、日本の皇室が中国の分家とする意味合いも含んでいますが、

逆にいえば、漢民族より先に中国を治めていたのは日本の天皇家だということになります。

日本の天皇家が万世一系であることは、中国では唐の時代からハッキリと認めていますし、現代中国の研究者も(日本の自虐史家以上に)ハッキリと認めていることです。

残念ながら、日本の研究者は自虐史観が主流ですから、日本と韓国だけが、正しい歴史を認識していないことになります。

西洋の最高権威がローマ法王であり、東洋の最高権威が日本の天皇であることは、現代の国際社会が認めている疑いようのない事実なのですが、その正当な理由を日本と韓国の国民だけが知りません。

神武天皇からの万世一系をネトウヨは誇らしげに自慢しますが…たかだか2700年弱の歴史に過ぎません。

残念ながら、日本のネトウヨは致命的な自虐史観に冒されています。

中国の正史である『新唐書』『宋史』では、神武朝(周の僖王の時に中る)の先代である彦ナギサ尊(ウガヤフキアエズ朝)はおろか、初主天御中主からの万世一系を認めています。

中国では、黄帝からの五帝の統治に続いて、夏・殷・周の上古三代の王朝が興亡しますが、

夏は長江文明(Y染色体ハプロタイプO1a,O1b1)との関係が強く指摘されています。
史書では、夏の先祖を「東夷」としています。
夏の後裔は「越」です。

続く殷(商)は遼河文明(Y染色体ハプロタイプN,C2,O2a2)との関係が強く指摘されています。
(遼河文明と青森県三内丸山遺跡の関係も指摘されていますが青森県には現在もハプロNが多い)

殷(姓は子)は周に滅ぼされたあと、一族の箕子は朝鮮に移ります。
三國志東夷伝では、遼河地域、満州、朝鮮半島、日本列島にまたがる地域の民族をまとめて「東夷」としています。
そして、東夷の中でも「倭人」を三國志の著者陳儔は、そこはかとなく盟主的存在に描いています。
三國志東夷伝の諸民族(アルタイ諸語系夫余語族)は、多少の相違はありながらも…殷の後裔であると結論づけるように記されています。

周は前述のように元は炎帝と関連した民族であり、これに匈奴(Y染色体ハプロタイプQか?)や西戎(ハプロR?)が合体した部族であり、姓は姫。

中国はかつて、日本を東海姫氏国と呼んでいました。
倭人が呉(周の一族で姫姓とされる)の太白の末裔を名乗っていたとも…

古来の日本では、高貴な身分の女子に○○姫や、○○子と名付けていましたが、
周(姫姓)や殷(子姓)の王女が他国へ嫁ぐと○姫、○子と呼ばれていたこと(つまり、古代中国の高貴な身分の女性には○姫、○子が多いのですが、本来の姫、子が女性を意味するわけではない)に由来するのだと思われます。

周建国後、殷の一族は宋に、夏の一族は杞(「杞憂」で知られる…杞国の人は、隆盛を極めた夏王朝すら滅ぶのだから、次はどんな不幸が起こるだろうかと常に心配していた)に封じられますが、実は故地(長江下流域、遼河以東)に戻り、それぞれ越、箕子朝鮮として存続していたのでしょう。

中国の史書は、そうしたロジックで書かれることが多く、大元ウルス(元朝)は、中国から撤退後も、故地モンゴルに遷都しただけでそのまま存続していましたが、史書では明が元を滅ぼしたことにしています。

殷は商とも呼ばれますが、商人の語源であり、その民族は行商…つまり交易民であったと考えられます。

夏人の末裔である越人もまた、ベトナム(越南)から北陸(越前~越後)まで広範囲に交易する海洋民でした。

夏も殷も「東夷」系の交易民が母体であったことがわかります。

中国の史書には、婉曲ではあるものの、読めばそうとわかるように書いてあります。

箕子朝鮮と越の主要な交易相手は、倭人であったのでしょう。

そして、倭人を含む「東夷」の正体とは「縄文人」だったのです。

朝鮮半島は12000~7300年前までの間、人類の遺跡が見つかっておらず、無人地帯であったと考えられています。

7300年前(BC5300)の鬼界アカホヤカルデラの火砕流で九州は壊滅的な状況となり、九州縄文人が朝鮮半島へ避難、その後、朝鮮半島で縄文文化が独自に発展していきますが、九州との交流は常にあり、箕子朝鮮が進出するBC1100頃までの朝鮮半島には日本列島から進出した縄文人だけが住んでいました。

一方、中国東北地方BC6200頃の遼河文明は、櫛目文様の土器、ヒスイ=硬玉(東洋でヒスイの産地は日本列島のみ)、竪穴式住居(日本列島では20000年前頃から作られていた)を基本に独自の文化を発展させていきます。

長江文明は、BC7500頃から、その名も「縄紋陶器文化」で土器生産が本格化します。

日本列島でも縄文土器には地域性がありますが、縄目紋様、櫛目文様を土器につける、というのはこの頃のお約束だったようです。

縄文人は、中国で土器生産が本格化する一万年前から土器を大量に生産し、更にその二万年以上前から世界最先端の磨製石器をはじめ、大量の石器を製作し、黒曜石を求めて本土から100Km以上離れた神津島まで航海していました。

また、日本海でイルカやクジラの漁も行う高度な航海術も持ち合わせていたようです。

縄文時代前期に、沿海州、朝鮮半島、山東半島、長江流域まで航海していくのは造作もないことであったと思われます。

土器は粘土さえ調達出来れば、何処でも生産可能です。

日本列島の中でも、それぞれの地域で独自な様式が生まれていますし、縄文土器からスタートした遼河、長江、黄河下流域の土器は、日本列島を上回るスピードで独自に進化していきます。

長江は稲の生産地、黄河以北はアワの生産地として、土器が重要だったのでしょう。

縄文時代の日本列島は海進により、水田稲作に向いた平野部は大半が海底に沈んでいました。
長江文明との交流からコメは知っていたものの、細々と焼畑で陸稲栽培する以外、稲作に適した土地はなかったのでしょう。

然し、稲作の技術はあった為、寒冷化による海退で平野が形成された弥生初期から急速に稲作が発展していきます。

一方、縄文時代の稲作の痕跡は少ないものの、土器からはコメの圧痕が見つかっています。

長江、山東半島からコメを輸入していた可能性もありますね( ・`ω・´)

先述のように、土器は何処でも生産出来ますが…黒曜石は中国では全く産出しません❗

わずかに北朝鮮と中国の国境、白頭山(当然ですが当時そこを押さえていたのは「東夷」です)で出るくらいですが、日本列島には膨大な黒曜石が産出します。

ヒスイも当時は、軟玉の産地すら漢民族の領域にはありませんでした。

土器はいくらでも作れますが、武器にはなりません。

石器時代の武器や矢尻は、ヒスイや黒曜石から作られたのです。

中国大陸で暮らす人々は、倭人から黒曜石、ヒスイを供給してもらわなければ、まともに狩りをすることも戦うことも出来なかったんです。

青銅器もほとんど装飾品の用途しかありませんから、漢民族が倭人(東夷)に対して優位を保てるのは、鉄器時代を待つしかありませんでした。

その優位性も、漢代には倭人も朝鮮半島南部の金官加羅で大々的に鉄器生産を行っていましたから、どこまで優位を保てていたか定かではありません。

三国時代の魏は、水戦を得意とする呉(春秋時代の呉とは異なる)と戦うために、本気で邪馬台国の来援を期待していたのだと思います。

然し、したたかな女王は、呉ともちゃっかり通交していたようです。

漢民族に対する「東夷」諸族の優位は、その後も続きます。

三国を統一した晋は、ほどなく匈奴、鮮卑などの騎馬民族(五胡)に蹂躙され、長江南部に追われました。

五胡の中心となった鮮卑は、東胡の末裔とされますが、限りなく「東夷」に近い部族です。

北魏、隋、唐は鮮卑族(ハプロN,O2a2,C2)
五代~宋は突厥(テュルク系で匈奴の別種とも云われ、シルクロード交易で栄えた)沙陀族。

実質的に宋を従属させた遼(契丹)は、その国号が示すように遼河文明系で、東部鮮卑の後裔。

宋を黄河流域から追い出し、またしても漢民族を南下させた金(女真)は、やはり東夷の満州族。

元を興し宋を滅ぼした蒙古(モンゴル)族も、東胡、鮮卑、契丹の流れを汲む民族…

漢民族としては、何度も同じ相手にやられるのは不名誉なので、度々呼び方を変えていますが、東胡、鮮卑、契丹、蒙古、韃靼は、ほぼ同じ民族と考えて良いでしょう。

続く明は、漢代以来の漢民族王朝とされますが…南方の人で、残念ながら長江系ですね(*´・ω・`)b

豊臣秀吉は、日本の天皇を中華皇帝に返り咲かせようとして、東夷の同胞である李氏朝鮮に同盟を持ちかけますが、朝鮮は従わず、明と共に日本軍に対抗します。

明史日本伝にハッキリと書かれていますが
「関白(秀吉)が東国を侵してから前後七年に、(中国と朝鮮の)失った師(師団の員)は数十万(人)、費やした兵糧は数百万(斤)におよんだが、中朝(明の朝廷)と朝鮮には最後まで勝算はなかった。たまたま関白が死するに至り、ようやく兵禍は休まったのである」

明は秀吉に全く勝てる気がしなかったのですね…(´・д・`)

矢折れ力尽きた明は、やがて国力を回復させる間もなく、またしても東夷である満州族の清に征服され滅びました。

明末の英雄として台湾に渡り清に抵抗した鄭成功は、日本の平戸で生まれ、母は日本人の田川マツ。

中華思想とは、もともと契丹や金に従属を余儀なくされた「突厥沙佗族の王朝」である宋の時代に、漢民族のナショナリズムから興ったものであり、常に東夷に支配される漢民族の悲哀とコンプレックスから生まれました。

黒曜石の強力な矢尻を用いて、弓を操る大人(文明的な人々)と考えられて尊敬していた「夷」人(中国の聖なる五帝の一人、帝舜は東夷であり、夷はもともと蔑称ではなく尊称)を貶めるようになったのは司馬氏(出自はおそらく長江系)の東晋が東夷系の鮮卑に圧迫されて南下していた六朝時代であり、当時もまた強烈なコンプレックスに悩まされた時代。

続く鮮卑族の隋・唐の時代には「夷華同一」思想が生まれ、隋は倭国王を「日出づる処の天子」と認め、唐(周)は高宗天皇帝が使用した天皇号を日本の天皇が使用することを認めました。

宋を実質的に支配下に置いていた契丹に至っては、日本に朝貢していた渤海国を滅ぼすと、引き続き日本への朝貢を行おうとさえしています(日本側がこれを蹴った)。

中国では易姓革命、つまり王朝の徳が衰えれば、徳のある(別姓の)新しい天子に王統が移る、というシステムを採用していましたが、何のことはなく、代わる代わる東夷がやってきて漢民族は支配され続けてきたのです。

中国では王朝が代わるたびに前政権の関係者が皆殺しにされ、文化も断絶するなどと妄言を吐くネトウヨがいますが、戦乱期を除いてそんなことは滅多にありません。
政権をたらい回しにする東夷諸族は、面倒なことはせず、前政権の官僚機構をそのまま引き継ぎ、優秀な漢民族の官僚を濃き使うのです。
五代などは王朝が次々代わっても、ずっと同じ人が宰相をやっていたくらいです。

最後の最後にやっと漢民族(汝南袁氏、袁紹の末裔と称する)の袁世凱が中華皇帝となりましたが、漢民族はこれを支持せず、袁氏は退位を余儀なくされ失意のうちに亡くなりました。

明の末期に人々が悪口を言うとき、「この倭人めが」と悪態をついたそうで、「倭人」は相手を貶める言葉として使われたようです(明史日本伝)。

明では倭人と通じることを厳しく禁じましたが、最後まで明復興を掲げて清に抵抗した鄭成功に日本人の血が流れていたのは皮肉なことでした。

明の遺臣の朱舜水らは、日本に亡命し、
「夷狄である満州族の清朝が治める中国はもはや中国ではなく、日本こそが中華である」と述べ、この思想がのちに
神州(中華正統王朝である日本)不滅の思想に発展していきます。

『明治』
清に代わって明(中華)を治めると宣言した大日本帝国は、日中の歴史を紐解き、東夷であり同じく縄文人の子孫である『日鮮同祖論』から日清戦争に勝つと朝鮮を清の支配下から解放し、やがて併合します。

続いて沿海州の渤海国がかつて日本に朝貢し、高句麗の後裔と称していたところから『満鮮一体』を掲げて大陸へ進出。

日本、朝鮮、満州は、Y染色体ハプロタイプの比率は大きく異なりますが、母系のミトコンドリアハプロタイプの比率は、ほぼ同じなので、史書が示すように日満鮮の三族は東夷の同族であり、縄文人の子孫であることが確定的です。

清朝が倒れ、中華民国が誕生しますが、日本はこれを中華の正統とは認めず、『支那共和国』と呼び、「本朝(日本の朝廷)こそ真の中華である」とし、清朝皇帝を満州皇帝に擁立(実質的には日本の天皇による冊封といえますが、南朝陳の時代に陳皇帝がベトナム趙越王を明道開基聖烈神武皇帝に、後李南帝を英烈仁孝欽明聖武皇帝に冊封しています…のちに淡海三船が神武天皇、欽明天皇、聖武皇帝の諡号を選定する際、参照したかは不明)。

大日本帝国は、日中満蒙鮮の五族融和を目指し日中戦争に突入。

勝っていればどうなっていたんでしょう?

中華の伝統に則り、満州皇帝から禅譲を受け北京で昭和天皇が中華皇帝に即位し泰山で封禅の儀を行っていたか、

日本の天皇は(もともと)中華皇帝より(当然のように)上である(天皇大帝)として東京に都しながら満州皇帝に委任統治させたか?

戦前には『契丹古伝』のような日本の正統性を裏付ける資料が(偶然にも?)満州で発見されたりもしましたが、かつて中国を支配していたのは日本の天皇という逸話が中国各地に遺されていたのは事実でしょう。

『老子』が説いたのは、縄文思想であり、孔子が理想とした上代の政治や聖帝の神話は、日本の天皇や、まだ縄文思想を遺していた東夷系王朝が中国を支配していた時代でした。

東の聖なる国を崇敬する伝承は、道教の中心地であった山東半島、淮南などに唐の頃まで色濃く残っています。
そこは倭人が交易に訪れていた地域です。

楚君熊渠曰:「我蠻夷也,不與中國之號諡.」

春秋時代の楚は、長江中流稲作民の国でしたが、中国ではない(外国だ)から、周の爵位に従う必要はないと王を称していました。

中国というのは、中華人民共和国の略称ではあるはずもなく、春秋時代から使われていた、自国を指す周王朝以来中華王朝の自称であり、中つ国を意味します。
日本も自国を指して「中国」と呼んでいた記録もあります。

楚は、中国ではないと言っていますので、雑穀畑作民と稲作漁労民は、全く別の国であったことがわかります。

周王朝は、北方に去った殷に対する備えとして、北京のあたりに成王の弟を「韓」候に封じました。

韓は強大になり、東夷に睨みを利かせていましたが、韓が更に力をつけることを恐れたためか、韓候は山西省に転封され、春秋時代初期に晋に滅ぼされ、のち戦国時代に韓武子が再興しています。

北京には韓に代わって燕が転封されましたが、韓の住民は多くが河北、朝鮮半島に散らばり、朝鮮半島南部の「韓」のルーツになったと云われています。
当時、朝鮮半島南部は倭人が交易の拠点とし、山東、淮南、江南との中継基地にしていたようです。
燕とも交易していたので、中国の史書には「倭は燕に属す」と書かれています。

中国沿岸部では、楚と同様に越と呉も王を称しており、越は山東半島からベトナム付近まで港湾都市を点々と拠点にしていたようです。

中国では、こうした東夷諸国のはっきりした所在地は掴めていなかったと思われます。

越も倭も、小国連合であり、その時その時で有力な国から大王が出て、取りまとめていたと思われます。

越は戦国時代に楚に滅ぼされたことになっていますが、漢代になっても越人の交易者が来朝していた記録があり、越は一向に滅んでいません。

中国の諸侯は、畑作民なので、土地を奪われれば国は滅びますが、海洋交易民族の国家は、拠点を変えて存続します。

海で繋がってさえいれば、陸続きである必要もありません。

越人はベトナムや北陸に、呉人は九州や瀬戸内海にも拠点を持っていたと思われます。

呉が中国から姿を消すと、中国では、越が呉を滅ぼしたのではないか?
越がいなくなると、楚に滅ぼされたのではないか?と中国側は推測します。

秦の始皇帝の焚書を経て、漢代に雑穀畑作民の視点でまとめられた楚・呉・越の歴史には多分に憶測が交じっています。

そうした誤りを正そうとしたのが、陳儔の三國志東夷伝ですが、周を中心とした華北の中国に対して、倭人を中心に、日本列島、沿海州、朝鮮半島、華南から東南アジアにまたがる強大な帝国の全貌は、最後まで明らかにされることはありませんでした。

然し、DNAによる情報や、新たな古代遺跡の発見により、21世紀の今、いよいよ明らかになろうとしています。

東夷とは、日本列島から出て大陸に散らばった縄文人と、その文明の恩恵を受け同化していった大陸民の末裔であり、その中枢は日本列島の倭人である…陳儔の時代、晋の知識人は、朧気ながらそう認識していたようです…

韓国民と日本国民だけが知らないんだけどね!Σ( ̄□ ̄;)