五万年の日本史①~Y染色体ハプロタイプD1a2 | 縄文家族|天竜楽市

縄文家族|天竜楽市

天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



日本列島に最初の現代的な人類が到達したのは、5~6万年前と思われます。

静岡県川根本町のヌタブラ遺跡、長野県飯田市の竹佐中原遺跡は、5万年前の中期旧石器時代の遺跡である可能性が指摘されています。

長野県北部の野尻湖遺跡からは3~5万年前の旧石器、象牙の加工品、ナウマン像、オオツノジカの化石など67000点を超える大量の遺物が発見されました。
ここでは、ナウマン像の解体場も見つかっています。

父系のみに伝わるY染色体ハプロタイプの最古のマーカーA00は、アフリカ起源と考えられており、このハプログループの分布を調べることで、現代的な人類がアフリカを出て拡散した大まかな流れがわかるため、近年急速に研究が進んでいます。

今のところ、DNAを調査した全ての現代人男性が、30万年前にアフリカにいたA00から分岐したハプロタイプを持っています。

子供には母親由来のミトコンドリアDNAのハプロタイプしか伝わらないため、娘しか生まれなかった男性のハプロタイプは、その娘が大勢の男子を産んだとしても男性のハプロタイプは伝わらず絶えてしまいます(ハプロタイプ以外の遺伝情報は娘の子孫に伝わっていきます)。

この為、父系のY染色体ハプロタイプ、母系のミトコンドリアDNA(ある母親から男子しか生まれなかった場合、孫には祖母のハプロタイプは伝わらないため)共に、古いハプロタイプは次第に消えていき、新たに突然変異した新しいハプロタイプが増えていきます。

また、あくまでも先祖のうち直系の一人のハプロタイプしか伝わらないため、世界中の人類の祖先が最初のA00一人というわけではなく、既に消えてしまったハプロタイプの祖先も他にいたと考えられます。

また、A00が見つかる前はA0が最古とされていました。今後、より古いハプロタイプが見つかる可能性もあります。

Y染色体ハプロ以外の遺伝情報では、ネアンデルタール人、デニソワ人の遺伝情報も現代人に僅かながら(1~6%)引き継がれており、現代人の祖先のうち一部はネアンデルタール人、デニソワ人がいたことは確実視されています。
もしかしたら、今後、デニソワ人由来のハプロタイプが新たに見つかるかもしれません。Y染色体ハプロタイプを調査したサンプルは、まだまだ全人類のごく一部ですから。

今もアフリカに住んでいるハプロタイプA,Bは、ネアンデルタール人、デニソワ人の遺伝情報を受け継いでいない為、ネアンデルタール人、デニソワ人と交雑したのはアフリカを出てユーラシア大陸に移動した後だと考えられています。

79000年前にB系統との共通祖先BTから分岐したハプロCTの直系子孫がユーラシア大陸に進出しました。

中東付近でCTから分岐したハプロDEとCFがネアンデルタール人と交雑したと考えられています。

また、この時のネアンデルタール人の祖先のうちデニソワ人の血を引く系統があった可能性があります。

ハプロDEは、60000年前にDとEに分かれ、D系統は、おそらく北ルート(ユーラシアステップ~シベリア)で東へ向かったと考えられています。E系統は大半が中東~アフリカ付近に留まったか、Dと共に東に向かった系統は、ほぼ絶えてしまったかのどちらかと思われます。

おそらく、画像の地図に示した金色のルートを辿ったのではないかと推測しています。

南ルート(インド経由)は、やや遅れて55000万年程前にCF系統から分岐したF系統の子孫が大多数を占めていますので、その子孫であるK系統が東南アジアへ到達したのは40000年前頃ではないかと考えています。
東南アジアに現代的な人類の遺跡が見られるようになるのも、その頃からです。

南ルートは、いくつかの大河や、高地、スライマン山脈などを越えていかなければならず、また氷期とはいえ熱帯地方では飲料水の確保が難しく、新たな土地へ移れば風土病、マラリア、水が合わない等、また毒蛇や蠍、鰐などにも襲われ、食料も腐りやすく行動範囲を広げていくには時間が掛かったのではないでしょうか?

アフリカ大陸から近いマダガスカルに2300年程前、最初に到達したのはインド洋を航海した東南アジアにいた人々であり、アフリカ人がモザンビーク海峡をやっと渡ったのは、それより1000年以上遅かったと考えられています。

60000年前のアフリカ住民はおそらく航海術を持っておらず、陸路で移動するには、金色の矢印で示したルートが最も容易
ではなかったかと思います。

銀色で示した範囲は、2万年前の最終氷期(ヴュルム氷期)まで巨大な氷床がありました。
ヨーロッパは大半が氷で閉ざされ、中国西部の山岳地帯にも氷床が乗っていました。

緑色で示しているのが最終氷期の最も寒冷だった2~4万年前の海岸線で、陸地に乗っている氷が多い分、海水面は低くなり、11万年前に始まった最終氷期の間、概ね現在より120メートル程低い海水位で推移していたようです。
北海道、樺太はユーラシア大陸の一部になっていました。

氷床や大河を避けて歩けば、自ずと金色のルートを辿ります。

ネアンデルタール人は、アフリカ人より早く寒冷地に対応していましたから、彼らに導かれて行ったのかもしれません。
ネアンデルタール人に造船技術があった証拠は見つかっていませんので、彼らは歩いてアルタイ山脈まで行けるルートを既に知っていたのだと思われます。

アルタイ山脈のデニソワ洞窟で発見された41000年前のデニソワ人の少女の化石から、彼女の母親がネアンデルタール人、父親がデニソワ人であったとされています。

また、中国チベット高原にある夏河県では標高3280メートルの高地から16万年前(リス氷期)のデニソワ人化石が発見され、デニソワ人が氷期にも高地に対応していた可能性があります(氷期の区分年代については諸説ある)。

現在は北大西洋の暖流により、高緯度の割には温暖なヨーロッパですが、当時は巨大な氷床が海水温を下げた為、更に寒冷化するというスパイラルに陥っていました。

寒冷化→気温はすぐに下がるが、海水温は遅れて下がるため、北まで暖流の流れる地域は冬季降雪量が増え、氷床の形成が速い→夏に氷が溶けて流氷が発生すると海水温が低下→やがて夏季でも気温が上がらなくなり、氷床は増え続ける。

ネアンデルタール人は、その極寒のヨーロッパで暮らしていました。

一方、シベリアは乾燥し、降雪は少なく、冷涼な気候ながら草原が広がり、夏はそれなりに過ごし易かったようです。

また、冷涼で乾燥していれば、食糧も腐りにくく、干し肉などを作って携行食とすれば長期移動も可能だったでしょう。

60000年前の狩猟民がマンモスを狩っていたか定かではありませんが、弱ったマンモスや、死んだマンモスの肉にありつければ、一家族で半年程は食糧に困らなかったと思われ、生活に余裕が生じ、行動範囲も広がっていったでしょう。

ハプロDのうち、D1はアルタイ山脈付近に一定数残っています。

D1系統は、チベット付近にD1a1(2019年6月にD系統の分類が見直された為、旧D1aにあたる)、日本列島にD1a2(旧D1b)が高い割合で残っています。

この他、フィリピンにD1b(旧D2)、インドのアンダマン諸島にD1a3(旧D1c)が分布。

アルタイ山脈まで来たD1は、天山山脈付近に留まったD1a1を残し、更に東へ進み、陸続きの北海道に到達。
津軽海峡は、完全に陸地にならなかったと考えられていますが、寒冷期の冬季は凍結したと思われ、速やかに本州へ渡って来たと思われます。

前述したように、長野県、静岡県…つまり天竜川周辺には50000年前と推定される中期旧石器時代遺跡があります。

一方、中国大陸では、華北で27000年前以降、華南では15000年前以降にならないと現代的な人類の遺跡は出てきません。

おそらく、氷期の中国大陸内陸部は豪雪地帯になっており、居住に適さなかったのではないかと思われます。

チベット族に50%程見られるD1a1は、デニソワ人から高地に対応する遺伝子を引き継いだとする研究があります。

然し、氷期に巨大氷床が乗った天山山脈、キレン山脈、クンルン山脈、秦嶺山脈を越えて行くのは困難を極めたでしょう。

実際、チベット系民族が中国王朝の圧力により雲南、ビルマへと南下していくのは8~9世紀頃。
ビルマ族はチベット系民族と言われていますが、ハプロO2が多数派になっています。

古代中国の異民族でチベット系とされる古羌のハプロがO2a2。
鮮卑慕容部(鮮卑人もO2a2が主流)の吐谷渾を滅ぼした吐蕃(王族は鮮卑とも云われる)がおそらくD1a1系統が主流の民族で、羌族を勢力下に置いたため羌=チベットのイメージになったと思われます。

アルタイ山脈付近にいたD1a1がチベット高原に進出したのは、氷期終了後~タリム盆地が砂漠化する前の時期辺りではなかったかと考えています。

アンダマン諸島のD1a3は、チベットから南下したという説がありますが、アンダマン諸島が大陸の一部であった20000年前以前に、日本列島から南下する方が無理がなかったのではないでしょうか?

フィリピンのD1bが、日本列島にいたD1から分岐し、同様にD1a3は、日本列島のD1aから分岐して南下した可能性も充分考えられると思います。

氷期の日本列島は、本州、四国、九州~種子島辺りまで一体化していました。

トカラ海峡を挟んで奄美大島~沖縄本島~石垣島は台湾平原に繋がり、大陸と陸続きであったという説が近年出されており、そのルートでアンダマンまで南下したのではないかと考えています。

最終氷期、石器時代の人達にとって、火山列島で鉱物資源が豊富、黒曜石の産地である日本列島は魅力的だったでしょう。

日本海は海水温が現在より7~8℃低かったために、日本列島の山岳地帯は乾燥し、最寒冷期であっても降雪は現在より少なかったと考えられています。

太平洋には暖流が流れ、中国内陸部に比べ温暖であったと思われます。

一方、中国大陸東部は過去に海底であった平原が広がり、黄河は大量の砂を運び堆積平野となっていたため、石器を切り出せるような岩石に乏しく、石器時代人にとっては魅力の少ない場所でした。

ただ、より温暖な地域を求め、日本列島から南下したD系統もいたと思われます。

然し、氷期終了後にD系統が繁栄したのは、日本列島中部山岳地帯とチベット高原に限られました。

彼らは、冷涼な高地に対応したがために、温暖な平野部は苦手だったのかもしれません。

D1a2は、山の民、日本列島の高地…高天原に住む天孫族の子孫になったのではないかと思われます。

日本列島に辿り着くまでに、アラル海やバイカル湖、アムール川(黒水、黒竜江)などで淡水魚を漁っていたかもしれない彼らにとって、野尻湖や諏訪湖、千曲川、天竜川流域は石器の材料も豊富で、理想郷であったのだと思います。

そして、D系統と前後して、冒険心が強く、狩猟技術に長けたC系統も同じ道を辿って日本列島にやって来ました…