卓球台はなぜ青い?~平賀源内プロデュースの聖地巡礼 to LOVE神社 | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

 武蔵新田('23.6.18)

 


「池上へ、ゲームのヒット祈願に向かう」
「池上本門寺へ行ってきました」
「ナムコの聖地・矢口渡と、蒲田の屋上観覧車」
「東急多摩川線・武蔵新田駅から新田神社へ」
「新田義興の悲劇と、武蔵新田・新田神社の奇跡」
の続きです。
前回に引き続き、武蔵新田の新田神社から。

 

江戸時代になると、徳川家が新田家の末裔とされていることから、松平家から「新田大明神絵巻物」や、前回取り上げた「矢口新田神君之碑」が奉納されるなど、武家信仰の神社として発展。
さらに江戸時代中期の宝暦年間(1760年代頃)、平賀源内の「発明」により、新田神社は庶民からも人気を集めることとなります。

 

 


平賀源内は、新田神社の祭神・新田義興公の「御塚」に生えている不思議な篠竹(旗竹)に目をつけました。
当時、門前の茶店では、「義興の矢」と称するお土産が売られていたそうです。
源内は、実際に義興公にゆかりのある旗竹を用いて、新田神社が厄除招福・邪気退散のお守り「矢守」を作り、参拝者に授与することを提案しました。
新田神社によると、これが「破魔矢」の元祖だそうです。

 


源内はさらに、福内鬼外というペンネームで、『太平記』の新田義興の伝説をベースに、義興の霊験を描いた『神霊矢口渡』という浄瑠璃を制作しました(後に歌舞伎にもなっています)。

源内は『神霊矢口渡』の中に、新田家伝来の「水破兵破(すいはひょうは)の矢」という2本の矢を登場させました。
新田義興が鎌倉を攻める際、かつて父の義貞が朝廷に預けていた水破兵破の矢を、後村上天皇から受け取って出陣しています。
水破兵破の矢は、平安時代に大江山で酒呑童子を退治した源頼光が、夢の中で授かったもので、頼光の子孫である新田家に代々受け継がれてきたとされます。

終盤、義興の弟で新田家の家督を継いだ義岑(よしみね・史実では新田義宗)とその恋人・うてなが、渡し守の頓兵衛とその手下の六蔵に襲われたとき、義興の霊が水破兵破の2本の矢を放って頓兵衛と六蔵を倒しています。
さらに、義岑を捕らえるべく家来たちとともに川を渡ろうとした竹沢監物(モデルは竹沢右京亮)の舟が、雷と暴風で砕け散り、竹沢は義興の霊に斬られて討ち取られます。

1770年(明和7年)初演された『神霊矢口渡』は大当たり。新田神社は文字通り“聖地巡礼”に訪れる人々でにぎわい、水破兵破の矢になぞらえた「矢守」も人気の授与品になったそうです。

 

 

ゲームブック風アドベンチャーゲーム『脱出ゲーム 香川県からの脱出』はこちらから。

 

もっとも、『太平記』でこのような伝説が記されている新田家伝来の武器は、矢ではなくて「鬼切丸」あるいは「髭切」とよばれる刀であり、北野天満宮に現存します。新田義貞が比叡山で後醍醐天皇と別れ、恒良親王、尊良親王を奉じて北陸に向かう際、日吉神社にこの刀を奉納したと伝わっています。
一方で、義貞は鬼切丸を北陸へ持っていき、義貞を討った斯波高経がこの刀を手に入れたともいわれています。

もともと土産物屋で売られていたのが矢だったことと、縁起物として刀を配るわけにもいかなかったので、刀を矢に変えたのかもしれません。

 

明治時代になると、南朝の忠臣として新田義興公は称えられ、1909年(明治42年)に従三位が追贈されました。

 

 

 


最近、かつての平賀源内のような発想力で、この新田神社を盛り上げようとする人物が現れました。
グラフィックデザイナーの浅葉克己氏です。
浅葉氏は、2007年より東急多摩川線沿線を盛り上げるため実施された「多摩川アートラインプロジェクト」の一環として、
この「LOVE神社」などのモニュメントを制作して、新田神社に奉納されました。

私は後で調べるまでてっきり、「LOVE神社」はインスタ映えを意識して、ごく最近作られたものと思ってました。
実際、私がInstagramを始めたときも、この写真をアップしました。(※)
でもこのモニュメントが建てられたのは、インスタグラムが世に出るよりも前だったんですね。

 

(※ ツイッターに突然の閲覧数制限が掛かった7月頭、この原因は資金難によるサーバーの容量不足だというどこかの記事を目にしたので、閲覧数制限が解除されたとしても、今後も混乱が続いてツイッターは駄目になるかもしれないと懸念。
ちょうど『香川県からの脱出』の広告をツイッターに出そうと思っていたところでしたが、それをやめて、ツイッターの代わりになりそうなSNSと広告掲出先を探したら、MetaがもうすぐThreadsというサービスを始めると知って、そこと紐づけるために前もってインスタグラムのアカウントを作成。とりあえずこの「LOVE神社」の写真と、江ノ島の写真をアップしたのでした)

 


浅葉克己氏がもう1つ作ったのが、石でできた卓球台。
参拝者はここで卓球をプレイすることができるらしく、社務所でラケットと球を借りられるらしいです。

電気グルーヴの石野卓球さんの名前をもじって「石の卓球」台を作ったのかな? とも思いましたが、そうではないようで、もともと浅葉氏は大の卓球好きだそうです。
実は、現在一般的に使われている卓球台が青色なのは、浅葉氏が日本卓球協会に提案し、それが国際卓球連盟に採用されたからだとか。

 

「LOVE神社」がなまじインスタ映えスポットっぽいので、私は浅葉氏のことをもっと若い方だと想像していましたが、調べてみたら物凄い人でした。
糸井重里氏の初期の代表作、西武百貨店の「おいしい生活」が発表されたとき、ポスターのデザインを手掛けたのが浅葉氏。
長野オリンピックの公式ポスターや、横浜美術館のロゴマーク、かつての民主党のロゴマークなど制作。また中国の少数民族・ナシ族のトンパ文字を、日本に紹介した人物でもあります。

 

社務所で、お守りと絵馬をお受けしました。
紐を「叶結び」という形で結んだ「想い叶うまもり」に、LOVE神社と同じデザインの縁結びお守り「LOVE守」。
本当は平賀源内の「矢守」も欲しかったんですが、授与されるのはお正月だけらしいです。
代わりに勝守を、と思いましたが、お守りのデザインに矢が入っている、「強運御守」の方を頂きました。

 

「勝兜絵馬」に願い事を書いて、絵馬奉納所へ。
前の更新のときに書き忘れてましたが、拝殿にお参りしたとき、義興公にお願いしていた事があり、それと同じ事を絵馬にも書きました。
まあ、ざっくり言えば『脱出ゲーム 香川県からの脱出』のヒット祈願なのですが、このゲーム自体にいろいろな想いを盛り込んだこともあり、拝殿へのお祈りも、絵馬の文章も、長くなってしまいました。

 

ゲーム「香川県からの脱出」が話題となって、平賀源内氏の実績と共に、新田義興公の功績が広く世に知られるようになりますように。
そして、卑劣な手段で権力を手にし、差別と偏見で人々を苦しめる者たちが、その座から滑り落ちますように。

『太平記』や『神霊矢口渡』の畠山国清みたいな感じで。

 

新田神社

 

 

この商店街で、オタク議員こと、おぎの稔さんの事務所前を偶然通りかかりました。この近くなんですね。
『脱出ゲーム 香川県からの脱出』のヒット祈願で参拝したので、神社の御利益でおぎのさんとご縁ができて、ご協力を仰ぐことができたらいいなあ。ゲーム条例を扱った作品だし。
……まあ、私なんかとご縁ができたところで、おぎのさんの方には何らメリットがないと思いますが。

 

 蒲田

 


武蔵新田駅から、東急多摩川線で蒲田駅に戻り、以前書いた通り、東急プラザの屋上遊園地に立ち寄りました。
ドトールでアイスカフェオレを買って、ホテルに戻ったのは午後4時頃。

まだ明るかったので、このままホテルで夜まで過ごすのはもったいないなあ、と思いましたが、久しぶりの旅で、暑いなか17000歩も歩き回って疲れたので、晩ごはんを買いに近くのコンビニまで行った以外は、結局ホテルの部屋で休んでました。

(「東急新横浜線、相鉄新横浜線、相鉄・JR直通線に乗ってみた」に続く)

 

 

 

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※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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