泉岳寺・赤穂義士記念館と義士木像館と摩利支天とオッペケペー | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。
泉岳寺の赤穂義士墓地に参拝し、赤穂義士記念館へ向かいます。

 

 

 泉岳寺('23.9.25)

 


引き続き、泉岳寺の赤穂義士墓地。
浅野内匠頭、瑤泉院、赤穂義士のお墓以外に、いくつかの碑が建っていました。

前回少し触れた、村上喜剣を顕彰する「烈士喜剣碑」や、赤穂義士伝を広めた講釈師・柴田南窓を称える「南窓翁碑」など。ただしネットを調べても何の碑かわからなかったものも多数。

 

墓地の入口に戻り、お守りをお受けしました。
金色に光る、カードタイプの「勝守」。猪に乗った三面六臂の摩利支尊天(摩利支天)が描かれています。
摩利支天はもともとインドの神様で、自在の神通力を持ち、勝負事に強く、災厄や敵からの攻撃を一切受けつけないということで、日本では特に武士の間で信仰されていました。
大石内蔵助は、吉良邸への討ち入りの際、まげの中に小さな摩利支天像を入れて臨んだと伝わっています。

 

墓地を出て、墓地と本堂の間にある、赤穂義士記念館へ向かいます。
このあたりにも石碑などが多数あります。赤穂義士を支援したとされる商人・天野屋利兵衛を顕彰する「義商天野屋利兵衛浮圖碑」。浮図(ふと)は仏陀や仏塔のことですが、ここでは仏塔か、あるいは仏教徒の意味でしょうか。
天野屋利兵衛は実在の人物ですが、赤穂義士とは特に関連がなかった様子。しかしかなり初期の段階で、「天野屋という商人が義士たちのために武器を調達した」という噂があったようです。
実際には赤穂藩の御用商人だった綿屋善右衛門が、資金面などで一部の義士を支援しています。

 

「首洗い井戸」も、江戸名所図会に描かれるほど、昔からよく知られていたようです。明治時代には荒廃していたようですが、川上音二郎の寄付によって整備されました。
川上音二郎は『オッペケペー節』に乗せて、うわべだけの西洋化を批判し、自由民権運動を支持。人気を博したことで有名です。また新派の劇団主宰者・俳優として活躍しました。

 

オッペケペー節の内容は、現代にも通じるところがあると思います。
日本特有の事情や、日本人・日本企業が従来取り組んできた活動を鑑みずに、欧米や中国の政策を形だけそのまま取り入れようとして齟齬をきたしたり、欧米で既に問題が顕在化している政策が称揚されたりする例が、最近特に多い気がします。

例えばSDGs関連の報道とか主張とか。SDGsの目標の中には、日本が既に達成しているものも多々あるのですが(衛生、教育、平和など)、それらはあまり大きく取り上げられません。そのせいもあるのか、SDGs関連の報道や政策には、どうしても「欧米礼賛、日本卑下」色が拭えない感があります。

(中国の政策を真似した例は少ないですが、香川県のゲーム条例で特に問題となった、ゲームプレイ時間の制限は、中華人民共和国が当時行なっていた制限と全く同じでした。後に中国の方は制限時間をさらに厳しくしています)

 

血染の石と血染の梅は、浅野内匠頭が切腹した、田村右京太夫の屋敷の庭にあり、その血がかかったと伝わるもの。
主税の梅は、大石主税が切腹した松平隠岐守の三田屋敷から移植されたそうです。

 

 


赤穂義士記念館の前にあるモニュメント。
吉良邸から泉岳寺へ向かうときの、46人の隊列を表しているそうです。

 

記念館内へ(入館料¥500)。
まず、大きな曼荼羅が目を引きました。「釈迦八相祇園精舎曼荼羅」。経文の文字で描かれた曼荼羅で、1730年(享保15年)に寄付されたもの。赤穂藩とは無関係ですが、御開帳のときにはこちらも人気を集めたそうです。

 

浅野内匠頭と赤穂義士の墓があることで有名な泉岳寺ですが、もちろん赤穂事件以前からある大寺院です。
1612年(慶長17年)、徳川家康が、今川義元の菩提を弔うため、外桜田に創建したのが始まり。1641年(寛永18年)の大火で焼失し、徳川家光の命で現在の地に再建されました。
この再建は天下普請で、携わった5大名のうち1つが浅野家。これが浅野家と泉岳寺の接点となり、以降泉岳寺は浅野家の菩提寺となります。

 

泉岳寺は、青松寺、総泉寺(かつて平賀源内の墓があった)とともに「曹洞宗江戸三ヶ寺」と称されました。
また吉祥寺旃檀林(せんだんりん)、青松寺獅子窟と並ぶ江戸三学寮の1つでもあります。明治時代、旃檀林を中心にこの三学寮が合併し、曹洞宗大学となりました。これが現在の駒澤大学です。
(高校野球でもよく歌われる、駒澤大学の校歌に出てくる「旃檀林」が、この吉祥寺の学寮の名前です)

現在でも泉岳寺には学寮があり、大学での学習と並行してここで修行を行なう、修行僧の方々がいるそうです。

 

赤穂義士記念館の話に戻ります。
泉岳寺が吉良家に吉良上野介の首級を届けた際に、受け取った証文が展示されています。吉良家の家臣2人の名前と、首を受け取ったことが記されており、討ち入りが単なるお話ではない、現実に起こった出来事であることをまざまざと感じさせます。

 

一方、忠臣蔵でおなじみの陣太鼓も展示。
「大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打って指揮を執った」という話は、浅野の家来が太鼓を打って押し込んできたという吉良方の文書がもとになっているようです。でも実際に使われたのは笛や鉦(かね)で、そもそもこういう狭い市街地、しかも夜襲に陣太鼓は向いていません。赤穂方は裏門を掛矢(巨大な木槌)で打ち破っているので、この音を吉良方や周辺住民が太鼓だと思ったらしいです。

 

浅野内匠頭が持っていたという陣笠。
討ち入りの趣旨が書かれた「口上書」。
義士たちが吉良邸から泉岳寺へ向かう道のりを、現代の地図に重ね合わせた図。

 

事件から比較的近い時代に描かれた義士たちの画像。忠臣蔵など浄瑠璃・歌舞伎からの影響が少ないそうで、服装があの黒白の羽織姿ではありません。

 

石巒(せきらん)という彫刻家によって幕末に作られた、大石内蔵助と大石主税の木像。小さいながらも表情豊かで色鮮やか。
義士15人の像が作られたそうで、残りの像と、石巒の弟子が作ったほかの義士たちの像が、赤穂義士記念館の向かいにある講堂の2階、「義士木像館」に展示されています。

 


よく見るとこの講堂も、歴史のありそうな外観。
2001年に今の赤穂義士記念館ができる前は、こちらが義士館という展示館でした。
赤穂義士に関する展示館は、もともと大正時代に造られたようですが、1923年(大正12年)の関東大震災で倒壊。2年後の1925年(大正14年)に再建されたのが、現在残るこの建物です。

 

赤穂義士記念館の入館券で、義士木像館も見られます。
四十七士が全員そろった木像に、萱野三平の像も(青白い顔だったのは、討ち入りの時点で故人だったからでしょうか)。
『仮名手本忠臣蔵』の各場面を描いた、押絵も展示されていました。
(今回はメモをとってなくて、記憶を頼りに書いているので、押絵じゃなかったらすみません。後からネットで確認すればいいか、くらいに考えてましたが、この義士木像館についての情報が、意外とネットにないのです)

 



泉岳寺

 

見ごたえのあった泉岳寺を後にして、次の目的地へ向かいます。
帰り道の下り階段で、脚が痛くて少し難儀しました。何でもない階段なのですが、昨日暑い中をかなり歩いたダメージがまだ残っているようです。
9月下旬だというのに今日も暑いです。

 

泉岳寺駅に戻り、今度は都営地下鉄浅草線に乗ります。
この駅はどう見ても地下鉄の駅で、品川から浅草線に乗り入れる電車も多く、しかもさっき私が乗った車両が、浅草線の千葉側の乗り入れ先である北総鉄道の車両だったので、ここが京急と都営地下鉄の境界駅という感じがあまりしません。

 


エアポート快特・成田空港行き。都営浅草線車両の5500形。
2駅先の、大門駅で降りました。

 

鉄道コム

「世界貿易センタービルのない浜松町から芝大門と芝大神宮へ」に続く)

 


※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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