新田義興の悲劇と、武蔵新田・新田神社の奇跡 | ゲイムマンの日本縦断紀行

ゲイムマンの日本縦断紀行

ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

 武蔵新田('23.6.18)

 


「池上へ、ゲームのヒット祈願に向かう」
「池上本門寺へ行ってきました」
「ナムコの聖地・矢口渡と、蒲田の屋上観覧車」
「東急多摩川線・武蔵新田駅から新田神社へ」

の続きです。
前回に引き続き、新田神社から。

 

 

御祭神の新田義興公は、鎌倉幕府を滅亡させた新田義貞の次男です。
南北朝時代、義貞や、兄の義顕が北陸で戦っていた頃の1337年(南朝・建武4年/北朝・延元2年)。北畠顕家(後醍醐天皇の側近・北畠親房の長男)や、北条時行(鎌倉幕府滅亡時の北条得宗家(本家)当主・北条高時の子)とともに北朝の軍勢と戦い、足利義詮(後の室町幕府2代将軍)らを打ち破って鎌倉を奪還。

その後、京の奪還を目指して西へ進軍。吉野で後醍醐天皇に謁見し、このときに義興という名を賜りました。しかし京の奪還は果たせず、北畠顕家は高師直に敗れて戦死。またそのすぐ後に、新田義貞も戦死してしまいます(義興の兄・義顕は、北畠顕家の挙兵以前に戦死)。

しかし1350年頃から、足利氏で内紛が発生(観応の擾乱)。これに乗じて義興は、1352年(南朝・正平7年/北朝・文和元年)、足利尊氏に代わって征夷大将軍に任命された宗良親王を奉じ、弟の新田義宗、いとこの脇屋義治、そして北条時行とともに鎌倉を攻め、またも鎌倉を占拠。しかし短期間で尊氏に奪還されてしまいます。
尊氏は、鎌倉公方の職にあった四男・基氏の補佐役として、畠山国清を関東管領に任命しました。

 

 

ゲームブック風アドベンチャーゲーム『脱出ゲーム 香川県からの脱出』はこちらから。

 

1358年(南朝・正平13年/北朝・延文3年)、足利尊氏が死去。義興はこれを好機とみて挙兵し、東国を目指しました。(このとき足利基氏は、鎌倉を離れ、入間川沿いを拠点としていた)
畠山国清は奸計を巡らし、江戸遠江守、竹沢右京亮に命じて、偽りの投降をさせます。彼らは義興に対し、鎌倉に味方の兵士が大勢いるので、そこを拠点とするよう勧め、道案内をします。

10月10日、義興は多摩川の矢口の渡しに着きました。
(1949年(昭和24年)まで存在した矢口の渡しは、現在の矢口渡駅から国道1号を南下したあたりにありましたが、南北朝時代には多摩川の流路が今と異なり、矢口の渡しは今の新田神社のすぐ近くにあったとされています)
義興は、少数の家臣(『太平記』によると13人)とともに舟で多摩川を渡ります。ところがこの舟には、江戸と竹沢の指示を受けた渡し守が細工をしていました。舟の底に穴を開け、そこに栓をしていたのです。
多摩川の真ん中あたりで渡し守は、落とした櫓(ろ)を拾うふりをして川に飛び込み、舟底の栓を抜いてしまいました。
舟が沈みかけるとともに、江戸と竹沢が川の両岸に潜ませていた伏兵が一斉に矢を放ちました。
義興は無念の切腹。享年28歳(数え年)でした。
家臣たちも、ある者は自害し、またある者は泳いで敵陣に切り込むも討ち取られ、全員が死亡しました。

 

江戸と竹沢は、入間川で足利基氏と畠山国清に称えられ、それぞれ褒美として土地を与えられます。
10月23日、江戸は新たな領地に向かうため、馬に乗って矢口の渡しを訪れました。計略に加担した渡し守が対岸から舟で迎えに来ましたが、そのとき突然雷が落ち、暴風が吹き荒れ、渡し守の舟は瞬く間に沈んでしまいました。
驚いた江戸は、義興の祟りを恐れて逃げ回ります。しかし日が暮れた頃、雷鳴とともに義興が姿を現し、逃げる江戸に矢を放ちます。矢は肩に命中し、江戸は落馬。その場では家臣たちに助けられましたが、7日間、もだえ苦しんだ末に絶命しました。

また、畠山国清の夢にも義興が現れ、その翌日、入間川の陣にも雷が落ち、民家や寺社など多くの建物が焼失。
さらに矢口の渡しではその後、夜な夜な「光り物」が現れ、往来の人々を悩ませます。
矢口近隣の村人たちは、義興の霊を鎮めるために、墳墓を造り、社を建てました。これが新田神社の始まりです。

 

新田神社創建後の話ですが、畠山国清は内紛によって、1361年(南朝・正平16年/北朝・康安元年)に失脚。領地の伊豆で足利基氏に対して反乱を起こすも敗れ、処刑されたか、もしくは逃亡先で死亡したとみられています。
また基氏も、1367年(南朝・正平22年/北朝・貞治6年)に死亡。病死とみられていますが、奇しくも新田義興と同じ、数え28歳でした。
さらに同年、2代将軍・足利義詮も病死しています。

 


新田神社の境内の片隅にたたずむ、「うなる狛犬」。
畠山氏の血を引く者が近づくと、うなり声を上げ、雨を降らせたそうです。
かつては阿吽(あうん)一対揃っていたのですが、空襲で吽形の狛犬が失われ、現在は阿形のみに。

 


社殿の背後のこの一角が、新田義興公の「御塚」。けっこう大きいです。直径15メートルの円墳。
この中に入ると祟りがあるとされ、現在は金網で囲まれています。

周りには、1817年(文化14年)、現在の第二京浜沿いに建てられた「新田大明神道標」や、古い力石、そしてこの写真には写っていませんが、1746年(延享3年)、磐城国守山藩主・松平頼寛が建立した「矢口新田神君之碑」(義興公の事績と当社創建の由来が記されている)といった史跡が並んでいます。
江戸時代からこの神社が栄えていたことがうかがえます。

 

ちなみに松平頼寛の弟・頼恭は、高松藩に養子に入り、藩主となってからは平賀源内を重用し、薬草栽培を行なわせるなどしています。
しかし源内が1761年(宝暦11年)に辞職して江戸へ向かうと、頼恭は奉公構(ほうこうかまえ)の処分を下しており、源内は以後、幕府や大名家などへの仕官を禁じられ、武士として生活できなくなってしまいます。


源内は新田神社で、「矢口新田神君之碑」を目にしている可能性が高いと思われますが、果たして彼は、この碑を建てたのが旧主・頼恭の兄だということに気づいていたでしょうか?

 


御塚に生えている篠竹は、ここに立てられた源氏の白旗が根付いたものといわれ、「旗竹」と呼ばれています。
この竹は昔から神域を越えて生えることがなく、また雷が鳴るとピチピチと音を立てて割れたと伝えられている、不思議な竹です。

平賀源内はこの竹に目をつけて、ある“発明”をするのですが……。
長くなったのでまた次の回に。

 




実は翌日、蒲田から次の目的地である藤沢に移動する際、相鉄・JR直通線と、新横浜線を通っているので、そのあたりについても早く書きたいところなのですが。
あと、ゲームの次回作の構想を練るため、辻堂駅前のテラスモール湘南に行ったりしてるのですが。

(「卓球台はなぜ青い?~平賀源内プロデュースの聖地巡礼 to LOVE神社」に続く)

 

新田神社

 

 

 

 

 

ゲームブック風アドベンチャーゲーム『脱出ゲーム 香川県からの脱出』はこちらから。

 

※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

鉄道コム

 

にほんブログ村 旅行ブログ 国内一人旅へ にほんブログ村 鉄道ブログ 鉄道旅行へ
にほんブログ村 ゲームブログ ゲーム制作へ ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

 




人気ブログランキング

 

SUZURIでTシャツやサコッシュなどを販売しています。

周りの人に知ってもらいたいこと
(「高齢者と同居しています」「基礎疾患を持っています」等)