縄文茶⁉️~天竜川から人類の経済活動が始まった⁉️ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️





澄み切った空気が美味しい横川です~(´∀`~)

『縄文茶』
縄文時代から伝わるというカタカムナ農法

土中のバイオマスに活力を与え、空と大地のエネルギーで育てられた茶樹から手摘みした、生命力溢れる濃厚な味わいのお茶❗

熟成を重ねた貴重な茶葉のエキスを、一席300にてご提供していますよ~(o´・∀・)o

天竜茶…その美味しさの秘密は、土にもあります‼️

天竜川流域は、複雑に絡み合うプレートの影響により、ミネラル分を多量に含むジュラ紀~ペルム紀の地層が露出。

1500万年前の設楽火山によって積もった火山灰に長い年月をかけて形成された腐植土が交じり、良好な土質を保っています。

これに対し、富士山、浅間山の噴火で関東平野に積もった火山灰は、ここ数千年の間(まさに縄文時代は現在進行形❗)に積もった土で、酸化アルミニウムを大量に含み、農耕には適していないと言われます。



( ・`ω・´)💡

『アロフェン質黒ボク土と非アロフェン質黒ボク土』

非アロフェン質の黒ボク土の場合、アロフェン質黒ボク土と比較してアルミニウム障害が発生しにくい。

関東平野の黒ボク土は、アルミニウムを大量に含むアロフェン質黒ボク土。

対して、富士山から西、長野県・静岡県の非アロフェン質黒ボク土は、同じ火山性の黒ボク土であっても、有機物による熟成が進み、農耕には非常に適した土質とされています。

同じ黒ボク土でも、全く違う‼️

( ・`ω・´)💡

土も、農作物も熟成が大切❗

縄文人は、広域なネットワークを持っていましたから、農耕に最適な土地と、そうでない土地を知っていたのでしょう‼️

関東平野は、東京湾や香取海での漁業、
甲信地方と静岡県山岳部では、良好な土壌を活かした農業と、

産業を分化し交易ネットワークをフル活用していたのではないでしょうか( ・`ω・´)💡

土壌、気候、火山の噴火…縄文時代にリアルタイムに起きていたこと。

そこから、叡知に富んだ倭人の暮らしぶりが見えてきます‼️

(o´・∀・)o
https://ameblo.jp/starless43/entry-12552671496.html





( ・`ω・´)💡

縄文人は土、地層に強い拘りを持っていました。

土器を焼くための粘土
農耕に適した土壌

そして、強靭な石器を作り出す為の硬質な石材



( ・`ω・´)💡

天竜川流域は、縄文時代の暮らしに必要な良質の資材が揃っていました。

2000~3000メートル級連なる山々には、低地から高地まで様々な植物相の階層があり、

建築材や燃料に適した多様な木本、
食料になるものから、篭や鞋を編んだり、衣服や布の原料となる草本。

( ・`ω・´)💡

地球上には、似たような景色が地平線の彼方まで続くような地域もありますが、

天竜川流域には、複雑に入り組んだ地層があり、3000メートル級の高山から一気に海へ下っていくことが出来ます。

海の幸も山の幸も、コンパクトな村社会のネットワークで短期間に流通が可能。

たとえば、中国の四川省、蜀のような土地に生まれた人は、多くが一生海を見ることは無かったでしょう。

山で暮らす人は山の幸を食べ、海で暮らす人は海の幸を食べる。
それぞれが生まれたその土地の食べ物を食べ、文化も大きく異なり、交流することは少なかったのではないでしょうか?

長い海岸線や、大河川に沿った隣り合う村々は、どこも同じようなモノを作り、同じようなモノを食べていて、

異なる文化や、珍しい産物のある遠くの村まで行って物々交換をしたり、やがてそれが商売として成り立っていくには、相応の歳月を要したのではないでしょうか?

春秋戦国時代を遡ると、華北と華南は広大な森林に隔てられ、互いの文化交流は少なかったと思われます。

然し、華北にも華南にも、そして遼東にも、珍しい産物…中国には産出しないヒスイなどの宝石、硬質の石材で作られた道具、宝貝…を携えて交易に訪れる海を渡って来る人達がいました。

漢民族の祖先たちは、彼らから経済の仕組みや、初めて接する異文化の技術を学んでいった…

それが、炎帝神農氏の伝承になり、海の東の彼方に神仙が棲むという神話になっていったのではないでしょうか❓

( ・`ω・´)💡

山間部の浜松市天竜区と、漁港のある浜松市舞阪町や磐田市福田町。

ほんの数十年前まで、庶民の食卓には全く異なる食材が並んでいたでしょう。

ほんの2~30kmの距離しか離れていないのですが、現在でも歴然とした文化の違いがあります。

縄文時代の海岸線は、現在より遥かに内陸に入り込んでいましたから、おそらく海と山の交わるところ二俣あたりで、盛んに山の幸と海の幸の交換が行われていたはずです。

海沿いの村からほんの半日も歩けば、食事も文化も全く異なる村があり、その交流の開始時期は、広大な平原や森林、どこまでも続く山脈、砂漠や大草原で隔てられた地域に比べ、より早かったと考えられるでしょう。

海のモノも山のモノも容易に何でも手に入る食生活豊かな場所では、食べられるモノと食べられないモノの選別、異なる素材の組み合わせで作られる道具の発明など科学技術の発達、職能の分化、マーケットの形成などがいち早く構築されていても不思議ではありません。

( ・`ω・´)💡
やっぱ、縄文人が天竜川流域で世界最古の文明社会を築いていたんだよ❗

(o´・∀・)oホントケー?

( ・`ω・ )💡
縄文茶と天竜川に纏わる縄文話、ぜひ、体験しに来て下さいね~( `・∀・´)ノ ィヨロシクー


道の駅いっぷく処横川で、まったりぽちぽち営業中❗

火曜、荒天休
10~16時 天竜楽市