日本列島の石器時代は氷期で唯一のパラダイス‼️ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



縄文時代
草創期(BC14000~10000)
早期(BC1000~5000)
前期(BC5000~3500)
中期(BC3500~2500)
後期(BC2500~1300)
晚期(BC1300~)

縄文時代に先駆けて、日本列島には世界最先端の石器文化が出現しています。




関東東海甲信地方では、50000年ほど前から石器が散見(飯田市竹佐中原遺跡、川根ヌタブラ以前)され、
38000年前からナイフ型石器、環状ブロック遺跡群、世界最古の磨製石器など、独自の文化が発展していきます。

この、先縄文時代(後期旧石器時代)は、現在より気温が7~8℃低い氷期であり、北極海と繋がった大西洋側北部(北米・欧州)、チベット高原などには巨大な氷床が存在しており、大陸の内陸部は人類が生存するには非常に厳しい時代であったと言えます。

一方、太平洋側は北極海と繋がっておらず、日本列島付近は暖流の影響を受け漁場も豊かであり、シベリアが乾燥していた為、冬季の降雪も少なく、そして石器材料の豊富な日本列島は、石器時代人にとって唯一の“地上の楽園"でした。

夏は高山で暮らし、冬は平野部に下りてくる。
天竜川流域では、ほんの少し移動すれば、快適に暮らせます。



最初に日本列島にやってきた人々は、北ルート・ユーラシアステップ~シベリア経由で陸続きの北海道に渡ったY染色体ハプロタイプD,Cの人々で5~6万年のことであったと思われます。

明石市西八木遺跡からは5~6万年前の木製品が見つかっています(ただし、これはデニソワ人❓の遺物である可能性も)

ハプロCの一部は、そのまま太平洋岸沿いを南下し、オセアニアまで到達したのでしょう。

( ・`ω・´)💡

一方、日本海、東シナ海は黄河、長江の冷たい水が流れ込み塩分濃度も下がり、漁業資源は乏しく、黄河、長江流域に現代人が居住を始めるのは27000年前以降となります。

東南アジアでは30000年前頃から人類の活動が活発化しますが、
熱帯地方では清潔な飲料水の確保、食糧の長期保存が難しく、病原菌も多いため、南ルート・インド回りで来たハプロF系統のうち、N,O,Q,Rは、太平洋岸沿いを北上し、おそらく2~3万年前に台湾平原や日本列島、沿海州に到達したようです。

この頃既に、ハプロD1a2やC1a1は、北海道~沖縄付近で漁労や狩猟採集を中心に半定住生活を開始していたのでしょう。

ハプロO系統は主に台湾平原付近、N系統は沿海州付近、QR(P系統)はバイカル湖付近に固まりつつ、既に海洋漁業や交易事業に乗り出していた日本列島の住民と交流していたと思われます。

北海道遠軽町白滝遺跡はBC18000~10000の間、黒曜石採集・石器加工場であり、10トン460万点に及ぶ大量の石器が出土し、サハリンやシベリアにも供給されています。

また、網走支庁の遠軽から遠く離れた道南のピリカ遺跡にも白滝の石材が運ばれ、ピリカは黒曜石の産地でないにもかかわらず、石器加工場として10000年に渡り存続しました。

旧石器時代の関東甲信の人々が、100km以上離れた太平洋上に浮かぶ神津島まで黒曜石を採集に行っていたことから、既に外洋航海技術を持っていたことは知られていますが、

この神津島の黒曜石が、黒曜石の産地である長野県からも出土しています。

そして、長野県の黒曜石が、同様に北海道からも出土しています。

同じ黒曜石であっても、産地によって色や模様が違い、単なる道具としてではなく、珍しい模様の“ブランド価値のある商品"として遠方まで材料を求めたり、遥か彼方迄に売り込みをかけていく旧石器時代日本列島人の“商売魂"が見てとれます。

そして、石器加工の技法も、各地で独自の技術を編み出し、競い合っています。

関東東海甲信地方では、尖頭器石器が地域的な発展を見せました。

( ・`ω・´)💡

大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡からは22000年前(BC20000)の竪穴式住居が発見されていますが、竪穴住居・半地下式住居は、のちに中国・シベリアにも波及していきます。

オリエントの文明の黎明期にも、半地下式住居が見られますね( ・`ω・´)💡

また、はさみ山遺跡からは墓と推定される土坑も見つかっています。

20000年前頃から、シベリア、東アジアに埋葬の習慣が現れたと考えられていますが、この時代の日本列島からは“世界最古"“東洋最古"の遺構が
多く発見されています。

( ・`ω・´)💡
このように、縄文時代に至る前の先土器時代に既に、日本列島は氷期の石器人にとってパラダイスであり、最も暮らしやすく、文化が発達しやすい環境にありました。

海水面が現在より120メートルも低い時代、日本列島はけっして“孤島"ではありませんでした。

北海道、樺太は大陸と繋がり、津軽海峡は冬季結氷すれば容易に渡ることが出来、

対馬海峡は干潮時には歩いて渡れた可能性もあるくらい狭くなっており、

本州四国九州と種子島が繋がり、
最新研究では、トカラ海峡を渡れば奄美~琉球~台湾~華南と陸続きであった可能性もあるようです。

神津島に渡れる航海術をもった日本列島人であれば、容易くシベリア、中国本土へ渡っていけたでしょう。

弥生人とされるハプロO1b2は、Nの一部と共に遅くとも縄文海進が始まる前には日本列島に到達していたと思われます。

NとOが分かれる前のNOも日本列島に来ています。

OとNの分岐が36800年前、O1b1とO1b2の分岐が28500年前。
この分岐は、今は東シナ海に沈んでいる台湾平原付近で起こったとすれば、Oが中国(一部が日本列島)、Nが沿海州(一部は日本列島)中心に分布し、O1b2が日本・朝鮮・満州、O1b1が長江以南に分かれていることも説明しやすいのではないでしょうか。

O1b2は、最古の土器の製作とも関係がありそうです。

大陸のO1b1と日本列島(主に九州か?)のO1b2は、既に縄文時代草創期には別れており、鬼界カルデラ噴火後に九州を逃れ西日本や、無人の朝鮮半島からやがて満州へと拡散していったと考えても分岐年代と現在の分布からすれば何ら不思議ではないのです。

遼河文明はハプロN1が起こした文明ですが、その祖先が細々と東日本で暮らしていた早期縄文人の一派だったとしてもおかしくはないし、BC6200から遼河文明興隆窪で作られた櫛目文土器が縄文早期土器のバリエーションの一つだったとしても不思議ではないでしょう。

中国、シベリアの黎明期の土器と日本列島の同時代の土器は、どちらが先とは言えないものですが、日本列島の縄文草創期から早期の人々は、そこへ出掛けて行って技術指導することも可能だったはずです( ・`ω・´)💡

日本列島の先縄文時代からして既に、原始人らしからぬ加工貿易を始め、荒波の太平洋に出て漁業を営んでいたのですから‼️

そう‼️

( ・`ω・´)それは既に、自給自足ではなく、生業なのです💡

大量に石器を加工し、遥か遠くまで良質の材を求め、海を渡って売りに行く。

それは縄文時代が始まる前からの話…

縄文時代には、太平洋で釣った魚も可能な限り内陸部まで運ばれています。
( ・`ω・´)💡
それは自分が食べるためじゃないよね⁉️

そりゃ、海から遠く離れた場所にないものを持って行けば、高く売れる(大量の山の幸と交換できる)でしょう。

そうして、流通が始まってしまえば、定住生活も安定してきます。

人の移動が頻繁になれば、人の集まる場所には商店も出来たでしょう。

縄文時代早期には、90%を植物由来の食べ物に切り替わっていた、というデータもあるようです。

その植物由来も、そのへんの草をムシッて食べていたわけではなく、粉食の文化であり、保存、持ち運びが出来るものでした。

『交易』遠くまで持って行けば、より価値の高いモノと交換できる、と知ってしまった人々は、保存性がよく、乾燥させて軽量で、栄養価の高い食べ物の“商品開発"に励んだようです( ・`ω・´)💡

その商品、粉食を煮炊きして食べる為の土器も爆発的に普及していきます。

( ・`ω・´)💡
そりゃ、そーでしょうよ、石器時代から交易していたのだから‼️

縄文海進が始まると、大陸と日本列島の間には海が広がり、大陸からは容易に日本列島に渡れなくなります。

然し、外洋航海が可能な日本列島に住む人々は既に、日本海や東シナ海を渡るくらいの航海技術を身につけていました。

( ・`ω・´)💡
東アジアの海洋交易は、倭人の独壇場になるわけですね‼️

氷期が終わるまで、悶々と原始時代を過ごしていた大陸の人々にとって、

縄文人はまさに、

アヌンナキ‼️
炎帝神農氏‼️
な存在でした。

氷期の終わり頃から、西アジアでも農耕が始まっていましたが、彼らに…

( ・`ω・´)💡

東アジアから土器製作の技術が伝わったのは、BC7000‼️

その頃の世界は、
食いつめてただあてもなく居場所を求め移動していた流浪の民と、
何とか安住の地を見つけて定住を開始した人々と、

帰る場所はあるけれど、目的を持って旅をしていた縄文人‼️

の3つに分かれていたようです( ・`ω・´)💡

(´・д・`)ホントかよ⁉️