南千住の小塚原回向院にカール・ゴッチの墓があった | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

 南千住('23.9.24)

 

『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。宮武外骨さんのお墓にお参りした際、巣鴨であちこちに寄り道しましたが、ようやく次の人物に関連する土地へ向かいます。

 

 


日暮里から常磐線E231系に乗って、南千住駅に着きました。


南千住駅西口の、JR東日本・常磐線入口。
この右側に、つくばエクスプレスの改札口があり、また高架下を通って東口に出るとすぐ、東京メトロ日比谷線の駅舎があります。
コインロッカーを探しましたが見つからなかったので、キャリーバッグを転がしながら歩くはめになりそう。今日、駅から目的地までの道のりがいちばん長いのが多分この場所なので、身軽になって行きたかったのですが。

 


駅前ロータリー内に、松尾芭蕉の銅像が建っています。
芭蕉は自宅のあった深川から舟に乗って千住で降り、『おくのほそ道』の旅を始めたそうです。
そして矢立の初(やたてのはじめ・旅の最初に詠む句)として、
「行春や鳥啼魚の目は泪」(ゆくはるや とりなき うおのめはなみだ)
の句を詠み、見送りに来た友人たちとの別れを惜しみました。

ただし、隅田川の南北どちらの岸で降りたかはわかっておらず、千住大橋の北千住側にも芭蕉の像があります。

 


ここから、『脱出ゲーム 香川県からの脱出』の登場人物のお墓に向かいます。でもその前に、ゲームとは特に関係ないのですが、歴史上の有名な人物のお墓がすぐ近くにあるので、せっかくだから拝んでいきましょう。

小塚原回向院へ。
私は2006年に、一度だけ南千住に来たことがあるのですが、着いたのが夜の7時頃だった上、回向院は当時工事中だったので、中には入れませんでした。14年越しに参拝が叶います。

ここは江戸時代に死刑が執行されていた小塚原(こづかはら・こづかっぱら)刑場の跡地で、1667年(寛文7年)、ここでの死者を弔うために、両国の回向院の住職・弟誉義観が常行堂を創建したのが、小塚原回向院の始まりです。

 

入口からまっすぐ進むと、墓地に出てしまいます。墓地の前にまずご本尊にお参りしたいと思いましたが、法事が行なわれていたのか、それとも元々一般開放していないのか、墓地以外の場所には入れず。

墓地の手前の壁に、「観臓記念碑」があります。
1771年(明和8年)、杉田玄白、前野良沢、中川淳庵らが、小塚原で刑死者の腑分け(解剖)に立ち会い、持参していたオランダ語の解剖学書『ターヘル・アナトミア』の挿図の正確さに驚いて、本書の翻訳を決意。1774年(安永3年)、『解体新書』の刊行に至り、日本の医学が大きく発展しました。


 

鉄道コム

 

墓地は一般の方々のものも多いため、歴史上の人物の墓域は「史跡エリア」としてまとめられています。もちろん刑死・獄死した人々が中心ですが、小塚原刑場以外で死亡した人も多いようです。
史跡エリアの入口に案内図がありますが、そこに名前の記されている人はわずかで、大部分は誰のお墓かわかりませんでした。
もっとも、後でネットで調べたところ、私が名前を知らない人がほとんどだったので、そういう案内図になってしまったのも仕方ないように思えます。

 

いちばん有名なのは、松下村塾において数多くの志士を育てた、吉田松陰でしょう。安政の大獄で1859年(安政6年)に処刑され、ここに埋葬されました。
ただし1863年(文久3年)、門人たちによって、長州藩主の別邸があった現在の世田谷区若林に改葬されています。明治になるとその場所に松陰神社が建てられ、神社・お墓とも現存します(東急世田谷線・松陰神社前駅から徒歩3分)。
(ちなみに私は松陰神社の割と近くに住んでいて、松陰さんのお墓にお参りしたこともあります)

松陰の墓のかたわらには、同じく安政の大獄で刑死した頼三樹三郎(らい・みきさぶろう)の墓もあります(墓石には号の「鴨崖」(おうがい)と刻まれており、案内図に書かれてなかったら三樹三郎の墓とはわからないでしょう)。
三樹三郎も松陰とともに改葬され、松陰神社にお墓があります。また、父・頼山陽のお墓がある、京都の長楽寺にもあります。

 

橋本左内の墓と顕彰碑(橋本景岳之碑)も立派なもの。左内は福井藩主・松平春嶽の側近でしたが、将軍継嗣問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄で、26歳の若さで処刑されました。
1863年(文久3年)、福井・善慶寺の橋本家墓所に改葬されました。このとき墓石も福井に移されましたが、1893年(明治26年)になって、墓石のみ回向院に戻ってきました。
ちなみに福井の善慶寺は、第二次世界大戦で空襲を受けて焼失し、左内の墓は現在、左内公園という公園の一画にあるそうです。

 

ほかにも安政の大獄で亡くなった人々や、桜田門外の変、坂下門外の変(老中・安藤信正が襲撃され負傷した事件)、東禅寺事件(高輪の東禅寺にあった英国公使館が襲撃された事件)の関係者の墓も並んでいます。

 

1821年(文政4年)に津軽藩主・津軽寧親(やすちか)の暗殺未遂事件を起こした、南部藩の相馬大作(下斗米秀之進)と関良助の供養碑もあります。相馬大作は後年、忠義の士として講談や映画で称えられることになります。

 

講談や映画といえば、鼠小僧次郎吉、片岡直次郎、高橋お伝、腕の喜三郎の小さな墓石も並んでいます。
鼠小僧の墓は両国の回向院にありますが、小塚原の墓は鼠小僧に恩義を受けた人々が建てたとされます。

片岡直次郎は、詐欺、ゆすり、たかりの常習犯でしたが、刑死した際、吉原の三千歳(みちとせ)という遊女がここに墓を建てました。その後、「直侍」の名で講談や歌舞伎の題材になり、『天保六花撰』という作品で、三千歳や、仲間の河内山宗春、弟分の暗闇の丑松らとの物語が展開されました。

腕の喜三郎は江戸時代の侠客で、喧嘩で片腕に大きな怪我を負ったため、見苦しいという理由で、その腕を子分にのこぎりで切断させたとか。墓が腕の形をしています。

高橋お伝は1876年(明治9年)に強盗殺人を犯した女性で、明治12年に斬首刑となった後、「毒婦」としてフィクションを交えて歌舞伎や小説、映画の題材となりました。

 

あと、案内図に「磯部浅一・妻登美子の墓」と表示されていたので、磯部浅一という人も幕末の志士かと思っていましたが、後で調べたら二・二六事件の首謀者の一人でした。この事件で死刑となった人物のうち、本人の希望で1人だけここに埋葬されているらしいです。

 

一般の墓地があるくらいですから、この回向院に墓があるのは、刑死した人物に限りません。
回向院の入口脇に、地蔵菩薩の立像と、「吉展地蔵尊」と書かれた立札があります。
1963年(昭和38年)に起こった誘拐殺人事件、いわゆる「吉展ちゃん事件」の被害者、村越吉展さんを供養するために建立されたお地蔵さんです。
ちなみに、同じ南千住にある円通寺にも、同じ目的でお地蔵さんが建立されています。そちらは遺体が発見された場所だそうです。

 

新しいところでは、“プロレスの神様”と称されたカール・ゴッチ氏のお墓が、2017年に建てられました。
ゴッチ氏は数多くの日本人プロレスラーを指導したことで知られています。とりわけアントニオ猪木氏が新日本プロレスを旗揚げした際に協力し、猪木氏の提唱する「ストロングスタイル」に大きな影響を与えました。

亡くなったのは2007年で、遺灰の大部分はアメリカで散骨されましたが、弟子のジョー・マレンコ氏が一部を保管。
「ゴッチ氏が晩年、日本で猪木氏に会いたがっていた」という話を、ゴッチ氏の指導を受け、また晩年のゴッチ氏と親しかった西村修選手が聞き、ジョー・マレンコ氏の協力を得て、日本での墓の建立を目指します。
しかし条件の良い埋葬場所がなかなか見つからず、10年かけてようやく、ここにお墓を建てることができたそうです。

 

明治時代、常磐線が回向院の敷地内を通って敷設され、回向院は南北に分断されました。1982年(昭和57年)に、南側が独立して延命寺となりました。
この延命寺の境内に、小塚原刑場での死者を弔うために1741年(寛保元年)建立された、「首切り地蔵」とよばれる大きな地蔵菩薩座像があるらしいのですが、私は気づきませんでした。
(というか、延命寺に気づきませんでした。常磐線の高架と、日比谷線の高架の間の、細長い敷地にあるようです)

 


回向院を訪れた後、隅田川貨物駅を見ているのですが、思いのほか回向院について長く書きすぎてしまいました。隅田川駅についてはまた次回更新分で。

「隅田川貨物駅(2023年9月24日)」へ続く)

 

 

※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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