魏志倭人伝に書かれた歴代天皇~八幡(ヤァタ)の神が金の磐舟に乗ってやって来た❗ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️

東洋史学者、内藤虎次郎(号・湖南)が、明治43年に著した『卑弥呼考』は、陳壽『三國志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝倭人条』(通称・魏志倭人伝)に記された人物名や、国名の比定を行い、その後の邪馬臺(ヤマト)国研究に大きな影響を与えています。

三國志には、邪馬臺国の官として伊支馬(いきま)、次に弥馬升(みまと)、次に弥馬獲支(みまわけ)、次に奴佳(革是)(なかで)を記していますが、内藤説ではそれぞれ…

いきま=活目(いくめ)=イクメイリビコイサチノスメラミコト、垂仁天皇(十一代)

みまと=観松彦=ミマツヒコカエシネノスメラミコト=孝昭天皇(五代)

みまわけ=御間城=ミマキイリビコニエノスメラミコト(十代)=崇神天皇

なかで=中臣氏

に比定しています。

イクメ、ミマ…、ワケは、代数が入れ替わっているとはいえ、当時の天皇の諱に符号するので、晋(陳壽は蜀の官僚で、のち晋に使え『三國志』を著しています)にはヤマト大王の名が、ある程度正確に伝わっていたと考えてもよさそうです。

然し、内藤湖南は何故、ナカデを中臣氏に比定したのでしょう?
素直に考えれば、

ナカデ=足仲彦(たらしなかつひこ)=仲哀天皇

としても良さそうなものですが…

三國志に書かれたヤマトの官が天皇の諱であるとするなら、垂仁、孝昭、崇神、仲哀天皇は、卑弥呼の前後にヤマト大王として実在したと考えられるでしょう。

ナカデ=仲哀と考えれば、彼は卑弥呼が崩じた後に立った男王で、その後年十三で女王となった卑弥呼の宗女(一族の娘)臺与とは神功天皇と素直に考えることが出来ます。

全国四万社の八幡神社の祭神として、子の応神天皇と共に皇祖神として祀られる神功天皇は、『宋史日本国伝』に太奈良姫大神(おおならひめおおかみ)と記されているように、畿内にあったヤマト王権の特別な女王であり、明治の頃までは実際に卑弥呼、臺与と同一と考えられ、日本国民から女神として絶大な崇敬を集めていました。

大正時代になると、何故か神功天皇は歴代天皇から外され、その後は皇后の扱いになっています。

三國志に記される邪馬臺(ヤマト)と、のちのヤマト王権は、万世一系で繋がっているのか?
或いは騎馬民族征服説に代表されるように、子の応神天皇は中国五胡十六国時代に海を渡ってきた渡来人で、邪馬臺国を滅ぼし新たにヤマト大王となった…王朝交代はあったのか?

仲哀(鎮国香椎大神)、神功(太奈良姫大神)、応神(八幡大菩薩)と宋史日本国伝に「神」として記された(初めの主、天御中主=アメノミナカヌシすら宋史には神とは記されていません)三人の親子が古代史の大きな鍵を握っているようですね。

天竜区大谷には、二俣郷がまだ海だった頃、八幡(ヤァタ)の神が金の磐舟に乗ってやって来た…その舟が突き刺さって大穴が開いたという大谷行者岩があります。

その磐山を嵩山(たけやま)と云い、その麓に宇佐八幡神社が祀られています。

さて、応神天皇はこの地で、もしや二俣神クナトと戦ったのでしょうか?

嵩山は、国指定史跡二俣城址のある城山とは尾根続き。
二俣城は武田信玄、勝頼と徳川家康が攻防を繰り広げた山城として有名ですが…かの太閤豊臣秀吉公が「二俣を制する者は天下を制する」と言ったという天険の要害。

秀吉公が天下を手中に納めた時、家臣の堀尾氏によって二俣城は桃山時代の豪華絢爛な別郭一城の城郭に大改修されていますが、関ヶ原では堀尾氏が東軍につき、二俣は再び天下人家康公の支配下となりました。

この二俣の地は、天竜川が東西を隔て、信州へと続く険しい山と(かつては)海が交わる交通の要衝で、戦乱の時代には必ず攻防の舞台となっていたようです。

伊勢に勢力のあった出雲族の伊勢津彦は、天孫族に破れ天竜川を遡って諏訪に逃げ込んだという伝承もあり、古代において、この地で何らかの大きな戦いがあったのではないかと想像しています❗



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