縄文の茶人❓ ホツマ富士王朝⁉️ 富士山麓に35000年続く大規模遺跡群 | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️




富士宮市埋蔵文化財センター所蔵
『注口土器』
縄文後期(BC2500)~晩期(BC400)頃

( ・`ω・´)💡
是非、画像を拡大してご覧下さい‼️

その精巧な形状、精緻な紋様。
近世に作られた茶器と言われても疑うことはないでしょう。

この土器で、縄文の倭人が茶を煮ていたとしても、私は疑いません。

天竜川上流には、茶の原生種があったのではないか❓との説があります。

春野町植田(うえった)遺跡群、里原遺跡、
春野縄文街道と呼ばれる杉川流域の遺跡群、

そして、
遮光器土偶が出土している川根本町上長尾遺跡。

そこから大井川、安倍川を、越えていけば、富士川流域も、そう遠くありません。

山間の上流部ならば、渡河もさほど難しくなかったでしょう。

縄文のネットワークで天竜茶が運ばれ、富士の麓の国で、土瓶で煮出して飲まれていた…かもしれないですね( ・`ω・´)💡

後漢代に纏められた『神農本草経』のデータベースを作ったとされる炎帝神農氏(BC3000~2500頃)は、

木材を使って農具を作り、
五穀の種を蒔いて農耕すること、
薬となる植物の効用を、
中国の民に伝えたとされています。

また、神農氏の時代に中国では市場が初めて出来て、交易が行われたと云われています。

日本でも「神農皇帝」の名で香具師・露天商業界を中心に崇敬されてきました。

( ・`ω・´)💡

富士宮市遺跡群の恐るべきところは、35000年前の後期旧石器時代から、13000年前の縄文草創期(開始BC14000~)、11000年前からの早期(BC9000~)、前期(BC5500~)、中期(BC3500~)、後期(BC2500~)、晩期(BC1300~東海地域ではBC300頃まで)、弥生時代(東海地域ではBC500頃~)、古墳時代(AD250頃~)、古代、中世、近世と、途切れることなく連綿と遺跡が出土していることです。

ここがまさに、
火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)と鹿葦津姫(かしつひめ、木花開耶姫)が開いたホツマの国ハラミノ宮、富士王朝であったのでしょう。

( ・`ω・´)💡




富士宮市出土縄文草創期の土器(BC13000~9000)は、
無文土器
多縄文土器
隆線文土器
爪形文土器
押圧縄文土器
表裏縄文土器
と、多岐に渡り、

縄文早期(BC6500頃)の大遺跡である若宮遺跡は、
関東系の撚糸文文化圏と
中部系の押型文文化圏が
重なり合った特徴的な遺跡として位置付けられています。

また、縄文中期(BC2500)の箕輪遺跡・滝ノ上遺跡からは、


井戸尻式土器(画像中央・主に長野県出土)


曽利式土器(主に長野県・山梨県出土)


加曾利E式土器(画像右下・主に千葉県)が出土しています。

富士宮市遺跡群が広範な交流を伴っていたことが確認出来ます。

( ・`ω・´)💡

草創期の土器と共に出土することが多い細石刃は、中国華北・華南地域の細石刃と共通しているとされています。

土器の使用は、中国側に20000年前?とされる現在消息不明の土器があるとされていますが、
中国で確実な最古級の土器は、

長江文明・彭頭山文化(BC7500~6100)の“縄目紋様"の土器(索文土器)

黄河文明・裴李崗文化(BC7000~5000)のBC6000~5200頃とされる紅陶

遼河文明・興隆窪文化(BC6200~5400)の櫛目文土器

中国で新石器文化が急激に勃興してくるのは、日本の縄文早期後半~前期前半に相当します。

日本の学界では、細石刃を持ち込んだ中国の新石器人が縄文草創期に紋様のある土器文化を日本列島に伝えたと考えているようですが、いささか無理があります。

日本列島では、中国より7~8000年早く土器を大量に生産し、中国にはない黒曜石や蛇紋岩を使った硬質で遥かに優れた石器を使い、波穏やかな内海の東シナ海とは異なる荒波の外洋である太平洋で漁労を営んでいたのです。

黒曜石の交易は、既に38000年前から日本列島全域~シベリアに及ぶネットワークを形成していったのです。

( ・`ω・´)💡普通に考えれば、

後期旧石器時代から日本列島の海洋民がシベリア~琉球諸島(最新の研究では中国本土と台湾、更に沖縄、奄美まで陸続きであった可能性が高いとされる)を経て中国沿海部にも度々出掛けるようになり、縄文早期後半頃から本格的に中国大陸に進出し、紋様の入った土器の現地生産を開始した。

縄文人は長江流域の現地稲作民と交流し、稲は知っていたものの、南方系の多年性植物であった稲は、まだ当時の日本(縄文海進で平野が少なく高地集落が主体)では生産性の高い品種が無く、中国にはない硬質の石材で作った農具を輸出し、米を得ていたのではないでしょうか。

世界最古の磨製石器を作った倭人のモノ作りの技術は、目ぼしい石材のない中国大陸より遥かに進んでおり、

炎帝神農氏のように、中国の民に技術指導をしていた(有り体に言えば植民地化、プランテーション化)としても不思議ではないのです。

大規模な文化の交流、経済活動のネットワークを、倭人が中国大陸原住民に先駈けて開始していた…

のは、富士宮市の連綿と続く遺跡群を見ていれば、容易に想像がつきます。

地政学に基づいた考古学は、考え得るあらゆるパターンを想像していくことからスタートします。

最初から結論ありきではありません。

先に仮説があって、その後新たな発見があって徐々に立証されていくものです。

何でもかんでも大陸が先で、中国には存在しない優れた石材が容易に手に入り秀逸な石器と土器を創造し、広域な経済ネットワークを創出していた倭人が、一万年もの間、大陸から文化が伝わるまで何も思い付かずボーッと暮らしていたと考える方が異常です。

倭人は、日本列島という世界の雛型…多様な地形や気候がコンパクトに凝縮され災害も多いこの土地で、地政学に基づき戦略的に何かを企んでいたと思います。

中国の民に文明を教育した炎帝神農氏の出自も、おそらくのちの帝舜や夏王朝、殷王朝と同じく「東夷」、海を渡ってやって来る倭人だったのではないでしょうか❓



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