日本書紀と三國志(三)親魏大月氏王と親魏倭王~中国の史書から見た倭人⑨ | 縄文家族|天竜楽市

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天竜川流域に岩宿、縄文の昔から連綿と続く山暮らし。

大祖先から受け継いだ五万年持続する森と共生するサスティナブルライフを未来の子供たちへ伝えましょう‼️



(* ̄∇ ̄)ノ
⬇️前回記事の続きです⬇️

https://ameblo.jp/starless43/entry-12565312780.html

( ・`ω・´)💡

『(太和三年)十二月己丑至、奉安神主于廟。
癸卯、大月氏王波調遣使奉獻、以調爲親魏大月氏王。』(三國志 魏書 明帝紀)

太和三年(229)十二月癸卯、大月氏(クシャーナ朝)王波調(ヴァースディーヴァ王)が、魏に遣使奉献し、
「親魏大月氏王」に任じられています。

( ・`ω・´)💡
月氏は、もともとモンゴル高原からタリム盆地、中国の西側にいた民族で、紀元前2世紀に匈奴に追われ、バクトリア(タジキスタン、アフガニスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、イランの国境付近)に移動。以後、中国からは大月氏と呼ばれます。

1世紀に入ると大月氏の一派からクシャーナ朝が起こり、インド北部に勢力を広げていきました。

2世紀半ばのカニシカ一世(在位144~173頃)の時代に東はガンジス川中流域、西はインダス川流域、北はバクトリア地方まで領土を拡大、大帝国となります。

カニシカ一世は、仏教を保護し、クシャーナ朝ではガンダーラ美術が頂点を迎えました。

また、「シャーヒ、ムローダ、マハーラージャ、ラージャティラージャ、デーヴァプトラ、カイサラなるカニシカ」という碑文が残っているように、カニシカ一世は、インド、ペルシア、中国、ローマなどの皇帝号をサンスクリット語に訳して称するなど、世界の中央に君臨する大王でした。

三世紀のヴァースディーヴァ王(在位218~242頃)も、のちにサーサーン朝シャープール一世(在位241~272、マッシナの戦いでローマ皇帝ゴルディアヌス3世を敗死させ、エデッサの戦いでウァレリアヌス帝を捕虜とするなど何度もローマ帝国を破りサーサーン朝繁栄の基礎を作った)に大敗するまで、強大な勢力を保っていました。

!Σ( ̄□ ̄;)
そんな世界の大王「親魏大月氏王」と、
「親魏倭王」卑弥呼は同格なんだ‼️

( ・`ω・´)💡
クシャーナ朝ヴァースディーヴァ王の入朝は、
魏の宗族で、鎮西将軍(のちに大将軍)仮節都督雍涼州諸軍事であった、曹真の功績と考えられていました。

景初三年(239)、幼少の皇帝、斉王即位に伴い、皇帝の後見役として、
曹真の子、曹爽と
司馬懿はライバル関係になりました。

(o´・∀・)o
司馬懿としては、倭王をクシャーナ朝皇帝と同格にしておかないと面目が立たないね❗

( ・`ω・´)💡
とはいえ、全く弱小な外国君主を世界の大王に祭り上げるようなことをすれば、曹爽ら政敵は黙っていなかったでしょう。

魏にとって、倭国はクシャーナ朝と同格とする何らかの根拠があったと思われます。

現代の日本人が考えている以上に、倭国は魏にとって心強いパートナーであったと思われます( ・`ω・´)💡

『漢書』『後漢書』には、西域について詳しく触れていますが、東夷の情報は乏しいものでした。

当時の中国にとって、陸続きの中央アジア、西アジアよりも、海を隔てた倭国は、近くて遠い国だったのです‼️

( ・`ω・´)💡

『(黄龍)二年春正月、
遣將軍衞溫諸葛直、將甲士萬人、浮海、求夷洲及亶洲。亶洲、在海中、長老傳言秦始皇帝遣方士徐福將童男童女數千人入海、求蓬萊神山及仙藥、止此洲、不還。世相承有數萬家、其上人民時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絕遠、卒不可得至。但得夷洲數千人還。』(三國志 呉書 吳主傳)
 
呉は黄龍二年(230)春正月、
将軍衛温、諸葛直に甲士一万人を率いて浮海させ、
夷洲および亶洲を求めさせました。

亶洲は海中に在って、長老が伝え言うには、
秦の始皇帝が、
方士徐福に童男童女数千人を率いて入海させ、
蓬萊の神山および仙薬を求めましたが、
(徐福は)この洲に止まって還りませんでした。

(亶洲の人々は)世々に相い継承して数万の家があり、
その上の人民は時に会稽に至って布を貨【あきな】う者があり、
会稽の東の県の人が海に行き、
亦た風に遭って流移して亶洲に至る者もありました。

(亶洲の)所在は絶遠であって(衛温らは)卒【つい】に至る事が出来ず、ただ夷州の数千人を得て帰還しました。

( ・`ω・´)💡
ヴァースディーヴァ王が魏に使者を送り、親大月氏王となった翌年、
呉の皇帝孫権は、夷洲、亶洲を探索させるために二将と甲士一万を派遣します。

亶洲の民は、呉の会稽(浙江省紹興市付近)に交易に来ているわけですから、亶洲の人は自在に海を渡って来ることがわかります。

長江で自在に船を操る呉の水軍は、三国志演義では有名ですが、海洋航海は亶洲の民のように得意ではなかったようで、結局、亶洲には辿り着けませんでした。

呉軍が数千人を連れ帰った夷洲は、おそらく今の台湾であろうと考えられています。

一方、徐福が渡った蓬莱の神仙の国、亶洲は、当時もおそらく、倭国のことであろうという認識であったと思われます。

亶洲人が、わざわざ海を渡って、会稽に売りに来る“布”は、中国の市場でも通用して商売になる、質の高い製品だったでしょう。

中国の東で、質の高い布製品を提供することが可能で、海を渡る技術を持っているのは、倭人であった可能性が高いと思います( ・`ω・´)💡

(o´・∀・)o
中国が台湾に本格的に進出するのは明代以降。
フィリピンや日本は絶遠の地、ということだね。

( ・`ω・´)💡
上海からの直線距離は、福岡の方が西安、成都より近いけれど、中国の使者が自ら九州へやって来るようになったのは、唐朝以降。

遣唐使は、国の威信をかけた大型船で、当時の外交関係から朝鮮半島沿岸を避けて南西諸島から東シナ海を突っ切って行く無茶なルートで、
然も、元旦の朝見に合わせて台風シーズンに渡航したために、何度も難破したけれど、

漢魏時代の東シナ海は倭人の、南シナ海は越人の独壇場で、
倭人は、半島よりの黄海ルートで安全に中国沿海部に向かえるルートを確保出来ていたのだと思います。

三國志韓条を見れば、済州島の州胡を除いて、韓半島の人々が積極的に海を渡っていたとは考えられません❗

( ・`ω・´)💡
呉が、倭国の探索に出ていたことは、魏にとって脅威であったと思われます。

黄海を自在に往き来する倭人と呉が手を結び、公孫氏の燕と高句麗や鮮卑が連合すれば、魏にとって非常に厳しい状況になります。

( ・`ω・´)💡

『(建興)三年春、亮率衆南征、其秋悉平。軍資所出、國以富饒、乃治戎講武、以俟大舉。』(三國志 蜀書 諸葛亮傳)

“(蜀の建興)三年(225)春、(諸葛)亮は衆(軍)を率いて南征し、
其【そ】の(年の)秋、悉【ことごと】く平らげ、
軍資が出る所となり、
以て国は富饒(豊か)になった。
乃【すなわ】ち戎【つわもの(軍事)】を治めて武を講じ、大挙の機を俟【ま】った。

( ・`ω・´)💡
蜀漢では、魏の大月氏との同盟、呉の亶洲、夷洲探索に先駆け、諸葛亮が南征を行い、雲南地方を平定しました。
これによって、軍需物資を得て国は豊かになり、軍事力を増強させて、万全の備えで魏へ侵攻する時を窺っていました。

( ・`ω・´)💡

『漢晉春秋曰。亮至南中、所在戰捷。聞孟獲者、爲夷、漢所服、募生致之。既得、使觀於營陳之閒、問曰「此軍何如□」獲對曰「向者不知虛實、故敗。今蒙賜觀看營陳、若祇如此、卽定易勝耳。」亮笑、縱使更戰、七縱七禽、而亮猶遣獲。獲止不去、曰「公、天威也、南人不復反矣。」遂至滇池。南中平、皆卽其渠率而用之。』

漢晋春秋に、有名な七縱七禽のエピソードが載っています。

諸葛亮は、夷人にも漢人にも慕われている孟獲(建寧郡の人)を捕らえると、陣営を観察させ、孟獲が「次は勝てる」というので釈放して、もう一度戦わせました。
七度釈放し、七度捕らえると、孟獲は遂に心から服従し、「南人は二度と背かないでしょう」と誓って、南中は平定され、土地の人々は蜀漢に任用されるようになりました。

孟獲はのち、蜀漢の御史中丞(秩禄千石)に昇進しています。

( ・`ω・´)💡
雲南地方を平定し、蛮夷の人々の心を掴んだ諸葛亮は、建興五年(227)から、後顧の憂いなく北伐を開始しています。

蜀漢は、周辺の異民族を掃討するのではなく、帰順させて味方につける戦略を取りました。

( ・`ω・´)💡
一方、魏王曹操は、早くから異民族を利用しています❗

216年には、山越族の費桟【ひさん】、尤突【ゆうとつ】に印授を与え、呉の背後で反乱を起こさせています。
同年には、

『(建安二十一年)
夏五月天子進公爵爲魏王。
代郡烏丸行單于普富盧與其侯王來朝。
秋七月、匈奴南單于呼廚泉將其名王來朝、待以客禮、遂留魏、使右賢王去卑監其國。』(三国志 魏書 武帝紀)

曹操が魏王に昇進した五月に、烏丸の行単于【こうぜんう】普富盧【ふふろ】が来朝。

( ・`ω・´)💡
烏丸は、東胡系の遊牧民族。東胡は、鮮卑、契丹など、のちのモンゴル系に繋がります。

烏丸族は袁紹に従っていましたが、206年、袁氏掃討戦の際、白狼山の戦いで曹操に撃破され、壊滅的な打撃を受けています。

その烏丸の行単于(行=代行、単于は匈奴が使い始めた遊牧民族の君主号、後漢末に袁紹が烏丸族の首長に単于号を授与した)が、積年の恨みを忘れ、曹操が魏王となった直後に、配下の候王と共に来朝したのは、魏王にとって良いニュース。

( ・`ω・´)💡
七月には、匈奴南單于呼廚泉【こちゅうせん】が、配下の名王を引き連れ来朝。

呼廚泉も、202年には曹操に対し反乱を起こしていたので、来朝して魏に帰順したのは、良いニュース。

呼廚泉は、そのまま魏に引き留められ、右賢王(匈奴では左賢王と並んで単于に次ぐ地位)去卑に南匈奴を取り仕切らせるようにしています。

魏は、曹操の時代に烏丸、南匈奴を懐柔することに成功していました。

この後も魏王朝は、周辺異民族に対し、基本的に融和政策で対処していきます。

( ・`ω・´)💡

なお、呼廚泉は195年に南単于になったあと、時代が下がって277年、西晋の武帝時代に来朝しています。

呼廚泉の叔父にあたる南匈奴部帥の劉猛が271年に西晋に対して反乱を起こすなど、南匈奴には非常に長命な人物が多く、少し不可解です。

(o´・∀・)o
呼廚泉という名は、二世三世も使っていたのかもしれないね⁉️

( ・`ω・´)💡
西晋時代になると、南単于の統率力は低下し、南匈奴は度々反乱を起こすようになり、
呼廚泉の甥で左賢王だった劉豹(彼も195~279まで左賢王の地位にあった)の子、劉淵は、304年に漢朝の復興を掲げて「漢」を建国し、晋から自立。五胡十六国の戦乱時代の幕開けとなりました。

( ・∇・)
劉淵(光文皇帝)の元で丞相を務めた劉宣(?~308)は、何と❗呼廚泉の弟!Σ( ̄□ ̄;)

【第一世代、三兄弟❓】
羌渠(?~188)
去卑(170頃?~?)
劉孟(?~272)

【第二世代・羌渠の子】
於夫羅(150頃~195)
呼廚泉(170~180頃?~277?)
劉宣(188?~308)
【去卑の子】
劉訓兜(?~309)

【第三世代・於夫羅の子】
劉豹(180頃?~279)
【劉訓兜の子】
劉虎(~341)

【第四世代・劉豹の子】
劉淵(251?~310)

( ・∇・)
この家系、明らかに生没年と世代関係がおかしい❗

( ・`ω・´)💡
また、後漢末の偉大な文筆家、蔡邕(133~192)は、董卓を誅殺した王允に疎まれ獄死していますが、
蔡邕が収集していた漢史の史料は李傕の乱で多くが失われました。

(o´・∀・)o
後漢時代の倭人関連の史料も失なくなった可能性があるね❗

( ・`ω・´)💡
悲劇は更に続きます。
李傕の乱の最中、蔡邕の娘、蔡琰(蔡文姫177~249?254?)は匈奴騎兵隊に拉致されます。

そして、劉豹の側室となって12年間、匈奴の地で暮らし、劉豹との間に二子をもうけました。

( ・`ω・´)💡
その蔡文姫を、赤壁の戦いがあった207年、匈奴に宝物を贈って呼び戻したのは蔡邕と親交のあった曹操でした。

蔡文姫は才女として名高く、中国傑出歴史人物として記念硬貨も発行されています。

また、書家としては、蔡琰の筆法が受け継がれ、書聖王義之に伝えられました。

蔡琰の甥(一説に子)は、晋の征南大将軍羊祜(221~278)、姪は晋の景帝(追増)司馬師の妻、景献皇后。

羊祜の父は早く死に、蔡琰が羊祜を育てました。

羊祜、景献皇后姉弟の同族、羊献容(286~322)は、300年に西晋恵帝の皇后に擁立されます。

西晋は皇族同士の争い(八王の乱)で危機的な状況となっており、羊皇后は五年の間に五度擁立されては五度廃位されました。

306年6月、六度目の復位を果たしたものの、11月には恵帝が崩御し、21歳の若さで羊献容は未亡人となります。

311年6月、かつて蔡琰が嫁いだ劉豹の孫、漢の征東大都督劉曜によって洛陽が陥落し、羊献容は、かつての蔡琰と同じように連れ去られ、劉曜の妻となりました。

318年、劉曜が漢(前趙)の皇帝になると、羊献容は、七度目の皇后擁立を果たしています。

( ・`ω・´)💡
西晋以降、中国では王朝が乱立し、皇族同士が互いに殺し合う動乱の時代を迎えます。

漢魏時代の高い精神文化は、この時代に崩れ去りました。

( ・`ω・´)💡
100年前の、曹操の外交政策は、魏を安定させましたが、

(o´・∀・)o
贈り物あげるから、攻めて来ないでね~

( ・`ω・´)💡
という姿勢の朝貢貿易は、財政を逼迫し、
周辺諸国の増長を招いていったようです。

~(´∀`~)

『卌三年。魏志云
「正始四年、
倭王復遣使大夫伊聲者、掖耶約等八人、
上獻。」』(日本書紀 神功皇后紀)

『(正始)四年、
倭王復遣使大夫伊聲耆、掖邪狗等八人、
上獻生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、■𤝔、短弓矢。掖邪狗等、壹拜率善中郎將印綬。』
■=けものへんに付
(三国志 東夷傳)

( ・`ω・´)💡
正始四年(243)、倭王はまた伊聲耆【いせき】、掖邪狗【えやく】ら八人を遣使し、生口、倭錦、絳青縑、緜衣、帛布、丹木、短弓矢を上献しました。
八人の使者全員に率善【そつぜん】中郎将の印授が授けられています。

倭国からの献上品は、前回より遥かにグレードアップしています❗

使者を八人に増やしたおかげで、銀印も八つもらえました(*´∀`)♪

記されてはいませんが、魏からは今回も莫大な返礼品を下賜されたと思われます。

( ・`ω・´)💡
ところで、

伊聲耆➡️伊聲者
掖邪狗➡️掖耶約

また、三国志と日本書紀では漢字が異なっています。

(o´・∀・)o
倭人の人名中心に漢字を変えているのは、正しい読みを知っていたからでは⁉️

( ・`ω・´)💡
その可能性もあるね❗

さて、今回の遣使は、斉王の本紀にも記載されています。

『(正始)四年春正月帝加元服、賜羣臣各有差。夏四月乙卯立皇后甄氏、大赦。五月朔日有食之、既。秋七月詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋、於太祖廟庭。

冬十二月、倭國女王俾彌呼遣使奉獻。』

帝が元服されて、臣下にそれぞれ下賜があった。

甄氏を皇后に立て、大赦を行った。

皆既日食があった。

( ・`ω・´)💡
この後、亡くなった重臣の名を連ね、太祖武帝(曹操)の霊廟前の広場にて祀ったとされています。

三国志演義でお馴染みの武将の名前が並んでいますね❗

( ・`ω・´)💡

冬十二月、倭国の女王“俾彌呼”が遣使奉献。

ここでは、東夷傳の卑ではなく、“俾”の字をあてています。

俾=たすける/しもべ/にらむ/~させる

(。・´д`・。)
倭の女王は、

魏を助けて、
四海に睨みをきかせる
しもべ❗

なのか❓

(o´・∀・)o
それはある意味、臣下、としての理想的な姿ではないか⁉️

( ・`ω・´)💡
親魏倭王となったのは、名誉なこと、なのでしょうか❓

『(正始)六年、詔賜倭難升米黃幢、付郡假授。』

正始六年(245)
詔【みことのり】して、倭の難升米に、黃幢を賜り、郡に付けて假授す。

( ・`ω・´)💡
黃幢とは、五行に基づく、魏のシンボルカラーである黄色の、パラソルみたいな旗のことのようです。

帯方郡太守の手から、率善中郎将の難升米さんに預けられました❗

(o´・∀・)o
難升米さんは、度々帯方郡に出入りしていたのかな⁉️

( ・`ω・´)💡
今回、難升米は、洛陽には行かず、帯方郡の使いが都とやり取りした、ということでしょうか。

魏軍の後ろ楯を示す旗を倭国側が要求したとすれば、倭国内で戦の緊張感が高まっていた可能性がありますね❗

(o´・∀・)o
難升米さんは、魏の率善中郎将としての職務を、マジメに果たそうとしていたんじゃないかな❓

( ・`ω・´)💡
難升米が、帯方郡に度々出入りしていた理由は、魏が倭人の情報を求めていた可能性もある…

( ・∇・)
三國志韓条の書き方は、見てきた風じゃなくて、聞いた話を書いたような気がする❗

( ・`ω・´)💡
倭人から韓国の内情を仕入れていたのかもしれない。

『正始六年。樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵、以領東濊屬句麗、興師伐之。不耐侯等、舉邑降。』(三國志 東夷傳 濊)

正始六年(245)、楽浪太守劉茂・帯方太守弓遵は、嶺東【れいとう】の濊【わい】が高句麗に属したので、
師を興してこれを伐ち、不耐侯【ふたいこう】らが邑を挙げて降った。

( ・`ω・´)💡

中国の北東部、遼東郡の東にあった高句麗は、司馬懿の公孫氏攻略の際には、魏に味方しましたが、正始三年(242)に背き、正始五年(244)、魏の毋丘倹に破れています。

このため、正始六年に、半島北東部の濊が高句麗に味方したので、
楽浪、帯方の太守が出兵し、濊の不耐候を降伏させました。

( ・`ω・´)💡

『部從事吳林、以樂浪本統韓國、分割辰韓八國、以與樂浪。吏譯轉有異同、臣智激韓忿、攻帶方郡崎離營。時、太守弓遵樂浪太守劉茂、興兵伐之。遵戰死、二郡遂滅韓。』(三國志 東夷傳 韓)

部従事(郡の監察官)の呉林は、もとは楽浪が韓国を統べていた事から、
辰韓の八国を分割して楽浪に与えた処、
吏の訳が転々として異同(話の食い違い)を生じ、臣智【しんち(韓の諸国の首長)】が激昂して韓人は忿【いか】り、
帯方郡の崎離営【きりえい】を攻めた。
時の太守弓遵・楽浪太守劉茂は兵を興してこれを伐ち、
弓遵は戦死したが、
二郡は遂に韓を滅ぼ(制圧)した。

( ・`ω・´)💡
正始六年か七年と思われますが、楽浪郡と韓の諸国の間で争いが生じ、
制圧は出来たものの、帯方太守弓遵は戦死しています。

( ・`ω・´)💡
魏では、235年に鮮卑族の反乱を平定し、240年に南部の鮮卑は朝貢させたものの、
高句麗との間に抗争がありました。
中国東北部~半島の情勢は緊張していたようです。

( ・`ω・´)💡
倭人は、高句麗や扶余とは言語が似ていて(アルタイ諸語扶余語族)、東夷諸族とは交易関係があったと思われますから、

魏としては、倭人に各国の情報収集や、
東夷諸国の背後で、魏の旗を見せつける役割を期待していたのでしょう。

( ・`ω・´)💡

61年辛酉の年の漢委奴国のように、
241年辛酉の年の邪馬台国も、親魏倭王の印授を得て、国内での求心力を高めていたと思います。


( ・`ω・´)💡

おそらく、難升米への黃幢假授は、
この正始六年時点では、

倭国の事情より、魏の思惑が勝っていたのではないか?とも考えられるでしょう❗

( ・`ω・´)💡

高句麗は、強大なイメージですが、東夷傳では、全体で戸数三万❗

濊が二万戸

馬韓は五十余国ありますが、大国で一万戸、小国は数千戸で、総てで十余万戸

辰韓・弁辰は、合わせて二十四国、大国で四、五千戸、小国で六、七百戸、総じて四、五万戸

韓は、いくつもの小さな国に分かれ、大国でもそれほど大きくありません。

( ・`ω・´)💡
それに対して、倭国は、
邪馬臺国七万余戸
投馬国五万余戸
奴国二万余戸
と、大国が連なっています❗

こうした情報は、最初に倭国へやって来た悌儁が確認澄みであったと思われます‼️

(o´・∀・)o
期待しているよ~‼️

( ・`ω・´)💡
東夷諸族の中で、
倭国はいち早く
都市国家を形成し、
文明も成熟しており、
魏が期待する政治体制が整っていたと思われます。

(o´・∀・)o
親大月氏王と親魏倭王が、何故同格なのかが、見えてきたよ‼️

(。・´д`・。)
が、然し
倭国の内情は、風雲、急を告げていました!Σ( ̄□ ̄;)

女王の命運やいかに⁉️

つづく( `・∀・´)ノ ィヨロシクー

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⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️⬇️(o´・∀・)o
天竜茶、春野の茶を育む産地、天竜川とその水脈に連なる山々…悠久の歴史❗

縄文の…、というより、天竜川~八ヶ岳~富士が、いかに自然環境豊かで農耕にも適し、過去から未来まで永続的に人が暮らせる場所として適しているか?

そして、歴史の真実を知ることが目的ではなく、老子が理想とした上古代の文明国家の在り方

=ムラとムラが広範囲にネットワークを形成し、必要以上に追い求めず、高い精神文化を伴って、争うことなく繰らした縄文時代中期の社会❗

それを、一人でも多くの人に知って頂きたい、そしてもう一度、未来に豊かに暮らせるネットワークを残していきたい❗と思っています‼️

https://ameblo.jp/starless43/entry-12564434884.html

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(o´・∀・)o

皆さん、わからないことがあったら、何でも質問して下さいよ‼️

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なお、コピペ情報ではなく、膨大な情報から確度の高い情報を選び出し、考察した上でレポートにまとめて報告します‼️

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陰謀論の正体③アルタイ諸族と漢民族の危険な関係https://ameblo.jp/starless43/entry-12543461958.html

陰謀論の正体。②テュルクの黙示録https://ameblo.jp/starless43/entry-12537567163.html

https://ameblo.jp/starless43/entry-12536949013.html