東夷王は倭国王だった『漢書 王莽伝』~中国の史書から見た倭人① | 縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



越裳氏重譯獻白雉、
黄支自三萬里貢生犀、
東夷王度大海奉國珍、
匈奴單于順制作、去二名

『漢書 王莽伝』より

越裳は重ねて使者を通じ、白雉を献じた。

黄支は三万里を経て、生きたサイを貢いだ。

東夷王は大海を渡り、希少な品々を奉った。

匈奴単于は、(中国に)順じ、二字名を改めた。

王莽(前45~23)は、前漢の政治家でしたが、権力を握り、漢の高祖の霊より禅譲を受けたとして、漢に代わり「新」王朝(8~23)の皇帝に即位しました。

周代の治世を理想とし、儒教を重んじた政治は現実的ではなく、短期間で破綻していきます。

王莽は、「華夷思想」に基づいて匈奴や高句麗など周辺民族の王号を剥奪したとされています…

新朝は、東夷諸族に新たな印綬を配布しますが、高句麗王は高句麗候に格下げされ、更に命令に背いたとして、国名を「下句麗」と改めさせました。

王莽は、儒教、礼を重視していましたので、高句麗を「礼無し」と見たのでしょう。

一方、冒頭の伝にあるように、東夷王は王位を剥奪されてはいません。

大海を渡って珍奇な(価値の高い)物産を奉る東夷王は、礼のある王だったのでしょう。

( ・`ω・´)
ところで、海を渡ってやって来る東夷王って誰のこと❓

三國志魏書烏丸鮮卑東夷伝に記される東夷諸族とは、夫余・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓・辰韓・弁辰)・倭人であり、烏丸・鮮卑を含めた『九夷』のうち、「大海を渡って来る東夷」は、倭人しかありません。

三國志東夷伝において倭「人」と人がつくのは倭人だけです。

東夷諸族の中で、最も文化度が高く、東夷のリーダー格であるのは「倭人」だと、中国は認めていたのでしょう。

これまで王莽は周辺民族に対し“差別的”だから高句麗の王号を剥奪したように言われてきましたが、

東夷諸族にそれぞれ王号を与えるのではなく、その盟主的存在である倭国王だけに「東夷王」を与えるよう改革したに過ぎない…のではないでしょうか?

三國志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)だけを見ると、中国王朝の魏から邪馬台国が唐突に破格の待遇を受けているようなイメージがあるのですが…

中国の史書を読む当時の知識層にとって、『三國志』を読む前に『春秋』『史記』『漢書』等一連の書物を、一言一句間違うことなく頭に入れていることが前提なのです。

陳儔は、読書が当然『漢書』のここを念頭に入れているだろうな、という前提で筆を進めています。

日本には残念ながら、魏志倭人伝だけを読んで、邪馬台国の位置がどうだこうだ~(。・´д`・。)❓と言っているだけの人が多いのです。

邪馬台国の位置など、文献だけでわかりようもなく、遺跡が特定できなければ判明しません。
倭人伝だけを何回も読んでも、一字一字重箱の隅をつついても、たいした意味はないのです。

当時の『漢書』を読む中国の知識層にとって“海を渡ってやって来る東夷王”といえば「倭国王」だとすぐにわかるので、あえて

東夷王(倭人)

などとは書かないのです。

そして、上記『王莽伝』の、僅か40字足らずの文章から、様々な考察が得られ、それは魏志倭人伝を読み解く鍵にもなっています。

漢王朝を簒奪した王莽は、自らを四海を平定した聖天子であると誇示する必要がありました。

匈奴は一時、漢を脅かす存在であり、前漢は皇帝の印である玉璽を匈奴の王である単于に授与しています。

前漢は、匈奴単于を中華皇帝と同格と認めていたわけです。

然し、王莽の時代には匈奴はかなり弱体化していました。

王朝が交代したため、漢代の印綬は回収し、新たに新の印綬を授けるのですが、王莽は匈奴に対し、玉璽よりワンランク低い玉章を与えました。

印綬のランクは上から、璽・章・印なので、章であっても、のちの委奴国王や親魏倭王の金印より格上なのですが、匈奴はこれに反発し、やがて新からの離反を招きます。

王莽の対匈奴外交は失敗しましたが、僅かな成果はあったようです…

王莽は復古政策の一つとして、二字名を禁止しますが、匈奴がこれに従ったことを喧伝したかったのでしょう。

黄支については、諸説ありますが、南インド・タミル地方のカーンチープラム(香至)が有力ではないかと言われています。

越裳は、戦国時代の越が滅んだあと、各地に散らばった百越の一派と思われますが、越は夏の後裔であり長江文明に関わった部族です。

長江文明は、日本列島の縄文人と交易をしていました。

越滅亡後に百越が散らばったのではなく、同じく長江文明圏に属し、おそらく主に稲作の担い手であった楚人、呉人と異なり、

越人はもとから山東半島からベトナムにかけて、或いはフィリピンや台湾、朝鮮半島…そして日本列島の北陸=越(こし)など広範囲に分かれ各地の港湾を点々と拠点にしていたのだと思われます。
地中海のフェニキア人と同じように。

雑穀畑作民である華北内陸部の漢民族にとって、春秋戦国の江淮地方の越が、数ある拠点の一部に過ぎないことが見えていなかったのだと思われます。

漢民族自らが南シナ海の海洋交易に乗り出したのは、ずっと後の時代であったのです。

『漢書 王莽伝』に、越と倭人(東夷王)がセットで出てくる、というところも伏線があります。

『論衡』(儒増篇第二六)

周時天下太平
越裳獻白雉
倭人貢鬯草
食白雉服鬯草 
不能除凶

周の時代、天下は太平であった
越裳は白雉を献じ、
倭人は鬯草を貢いだ。
白雉を食べ鬯草を服用したが、
凶を除くことは出来なかった。

王莽は、天下太平の周の時代を再現しようとしていました。

越人と倭人が揃って来朝したことを慶事としたかったのでしょう…

然し、論衡にある周代の記事と同じように、王莽は凶を取り除くことは出来なかったようです。

周代のエピソードを知っている『漢書』の読者は、ますます東夷=倭人であることを確信したのだと思います。

これらの記録から、倭人と越人は、周代以前から度々、珍品を持って中原を訪れていたことがわかります。

珍品を運んで来る倭人と越人の来訪は、中国(周以前は内陸部の国々)にとって慶事であり、そして、中国の海洋交易は、漢代まで越人と倭人が完全に握っていたことも見えてきます。

アイヌやニヴフなど北方の物産、ヒスイや真珠など日本列島の物産を扱っていた倭人

フィリピン、台湾、ベトナムなどの産物を扱っていた越人

インド、インドネシア、そしてペルシア、ローマの物産も扱っていた黄支

倭人~越~黄支~古代フェニキアを結ぶ交易ルートは、殷の時代には既に完成していたのではないかと思います。

農耕民は、所在を明らかにして定住していますから、膨大な記録を遺しますが、
交易民は、文字を持っていたとしても商談時のメモ程度に使うくらいであったと思われます。

そして、商談メモは企業秘密でもありますから、事が終われば処分したでしょう。

大切な商品である珍品の入手先は、絶対に明かしてはならなかったのだと思います。

フェニキアも南インド諸族も越も倭も、古代から繁栄しながら自ら記録を遺さず謎の民になっています。

陸のシルクロードの交易民も同様ですが、農耕民であるローマ人や漢人による観察の記録しか残っていません。

交易民とは、本来そうした人々なのです。

日本人も、海洋交易国家の倭国から、稲作農耕国家へとモデルチェンジした段階で一気に口承から文字の記録へと変わりました。
然し、文字の記録が残っていないからといって、歴史がなかったわけではないのです。

そして、記録を残さなかった交易民の文化や技術が、一概に農耕民に劣っていたわけではないはずです。

交易民は、常に最新の情報、国際情勢や武器、最先端の技術を手に入れられる立場にいました…

シュメール、ユダヤ、フェニキア、タミル、呉越の一部が古代の日本に来ていても、何ら不思議ではないですし、彼らの文化が日本の一地域の神事などに取り込まれていても何ら不思議ではありません。

然し、DNAが示すように、現代日本人に影響を与えるほど大勢は渡来していないのです。

おそらく殷の時代から、東夷集団(現在の日本、朝鮮、満州)に住む人達の母集団は変わっていません。

それは、既に多様な母集団が集まっていた関東縄文人から引き継がれているものです。

“東夷諸族は、ほぼほぼ似たような民族であり、その本家が倭人で、倭人と越人は習俗は似ているが微妙に違う”
漢代の知識層は、それを知っていたはずです。

王莽伝には

越裳は、献じ
黄支は、貢ぎ
東夷王は、奉る

とあります。

東夷に「王」がついているのは、王自ら出向いたのだと思われます。

また、奉るは、上に捧げるの意味もあるのですが、下に賜わうの意味もあります。

献、貢に比べ、東夷王の立場が上であるように思われます。

上代を理想とする王莽は、上代の聖帝である帝舜が東夷の出であることを知っていましたから、東夷王に敬意を抱いていたとしても不思議ではありません。

王莽伝は、漢から皇位を簒奪し、皇位を取り戻した後漢によって立伝されています。

本来、皇帝に対しては、「列伝」ではなく独立した「本紀」を立てますが、漢書の作者は王莽の皇位を認めず、伝には悪評が並んでいます。

実際の王莽は、蛮夷をただ見下したわけではなく、実情にあった序列に変更しようとしていたのかもしれません。

そして…

黄支はタミル人と考えられますが、黄支、香至は高志(こし)、(北陸地方の越)にも通じます。

倭人は、朝鮮半島に製鉄と交易の拠点として金官加羅国を置いていましたが、金官加羅王にはインドのサータヴァーハナ朝から王妃が嫁いでいます。

サータヴァーハナ朝は、カーンチープラム周辺にまで勢力が及んだ時期がある可能性があります。

サータヴァーハナ朝とタミル、スリランカ周辺にいた蛇信仰のナーガ族にも関係があるようです。

朝鮮半島で倭人と雑居していた越人、黄支人の一部は、やがて同化していったのかもしれませんね…