平賀源内のポツンと一軒墓 | ゲイムマンの日本縦断紀行

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ゲーセンでゲームをプレイし、1面クリア毎に増える“ゲーム路銀”を交通費にして日本縦断を目指す「ゲーセン紀行」でしたが、ゲーセン巡りよりも、普通の観光旅行の方が主になってしまいました。

現在このブログ上でゲーム『香川県からの脱出』を制作・配信中。

 南千住('23.9.24)

 

『脱出ゲーム 香川県からの脱出』に登場する、歴史上の人物ゆかりの場所を巡る旅。
南千住駅をスタートし、キャリーバッグを転がしながら明治通りを東へ歩き、平賀源内のお墓を目指します。
 

 

明治通りに地図が出ていましたし、明治通りから南に分岐する道の角には目印の石柱があったのですが、その道にあった地図をよく見なかったのが失敗でした。もう、すぐ近くだろうし、すぐにお墓も見えるだろうと思ったので。
そこからかなり迷いました。あまりにも近かったため、気づかず通り過ぎてしまい、100メートルくらい先でうろうろしてました。
「お化け地蔵」とよばれる大きなお地蔵さんが立っていて、行き過ぎていたことにようやく気がつきました。

 


明治通りのすぐそばまで戻ってきて、ようやく平賀源内さんのお墓にたどり着きました。
住宅地の中の小さな一画。小さいながらも凝ったつくりの塀と門があります。


門をくぐると、きれいに手入れされた木や草花に囲まれた空間。


国指定史跡、平賀源内墓。
覆屋の中で、ひっそりとたたずんでいます。

この写真では見えませんが、奥には源内に仕えた福助という人物の墓もあります。

以前、源内さんにゆかりの深い新田神社(東急多摩川線・武蔵新田駅の近く)を訪れて参拝したのですが、今回あらためて、ご本人のお墓にお参り。

 


平賀源内は現在の香川県さぬき市志度出身。1728年(享保13年)生まれ(異説あり)。
電気発生器「エレキテル」を修復したことで有名ですが、発明家としてはほかにも、オランダ製の寒暖計を見て同じものを作ったり、火浣布(石綿を使った耐火布)などを発明したりしています。
陶器(源内焼)や毛織物(国倫織)、西洋画(『西洋婦人図』)の制作も行なっています。秋田で小田野直武に西洋画の技術を伝え、後に小田野は杉田玄白らの『解体新書』の挿絵を描きました。

もともとは本草学者で、「東都薬品会」という全国規模の物産会を開催。これは日本初の博覧会とされています。全5回開催された薬品会の出品物を基に、博物学書『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行しました。

 

文筆家としての著書も多く、『根南志具佐』(ねなしぐさ)などのエッセイ(「風来山人」名義)や、『神霊矢口渡』など浄瑠璃の脚本(「福内鬼外」名義)を書き、好評を博しました。
特に『神霊矢口渡』では、作品の舞台となった矢口渡の新田神社への参拝客が増え、源内が考案したお守り「矢守」を参拝客がこぞって求めたということです。今でいう“聖地巡礼”であり、また源内は作品に関連したグッズを売るという発想も持っていたわけです。
(この件については以前、新田神社を訪れた際に詳しく書いています)
東急多摩川線・武蔵新田駅から新田神社(1)(新田義興、平賀源内) 新田神社(2) 新田神社(3)

 

あとは日本各地で鉱山の開発をたびたび行ないましたが、大きな成功はしなかったようです。ただし鉱山の調査と技術指導で秋田を訪れた際、先述のとおり小田野直武に洋画の技法を伝えています。

※『脱出ゲーム 香川県からの脱出』の、平賀源内の登場シーン
【さぬき市:5】<脱出ゲーム 香川県からの脱出>平賀源内と矢口渡(やぐちのわたし)

 

 

 

しかしその晩年は不遇でした。1779年(安永8年)、何らかの行き違いから、大工の棟梁を殺してしまいます。
伝馬町牢屋敷に投獄され、そのわずか1ヶ月後の12月18日、52歳で亡くなりました。

お墓の覆屋にストックされていた、ハガキ大のリーフレットによると、源内の遺体は書家で薬種商の池永道雲が引き取り、当時この地にあった、総泉寺というお寺に埋葬されます。墓石は杉田玄白が建てたとされます。

 

総泉寺は関東大震災で被災し、1928年(昭和3年)、復興事業の一環として、現在の板橋区小豆沢に移転します。
源内の墓も移転となる計画でしたが、香川県出身者有志が移転に反対し、高松松平家の松平頼寿(よりなが)伯爵を中心に「平賀源内先生顕彰会」を結成。東京府や総泉寺と交渉した末、源内の墓は元の場所で再建されることが決定しました。
橿原神宮や平安神宮などの設計(後に築地本願寺なども)で知られる伊東忠太の設計で、1931年(昭和6年)、現在の墓所が完成しました。(覆屋は1991年(平成3年)に建築)

 


お墓の隣に、巨大な修築記念碑がそびえていました。
篆額(題字)は松平頼寿、碑文は精神科医の呉秀三(江戸の広島藩邸出身。精神病院での患者の拘束をやめさせるなど大きな改革を行なった。森田療法で知られる森田正馬や、歌人でもあった斎藤茂吉の師)によるもの。

江戸時代に杉田玄白が建てた、源内を称える碑に記していた言葉「嗟非常人 好非常事 行是非常 何死非常」も、この裏に刻まれているそうです。
(後で、自分で撮ったこの碑の写真を見てみたら、表側の碑文にもその旨書いてありました)

また、石灯籠や手水鉢は讃岐産とのこと(庵治石?)。


季節の花が咲いていて、狭いながらも美しい空間です。

 

 

鉄道コム

 

源内さんのお墓に手を合わせて、新田神社のときと同様、源内さんの地元・香川県にはびこる、旧態依然とした、権力者の偏見や誤った知識に基づく政策を強引に推し進める政治を一掃し、新しい時代をもたらしてほしいとお願いしました。

大正から昭和初期に、呉秀三という先進的な精神科医とかかわりがあったのに、「ゲーム条例」の制定に際して怪しい精神科医を呼び寄せてしまった香川県。
令和の香川県は、政治も医療も、大正時代より退化してしまったのではないでしょうか?
(もっとも、呉秀三は江戸の広島藩邸出身ですが)

 

 

明治通りにバス停を発見。
そういえばさっき、南千住駅から跨線橋を渡ってすぐ、路線バスの営業所があり、その入口にもバス停がありました。
よかった、駅の近くまで歩かなくて済む。そう思ってホッとしたのですが……。
「上野東京ライン経由で常磐線から品川駅へ」に続く)

 


※これまでの「日本縦断紀行」はこちら。

 

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