4500年前、春野町熊切に古代国家が存在した⁉️ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️





天竜区春野町の縄文時代

まず、平成元年に春野町史編纂の過程での調査において、後期旧石器末(BC14000頃)と推定される旧石器がモチクイド遺跡から発見されています。

モチクイド遺跡の発見は、最初に見つかった剥片が田河内に近い熊切川上流の丘陵地にある茶畑の“農道に落ちていた"!Σ( ̄□ ̄;)という衝撃的なもので…

(´・д・`)15000年以上前の石器が道端に落ちてるものなのか⁉️

農道を切り開いた工事により転がり出たものらしいが…

あるところにはあるモノなんですね( ・`ω・´)💡

春野町のお隣、川根本町ヌタブラ遺跡では、中期旧石器時代(4万年以上前)と推定される石器が発見されており、飯田市の竹佐中原遺跡からは5万年前と推定される石器が出土しているところから、その中間地点にあたる春野町から同時期の石器が出土しても不思議ではありません。

(* ̄∇ ̄*)農道に落ちてる石をしらみ潰しに調べてみようかな?

今後も春野町から旧石器が発見される可能性はありそうですね❗

遠州地方の旧石器遺跡は磐田原台地や、浜北根堅遺跡(浜北人)がありますが、獲物を求めて移動していた旧石器時代人の行動範囲は広かったと思われますので、浜北人が磐田原や春野にも出掛けてきていたかもしれません。

( ・`ω・´)💡




春野町では、縄文早期BC7000頃から土器を伴う遺跡が見られ、縄文中期後葉(BC3000~2500)になって遺跡数が急増します。

気田川、不動川、熊切川、杉川に挟まれた尾根筋を中心に、中期後葉だけで40ヶ所以上!Σ( ̄□ ̄;)の遺跡が発見されており、当時としては非常に高い人口密度であったことが窺えます。

杉グミノサワ遺跡から、石皿と磨石が発見されており、ワラビ粉やクズ粉のような粉食が普及し、貯蔵食品を大量に備蓄できるようになり、爆発的に人口を増やしていたようです( ・`ω・´)💡

水量豊富な河川が複数あり、不動川、熊切川、杉川は何れも東から西へ流れ、深いV字谷を刻み、各河川の北側の斜面は陽当たりもよく、土も肥えていて農耕に適しています。

不動川北側の和泉平~砂川~花島
熊切川北側の五和~筏戸大上~田河内
杉川北側の赤岡~高杉~川上
と東西に続く南面した丘陵地帯は、数年おきに移動しながら焼畑農耕を営むには最適であったでしょう。

不動川、熊切川、杉川共に徒行(かち)でも渡れる水量の川ですから、三本の尾根筋は互いに連絡を取り合うことも容易であり、それぞれの尾根筋が標高5~700メートル前後と比較的低い山並みであることも、この地域に一体感をもたらしています。

春野町は、昭和中期の合併以前、気田川平野部を中心に気多村、犬居町が商業地として栄え、上述の三本の川筋、尾根筋は熊切村の領域で、西側の川根に接していました。

不動川、熊切川、杉川は何れも気田川支流の天竜川水系に属しますが、春野町熊切地区と川根本町の境となる分水嶺を越えると、僅か3~4Kmで大井川本流に至ります。



( ・`ω・´)💡
熊切茶は、明治から昭和にかけて一世を風靡したブランドですが、川霧かかる南面した標高4~600メートルの丘陵地帯というのは、高級茶葉の生産に最も適しています。

そして、茶は中世からこの地区の重要な調税品、換金作物であり、高収益が見込めるため、この地域の主要農作物となりました。

( ・`ω・´)💡
然し、良質の茶葉が取れる畑というのは、他の農作物にとっても好条件なのです。
たまたま、茶が高収益であり需要も高かったため、熊切の特産品となりましたが、他の農作物もすべからく熊切産は上質として古くから定評があります。

( ・`ω・´)💡
茅野の尖石や富士見の井戸尻のように、なだらかな高原地帯は縄文人にとっても暮らしやすい環境であったでしょう…

然し、縄文人は、この急峻な斜面の続く丘陵地帯が、農耕に向いていることを、今から5000年前に見出だしていたようです( ・`ω・´)💡

実のところ、現代でも熊切という決して生活が便利ではない地域に多くの人が住む理由は、付加価値の高い農作物の生産に適した土地である点が大きいようです。

BC2500頃の熊切は、40以上(今後、まだまだ発見される余地は充分あるでしょう)の集落に分かれ、粉食を中心に保存性の良い加工食品を大量に生産し、全国に出荷していた可能性もあります( ・`ω・´)💡

(´・д・`)ホントかよ❓

( ・`ω・´)💡
熊切の遺跡から発見された土器からは、在地のものだけではなく、長野県伊奈産や、東海地方の様式、更には四国地方の様式を持った土器まで発見されているのです‼️

( ・`ω・´)💡
広範な交易が行われていた可能性があります‼️

(´・д・`)ホントかも❓

( ・`ω・´)💡
40以上の集落が、それぞれ5~6世帯、2~30人の人口だったとすれば、1000~2000人。

それはムラというより、もはや一つのクニであったと言えるでしょう( ・`ω・´)💡




内藤湖南は、この(後世の山香郡與利郷、本宮小國神社の神域)を邪馬台国(女王国)に属する邦国の一つ、華奴蘇奴(げなさな)国に比定しています。

https://ameblo.jp/starless43/entry-12433411601.html

そして、本宮小國神社(正国六音大菩薩社)こそ、オオナムチ神の本拠地であったのではないかという説もあります( ・`ω・´)💡

内藤湖南の時代には、もちろん春野町の縄文遺跡は殆ど発見されていません(明治26年に土屋彦六が気多村麻舟山遺跡を報告)。

邪馬台国の時代を3000年遡る頃から、ここに国らしき一大文化圏が存在したとすれば、湖南説を再考していく価値は高いでしょう( ・`ω・´)💡

そして、

https://ameblo.jp/starless43/entry-12547697474.html

オオナムチと共に、天竜川流域のスサノオ伝説も考えていくべきと思います( ・`ω・´)💡

( ・`ω・´)💡
熊切には、BC2500頃、天竜川富士八ヶ岳王朝に属する…農作物加工と、砂鉄にまつわる産業を持った国邑が存在した❗

(´・д・`)ウソコケー

( ・`ω・´)💡
天武朝による日本国統一以前の倭国は、中国の夏・商・周王朝~春秋時代のような連合国家群であったのではないかと想定しています。

商(殷)は、いくつかの国邑からなる連合国家で、王家は10の支族から交代で出ていたとする説があります。

そして、それは倭人が縄文時代中期に日本列島で確立した(本来は争いのない)統治システムを中国に移植したものではないかと( ・`ω・´)💡⁉️

それが契丹古伝が伝える東族のシステムであり、日本列島と異なっていたのは、好戦的な西族との争いが避けられず、中国では、いち早く崩壊(BC1000頃)したものの倭国では二世紀の倭国大乱までそのシステムが持ちこたえたのではないか❓

縄文後期~晩期には日本列島山間部の遺跡数が大きく減少しますが、その頃は中国との交易が盛んになり、各国が海沿いに拠点を移し、交易に励むと共に“九夷"として中国沿海部に移り住み、

商王朝崩壊(殷周革命)と共に帰還事業が始まり、弥生文化、稲作の本格導入が始まっていったのではないか…

稲作が西から東へゆっくり進むのは、徐々に寒冷地に適した品種改良が少しずつ進み稲作の北限が拡大していったからで、弥生人が縄文人を駆逐していったわけではないのではないか❓

関東より先に東北に一度稲作が持ち込まれたのち断念した形跡があるのは寒冷対応が難しかったからで、導入を試みたのは東北縄文人も九州弥生人と一連の文化圏に属していたのではないか❓

そうした倭国の連合国家群の平和なシステムは3000年以上続いたが、(天竜川八ヶ岳富士王朝の分家である)九州南部のウガヤフキアエズ朝が紀元前後から東進を開始し、徐々にヤマト国の傘下を増やしていき女王国の時代に至ったのではないだろうか❓

( ・`ω・´)💡
その時、熊切郷は女王国(崇神朝)に与する華奴蘇奴国だったのかもしれないが…

伊都国の大率(だいそつ=武内宿禰❓)が密かに張政を抱き込んで臺與(息長足姫❓)を立て卑弥呼に反旗を翻し東征を始め(息長足姫の義父)倭武大王が東国を激しく攻め、ヤマト(三輪王朝)を諏訪に追いやり狗奴国(古の富士王朝❓)にも攻め込んだのではないだろうか❓

華奴蘇奴国を拠点に気比神を祖神とするオオナムチ勢は150年ほどゲリラ戦で抵抗したが、ホムダワケの代に至り、遂に屈し、オオナムチは出雲に連行されて幽閉され、ホムダワケは、そちらを大國の社、こちらを小國の社と定め祟りなさないよう丁重に祀ったのではないか( ・`ω・´)💡

(´・д・`)ホントケー❓

( ・`ω・´)💡
ホムダ大王は、気比神と御名を交換するのだが、その神名が御食津(みけつ)大神で、その正体は神祖熊野大神櫛御食野尊(かむろぎくまのおおかみくしみけぬのみこと)=スサノオ

オオナムチが信奉していたのは、イザナギ、イザナミとその御子であるスサノオ。

八ヶ岳高天原に君臨したイザナギ、イザナミが天竜川八ヶ岳富士王朝を開き、スサノオは日本海側の越、出雲も勢力圏に治め(遠淡海の根堅から越、出雲の根国までを勢力圏とした…秋葉と出雲は鉄に関連した地域)、子孫であるニニギは富士を中心に全国に勢力圏を拡大、その御子である炎尊は海人族も配下に治め中国に進出し炎帝神農氏となり、一子であるヒコナギサが九州に分家しウガヤフキアエズ朝を興した( ・`ω・´)💡

(´・д・`)イヨイヨウソダ

(o´・∀・)o
天竜川富士八ヶ岳王朝の大王は、代々大國主(倭国大王)。
分家のウガヤ朝は代々小國主(一大率)だったのかも❓
ウガヤ朝~カムヤマト朝を襲ったホムダワケ大王が、気比大神子孫のオオナムチと交換したのは、大國主と小國主の地位だったのかもしれないね⁉️

( ・`ω・´)💡
今のところの御神託では、そのと~り‼️

(o´・∀・)o
何となく天竜川八ヶ岳富士王朝のアウトラインが見えて来たね‼️

( ・`ω・´)💡
あとはもう少し、根拠を調べていかないとならないね❗

(´・д・`)モーソーダワタワケ

https://ameblo.jp/starless43/entry-12555636961.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12554490138.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12553045865.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12552084456.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12548504378.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12546401943.html

(o´・∀・)o
熊切という地名は、ホムダワケ大王(応神天皇)が、ここで熊野大神(=スサノオ)を信奉する人達との争いにキリをつけた、という意味かもしれないね…